3. 制服代
四月二十七日、土曜。雨。
ヘイルデンの雨は真下に落ちてこない。丘を越えてくる風に押されて、横から窓を叩く。局の高窓は西向きで、雨の日はガラスに水の筋が幾本も走り、その向こうで機屋の煙突がぼやけて見える。
その朝、募金の名簿がジムの鞄で回ってきた。
〈タイタニック号ヘイルデン犠牲者記念基金〉。発起人の欄に町長と教区牧師と機屋の主人が並び、その下へ遺族の名前が刷ってある。ミセス・ハンナ・アシュワース。ミスタ・ネッド・ラム。
ネッド・ラムは、アーチーの父親である。アーチーは二十一で、第二ヴァイオリンを弾く子だった。楽団へ誘ったのはトマスである。
名簿には、遺族の欄がある。妻の欄も、母の欄も、父の欄もある。
婚約者の欄は、ない。
「ミス・ホルロイド、そこ、書くとこありませんね」
横から覗き込んだジムが、言ってからすぐに口をつぐんだ。十四の子でも一目で分かることを、わたしは三度確かめてから畳んだのだ。ジムは鞄を締め直して、次の家へ走っていく。
わたしは名簿を最後まで見て、それから丁寧に畳んだ。指先が紙の縁をなぞる。制度というものは、悪意なしに人を外へ置く。わたしが五年やってきた仕事も、たぶん同じ手つきをしている。宛先のない郵便は、宛先がないというだけで、返される。
窓の外を、傘を差した人影が二つ通っていく。前が町長で、後ろはネッド・ラムだった。ラムさんは傘を持たず、名簿の束を胸に抱えて濡れている。息子のアーチーの名は、遺族の欄にちゃんと刷ってあった。父の欄に、ラムさんの名も。
◇
昼前に、ミセス・アシュワースが局へ来た。
傘を持たずに来たらしく、肩の生地が黒く濡れている。窓口の前に立つと、ハンナは手袋を外し、一枚の紙を台の上へ滑らせた。
「為替を、頼みます」
わたしはその紙を受け取る。
リヴァプールの、音楽家を船へ送り出す代理店の書式だった。文字は印刷で、金額のところだけが手書きである。
――制服上着一着分および襟章。差引残金、五シリング三ペンス。至急ご送金ありたし。
読み終えるのに、ずいぶん時間がかかった。文字は大きいのに、意味が指の隙間から落ちていく。
「……あの、これは」
「制服代だそうだよ」
ハンナの声は平らだった。
「楽士は船会社の雇いじゃない。あの子らは客として乗って、給金は代理店から出る。上着は自前で、代金は給金から引く決まりだったのさ。給金が途中で止まったから、残りを払えということだね」
窓口の台は、樫の一枚板である。三十年ぶん、人の肘で真ん中がへこんでいる。わたしはそのへこみへ書式を置いて、為替の用紙を引き寄せた。
手は、ちゃんと動く。
為替番号を打ち、金額を数字と文字の両方で書き、宛先を写す。五シリング三ペンス。複写の紙を挟み、証書へ日付印を落とす。ペン先が紙を擦る音の下に、窓を叩く雨の音がずっと敷いてある。この手順を、わたしは五年やってきた。指がひとりでに正しい順番をたどっていく。
人は本当に困ると、事務のほうへ逃げられるようにできているらしい。
「手数料が、一ペンスになります」
言ってから、わたしは自分の財布を開けて、一ペンス銅貨を台の上へ置いた。
規則では、職員が客の料金を立て替えてはならない。ミスタ・カークブライドは奥の机からこちらを見ていた。見ていて、何も言わない。帳簿の頁をめくる音だけが、いつもより長く続く。
複写の控えの端に、わたしはいつもの一字を書き入れた。済。処理の終わった行に書く、それだけの字である。
ハンナは銅貨を見ている。何も言わずに見て、それから受取証を折り畳み、手袋をはめ直した。
「あの子は」
扉のところで、ハンナが振り返る。
「あの子は、あの上着が嫌いだったよ。肩が広すぎるって」
――知っている。わたしも知っている。
声に出す前に、ハンナは雨のなかへ出ていってしまった。
窓口の台に、雨の粒がいくつか落ちている。わたしはそれを袖で拭いた。拭いたそばから、へこみのなかへ水が集まっていく。
◇
その晩、缶の底のほうから、去年の八月の手紙が出てきた。
『おれは船に酔う。楽長が青い顔で指揮を執っているのは、たぶんおれだけだ』
便箋の隅に、小さな絵が描いてある。譜面台の前で顔を伏せた男の絵で、頭の上にぐるぐると渦が巻いていた。あの人は絵が下手である。下手なのに、必ず描いてよこすのだ。
わたしはその渦を指でなぞった。
沈む船の上で讃美歌を弾いた立派な人。新聞はそう書く。町もそう信じている。銅像の話まで出ているらしい。
――けれど、わたしが好きになったのは、肩の広すぎる上着を着て、青い顔で指揮を執っていた男である。
その男の代金が、五シリング三ペンス。
わたしは便箋を裏返して、渦の絵をもう一度見た。この絵を、新聞は載せない。銅像にも、彫られない。
◇
アダが来たのは、雨の上がった夜だった。
「食べてる?」
「食べてるわ」
「嘘。ドリーが言ってた」
アダは持ってきた鍋を勝手に竈へ掛け、勝手に火を熾す。赤ん坊は背中で眠っている。この人はいつもこうやって、人の家の台所を占領していく。
鍋の中身は羊の首の煮込みで、匂いだけで台所が暖かくなった。母は何も言わずに皿を四枚出す。この家では、悲しみの話をするかわりに皿の数が増える。
ドリーが二階から下りてきて、わたしの隣に座る。十六の妹は、姉の顔色を見るのが上手になってしまった。この一年でいちばん伸びたのは背丈ではなく、たぶんそこである。
「姉さん。今日、ミセス・アシュワースが来たって、ジムが」
「来たわ」
「何しに?」
わたしは答えなかった。答えれば、ドリーはきっと怒る。怒ったところで、代理店の書式が変わるわけでもない。
「エルシー。あんた、名簿のこと聞いた?」
アダが鍋の蓋を持ち上げながら言った。湯気が天井へ立つ。
「見たわ」
「腹立たないの」
立つ、と言おうとして、わたしは黙った。
腹は立たない。立たないことのほうが、こたえていた。
わたしはあの人と婚約していただけである。役所の紙のどこにも、二人の名前は並んでいない。同じ屋根の下で暮らしたこともない。同じ皿で食べたことも、数えるほどしかない。
あの人の遺体を引き取るのはハンナである。あの人の遺品を受け取るのもハンナである。あの人のために集まる金を受け取るのも、ハンナである。
わたしが持っているのは、缶に二つぶんの手紙と、六月の二週目の土曜という、誰とも約束していない日付だけだった。あの日わたしが通りじゅうに触れて回った日付は、いまも誰の帳面にも載っていない。
「わたしは」
自分の声が、思ったより小さく出る。
「わたしは、あの人の何でもないの」




