1. 全員救助
四月十五日、月曜。晴。
その日の午後、ヘイルデンの郵便電信局へ入ってきたのは、一隻の船の名前だった。
受信機が鳴り出したのは二時半を少し過ぎたころで、わたしの右手はもう鉛筆を握っている。電信の音に言葉はない。点と線が続くだけである。それでも五年この椅子に座っていれば、耳のほうが先に意味を組み立ててくれる。
書き取りながら、指の先が冷えていくのが分かった。
タイタニック。
あの人が乗っている船である。
四月十日の正午にサウサンプトンを出て、今日で五日目。いまごろは大西洋のまんなかを、灯りをいっぱいに点けて走っている――そのはずだった。
続きが落ちてくる。氷山。接触。浸水。
鉛筆の芯が、紙を破った。
けれど、そのあとに来た一行が、わたしを掬い上げる。
乗客乗員は全員無事。
わたしはその行を三度読み返した。三度とも、同じことが書いてある。息を吸うのを忘れていたらしく、吸ったとたんに喉が鳴った。
電文の末には、リヴァプールの船会社の事務所から各地の郵便局あてに回された公示である旨と、掲示せよという但し書きが添えてある。
「掲示なさい、ミス・ホルロイド」
局長のミスタ・カークブライドは、眼鏡を持ち上げてそれだけを言った。この人は規則で物を言う。規則にない言葉は、めったに口から出てこない。それでも椅子を立つとき、わたしの肩を一度だけ軽く叩いていく。
わたしは清書し、糊の壺を抱えて表へ出た。
――タイタニック号、氷山と接触。乗客乗員は全員無事。同船はハリファックスへ曳航中。
掲示板の板は雨に灼けて白っぽく、去年の慈善市の貼り紙の跡がまだ残っている。糊を刷いて、紙の四隅を押さえる。指の腹に糊が残り、乾くまでのあいだ、皮が少しつっぱった。
わたしの後ろで、人の増えていく音がする。
「読んどくれ、エルシー。あたしゃ字が細かいと駄目でね」
パン屋のミセス・ソープに言われて、わたしは声に出して読んだ。二度目は、もっと大きな声で読んだ。
三度目を読み終わらないうちに、通りの端から歓声が上がる。
教会の鐘が鳴りはじめた。機屋の高窓から織り手たちが顔を出し、機械の音に負けまいと何か叫んでいる。妹のドリーが前掛けのまま走ってきて、わたしの腕にぶら下がった。
「姉さん、助かったんだって! 全員だって!」
「そう書いてある」
「そう書いてあるじゃなくて、助かったのよ!」
ドリーはわたしを揺さぶった。わたしの喉から、笑い声のような、しゃっくりのような音が出る。自分の出した音に驚いて、それでまた笑った。
幼なじみのアダが、赤ん坊を抱いたまま人垣を割って入ってくる。
「エルシー。あんた、いま笑ったね」
「笑ったわ」
「三日ぶりだよ」
三日ぶり――あの人が船に乗ってから、わたしがろくに食べていないことを、この人は知っている。
その日のわたしは、生きてきたなかでいちばん軽かったのだと思う。
通りの誰かに「式はいつだね」と聞かれて、わたしは考えもせずに答えた。
「六月の、二週目の土曜に」
言ってしまってから、耳が熱くなる。日取りなど、まだあの人と相談してもいない。それでも口に出したとたん、その土曜が本当にこの世にあるもののように思えてくる。
わたしは通りじゅうに触れて回った。ミセス・ソープにも、牛乳屋にも、教会の掃除をしている老人にも。六月の、二週目の土曜です、と。
◇
ヴァイオリンを買ったのは、一九一〇年十月八日の土曜である。
二年かけて貯めた十二ポンドと、彫り代の三シリング六ペンス。マンチェスターの楽器屋の主人は、わたしの手つきを見て「弾かなくて大丈夫ですか?」と念を押した。
銀の板は、指の腹ほどの大きさである。彫ってもらった文字は、こうである。
――婚約の記念に。エルシーより、トマスへ。
指輪ではなく、これにしなさいと言ったのはあの人のほうだった。町の集会所の裏の、暖房の効かない小部屋で、トマスは箱を開けたまま、しばらく何も言わない。
「指輪はいつか買う」
やっと出てきたのが、その言葉である。
「これは、おれが買えないものだ」
それから顎に挟んで、調弦をした。低い弦から順に、少しずつ。松脂の匂いが、冷えた部屋に立つ。
弾きはじめたのは、聞いたことのない曲だった。ゆっくりした三拍子で、上りきらずに下りてくる。窓の外は暗く、下の通りをランプの灯が二つ、三つと過ぎていった。
「なんという曲?」
「|Songe d'Automne。秋の夢、という題だ。港の舞踏場で、去年からずっと鳴っている」
「夢より、歌のほうがいいわ」
わたしがそう言うと、あの人は弓を止めて、笑った。
「じゃあ、秋の歌だ。おまえの前でだけ、そう呼ぶ」
それから、わたしは尋ねた。式では何を弾いてくれるの、と。
トマスは弓の先で自分の額を掻いて、少し困った顔をした。
「式の曲は、その日まで内緒だ」
――内緒だ、と言ったきり、あの人はとうとう教えてくれなかった。
「次のお仕事はなんとあの豪華客船タイタニック号さ」
ヴァイオリンを宝物のように丁寧にケースにしまいながら、あの人は誇らしげに言った。
「え? ほ、本当? す、凄いわ」
「夢みたいだよ。世界中のセレブ達が乗るあの豪華客船に、俺の音が響き渡る……最高だよ」
「素敵ね……。でも、船でのお仕事は……ちょっと心配だわ……」
「ははっ、何言っているんだよ、タイタニックは巨大な宮殿が浮かんでいるような、世界一安全な最新の船さ。心配なんてしなくていいよ」
そう言いながらトマスは私を引き寄せ、軽くキスをした。
「そうなのね、良かった……」
私は幸せいっぱいに彼の胸にほほを寄せていた。
◇
三月二十日の手紙に、あの人はこう書いてよこした。
『この航海を最後にする。帰ったら式を挙げよう』
最後の手紙が届いたのは四月十三日、土曜の午後である。サウサンプトンの消印。乗る前の晩に投函したものらしく、字がいつもより急いでいた。
海は静からしい。食堂の卓が固い。帰ったら、あの曲を弾く。
あの曲、と書いてある。式の曲のことだ、とわたしは思っている。思っているだけで、確かめたわけではない。
わたしはその手紙を、前掛けの内側に入れて持ち歩いていた。
◇
その晩、わたしはアシュワースの家へ報せに行った。
トマスの母、ミセス・ハンナ・アシュワースは、台所の卓に両手を置いたまま、わたしの話を終わりまで聞く。それから、聞いた分だけ黙った。
「あんな大きな船が氷にぶつかって、全員助かるということが、あるものかね」
「船会社の公示です」
「船会社が、間違えないと決まっているのかい?」
わたしは何か言い返そうとして、うまく言葉が出てこない。ハンナの手は、卓の木目を撫でていた。爪の短い、白い手である。トマスの手も、爪が短かった。
「エルシー。あんたは若いから、いいほうを信じておきなさい」
そう言われて、わたしは頷く。頷きながら、この人はいいほうを信じない人なのだと知った。
帰り道、北から風が吹いている。丘の上の機屋の煙突が、月を横切って黒く立っている。わたしは六月の二週目の土曜のことを、もう一度、頭のなかで並べ直した。教会。花。母の帽子。ドリーの新しい靴。
――そのくらい、幸せだったのだ。あの晩のわたしは。
◇
四月十六日、火曜。曇。
朝の汽車が運んでくる新聞の束を、いちばんに開けるのは局の仕事である。麻紐を切って、一部を局長の机へ、一部を売店へ。わたしはいつもどおり、麻紐に鋏を入れた。
一面が目に入る。
入ったのに、意味が入ってこない。
文字はきちんと並んでいた。並んでいるのに、わたしの頭が、それを一つの文にすることを拒んでいる。わたしはもう一度、いちばん上から読み直した。
タイタニック号沈没。犠牲者千五百名を超すか。救助されたのは七百人あまり。
鋏が、床に落ちた。
音がやけに長く鳴って、それから局のなかが静かになる。ミスタ・カークブライドが立ち上がった。何も言わずにわたしの手から新聞を取り、自分の机で開く。
わたしは表へ出た。糊の壺は、もう要らない。
掲示板の前にはもう人が集まっていて、わたしが近づくと、道を空けてくれる。誰も口をきかない。昨日わたしが貼った紙が、まだ四隅をきちんと押さえられたまま、そこにあった。
乗客乗員は全員無事。
わたしは指を掛けて、それを剥がす。
紙は端から千切れ、糊の残った部分が板に貼りついて、白い模様のように残った。爪で掻いても取れない。わたしはしばらく、その白い跡を掻いていた。誰かがわたしの肩に手を置き、それから離れていく。
局へ戻って、わたしは受付簿の掲示の欄に一字を書き入れた。済。処理の終わった行に、この局ではそう書く。わたしの書く済は跳ねが長いと、局長に言われたことがある。
その日の午後、救助された人の名前が届きはじめる。
わたしは名簿を三度読んだ。楽団の八人は、一人も載っていない。あの人の名も、そこにはない。載っていないという事実は、載っている事実よりも読むのに時間がかかる。何度読んでも終わらないからだ。
夕方、局の裏で、配達のジムが泣いているのを見つけた。十四になったばかりの子である。
「ぼく、昨日、走って回ったんです。全員助かったって、家じゅうに」
「わたしもよ」
「ぼくのせいで、みんな喜んだのに」
わたしはジムの帽子をかぶせ直してやった。自分の声が、ふしぎなほど落ち着いているのが分かる。
「あなたのせいじゃない。わたしたちは、来た紙を貼っただけ」
言いながら、前掛けの内側で、手紙が薄く鳴った。
その晩、母が黙って皿を出す。わたしは食べた。食べられたことに、少しだけ傷つく。
あの人はもう帰らない――――。
本当に?
頭では分かっている。分かってはいるけど、心に落ちてこない。
『いやぁ酷い目にあったよ、はははは』そんなこと言いながら、ひょっこり現れたりするのでは? そんな思いがどうしても拭えない。
私はあの人からの手紙をそっと手に取る――。
『帰ったら、あの曲を弾く』
そこを指でツーっとなぞった。
もう帰ってこないのに?
そう思った瞬間、パンと心のどこかが割れた衝撃が全身に響き渡った。
う、うぅっ……。
涙が今まさにあふれだそうとした瞬間――ここで泣くわけにはいかない、という思いがぐっとそれを押しとどめる。
泣いたら想いがすべて流れてしまって、全てが終わる気がしたのだ。
まだ『生存者の名簿に名前が無かった』という話でしかない。泣くにはまだ早いのではないか?
「くぅぅ……」
わたしは歯をかみしめると、ポスっと身体をベッドに投げ出した――。
『帰ったら、あの曲を弾く』
手紙の言葉が頭の中で何度もリフレインする。
あの人は帰らない。あの曲は弾かれない。それだけは、もう決まってしまった。
けれど――わたしはそこで、初めて別のことを考える。
あの人は、あの晩、何をしていたのだろう。
海の上のことを、わたしは何ひとつ知らない。船の廊下がどちら向きに曲がっているのかも、食堂の卓がどのくらい固いのかも、知らない。わたしが持っているのは、缶に二つぶんの手紙と、糊のついた指だけである。
あの人が最後に何をしていたのか、わたしは知らない。
――けれど、知っている人が、どこかにいる。
◇
ヘイルデン郵便電信局 受付控
四月十五日 掲示 船会社公示一件 午後三時十分 掲示者ホルロイド
同日 電報受付 二十二件 うち安否照会九件 祝いの文面四件
同日 電報配達 二十六件 配達員タットン
四月十六日 撤去 右公示 午前八時四十分 撤去者ホルロイド
同日 電報受付 三十一件 うち弔電七件 代筆三件
備考 十五日に受け付けた祝いの文面四件は、いずれも当日中に配達を了している。取り消しの申し出は、一件もない。




