1.悪女は不遜に笑う
「クレイヴンファースト家に帰った!?」
驚愕に目を見張った侯爵が額を手で押さえ、ぐらりと後ろに揺らぐ。
「何故だ……俺のなにが悪かったというんだ」
慌てて背を支えて座らせたが、動揺を隠しきれない様子の主を哀れんで、使用人たちは顔を見合わせる。
「恐れながら」と、執事が代表して口を開いた。
「今朝方、街でメルシー・クレイヴンファーストと思しき女性を見かけたとの噂を耳にしました」
俯いたまま目を見開いた侯爵は、ふっと息を吐き出す。
「……なるほど、拉致したということか」
メルシーは首都だけでなく、北部でも名高い悪女だ。
更に侯爵とは確執があると全ての使用人が知っている。
瞬く間に空気がざわつき、視線があちらこちらで交わされた。
「これは無断での里帰りではなく、拉致だ! 今すぐ奴を追え!」
「もし首都にある屋敷に連れ戻されていたら、どうしますか」
「無論、奪還する。騎士団も出立の準備をしろ!!」
テーブルに拳を叩きつけて侯爵が立ち上がる。
「かしこまりました、直ちに!」
執事は畏まって礼をすると、号令を受けた全使用人が動き出した。
メイドや侍従は廊下を走りながら口々に言う。
「メルシー・クレイヴンファースト。あの悪女め」
「奥様をいじめるつもりなんだわ!」
許せない、私たちで守らないという声の波紋が、屋敷内に広がっていく。
たまたま廊下を歩いていたアリエッサは、乱されそうになる髪を手で抑えた。
走り去っていく使用人を体の向きを変えて視線で追いかけ、ため息をつく。
「も~、騒がしい屋敷なんだから……」
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春の風はどうしてこう、爽やかなのでしょうか。
いいえ、そう感じるのは私の気持ちが晴れやかだからかもしれませんわね。
「ティルカ、こっちよ!」
名前を呼ばれて振り返ります。
そこには、背の高い女性が立っていました。
膝裏までの長い直毛は赤く、切れ長の目は黄金。
叔母の血を濃く受け継いだ容姿の女性――そう、彼女が私の従姉のメルシー・クレイヴンファーストよ。
「ご機嫌よう、メルシー。元気だったかしら」
「ええ。アンタはその分だと順風満帆な結婚生活とはいえないみたいね」
侯爵様を怒らせてしまったことを思い出してしまったけれど、苦笑いに留めました。
メルシーは大きな胸に細い腰と、メリハリのある体をしているの。
黒いドレスは夜空みたいにキラキラ光っていて、メルシーにとても似合っているわ。
そう思っているのは私だけではないみたいで、色んな人からの視線を集めています。
メルシーを捜すには、男の人の視線を追うのが一番早いのね。今日でよく分かったわ。
「メルシー、それは?」
「ああ、これ? この間狩ったのよ。いいでしょ」
メルシーが見せてくれたのは、銀の毛皮のショール。
「すごく滑らかな手触りね。これはなんの毛皮なの?」
「シュバンケの毛皮よ。知らない? 北部にはよくいるでしょ」
「雪原の王者と呼ばれている魔物ですわよね。残念ながら、まだ本物は見たことがないの」
「冗談言わないでよ。アンタみたいなお嬢様がシュバンケと出会ったら餌になるわよ」
まあ、私だってこの間魔物を討伐しましたのに。
ですが、そんなことを言ったらメルシーは怒りますわよね。私は稚拙な魔法しか使えないんですもの。
「羨ましい? 素直に言うならアンタにも贈ってあげる」
「ありがとう。嬉しいですわ」
彼女の心遣いにお礼を伝えると、メルシーは「えぇ?」と眉を顰めました。
素直に言ってみたのですが、やはり図々しかったかしら?
「うちにいた時なら分かるけど、こんなものも夫に買ってもらえないわけ?」
冷遇されてるならあたしが言ってあげるわよと凄みのある顔を近づけられました。
私は慌てて、首と手を振って否定しました。
「違うわ! その……私に使うお金は最小限でいいと思っているのよ」
「そう思わせてる時点で《《ありえない》》わね。アンタは侯爵夫人なのよ」
鼻で笑ったメルシーが、片目を眇めて私の腕を取りました。
あそこ、と顎で指し示す先にいた男性に首を傾げます。
あの方はメルシーの好みではないように思えるのですが……?
「あの男、こっちを見てるわよ」
侯爵夫人をこんな間近に見られるだなんて幸せな男、とメルシーの赤い唇が動きます。
本当にそうでしょうか? 私は造形はともかく中身に魅力的なところがありませんのに……。
「メルシーを」と言おうとした口の前に手が突き出されたわ。
「あたしたち二人ともが美しいのよ。まあ、系統が違うから立つ舞台は別でしょうけれど!」
私はメルシーの堂々とした立ち姿が好きですわ。
彼女はいつでも自信に溢れていて、見ている私にも活力が湧いてくるのです。
「さあ、行くわよティルカ」
世間の噂はさておき。
彼女もまた、私の自慢の友だちなのですから。




