バターの香り
その後すぐにジュードは帰って行った。ユリアさんに連絡を取ってくれるのを私は待つしかない。失恋した相手に連絡をとってもらうのだ。ジュードはきっと嫌な気持ちになっただろう。それでも、断らないでくれたのは、ひとえにジュードの優しさだ。
一人になると途端に静けさが耳について、寂しさが溢れそうになる。それを堪える。ミレイに頼んで家に帰ったところで、何も解決はしない。私はまた、ここに戻ってこなくてはならないのだから。
扉を叩く音がした。店は休業中の張り紙をつけている。だから、お客さんでは無いはず。扉の前まで進んで動きを止める。それならば誰だろう、分からないけれど、声がかかるまでは待つことにした。私に害意ある者でないことは確かだけれど、緊張に心臓がキュッと痛む。
「御零?いるかい?」
ドキッと心臓が跳ねる。あぁ、ハルベラさんだ。出会ってから毎日のように顔を合わせていたから、たった数日会わなかっただけで、酷く久しぶりに声を聞いたような気がする。返事を返さなければと思うのに声が出ない。この世界で親のように思っている人、いつでも優しくしてくれていた。その人に娼婦だと思われているのだということが、私にはどうしようもなく恥ずかしい。ただ否定すれば良いだけなのに、たぶんハルベラさんは信じてくれる。そう信じていても、怖い。恐ろしい。ストワルさんでも、ジュードでも、ここまで恐ろしくはなかった。きっと一番身近で私の親代わりのように接してくれているハルベラさんだからこそ、もし、信じてもらえなかったら…。恐ろしさに体が震え出す。私は声を返すこともできず、ただ扉の前で震えることしかできない。
「いないのかい。仕方ないね」
ガサリと扉の向こう側で何かが擦れる音がした。そして、何分か、何十分か経って、ようやく、私は扉に手をかけた。薄く開いた扉の隙間から周囲を見渡し誰もいない事を確認する。そして、扉のドアノブに掛かっていた袋を見つける。可愛らしい花柄の袋の中には、たぶんハルベラさんのお手製のパンや焼き菓子がたくさん詰め込まれていた。暖かく甘い香りのするそれを抱えて、駆け出すように部屋に戻る。
涙が頬を伝う。
喜びと、申し訳なさと、己の不甲斐なさに。
どうして、こんな思いをしなければならないのだろう。私はただ宿屋を開いていただけなのに。どうして、あんな噂に振り回されて、大切な人に会うことすら出来ない。不甲斐なくて、辛くて、寂しい。
「っ、ハル、ベラさん」
会いたい。また、なんの、心の蟠りもなく、あの優しい人に。その為には、早く、早く、この誤解を解かなければ…。
一頻り泣いて頭を上げる。ハルベラさんのパンをキッチンへと運んだ。その時、ジュードから連絡があって、ユリアさんと会う日が決まった。
『明日、迎えに行く』
「ごめんね。ありがとう。ジュード」
『…お前の為なら、俺はなんだってしてやるって、言っただろうが。だから、お前が謝る必要なんてねぇんだよ』
「すごい、殺し文句だね…。明日、待ってる」
『?あぁ、じゃあな。さっさと寝ろよ』
「うん、ありがとう、ジュード」
通信が切れる。別になにをしたわけでもないのに体が疲れ切っていた。もしかしたら、心がかもしれないが。私はハルベラさんのお手製の甘い焼き菓子を口に入れる。また泣きそうになるのを堪えながらそれを飲み込んだ。
翌日、昼前頃にジュードは仏頂面でやってきた。
「お、おはよう…あの、大丈夫?」
「大丈夫に決まってんだろ」
不機嫌なのかと思えば、顔を青くしたり、焦ったような表情をしたり、ニヤニヤと綺麗な顔で笑ったりと忙しい。ユリアさんに会うときにはもう少しきちんと表情を取り繕った方が良いと思う。
「支度は出来たか?」
「うん」
「じゃあ、行くか。悪りぃけど、お前の体に触るからな」
「?」
「ユリアが居る場所が歩いて行けるような距離じゃねぇんだよ。だから、転移の魔法を使うから俺に捕まってろ。じゃねぇと連れてけねぇだろ」
薄っすらとその白い頬を紅潮させている芸術品のように美しいジュードをポカンと口を開けて見つめてしまう。
「なにマヌケ面晒してんだよ!行くんだろ?ユリアのとこ」
呆気にとられて思わずこくんと頷いてしまう。次の瞬間、ガバリと肩を抱かれる。頭ひとつ分、もしかしたらそれ以上に私よりも背の高いジュードに抱かれると、その腕の中にすっぽりと収まってしまった。ガッチリとした腕と抱き寄せられた胸板に急に恥ずかしくなる。抵抗するようにジュードを見上げると、自分のことなんてどうでも良くなるくらい真っ赤になった顔があって、私は抗議するのを辞めた。こんなの、反則だ。
「イケメンの赤面とか見ちゃダメなやつじゃん…」
「あ?頼むから今だけは離れるなよ」
「わかった」
念を押された私はジュードの背中に腕を回す。半ば抱きつくようにしてその胸にヤケクソ気味に顔を埋めた。




