■第1話「理想の人材」
人は、見たいものしか見ない。
だから顔なんて、どうでもいい。
黒鉄蓮は鏡の前でネクタイを締めながら、そう結論づけた。
今日の自分は黒鉄蓮ではない。名前も経歴も、すべてが別人だ。
若き起業家。
社会課題を解決する次世代のリーダー。
既にいくつかの小規模プロジェクトで成功を収めている。
それが、今日の“顔”。
鏡の中の男は、少し疲れたような、それでいてどこか真っ直ぐな目をしている。理想を信じている人間の目だ。自分で作ったその目を、蓮は一瞬だけ観察し、納得して頷いた。
スマートフォンが震える。
『準備はいい?』
短いメッセージ。送信者は雨宮澪。
蓮は一言だけ返す。
『問題ない』
すぐに既読がついた。
『じゃあ、もう“始まってるよ”』
意味のわからない言葉に見えるが、蓮はそれ以上何も聞かない。
聞く必要がないからだ。
扉を開ける。
外はよく晴れていた。春の光が街を柔らかく照らしている。人の流れは穏やかで、誰もが自分の生活に集中している。
誰も、自分を見ていない。
それでいい。
むしろ、その方が都合がいい。
蓮は人混みに紛れ、歩き出した。
⸻
目的地は、都内の高層ビルの一角にあるオフィス。
そこには、今最も注目されている人物がいる。
東雲恒一。
若者支援のカリスマ。
社会起業家。
何千、何万という人生を救ってきた男。
そして。
“選別する男”。
エレベーターの中で、蓮は一度だけ深く息を吐いた。
感情は、ここから先には必要ない。
ドアが開く。
受付の女性が微笑む。
「本日はアポイントの件で?」
「はい。神谷透と申します。東雲さんと面会の約束を」
名前も、当然偽物だ。
女性は端末を確認し、すぐに頷いた。
「確認いたしました。少々お待ちください」
静かな待合室。
壁には、これまでの活動実績が並んでいる。
支援を受けて笑顔になった若者たち。
成功したプロジェクトの数々。
輝かしい数字。
どれも、本物だ。
だからこそ厄介だ。
「神谷様、お待たせしました。こちらへどうぞ」
案内されるまま、奥へ進む。
扉の前で一度止まり、ノック。
「どうぞ」
低く、よく通る声。
中に入る。
東雲恒一は、窓際のデスクに座っていた。
整ったスーツ。無駄のない姿勢。視線だけで空気を支配するような男。
「初めまして、神谷さん」
柔らかく笑う。
その笑顔は、テレビで見たものと同じだ。
人を安心させる笑顔。
だが、その奥にあるものを、蓮は知っている。
「初めまして。本日はお時間をいただきありがとうございます」
軽く頭を下げる。
「いえいえ。資料は拝見しました。面白いことを考えていますね」
東雲は手元のタブレットを軽く叩く。
「地方の教育格差を、オンラインとコミュニティで解消する。しかも収益モデルまで組み込んでいる。理想だけじゃない」
「現実にしなければ意味がありませんから」
用意していた言葉を、自然なトーンで返す。
東雲は一瞬だけ目を細めた。
観察されている。
評価されている。
選ばれている。
その全てを、蓮は“感じているふり”をする。
「いいですね」
東雲は立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「あなたのような人材を、私は探しているんです」
距離が近い。
視線が合う。
逃げ場はない。
「神谷さん。あなたは、自分の価値をどの程度だと思っていますか?」
唐突な質問。
だが、想定内だ。
蓮はほんの一瞬だけ考える素振りを見せる。
「まだ証明途中です。ただ、証明する価値はあると思っています」
東雲は、満足そうに頷いた。
「いい答えだ」
そして。
「では、私が証明の機会を与えましょう」
そう言った。
⸻
ビルを出た時、空気が少しだけ軽く感じた。
ポケットの中でスマートフォンが震える。
『どう?』
ミラーのメッセージ。
蓮は短く打つ。
『食いついた』
数秒後。
『当然だよ』
続けて別の通知。
『こっちも“流れ”はできてる』
ゴーストだ。
蓮は画面を閉じる。
振り返らない。
もう、振り返る必要はない。
全ては、予定通り進んでいる。
そう思っていた。
⸻
同じ頃。
別の場所で、東雲恒一は静かに資料を見直していた。
「神谷透、か」
小さく呟く。
そして、ふと笑った。
「いい駒が来た」
その目は、先ほどとは違っていた。
優しさは消え、純粋な選別者の目になっている。
「どこまで使えるか」
興味深そうに、そう言う。
⸻
そのやり取りを。
誰も知らないはずのその瞬間を。
遠く離れた場所で、一人の女が見ていた。
時任紗那は、静かにキーボードを叩く。
「第一段階、問題なし」
画面には、複数のログとデータ。
そして。
東雲恒一の、まだ誰も知らない“別の記録”。
「ただし」
紗那は一瞬だけ手を止める。
「予定より早い」
小さく呟く。
「やっぱり、この人……」
そして、もう一度キーボードを叩いた。
「面白い」
⸻
物語は、もう始まっている。
そして。
この時点で既に、誰かが“間違えている”。




