第026号室 水中回廊
小夜と教授は水没した団地の吹き抜けの縁で手動のエアポンプを使い、潜水用空気タンクに空気を充填しながら、団地ダイビングしているボブの帰りを待っていた。
際限なく続く団地の階層が陽の光を屈折させ、夕暮れにも似た不気味な橙色の灯りを水面に落とす。僅かに揺れる水面はその光を反射し、小夜を揺らめく水影で染め上げ心を波立たせる。
小夜は光が眩しい訳でも無いのに目を瞑り、一心不乱にポンプを引いては押し込み、触手に巻かれて出来た絞殺傷の痛々しい喉を鳴らして、荒い呼吸を響かせた。
陰鬱と繁茂する苔類からむせ返るような青臭く鼻をつく湿気が、風の吹くことの無い吹き抜けを満たして体感温度をぐんと引き上げ、熱くも無いのに気持ちの悪い汗が染み出し、服を張り付かせてどうしようもなくむず痒い感覚をもたらす。
「はぁ、ちょっと休憩」
そう言ってタンクとポンプを投げ出し、水没した団地から両手で水を掬い揚げ飲み干す小夜を見て、教授が絶句する。
「えぇ、汚いのでは?」
「………ん、私の胃腸は泥水飲んだくらいで下すほどヤワじゃ無いわよ?」
「とは言っても浄水機を持って来ているのですから、使いませんか」
「………はぁ、それは何処にあるの?」
「シスターのリュックの中に!んん………」
「フフン………」
シスターが安否不明の状態にもかかわらず不気味なほど落ち着いた雰囲気を纏わせる小夜に、平均的な常識と感性を持つ教授は多少の苛立ちを覚えていた。
「小夜ちゃん、私はシスターがまだ生きていると思っています」
「へぇ、なぜ?」
「小夜ちゃんの首の痣を見るに、相手は骨をへし折るくらい造作も無いほどの筋力を持っていたはずです。そうしなかったという事は、生かしたまま捕獲したいと言う思惑があったのでしょう」
「それは………舐めてるわねぇ」
「何故シスターだけを連れ去り、小夜ちゃんを解放したのかと言うと、連れ去った方の個体は、擬態していた触手と我々の戦闘を見ていたのでしょう。二兎を追うものは一兎も得ずと言いますし、確実に一人は確保する為、ボブの気を逸らしたかったのでしょうね。」
「フウン⤴︎知性を感じるわね」
「ええ、何らかのコミュニケーション手段が通じるなら、話合いで何とか収めたいものですね………」
「フフン………それは、無理なんじゃないかしら?」
休憩はおしまいと再びタンクへ空気を圧縮する作業へ戻る小夜。教授の話を頭の中で反復し、敵の思惑を想像しながらも、話の中に何処か引っ掛かる部分があった。
(『我々の戦闘を見ていたのでしょう』そういえば、その戦闘で教授は何か役に立っていたかしら?)
小夜は年上を敬うくらいの良識は持っていたので何も語ることは無く、息の長~~~い溜息と、ジットリ鋭い流し目をツンと点す程度でとどめた。
―――
水没したマンションの廊下は時間が停止したかのように辺りは暗く水温は冷たく、流れの無い漆黒の闇に包まれ、深く入り組んでいる。
ウェットスーツを着用していなければ直ぐに身体が凍えて行動に支障をきたす事になっていただろうが、バカンス用の潜水装備を継ぎ接ぎして、軍用規格を満たしたボブお手製の潜水セットは向かうところ敵無しで、途中襲ってきたワニを、無重力空間で漂っているかのようにヒラリと躱し、口を押さえる。嫌がったワニが所謂デスロールをすることは予想通りだったので、ロープを絡めて筈巻にし無力化、当然のように寄ってくるサメ達には、防災用の携帯発電機を回して電気を放出し、サメ好きには堪らないロレンチーニ器官を狂わせ追い払った。
水没した団地の中を泳ぐのは水中洞窟を探索する事に似ており、自分の位置を見失わないよう要所に目印を刻み、酸素の残量をしつこい位に確認しながら触手の痕跡を辿る。
奥に進むほど水はライトの光を吸って闇に近付き、重力は霧散して上下の感覚が曖昧になっていく。通路の突き当たりから不気味に点滅する緑色の光に眉をひそめる。脱出経路を示すピクトグラムの電灯である事が分かると、ふうっと一息、更に近づき水没していても光るものなのかと感心する。
水中でも無双していたボブだったが、突然、後頭部を小突かれ泡を吹き出す。即座に冷静さを取り戻し、身体を上下反転させ、足ヒレで相手を押し退け距離を稼ぐと、水底に背を向け天井を見上げるようにナイフを構えた。
逆光に照らし出された人間大の影を見て、ついに異形が出て来たかと一瞬身構えたが、ゆっくりと向きを変え、のんびりと突っ込んでくる相手の余りにも緊張感の無い態度と、見覚えのある間抜け顔にナイフを納め、大人しくぶつかられてやる。
(動物園で見た事あるぞ〜これ、マナティーだ!)
嬉しそうに身体をすり寄せるマナティーに抱擁を返しながら、コイツは肺呼吸だから息継ぎが必要だったはず、出口を知っているだろう、と考え相手をしつつマナティーの息継ぎを待つ。一頻り胸びれで頭を撫でられたり、酸素のチューブを咥えられ溺死させられそうになったりしながら暫く待っていると、遂に息が持たなくなったか、マナティーがボブの頭を胸びれで抱えたまま、気の抜けた顔からはとても想像出来ない素早さで水没した通路を泳ぎ始めた。




