魔法魔術リテラシー 魔力を練る
諸君、こんばんは。
あるいはおはようかも知れないし、こんにちはかもしれない。
さて、君たちは普段、この世界をどの様にして見ているだろうか。
木を見れば木だと思い、石を見れば石だと思う。水を見れば水だと思うし、火を見れば火だと思うだろう。
当たり前だと思うが、これを理解することは魔法を扱う上でかなり重要性が高い問題だったりする。
《イデア論とは?》
イデア論と言う言葉をご存知だろうか。
イデア論とは、古代ギリシャの哲学者プラトンによる、イデアに関する学説のことだ。
イデアとは――まあ要するに、この世界がゲームの中だとすれば、プログラムが書き込まれている場所、とでも言えばいいか。
この世に存在するあらゆる物の定義の集合体、情報の巣窟。
例えば、我々は椅子を見て、それがどんな形であれ椅子は椅子だと感じる。
服を見れば服だと感じるし、猫を見れば猫だとわかる。
たとえ、それがどんな形であったとしても。
イデアというのは、プラトンの言葉を借りるなら、その物の定義する究極の理想体が存在するところのことだ。
椅子は椅子であるという定義さえ満たしていれば、私達はたとえそれがどんな形状であれ椅子であると判断できる。
その定義の情報が図書館のように集められている場所、それがイデアだ。
その定義されるものは、何も物体に限られたものではない。
感覚や感情、知覚、概念に至るまで、あらゆる物の定義がそこには記されている。
では、私達はどのようにして、椅子は椅子だと感じることができるのだろうか。
先程も言った通り、イデアに記録された定義を満たさなければ、それがそれだと感じる事はできない。
それは自然、私達はイデアにある定義そのものを本能的に理解しているという事になる。
曰く、その理由は我々の魂が元々イデアにあり、その魂がイデアを思い出すことによって、椅子が椅子であると判別するらしい。
しかし疑問にも思う。
この世にあるすべてのものにイデアがあるなら、魂にもイデアがあって然るべきであろう。
この考え方で行けば、魂そのものがイデアなのではないかという結論に至る。
水槽の脳の話は覚えているだろうか。
簡単にまとめれば、我々が見ているこの世界は、実は自分が創り出しているものではないか、という思考実験の話だ。
この脳というワードを魂に置き換えてみればいい。
自然、もしや魂そのものがイデアであり、自分の中の定義によって物事を見ているので、その全てのものにイデアを思い出すことができるのではないかという結論に至るわけだ。
要するに、イデアというのは漢字のような性質を持っているわけだな。
……さて。
次の質問だ。
諸君らは普段、可視化や可触化(面倒くさいからこれからは全部『可知化』というワードにまとめる事にする)を行って創り出したイメージの投影物はどう見えているだろうか。
例えば可知化でりんごを作り出したとしよう。
可視化のお陰で、りんごがそこにあるように実感できるだろうか?
そこに“りんごがある”という存在感は、果たして感じられるだろうか?
もちろん、我々はそれを手に取ることができる。
可触化によって、重さも手触りも感じることができるだろう。
だが、それが何でできているかというものを、いざ視覚だけを頼りにして考えてみたなら、果たしてどうだろうか。
何でできているかと問われると、わからないと答える人が出てくるのではないだろうか。
もしわかるのであれば、君の可知化は完璧だ。
だが、始めたばかりではそうも行かないだろう。
言うなれば可知化によって描かれたりんごは、キャンバスに筆で描いたりんごの絵であり、それはりんごの絵としてしか我々は認識できないのである。
写真も同様、写っているものはりんごとわかるが、何かと聞かれればりんごが写った写真と解釈する。
それそのものがりんごだとは考えない。
可知化に必要なのは存在感だ。
そこにあると感じられなければならない。
完璧になれば、それを本当にただの幻覚から本物へと昇華させられるだろう。
そう、映画のマトリックスの様に。
だが、完璧でない人はどうか。
わからないはずだ。
なぜなら、それはまだ幻のままで存在感が付加されていないからだ。
では、どのようにすれば存在感が付加されるのか。
答えは簡単。
イデアを書き込めばいい。
触覚情報や視覚情報に頼らず、ただイデアを書き込む。
りんごの定義を、その幻に書き込むのだ。
そうすることで、きっと君たちの可知化は大いに躍進を遂げることだろう。
因みに、このイデアを書き込む作業が一般に『魔力を練る』と呼ばれる作業に当たる。
では、実際に魔力を練ってみよう。
1.まずは変換知覚。
可知化で好きなものを投影してみよう。
2.次に、その構成材質から何に至るまで、あらゆる全ての情報をイメージし、虚像に存在感を与えよう。
終わり。
割とざっくりした説明だが、要はイメージが一番重要だ。
コツとしては、思考として考えるのではなく、もっと奥深く、考えるというより感じるという領域でイメージするのがベストだろう。
これを鍛えるには、心を無にしつつ思考するという修行が必要だ。
もう修行修行と疲れてきたことだろうが、あともう少しだ。
今まで教えたのは基礎中の基礎だが、これさえできればあとはイメージ力次第でどうにかなる。
では、心を無にしながらも思考する方法を取得するための修行法を伝授しよう。
その方法とはズバリ、瞑想である。
……こら、そこ。
嫌な顔しない。
今回の瞑想は、魔力回路を開通させた時に少しだけ似ているが、全く違うもので、難易度もこちらのほうが高い。
そもそも、この瞑想を行うには三つの事前訓練が必要となってくる。
それぞれ
・座法
・弛緩法
・呼吸法
と呼ばれるものだ。
では、順を追って一挙に説明していくとしよう。
《座法》
訓練の目的は、長時間同じ体勢で居続けるための忍耐力を身につけることだ。
座法は二つあり、その違いは椅子を使うか否か。
椅子を使う方は『神の姿勢』と呼び、使わない方は『蓮華座』と呼ぶ。
以下、それぞれの体勢について。
・神の姿勢
椅子に深く腰を下ろし、背筋をピンと立てて足は肩幅に開く。
両手は軽く握り、膝の上に乗せて顎を引き首をまっすぐ立てて視線は真っ直ぐ前を見る。
会社やバイトなどの面接等の姿勢をイメージすれば、その姿勢で大体あっている。
・蓮華座
所謂ヨガで言うところの蓮のポーズ。
胡座に似ているが、足の甲を太ももの付け根、股関節あたりに乗せるようにして脚を組む。
両手は膝の上で開いた状態で掌を上に向けること。
蓮華座は、初めのうちは苦痛を伴うので(正しい姿勢を教えてほしければヨガの先生に頼みなさい)、最初は神の姿勢から始めることをオススメする。
最低一時間以上同じ姿勢でキープできるようになればクリアだが、慣れるまでに時間がかかるので、初めは五分キープすることを目標に、徐々に十分、十五分……とタイムを伸ばす方法を勧める。
《弛緩法》
訓練の目標は、先ずは緊張と弛緩の中間の状態を作るところから始め、最終的にはいつでも意識を半覚醒状態にすることができるようにすることである。
弛緩の訓練は、魔力回路を開通させたときと同じように、自分が一番楽になれる体勢で行う。
自分の姿勢が決まったら、体を順番に弛緩させていく。
弛緩の方法としては、力を込めて抜く。これがオススメだ。
初めから力を抜くのも良いが、初めてのうちは感覚を掴むためにも力を込めてから抜いたほうが良いだろう。
体の力を抜く順番は、正直どうでもいい。
どこから始めても構わない。
最終的には全身が弛緩状態になり、リラックスできればOKだ。
但し、自分は力を抜く事ができていると思っていても、実際にはちゃんと抜けていなかったりすることが多々あるので、よく注意するように。
全身をある程度自在にリラックスできるようになったら、今度は『起きている状態』と『寝ている状態』の真ん中あたりの状態を長くキープする訓練を行う。
この際、全身をリラックスさせた状態で行うこと。
この状態を長くキープすることができると、ある時突然変な恐怖感に煽られるだろう。
もしそうなったとしても慌てないように。
もし慌てればどうなるかは自己責任でお願いする。
恐怖が収まれば明晰夢のような感じの世界に突入する事ができるだろう。
この空間については後々説明するが、この先魔法を練習する上でかなりお世話になる場所なので、心得ておくように。
とりあえずこの空間に入れるようになれれば、目標を完全に達成したと見なす。
《呼吸法》
訓練の目標は、魔力回路を開通させた時にした呼吸法(四拍吸ってニ拍止めて、四拍吐いて二泊止める)を、普通の呼吸と変わらず、意識せずに行えるようになる事だ。
これによって、瞑想中に意識せずに体内の魔力を循環させ、余計なものから心を守るバリアを展開させることを目指す。
これら三つの技能を身に着けたら、今度はこの三つを同時に行う訓練をする。
初めのうちは難しいだろうから、どれか二つをとって、同時に行使することから始めるといいだろう。
それができれば、晴れて瞑想の段階へと入る。
それでは、今日の話はここまで。
次回からは瞑想の話に入るのでそのつもりで。




