平凡お人よし少年が残念なイケメンけもみみ少年に連れ去られたうえ脅され、新たな価値観を元に互いを変えていく話:中編
「歯車城」中編。
#6
最下層。南東にある広場、沢山の配管の前で二人の少年が佇んでいる。一人は小綺麗な服装に似合わないぼろきれを首にかけ、その服もあちこち破れかけ汚れていた。鋭い目元には隈があり、眠たげに欠伸を噛み殺している。彼より頭一つ小さいもう一人は、これまた同じように隈を持っていた。服はまだ綺麗だが、ひどく疲弊しきっているのが目に取れる。
「まずまずの量だな。でもこれ、運んでばれないとは思えない」
「ああ。ごたごたで結局見つからなかったんだから、君が最後の日に暴れてる間にこれも拝借することにした。それも量に含めれば、パラサイトまでのやつは多分足りてるだろう」
「ありったけネジを外す必要があるんだけどな……お前、まだ動けるか」
「うん。最大限、今ネジを外そう。外側のは駄目だ。分かりづらい内側から。見回り役が南端にたどり着くのは日が差してから三十分後……安全を考えて、あと十分間だけ作業しようか。ごめんね、多分あと一回はここに来る必要がある」
「仕方ない。それなら今日はもういいから、戻ろう。お前、疲れてるだろ」
目の下の黒を隠すように笑ったり勇んだりしてみせても、その疲れは隠しきれていない。そう指摘してやると、困ったように彼は笑った。
「……うん、ごめんね。なんだか疲れちゃった」
一度、家に寄ってもいい?と彼が問う。俺は待っていると、クロイヌは座り込んだ。ぐら、と目の前の光景が、小さくなっていくスートが、歪む。想定外の自分の不調に、クロイヌは溜息をついた。
スートは自分が元いた家、家と言うには粗末なバラック街を歩いていく。変わり映えしないそこを進むと、まだ自分の家はそのままのようだった。扉を開け、室内を見渡す。大した物はなく、おまけに置いてあった食料は誰かに盗られていたが、あまり気にせず彼は微笑んだ。
「ただいま、母さん」
音を舌に乗せ、昔の習慣を懐かしむ。人と話す機会も減るばかりだと思っていたが、そうでも無かった。できたら自分の母親に、新しく友達になった彼の事を話してあげたかった。格好よくて、でも時々抜けている不思議な彼のことを。
「久しぶり。沢山話したいことがあるんだ、例えばさ」
疲弊しきっていた彼は、自然と着の身着のままベッドに腰掛ける。懐かしさで目を閉じると、母親の記憶が、なんだか随分久しぶりに頭に上がる。こら、はしたないなんて母親の声が聞こえた気がした。
「助けて‼」
寝台に腰掛けつい微睡み始めていた彼を、悲鳴が叩き起した。助けを求める悲痛な声に、疲れきっていた身体が反応する。扉を開けて声の方向を見ると、その道の奥には痩せた少女が倒れていた。一度、話した事があるかもしれない。母さんに怪我の手当てを頼みにきた子……だったかもしれない。彼女は床に伏せており、それを大柄な男が運んでいく。よく見ると運ばれる先には何人かの人間が積まれ、小さな山を成していた。
「……!」
スートは曲がり角に隠れると、男が気づくより先に拳銃を握りしめてその足元に撃ち込む。クロイヌが使っているのを見ただけの腕前では、弾は金属製の地面で音を立てるだけだった。
「誰だ!」
野太い声が聞こえる。一見しただけでは人間だったので、匂いでは見つからないはずだ。そう信じて、じりじりと角の端まで移動する。気配が最大まで近づいた時、銃口を向けるように道に躍り出た。引き金を引くも、かちりと軽い音がするだけで弾は出なかった。弾切れか、弾詰まりか。絶体絶命に陥った彼を、男が蹴飛ばす。
「……っ‼」
硬い床に強かに半身を打ち付け、筋肉がびりびりと強ばった。目の前の景色も、反射的に出た涙でよく見えない。今何が起こったかを理解するのも難しかった。転がった拳銃に手を伸ばすも、その手を踏みつけられる。痛みに吐息が荒くなり、血の混じった唾液が口の端から零れ落ちた。
「誰だ……くそ」
足に力が込められ、よりいっそう痛みが強まる。クロイヌを呼ばなかった後悔と、巻き込まなくて済んだ安堵だけが彼の頭に浮かんだ。
「スート」
呟くような小さな声が、不自然に膨らんだ足よりずっと上から聞こえる。
「……えっ⁉」
軽い数発の銃声の後、男がうずくまった。肩を撃ち抜かれた男から彼は解放され、真上を仰ぎ見る。
「クロイヌ‼」
バラックの上、細身のシルエットにフードの影、首に巻かれたぼろぼろの布、それと同じようにはためく尻尾は間違いなく彼のものだ。クロイヌはそこから飛び降りると、少年を小脇に抱え走り出す。気がついたらしい仲間の喧騒と何発かの銃声が聞こえたが、あっという間に遠ざかっていった。
「クロイヌ‼戻ってくれ!あそこに沢山、捕らえられた人がいるんだ!」
「駄目だ。あの男達相手に、無駄にできる弾は無い。それにもうどっちも、全員を助け出せるほどの体力は無いだろう」
「でもっ……見捨てたら、あの人達は、きっとキメラにされる……」
「助け出す機会はあるかもしれないだろ。とにかく、今は無理だ!」
「クロイヌ……」
弱りきった自分の声と、疲れきった彼の瞳が交差する。自分で彼を巻き込まないと決めていたのに、自分はまた、何をしようとしていたんだ。冷静な思考が反省を促す。
「……ごめん、クロイヌ」
それきり二人は何も喋らなかった。ほどなくして南端のロープにたどり着く。
ぎしぎしと音を立てるロープを、スートを抱えたクロイヌが握りしめた。抱えられたまま、スートはクロイヌの顔を見あげる。
「今日僕は……いや、昨日から、厄介事に首を突っ込んで君を巻き込んで、君を沢山危険な目に合わせた。……覚悟も足らなかった。それなのに、僕を助けてくれて、ありがとう」
「……友達なら、当然だろ」
クロイヌの目は、蒸気の向こうの砂漠を睨んだままだったが、友達という響きに少しだけスートの眉間が緩んだ。
「じゃ、帰ろう」
体がふわりと中に浮く。次いで、重力に振り回される感覚。恐怖心に打ち勝ち瞼を開けると、蒸気の向こうから碧空と砂と、家が見えた。
(あと何回、)
意味なく手のひらが空を掴む。
(この風景を見られるんだろうか)
伸ばされた手は虚しく虚空を握り、何も遺しはしなかった。
ゆっくりとパラサイトの木の床に下ろされ、座り込んだままクロイヌに尋ねる。
「残りは何日だろう」
「六日だ。今日はもう、含めない」
だから早く寝ろ。疲弊してもまだ綺麗な顔が、隈を宿した目で訴えた。
「……僕の仲間が、なんで捕らえられていたんだろう。悪いことなんて、何もしてないのに……」
「……仕方が無い。寝なきゃいけない理屈はいくつもあるんだが、今それを述べてもお前は眠らないだろうな」
クロイヌが何処かへふらりと移動する。戻ってくる頃には、いつものだらしないトレーナー姿になっていた。
「これ、マスターが作ってくれた睡眠薬だ。傷が痛んで眠れない夜なんかに、飲んだことがある」
「ありがとう」
水と共に、薄紫の錠剤が手渡される。ビタミン不足に陥った者が飲むもの、彼が常に服用していたものとあまり相違は無さそうだ。
「……ん、飲めた。目を閉じるよ。おやすみ……」
「ああ、おやすみ」
クロイヌは自分も寝入る前に、ひとつ呟いた。
「スートは、城に残ってそこで、あそこの生活を変える方が」
空白が生まれる。少し前に見た虚空とはまた違う、虚無がひたひたと部屋を満たした。
「向いてるのかもな。」
無理矢理吐き出されたその声が、言葉が静かな部屋に響いている。二人はそれきり何も喋らずにいた。
「ねえ、もう寝よ?ね?」
「まだ十時じゃ無い……このくらい平気よ。心配症ね!スーったら」
広い、清潔、冷たい。
彼女の元の家のことだ。広くて清潔で自分ひとりしかいない、彼女のたった一つの居場所。
狭い、汚い、暖かい。
彼女は今、そこにいる。つい昨夜そこにやって来た。広大な屋敷と地位ある家族から捨てられ、いや、彼女は自分から棄ててこちらに来たのだと言う。彼女の父に仕えていたひとりのキメラがそれを教えた時には、
「薄々思ってたわ。その可能性」
と、あっけらかんと返した。彼女にとってそれまでの世界はそんなものでしか無かったらしい。
「うわああああ‼クモ‼クモが出てきた!」
「掃除しないからこうなっているのよ。それに貴方、蜘蛛とのキメラじゃない‼」
狭いスペースで雑魚寝をする。レオンはベッドを譲るからそこで寝てくださいと言ったが、彼女は結局ひときわ仲のいいキメラ、スーと一緒に眠ることを選んだ。
「ふふふ……可笑しいわ。今日はここで眠るのね」
「そうだね……そこしか無いからね。今までに比べて狭くて汚いでしょ?眠れる?」
「んー……そこは気にしてないけど、心臓がばくばくして眠れないのよね。信じられる?この前なんてね、最下層に行ったのよ!」
「へえ?……あっ、あの犬のキメラの関係かあ……僕いいや、その話は」
「あらそう?残念ね」
青くなった彼を、少女は軽く笑った。彼がぐっと声を小さくして、彼女の耳に口を近づける。
「……それにね、実は僕ね、昔最下層にいたんだよ。これ、誰にも秘密ね」
少女の瞳が、興味満々といった風に星を宿す。
「本当に?どうしてここに来たの?」
「ここのキメラの大体は、多分でしかないんだけど、最下層から連れてこられた人間なんだよ。手術はとても難しいしほとんどの場合思考は消えちゃうから、そこの記憶がある人はほとんどいないけど……」
「すごいわね……知らなかった。 でもなんで、連れてこられたの?」
「……分からないんだ。それが。前後の記憶は無くって、ただ薄ら前にあそこにいたなーくらいしか覚えてない。僕は思考が残っていて本当に幸運だったよ。使い捨ての兵士として使われるのも嫌だし、なにより、思考のある動物になったらより悲惨だからね。思考が残ってる動物、あれは酷かった。何度も自死しようとして、でも死ねなくて吠え立てていたんだ。怖かった」
彼はぞくりと身震いした。檻に頭をぶつけ、血を流しながら繰り返し巨体を打ち付けていた彼のこと、ふらふらと持ち場について動いた物を追いかける彼のことを思い出して。
「ふーん……何の為に、誰がやってるのかしら」
「分からないな……僕の家族は、いたとしたらどうなったんだろう?おっと、もう寝ようよ。それがいい」
「そうね……おやすみ、スー。」
「おやすみ、アズ」
言われてみれば、僕はどこからどうしてここに来たんだろう。家族は?友達は?……そんな問が少年の脳を眠りから遠ざけてしまった。ここに来たのはいつのことだろう。もうだいぶん前の気もするし、ひと月前の気もするのだ。
幾分か整理された本棚に囲まれた空は、もう星が煌々と輝いていた。
「……しまった、寝すぎた」
昼から夜まで、そんなに眠る気は無かったのに眠ってしまったらしい。腹が鳴り目を覚ました自分に対し、より疲れたらしいクロイヌはまだ眠っていた。目の前で攫われた仲間。情報がパズルの様に頭の中でぐちゃぐちゃに動き、彼の過去も遠くで見え隠れする。
「……ふああ」
いつしか起きたクロイヌが、寝惚けた顔ですぐ側へやって来ていた。
「ホットケーキ、焼いてるのか」
「……うん。お腹、減ったから」
「あー……でも俺は別に空いてない……このまま、寝てもいいか」
その様子を訝しみ、すかさずスートは口を挟んだ。
「食べないのは駄目だ。体に良くないと、母さんが言ってた。それに、僕だって良くないと思う」
「今日はいい。疲れた……それに、お前、焼いてはいるけどその顔色じゃ食えないだろ」
青い顔を指摘され、眉を下げて彼は笑う。
「食べなきゃ、なんだけど。さっきの様子が瞼を掠めるんだ。あの子はきっと知っている子だって、助けるべきだって……ごめん、こんなこと君に関係ないのに。僕の、自分勝手なのに。やっぱり、僕はあっちで歯車城を変えるべきなのかな」
君に迷惑はかけたくない。
自分の計画を話すことをかなり渋っていたマスターのことを思い出す。気を使うという行動も、まだ完全に理解できるわけではない。ただ、それがすごく相手のことを大切に思ったうえでの行動であることは知っていた。それがまた、クロイヌの体に突き刺さる。
「……おれ、は」
ゆっくりと吐き出された声は、ひどく掠れていた。ホットケーキがフライパンの中で焦げかけていることに気づいたスートが、焦って暖かい生地をひっくり返す。
考えて決めろ。そう、何度も彼に言った。言っておいて、それを実行出来なかった。別れたくない。けど、自分の存在が如何に枷になっているかは痛いほどに伝わっていた。
「約束だからさ、最後まで君には協力するよ。でもそのさき、どうするかは、」
「勝手にしろ」
最後まで聞かずに、どうしてつっけんどんに返してしまったのか、自分でも分からない。
憤怒の色を滲ませた、静かなよく通る声で彼はそういった。良かった、と少年は泣きそうな顔で笑う。悲しい時にスートはよく笑うんだと、クロイヌはまだ理解していなかった。
「……なんで、」
「え?」
なんで無理して笑うんだ。そうか、良かったのか。俺が居なくなることが。新たな苛立ちがまた、クロイヌの口を塞いだ。
ホットケーキが喉を通っても、全く味も熱も感じられない。傷が痛み、高熱に耐えていた頃を思い出した。全身がひび割れる様に熱くて、何を食べても灰のように乾いて味がしない。その時よりも遥かに辛かった。怒りでもあるし、ただ泣きたいような気もする。不可解で割り切れない厄介な感情……こいつは最初から、要らないものを沢山寄こした。そう、責任転嫁した。
最下層から戻ってきた部下を見た彼は、満足そうに笑っている。娘のことなんて忘れたかのように、彼女の部屋に材料を保管しようとそこへ向かった。着いてみると、ドアの穴や部屋中に、沢山の銃痕が見受けられる。死体があったらしい所は赤く染まり、強化硝子は大きく穴が空いていた。片付けられてはいたものの、そこは誤魔化しようが無い。彼は大して気にもとめず、部下達に運びこむよう指示した。
がちゃりと、扉を開く音がする。部下かと思って振り向いた彼の動きは止まった。
「……父さん、アズは?ここ、アズの部屋だよね?」
どうして今ここに居る。そんな苛立ちが寸での所で口をつきそうになったが、なんとかそれを押し込む。努めて静かに、彼は振舞った。
「ああ。ここはアズの部屋だよ。実は本日侵入者が現れて……いや、撃退したのだが、部屋はこんな有様だから彼女は別の部屋に連れて行ったんだよ」
「それで。アズは何処にいる。一目でいいから見せてほしい」
「何を言っているんだ。今は深夜だ。あの娘が起きている訳が無い。明日でいいだろう」
「……いや、寝ている所を一目でもいい。見せてくれ」
それまでに無いような疑いを孕んだ眼差しに、首長はたじろぐ。
「お前、誰かから変なことを聞いてないだろうな」
「変なんかじゃない。僕は第一層で、この城がぐるりと円を描いている事を知ってしまった」
首長が最も恐れていたそれが、ヘゼルの耳にも伝わってしまったようだった。侵入者ならまだしも、次期首長となる彼にとって、これは絶対知られてはいけない情報だ。構わず彼は喋り続ける。
「最下層の人々の労働、あれは本当に無駄じゃないか。確かに、給油や固形燃料が尽きたら命取りになる。けれども、ちゃんと進むべきだ。最下層の人達にあんな無駄な負担をかけなくても済む方法が見つかるかもしれない」
はっきりと彼は言い切った。自分のすることが正しくない訳がないと言いたげに。
「……へゼル。何を言っているのか分かっているか?そんな事したら、歯車城の秩序は、私達一族の地位は、無くなってしまうかもしれないのだぞ。先祖達に申し訳が立たない」
動揺を隠そうと、静かに養子に問いかける。それももう遅い様で、彼の目はずっと遠くを見ていた。
「そんな怖がりだったのか。父さんは。自分の生活が無くなるのが怖いんだろ。……もういい、妹はどこにいる」
「……おい、ニトカ。こいつの今の匂いから、誰かに会っていないか割り出せ」
首長の中で、何かが決定的に変わったようだった。諭すのは諦め、その次を考える。その間に首長の後ろから現れた男が、スカーフの下の大きな鼻を動かした。
「裏切り者の、カメレオンのキメラの匂いがします」
青年の眉間もまた皺が刻まれた。疑惑が確信に変わる。考えるより先に口が動いていた。
「いいよ。そっちにばれたなら、もう喋ってやる。第一層から最上層に上がる時、レオンに会ったんだ。妹が危険だと、そう知らされた……それに、まだ知らないことがある。ここに運ばれてきた、あの麻袋……中に、何が入っているんだ」
首長は暫時唇を噛んだ後、諦めたように溜息を吐いた。
「残念だよ。お前は、私が孤児の身から次期首長へと育ててやったのに。それを自分の手から台無しにしたな。やはり全てはあの小ねずみ達か……もういい。お前は用無しだ」
首長が、息子にひたりと近づく。その影にはあの、大きな獣がいた。
天窓から陽光が射し、それがちょうど自分の目元まで迫ってきた時だった。眩しい。この部屋に日が入るということは、日が昇ってからそれなりに時間が経っているはずだ、そう思い立ち上がった。結局まともな寝床には行かずに、本を読んでいるうちに寝てしまったらしい。クロイヌはきっと、自分の寝床で広々と寝ているんだろう。つい最近だけがそうじゃ無かっただけだ。これまでも、これからも彼はそこで広々と寝るはずだ。
嫌な考えを浮かべた首を横に振って、のそりとスートは立ち上がった。尻の下でくしゃりと皺になってしまっている最下層の図面を手に取り、丁寧に皺を伸ばしていく。藁半紙でも羊皮紙でも無いその紙は、手で伸ばすだけで皺が取れていった。
「クロイヌー」
早起きな彼なら、もう起きてごそごそと動き回っているはずだ。そう思って声を張るも、中々返事は帰ってこない。
「クロイヌ?この図面、写したいんだけど、白い紙と鉛筆とかってない?」
うろうろと歩き回って声をかけるが、そこにはいない様だった。温室の水やりもまだ行われていない。何かあったんじゃないかと、スートの足は早まった。
ぎぎ、と軽く音を立てて父親の部屋の戸が開く。荷物に囲まれた床に、白い脚が力無く伸びているのが見えた。
「……クロイヌ?」
人形の様な白い顔。いつもよりずっと作り物じみて見えるのは、きっと気のせいじゃない。
横向きに倒れた身体はひんやりと冷たくて、スートの思考はぐっと遅くなった。いつものトレーナーが濡れて冷たく冷えている。上体を持ち上げると、口が薄く開いた。細い隙間から見える赤が、ぼんやりとこちらを見つめている。
「スート……?」
「クロイヌ、早くそれを着替えろ。君はきっと熱を出していた。そして恐らく、これからまた熱が上がる」
クロイヌの目がするりと睫毛の奥へ消えて、また彼は眠りに落ちた。身体は冷たいが、生身のどっしりとした重さがある。
「……ちょっとクロイヌ⁉僕の話聞いてた⁉熱酷くしたいのか⁉」
怒声を上げて揺すり起こそうと身体を前後に振るが、その目の端から零れた雫を見て、少年はひとりごちて腕を止めた。
「……泣きたいのはこっちだっての」
何度か、酷い熱を出した事がある。そんな時は決まっていつも傷が痛んだ。背中も右手も足も、腹も痛くって、その度マスターに冷たい布で身体を拭いてもらっていた。自分の背丈がもっとずっと小さかった頃だ。自分がベッドで苦しめば、必ず床で寝ていたマスターが気づいて看病してくれる。
また、背中が熱くなった。喉が乾き、粉っぽい味が奥に広がる。まただ。そう思って、手を伸ばした。
「マスター、 」
ああそうだ、いないんだ。
水を差し出してくれるあの冷たい手は、もう無いんだっけか。これから一生、無い。
伸ばされた手が空中を掴んで、床に落ちる。冷たい床にずり、と火照った身体を擦り付けるが、そこは直ぐに温くなり不快感を煽った。
そこには、陽光が満ちていた。
「クロ」
黒い犬が、少年に突進する。少年はするりと身を交わして、その頭に手を近づけた。
「よしよし」
少し離れた所から、母親の声が聞こえてきた。父親も傍にいるらしく、早く来ないとお前の分のケーキは無いぞと言っている様だった。待ってよと言ってしゃがんだ少年の額を、大きな舌が舐める。その舌が妙に冷たい気がして、少年は声を上げた。
「……あ」
「気がついた?」
彼は、先ほどまで自分の額に添えられていた、温くなった布を水に浸していた。スートは自分の看病をしていてくれたらしい。身体はだいぶ軽くなって、傷もあまり痛まなかった。
「はい、水」
手渡された冷たい水をこくりと飲む。頭に酸素がまわるように、急にすっきりと思考が冴えた気がした。
「……ありがとう、今は」
「六日前の午前十時。尤も、あの時計が正しければね」
「今日は配管を集めないと……」
「駄目。ちゃんと寝て、しっかり治すんだろ、こういうのは。今日は何もしちゃいけない」
そう言って彼は、既に用意したであろう薄いスープを渡す。それは適度に冷まされ、クロイヌの身体をじわりと温めた。
「着替えはこれ。多分通気性のいいやつだから。いつものトレーナーは禁止な。洗ってるから今。あ、これ熱くない?」
てきぱきと指示をするスートに、クロイヌは少し驚いていた。
「……妙に、慣れてるな」
スートの口が軽く開いた。
「あはは。話してなかったっけ?……母さんの看病を半年位してたから。慣れてるのは本当」
思ったより元気そうで良かった。そう、緑が開いて笑う。耳を傾けて、クロイヌが匙を口に運んだ。人形かと思えた彼は、今はスープで口元を汚すただの少年だ。
「はあ……びっくりした」
「……ごめん」
母さんが死んだ時も、こんな気分だった。朝早く点呼が外から聞こえてきても、咳き込む音が聞こえずに、ただただ静かで。冷たい体は、何かが抜け落ちてしまったみたいに軽かった。けど君は違う。重くて、少し湿ったくて、生きていた。
「美味しい」
「でしょ。野菜があって、栄養素がちゃんと取れるんだから、きっと君は直ぐに良くなる。でも今は、安静にするべきだ」
渋々、と言った様子で再びクロイヌが横になる。もう皿は空になっていて、残ったスープが薄く光っていた。
「僕は機械の整備でもしてくる。汗をかいたらちゃんと拭けよ。場合によっては着替えろ。そこまで面倒は見てやらないからな」
呆れた様子のスートが出て行った。そういえば、自分はマスターのシャツを着ている。気づけばスープの皿も無かった。
「……ありがとう、スート」
言いそびれた言葉が、ぽつりと部屋に落ちた。
白い背中に、背骨を中心にして浮かび上がる大きな傷痕が眼前に浮かび、ふるりと首を振る。きちんと縫合された、キメラ化手術の痕もあれば、縫合までに間があったらしい、はっきりと残ってしまっている傷もあった。自分と歳が近いとは思えない程の数。父親の手記を読んだだけではにわかに信じきれなかった。自分よりよっぽどいい暮らしをしてきたんだろうと、何処かで思っていた。そんな自分が、恥ずかしい。彼の過去に触れたいような、ふれて癒せるのならという思いと、彼がそれを望まなかったらどうするという思いが、瞼に回る。
「……整備、しなくちゃ」
いつもの服に着替えると、スートは顔を上げた。
陽が射すはずの時間になってもそこに光は入らず、へゼルはいつもよりずっと長く寝ていた。ふと目を開けると、冷たい床が擦り切れた頬に痛みをもたらす。
「ここは……?妹は、父さんは」
薄茶の瞳が周りを見渡した。後ろ手に縛られているらしく、身動きは取れない。獣に抵抗した時に出来た傷の一つ一つが、思い出した様にじりじりと痛かった。何とか膝をついて、身体を立てる。
「!」
暗闇に目が慣れると、薄暗い廊下の向かいに、光る沢山の目玉が浮かび上がった。同じ大きさの檻に、おびただしい数の人間が収められているらしく、その光がじっと彼を射す。
「貴方達は誰ですか⁉ここは一体どこなんですか⁉」
膝を引きずって体を檻に向け、大声で叫ぶ。彼らは何も答えずにただこちらを見ていたが、その中の少女、恐らくは妹と同じ年代の少女が小さくこう言った。
「これから、私達はキメラになるんだって。材料なんだって。きっと、あなたも」
へゼルの瞳が見開かれ、膝が床に着く。傷付いた膝がじわりと痛んだ。
「子育てというのは、なんとも難しいものだな」
首長一人となった屋敷に、男は静かに佇んでいた。燦々と射す陽光を見て、もうそろそろ起きた頃だろうかと、彼は離れに向かう。その後を、大柄な男が呼びかけた。
「最近父親を亡くした、第一層の夫人とその子供がいます。聞いたところによるとまだ子供は赤ん坊だそうです。どうでしょう、次の後継人にしては」
「いいな。そうだ、今回は母親もつけておけよ。一回目に失敗かと思ったが、今回の結果を見ると、やはり母親は必要らしい」
首長はそう言い残して、再び長い廊下を歩き出す。
#7
ぐっすりと寝ているであろう同居人の部屋を後にして、パラサイト中枢部に入った。重低音が響く歯車の中の、整備用廊下を進んでいく。異常なし。正常値。汚れたメーターをひとつひとつ読む。確かに、これを一人で放免された後に作ったとは考えにくい。父親が本当に飼い殺されていたんだと納得できるような、それくらいよく出来た造りだった。
「終わり」
点検を全て済ませて、小さな扉を開けた。錆に染まりつつある蝶番を見て、ここも離れる前に直しておこうかと、頭の片隅で思う。
扉の先にあるのは、歯車城の無い方向の、ひたすらに続く砂漠と空だ。何にも無いというわけでは無い。遠くに岩や、そびえ立つ塔のようなもの、伸ばされた鉄線とそれを支える鉄塔なんかが見えることもあった。けれども今日見えたものは、今までにうっすらと見えたものとは異質の物だった。
「……街だ」
真下に、おびただしい数の建造物が見える。歯車城の進行方向にあるものはここからじゃ見えなかったし、数日間景色をのんびりと見ている暇は無かった。存在も知らなかった、旧都市。鉄線やリフト、流線型の見た事の無いような青い建物が一面を埋めている。どれもこれもが目の奥に眩しい青だった。空とも違う不思議な色。ぴかぴかと陽光を反射して光る建物はどこも朽ちてはいないようだが、その下を橙と茶の液体が埋めていた。
「……油の街」
漂ってくるその独特の匂いに、彼はひゅっと息を飲んだ。
最上層なのか、最下層なのか。昼なのか、夜なのか。光の入らない房、一人用にしては広い檻で、それには似合わない高級な身なりの青年が横たわっている。信じられない事ばかりが立て続けに起きて疲弊しきっていた彼は、再び床に横になり、目を瞑っていた。彼が目を覚ましたのは、檻を誰かが蹴飛ばした時だった。
「よく眠れたか?この檻で」
見慣れた革靴が目の前にある。抗議する気力も無く、彼は静かに喋った。
「……父さん」
「いや、違う。お前はもう私の息子では無いさ。へゼル、お前はただのへゼルだ。トルマンは名乗るな。まあ、名乗る機会ももう無いと思うが」
ぞくりと汗が背中を走る。やはり、これから自分は材料にされてしまうのだ。
「……妹は、どうした」
傷つき血が流れ、荒れた唇がやっとの思いでそれだけ呟く。
「ああ……あいつは、体力的にもいいキメラになるとは見込めないから、良くて実験用だな。あの裏切り者のトカゲも合わせて。まあ、見つけ次第殺せとは言っているが」
言っていることは不穏だが、それを任されたレオンが裏切り者、という事になっているのなら、まだ殺されてはいないのだろう。彼は少しばかり眉を開いた。
「まあ、もう何にせよアズと会うことは無いだろうな」
首長が意地悪くにやりと嗤う。話したいことはそれだけだった様で、彼はさっさと踵を返して行ってしまった。続いて、彼の喉から生温い息がせり上がる。安堵のため息だった。
疲弊と安堵に苛まれても尚、恐怖感は早々消えてはくれなかった。自分はどうなってしまうのか。屋敷を回るキメラの様に、ふらふらと回るあの動物のようになってしまうのか。そうなる時は今では無い。その事実は少しだけ彼を救う。
疲れてはいたが、空腹感や真正面の檻の沢山の人が気になり、二度目に寝るのは中々苦労した。……寝ないと、寝て体力を回復しないといけない。まだ、やることがあるのだから。
「クロイヌ、どう?」
「……まあ、ましだ」
気を使って静かに入ると、上体を起こして本を読んでいるクロイヌがいた。彼の言う通り、まだ昨日より動けるようだ。きっと疲労だ。寝れば治ると、スートはそう自分に言い聞かせて気を強く保っていた。
「薬なんてここ、あったりする?」
「昔……マスターが飲ませてくれる薬なんかはあったけど、どこだかは分からない」
「んー……そっか。探してくる。あと、今日は一日僕が作業してるから、とりあえず寝てて。」
やや申し訳なさそうに、クロイヌが頷いた。スートは笑顔を見せて、普段通りを装ってみせる。
収容所と実験室を兼ねた豪邸のある、最上層の隅。普段は静かなそこに、がたがたと音が響いている。異様な光景だった。キメラ達の住処を、キメラ達が壊していく。ある者は突進し、ある者は手当り次第に噛み付いた。屋敷がただの鉄と化した時、一部の頭脳のあるキメラが気づく。
「……どこにも誰もいない……首長にどう報告すれば良いのだろうか」
スカーフで顔を覆った男、ニトカだった。頭脳のあるキメラ達、裏切り者のレオン、ここに逃げ込んだと思われるアズが、丸々いない。首長はへゼルを訪ねてすぐこの司令を出したのだが、それすら遅い様だった。耳の良いキメラが、鼻のきくキメラがそれを察知し、飛び抜けて賢いキメラが皆を連れて逃げた。彼は匂いでそこに確かにアズが居たことを突き止めたが、もはやどうしようも無かった。それなりの人数のキメラが動いたはずなのに、きつい油の匂いに行方すら掴めない。幽霊のようにキメラ達が、そこをうろうろとさ迷っていた。
最下層、第三地区跡地。ここにはありふれた仕切りの様な小さな住宅が密集しているが、動く物は何一つとして無い。首長に捕えられた人々が住んでいた所は、住人を失って静まりかえっている、かのように見えた。息を殺した沢山のキメラ達が潜んでいることに気づく者はいない。その中の一つの家に、金髪の少女と鱗のある長身の男、下半身が蜘蛛の男が隠れていた。
「ね、空気悪いでしょう?」
「確かにそうだけど……まあ、なんとか平気かな」
「お嬢様はスカーフを巻きなさい。喉を痛めてしまうかもしれません」
キメラ達は散り散りになって、空っぽの家々に隠れていた。その数およそ三十、頭脳のあるキメラの殆どがそこにいる。
「私達、これからここで暮らしていくの?」
「食料のあるうちはここに潜伏しましょう……へゼル様は上手くいったでしょうか。心配です」
「ね。無事だといいな。へゼル様、いい人だから」
三人は身を低くして、長い間話していた。妙に和やかな雰囲気で、笑顔さえ浮かんでいる。逃げ出してきた怯えと、いつ見つかるか分からない緊張感よりも、開放感の方が勝っていたのだ。
「ふふ。なんだか可笑しいわね。私、これにあと兄様さえいればそれだけで十分だわ」
「僕も、なんだかいい気分だ。命令に背いているって、少しぞくぞくするけど」
「あら?貴方はグレイスがいて欲しいんじゃないの?」
「え、そ、そんなことない!」
「二人共、静かに」
レオンが立てた指を唇に重ねた。最下層の人間が、遠くでざわざわと話している。その中にはキメラもいるようだった。彼の耳にしか聞こえていない、とても遠いものではあったが、気がかりではあった。もう一つ、大きな問題がある。すぐ近く、第三地区の周辺に一人ぶんだけの呟きが聞こえたのだ。
『……遅かったか』
確かに、彼にはそう聞こえた。
夕暮れの迫る中心部。夕陽が斜めに機械部に射し込んで、てらてらと金属を浮かび上がらせた。スートは今、殆どの整備を終え、端の部分にいる。最下層の人達が気にはなっていたが、単身歯車城に乗り込んでも助けられるわけが無く、そもそもクロイヌをここに一人残していくわけにはいかないので、大人しく整備に徹している。
「ん?」
整備用の配管に混じって、後付けらしい配管が目立つ。不慣れな者が取り付けたらしいそれは、接合部が歪み、明らかに邪魔なものだ。
「外そうかな……ううん……でもな」
眩しい光が徐々に上に滑り、この時間の終わりを告げているようだった。そこに一つだけ残る、光の筋。どうやら件の配管によって出来たものらしい。
光の当たる一点に、鉄蓋が張り付いている。良くある部品に思えたが、手を伸ばすとそれはあっさりと外れた。
「……箱……?」
書庫から出てきたものによく似た、小さな箱が出てきた。彼はしっかりとそれを掴んで、小走りで戻っていく。完全に陽が落ちたそこは、静かに闇に飲み込まれていった。
かたかたかた。機械の動く音がする。いつもなら気にしないその音で、何故だかその日は起きてしまった。薄く目を開けると、やんわりと光があたりを照らしていた。立ち上がると、扉の前に見慣れた人影がある。橙色の髪が、開いた扉の中逆光で光った。口から自然に言葉が出る。
「マスター」
眉を下げて、男性が振り向いた。
「……見つかってしまったか。クロイヌ」
ふわりと彼は笑う。少し昔のように少年の頭に手を当てて、くしゃりと髪をかき混ぜた。
「こんな早い時間に、どうしたんだ」
不審がって聞く俺に、彼は寂しそうな顔で笑う。
「言ったろう。……お別れなんだ、もう」
余りにも現実味が沸かなくって、ああこれは夢なんだと一人納得しようとしていた。耳がへたりと頬まで下がる。
「なんで」
「……最下層の人間はね、決められた区域ごとに一斉に皆キメラにされてしまうんだ。拒む事はできないし、逃げることもできない。僕の家族が、きっともうすぐそれに巻き込まれる。身勝手な事だけど、それをなんとか僕は止めたいんだ。……それに、君を巻き込むわけにはいかない」
「マスター、一緒にここを離れようって、あれは」
「……ごめんな、オイルをいただく時、家族を助けてこっちに連れてこようと思っていたんだけど、間に合わないみたいなんだ。あっちで僕が敵に見つかれば、きっと殺されると思っていい。どんなに頑張っても、僕の家族を助け出せないかもしれない。それでも、君を……おいて、行くことになっても、本当に最低な事をしてしまうのだけど、僕はそうしたいんだ。きっと僕があっちで見つかれば、この城にもいずれ……敵がやってくる。オイル調達までは、なんとか見つからないように努力する。君はオイルを手に入れたら、すぐに自動操縦から手動操縦に切り替えて、都市ザイオンかアララト、もしくはアルカディアへ行ってほしい。そのどれかに、人がいるかもしれない」
唇を噛み締めるつらそうな顔。鶏が老いて動かなくなった時、教えてもらった概念が頭をよぎった。
「もう、会えないのか」
死ぬ。死別。今生の別れ。既に沢山の語彙を身につけていたが、咄嗟に出たのはそれだけだ。
「きっと……そうだな、会えない」
「それって、つまり……死ぬってことか」
「そうかもしれない。二度と会えないんだ。僕は死んだ、そう思っていてくれて構わない……ごめんな。でも、僕は君のことを家族と同じくらい……愛していたんだ。それだけは、覚えておいてほしい」
マスターの平たい手が、しっかりとクロイヌを抱きしめた。何度も俺に聞かせていた、大切な家族の危機なんだ。今までの生活が頭をよぎる。離れたくない。離したくない。けど、それでも。
「俺は、マスターの、夢を継ぐ。マスターは、家族を助けてきて」
「……ありがとう。君には、僕と、僕達と一緒に、広い世界を見て欲しかった。記録にある都市に行くには、何日か、あるいは数年はかかるかもしれない。それに、君には私の計画を話してばっかりで、教えてやれなかったことも沢山あった。ごめん、ごめんな」
「いいんだ、マスター。俺がこの城を護る。マスターのアトツギを残す。そしてきっと、その何処かの都市で貴方のことを話したい」
涙目のマスターが、切なげに笑う。
「クロイヌ……私の事だけじゃ無く、ちゃんと自分のことも考えてくれよ。友達を沢山作ってくれ。私が成せなかったことを沢山やってきてくれ。そして、もしいつか、何処かで出会えることがあったら……僕にその、沢山の経験を伝えてほしい。僕が出来なかった事を、全部。そんな事を実現させてしまうであろう君を誇りに思うよ。クロイヌ、僕の息子」
赤い目から、大きな水滴が零れ落ちる。ぽろぽろとマスターの肩を濡らし、クロイヌの押し殺した泣き声が朝日の中に響いた。
「……そろそろ、行かなくちゃいけない。最後に君に、大切な事を教えるよ。いいかい、よく聞くんだ」
こくこくと彼は頷いた。その度涙が零れ、朝日を受けてきらめく。
「……う、わかった」
よしよし、とまた頭が緩く撫でられた。ゆっくり語りかけるように、彼は口を動かす。
「このパラサイトも、あの歯車城の一部だ。あの城が出来てからずっと共にある。どうしてこんな場所があるか、分かるかい?」
ぐしゃぐしゃの顔を見せたくなくて、肩口で顔を横に振った。
「この城を作った人達が、いつか子孫が新しい土地を見つけて、そこで再び地に足をつけて生きていくため。広い世界を見るために、先人達が遺したんだ。……私達未来人の、使命として」
「……使命……」
「二つ目。これはもう君はきっと知っている。僕は君のことを、息子と同じくらい愛している」
「うん、わかる……」
「……最後のひとつ。僕が運良く自分の息子を逃がしたら、ひょっとしたら……オイルを取りに行く時、もしくはその準備の時に、出逢えるかもしれない。そうしたら、友達になってほしいんだ」
どうやって。俺は、友達の作り方は知らないんだ。教えてもらってない。弱音を喉元で飲み込んで、ただただ頷いた。弱音を振りかざせるほど、彼はもう子供では無かった。
「きっとすぐに分かるよ。オレンジの髪、緑の瞳……もう随分と会っていないけど、それは変わってないはずだから。彼の名前はね、」
よく洗濯された、綺麗な短いマフラーが少年の首に巻き付く。あ、これはいつものマスターの匂いだ。遺していくんだ。ここに、彼の家族との思い出も。自分はその、記憶の墓標にされたんだ。
朝日が眩しいくらい横顔を照らしていた。乾いた涙は、もう跡すら残していなかった。
「……スート」
「うっわびっくりした!起きてたんだ!」
件の少年が、間抜けな顔で驚いている。自分の顔を明るく照らしていたのは、スートの持っていた移動灯のようだった。俺を起こさないようにと、部屋の明かりはつけなかったらしい。緑の瞳に橙が踊り、不思議な色調を宿していた。
「……あ、どうした」
「えっと……さっき、こんな箱が見つかってね」
赤黒い箱が、クロイヌの手に渡る。軽いそれには、小さな鍵がかかっている。
「分かった。鍵はある。試してみよう」
「ありがとう。どう、調子は?そろそろ薄いスープができるから、持ってくるね」
「ん」
寝起きのクロイヌの目に、散らかった紙類が飛び込んできた。寝ている自分の周りで、ずっと書いていたんだろう。パラサイトの図面、歯車城の図面、機械の設計図。その中に一枚、記号が沢山書き込まれているものがあった。
『?』
疑問符が中央に、矢印がそこから伸びている。設計図を写し取ったものでは無く、彼が自分で書いたようで、線はそれなりに歪んでいた。パラサイトの機械部中枢、書庫の真下に大きな疑問符が描かれている。
しばらくして、両手にスープ皿を抱えたスートが足で戸を開けて入ってきた。クロイヌは静かにその図面を眺めている。
「はい、スープ……あっ、ねえ、この余白部分どうなってるのかな」
スートは、皿を手渡すと、歪な設計図を見せて解説し始めた。クロイヌが匙を握って顔を寄せる。
「設計図にはここに空白なんて無いんだけど、どうやらここに空間があるみたいなんだ。パラサイトには、目に付くところに内燃機関が存在しない。あるとしたらここだけなんだけど、君知ってる?」
「……恒久炉だ」
「え?」
「恒久炉。火を絶やさない、それとパラサイトの制御の中枢。俺たちに扱える代物じゃない」
なんだそれ。そんな顔をしていたスートが、はっと気づいて息を呑む。
「……旧文明のものか。うーん、参ったな」
「……見せることならできる。見たいか?見たら、明日歯車城へ行くと言っても呑むか?」
まだ頬に火照りの残る彼を、スートは心配そうに見つめた。
「ええ……君が無茶をしてるんじゃ無いかって心配になるんだけど……僕はいいよ」
「レオンが、最下層に隠れると最後に言ってただろう。そいつらの勢力を確かめて、首長の元に残っている戦力がどれくらいか確かめよう」
「……まさか君、首長を叩こうだなんて危ないこと考えてないよな」
「なるべくなら、会わない方向で行きたい。けど、これだけ派手に見つかっていると、一時的にでも潰した方が楽なんだろうかと。あと、ごたごたで結局どこに待機していればオイルが手に入るのか、わかんないままだろ。首長が弱体化していれば、直接聞いてもいい」
「物騒……あの動物達と対峙しておいて、よくそんなこと言えるよね」
「次は手加減しない。小銃をもっと持っていく。お前だって、最下層の奴らを救うにはいずれ戦わなくちゃだろう」
「うっ……銃はもう握りたくないのに」
「……ああ。殺せ、とは言わない」
過去、知り合いだったかもしれない者を殺してしまったのは流石に堪えるだろう。それを察して、クロイヌはそれ以上言及することは無かった。
「あと、アズ。あいつは無事、合流できただろうか」
「大丈夫……だと、信じたいけど。ってか君、あんなに迷惑かけられたのに、女の子には優しいよね、意外と」
ちょっと面白そうにスートが笑う。ここに来る前の記憶は無いのなら、僕の方が女の子の友達は多いぞ。関係ない主張が口から飛び出ていた。迷惑ならお前にも散々かけられただろうと軽口が帰ってくる。
「女性には優しくすべきだって、父さんから教わったんだ」
「ふうん。それ、マスター?」
「……え?」
マスターじゃ、ない。直感的にそう思った。
違うなら、誰だ。人間だった頃の記憶なのか。言葉は覚えていても、映像や匂いは微塵も覚えていなかった。
「クロイヌ、大丈夫?」
黙り込んでしまったクロイヌの肩を、スートが軽く叩いた。
「……ああ。恒久炉を見せるから、ちょっと待っててくれ。鍵はこれだ」
そう言って鍵を手渡すと、記憶を振り払うように彼は歩き出した。
書庫の下、円筒形の絨毯を持ち上げ隠し扉を見つける。光る小さな穴に目を当てると、小さな音がしてそこは開いた。周辺とは異質な、真っ白なセラミック格子が中を輝かせている。
「うわああああああああ‼」
スートの壮絶な叫び声が聞こえた。何か一大事だろうか。小走りで元いた場所へ向かう。
「大丈夫か、スート!」
「どうしよう⁉この銀色の紙、触ったら別の文書になっちゃった...」
「なんだ、永久紙か。気にしなくていい、何回か触ると元のやつに戻るから」
「へー……あっ、ほんとだ。残念だけど、全部文書で読めないや」
「図面では無いのか」
「これはね。もう何枚かあるから、調べてみる」
何の気無しに、彼はそれを持ち上げ、文書を読んだ。気持ち悪いほど整った字の下に、マスターの手書きと思われる文字が残っている。
『サイファより、アカシックレコード文献』
図面探しに熱中したスートに、クロイヌが話しかけた。
「……俺は、この人を知っているかもしれない」
スートは顔を上げて、質問を返す。
「これを、書いた人ってことか?」
「ああ」
「つまり、父さんの仲間」
少しばかり指を唇に当てて考え、彼は言葉を探した。
「君がその人と、以前に面識があるとしたら……君がキメラじゃ無かった頃を知っているかもしれないのか」
神妙な顔で頷くクロイヌに、キメラじゃ無い君なんてただのクロだなと迂闊なことを口にしたスートは軽く叩かれた。
#8
徐々に更けてゆく夜の中、光源に乏しいパラサイトでは、夜灯の周りを残して次第に暗闇となっていった。揺らめく炎が、散らばった紙を掠め、少年二人の頬を濡らす。二人の丁度間にある、床に空いた大きな穴は、その炎とは比べ物にならないような明るさに満ちていた。
「この光は初めて見たかも。なんというか、炎でも昼間でも無い、純粋な白って感じ」
「光は全て……いや、この箱の中は全て旧文明のものだ。太陽の光線と予備の核融合炉で動いている、らしい」
薄い紙に目を向けつつ、クロイヌが話す。そう何回も入る場所では無く、原理を理解出来るほど今の文明は進んだものでは無いので、彼自身も大して知らなかった所だ。
「太陽って?」
「この世界全体の光源のことだ。昼間のあの、光の射している場所」
「へえ……じゃあ、明るさをエネルギーに変えているのか。凄い技術だね」
感心した様にスートが頷いた。
「マスターが言うには……この世界は、球になっていて、要はどこも繋がっていて、さらにその球があの太陽の周りを回っているらしい。尤も、文献だけの話だけど」
「この世界が球?また、お伽話みたいな説だね。そんな事を確かめられるなんて、旧文明はきっと、本当に優れていたんだろう」
「だからこそ、世界を砂に変えてしまえる様な戦争が起こったんだろうな」
クロイヌが淡々と無表情で返した。薄い紙を撫でると、最初と同じ図に戻る。
「論はここまでにして、そろそろ入るか?」
備え付けられた小さな梯子に、彼が足を掛けた。後を追って、スートもその白に飲み込まれていく。
「……これが、恒久炉」
そこにある光景は、少年が予想したものとは違っていた。いや、予想し得なかったのだ。白い空間の横幅に収まる様に、複数の不規則な青い四角が空中に浮いている。その他には何も無い空間。その空間自体が、旧文明の精巧な機械なのだ。一定の間隔でそれは形を変え、白い部屋を青く染めた。
「恒久炉。マスターの言う言語に対して反応し、言葉を返すこともあった。聞き取れない呪文のようなものだったので、俺には一部しか再現出来ないんだが……」
「確かに、音は拾ってるみたい」
二人の言葉に反応して、四角の波が上がったり下がったりを繰り返す。音の軌跡が浮かんでは消えていた。
「これが、恐らくは歯車城にもある。そしてそれが実質的なコントロールを司っている筈だ。第一層の目に付くところにあった機械……あんな貧相な機械なんかでは、あの城全体は動かせないと睨んでいる」
「だから……あの時、あんなに大胆に機械の上を走り回ってたのか」
慌てていたキメラを思い出し、少しばかり不憫に思う。軽く笑うと、クロイヌが片方の口角だけで薄く笑い返した。
「これの仕組みが分かれば、あの城を……生きた土地へ、運ぶことが出来るだろう。ただ、問題は、俺にもこの動かし方は分からない。マスターが生きていれば。もしくは、あれを書いた人……」
「ヒントが掴めただけでも嬉しいよ。ありがとう」
協力的になってくれたクロイヌを見て、スートは自然と笑顔を作る。恒久炉の青が、ざざ、とその横顔を青く照らしていた。
上に上がるとそこは、もう夜灯を残して完全に闇に包まれていた。彼の赤い目が静かに光ったのを見て、スートがこの先を予測して身構える。
「スート。できたら、俺だけでも今からあっちに」
「駄目。レオンさんとそう約束したなら別だけど、あくまでも病み上がりなんだから君は」
白い額の髪を退けて指で弾くと、体が少し仰け反った。ほらやっぱり。得意気にスートが笑って、夕食の準備を始める。
息を吹きかけて適度に冷ましつつ、匙を口元へと運ぶ。具の沢山入ったスープを啜り、クロイヌは顔を上げて話しかけた。
「あと四日。明日ぐらいにはきっと、最下層に皆逃げ込んでいる筈だ。それと合流して、首長を夜襲おう」
「う、うん」
いまいち決心し切れていない様子のスートの背を、クロイヌが軽く叩く。
「しっかりしろ。お前は救いたいんだろ、仲間を」
「それは……そう、なんだけど」
「怖気づいてんのか」
「うん、多分……」
背を一層小さくしたスートが、逃げるように今日はもう寝ちゃおうかとクロイヌを誘った。
そう言っても彼は長いこと眠れなかった様で、何度も寝返りを繰り返している。見かねたクロイヌが、声をかけた。
「……行くか?」
急に上体を上げたクロイヌに、スートは少しばかり驚いた。赤い瞳が、薄い唇が月明かりを浮かべて青白く光る。
何も言わずに、スートはその後をついていった。
「……歯車城」
煌びやかな光が上から漏れ、下から立ち上る煙を赤青緑に染め上げている。
初めて見た時は余りの輝かしさに、ただ美しいと思った。今は、確かな不安の象徴のように聳えていて、息をする度肺が痛んだ。
「明日……あそこへ行く。そしてきっと、色々な事が起きるだろう。僕は怖い」
喉奥が重くなって、服の裾を強く握り締めた。寒いという程では無いのに、体は震えている。
「俺も怖い」
「え?」
想像出来なかった返答に、スートは素っ頓狂な声を上げた。
「俺の過去が、また思い出されるとしたら。俺の体中の傷、あれの殆どはキメラになる前に受けた傷だと聞いている……きっと、いい過去じゃ無い。それは怖いが、その恐怖以上に、やるべき事がある。俺はこのパラサイトを、動かさなくちゃいけない」
「そっか……君は、すごいね」
素直にスートがそう呟いた。
「君はすごいや」
少し遠くで音を立てる城が、何故だか先ほどより怖くない。今までずっと弱音を吐かなかったクロイヌの、その静かな瞳の少し奥が探れたような気がして、それも嬉しかった。
凄いのはきっとお前だ。クロイヌはそんな事を思っていた。マスターの言う事にただ従うだけで、本当にこれを動かそうという意思を持った自分がいなかった事に気付けた。新しい感情を沢山知れた。恐怖も嫌悪も怒りも、それに浮き彫りにされた安心感も幸せも慕情も。
「……俺だって」
ぽつりとクロイヌが呟いた。え?と、振り向いたスートを無視して彼は帰路に戻ろうとする。
「今何を言ってたんだ⁉いっそ気になっちゃうよ!」
「煩い。もう寝るんだろ」
そっけ無く返されて、スートは少しむくれる。冷たい風が二人を隔てても、不思議と彼らはもう怖くは思えなかった。
混濁とした意識を破り、次第に音が抜けてくる。向かい側の檻から、かちゃかちゃと音がしていた。最初は気にも留めなかったが、余りにも長く続くものなので、つい気になってしまった。眠りについていた青年は目を開き、冷たい床と染みる傷口に少しばかり顔を顰める。
「……そこで、何をなさっているのですか?」
男はびくりと肩を震わせ、こちらを見た。彼も独房にいた。きっと自分と同じように、重罪を犯したのだ。
「いやなに、お恥ずかしくも捕まってしまったので、逃げようかなと」
呑気に男が笑う。状況を理解してないのか、とへゼルは半ば呆れた。
「……出られませんよここは。強化炭素が嫌ってほど使われてますから」
それに、見張りのキメラが。そう言おうとして、違和感に気づく。今日はやけにキメラが少ない。少ないというか、いないようだ。当然給仕も居らず、腹の虫が音を立てる。とにかくここからは出られない、そう思った。
「ええ、檻には使われていますよね」
そう言って彼はまた手を動かす。金属製の重い錠が、檻から外れて落ちた所を、その手が受け止めた。無関心そうに閉じられていた沢山の瞳も、今は一心にそちらを見ている。
「……錠はどんなに工夫したって、旧世界の物には遠く及びませんから」
ぎいと音を立てて檻が開いた。中から、オレンジの髪と無精髭の生えた、浮浪者の様な身なりの男が出てくる。歳は恐らく四十代。首長より少し若いくらいだ。
「つまり、私達歯車城の人々でも、開けられるということです」
歪んだ眼鏡の向こうから、優しそうな目が覗いていた。
「貴方は、話を聞くところ首長の息子さんのようですね。どうしたのですか?こんな所にいるなんて……そうだ、ナハトは元気ですか?あの様子だと、トルマン卿はだいぶお疲れのようですが……」
そう言って彼は、易々とへゼルの鍵を外す。手を結ぶ紐もあっさりと切られて自由になった彼は、頭に疑問符を浮かべて応じた。
「確かに、私は……首長の養子でしたが、ナハトという者は知りません」
壮年の男性は、目を瞬いて驚く。
「え……そうですか。黒髪の、おそらくは貴方より年下の……」
「すみません、分かりません……父は、いえ、首長は私達の他にも養子がいたのでしょうか」
「僕はそうだと記憶していますが……いえ、ここで話している訳にもいきませんね。抜け道があるのです。さ、行きましょう。貴方とは、話すべき事がたくさんあるようだ」
男性はそこまで言うと、くるりと他の檻の方へ向いた。見渡す限りの檻に、みんな人間が詰め込まれている。ひどい匂いが強まっていた。衛生環境は目に見えて悪い。このままだと、遅かれ早かれ全員死んでしまう。へゼルはそう息を呑んだ。
「皆さんも……今すぐにとは行きませんが、必ず助け出しますから。僕達が逃げたことで、もうしばらくキメラ作りどころでは無いはずです。ですから、少し待っていてください……あと、皆さんの中に、オレンジの……いえ。助け出した後にお聞きします。」
男はそう言って、ぺこりと頭を下げる。柔和な顔立ちに似合わず、その二つの緑には確かな意志が宿っていることが目にとれた。
「さあ、行きますかね」
通風口が蹴破られ、四角い道が現れた。どうにでもなれ。それがへゼルの唯一の思考だった。
四角い通路を、全身を汚しつつ逃げる。人間雑巾になったみたいだ。場に合わない馬鹿らしいことが頭をよぎった。
「もうそろそろ、外ですよ。貴方はその囚人用のチョーカーを隠してください」
「チョーカー……?」
へゼルは、頭の上に疑問符を浮かべた様子で首を触った。そしてそのまま、動きが止まる。
「あ、う、嘘だ」
自分の首をぺたぺたと触った。そこには明らかに肌では無い素材が巻きついている。聞いたことはあった。囚人に付けられる、身分証明書。無精髭の男は至って冷静に返した。
「……本当です。黒いチョーカーが」
へゼルは青ざめ、どうしたらいいか分からないといった風に声を上げる。
「どうすればいいでしょう、これは外れるのでしょうか。それに、貴方の紺や最下層の人々の灰色と違う色なのですか。じゃあ、見つかったらお終いだ。どう足掻いても、私だと、分かってしまう」
「落ち着いて……とりあえず、私のマフラーを貸しましょう。それにしても、その色は確に珍しいですね。なにか、法則でもあるのでしょうか」
至って淡々と返答する彼に釣られ、へゼルも冷静な思考を取り戻した。
「……他にも、黒の人がいたのですか?」
「はい。特別意味は無いと思ったのですが、捕らわれた時沢山のチョーカーを見たところ、皆同じ灰色だったので、何か意味があるのでしょう」
男性は汚れたコートの懐から赤いマフラーを取り出すと、それをへゼルに渡した。へゼルは首をそれでぐるりと巻き、少しばかり落ち着きを取り戻す。
「……貴方は、どうしてつけもしないマフラーを持ち歩いているんですか?」
「大切な物は持ち歩く主義なんで。……それ、本当に大切なので、破かないようにお願いしますね」
男性が茶化すように、そう笑った。
太陽も昇りかけたころ、二人は起きて行動を初めた。スートがクロイヌに最下層の給油口と思われる場所を教える。クロイヌがスートに恒久炉の使い方を教える。忘れないうちにと、鶏に餌をやり野菜に水を撒いた。
「陽が真上より少し傾いた。あと少ししたら、行こう」
「夕暮れを待たないのか?日落ちの点呼がある。南端を今、どの地区が見張っているのか知らないけど、警備がいなくなるのは確かだよ」
「……夕暮れの少し前、でいいか」
「わかった」
紙が散乱し、床はいつもより一段と踏み場が無かった。手書きの見取り図の、疑問符の書かれた場所には、恒久炉を示す炎の印が書き込まれている。
「どうしようも無いけどさ、やっぱり字の読み書きが出来ないのは不便だな。設計図を持っていたとして、僕はあの城を動かせない」
「今はそんな事を不安がっている場合じゃない。首長を倒せば、運転方法をそいつが知っている可能性もあるだろ」
この封権的な制度は人々を苦しめてはいたが、逆に言えば、権力が集中し過ぎていて、一人倒せば総崩れとなる。スートが城を動かす可能性だって十分にある、それがクロイヌの考えだった。
君がもっと早くに僕を攫って、読み書きを教えてくれれば良かったのに。そんな風にスートが漏らした。陽がじりじりと傾く。影が、徐々に伸びてゆく。
上昇を始めるリフトの中、曇と傷のある窓から、眼下に街が広がっている。間を走る油も、漂う匂いも、境界を隔てて感じる体温も、不意に全部が愛おしく思えた。
「クロイヌ?」
「なんだ」
すぐ前に迫る歯車城。今までよりきっと大きな事をする。僕も君もひょっとしたら死ぬかもしれない。それを、最初から自覚している。怖いんだ。今の平穏に未練が募って、だからとても愛しい。
煙が窓を隠し、リフトの中だけが虚空に浮かんでいるように思えた。中々喋らないスートに、疑問を感じたクロイヌの首が真後ろで傾ぐ。
「頑張ろうね」
「当然だ」
煙が線を描くように逃げていく。リフトから見える南端は、埃っぽい光の筋に満ちていた。
最下層は、沢山の人が減ったというのに、変わらず駆動音に満ちていた。けれど、違和感がある。時々見かけたキメラ……今だったら、見張っていたと分かるキメラが、一人もいない。
「スート、第三地区はどこだ」
小声で話しかけるクロイヌに、彼が道を示す。
「こっちだよ。見つかったら大変だ……連絡用通路の、機械の真ん中を行こう」
やや足場の不安定な通路を、二人は駆けて行った。
「……ああ、ほんとに誰もいないんだ」
彼の故郷である第三地区は、数日前とはまるで様子が違っていた。黒く変色した血痕、壊された扉の破片が散らばり、十字路には決まって引き摺られたような血痕が線を引いている。当然のように、そこには誰も居なかった。
「……僕、ここに沢山友達がいたんだ。君にもいつか紹介したかったな」
その為にはまず、助け出さないと。自分を奮い立たせるように発せられたその一言は、静かな力に満ちていた。
「まずはレオン達と合流しよう」
「うん。どこにいるか、分かる?」
「……血の匂いが強くてなんとも言えないが、うっすら匂いと、それと音がする。行こう」
少し妙だな、とクロイヌも思う。キメラがいない。第三地区だけでなく、これまで通ってきたどこにも、キメラがいないのだ。
「クロイヌ?隠れなくていいの?敵は?」
堂々と道の真ん中を歩き出したクロイヌに、スートが尋ねる。クロイヌは顔半分だけを後ろに向け、緑の目をちらりと見た。
「気をつけろ」
身構える時間も無く、スートは飛び出してきた何者かに倒される。
「スート!」
「アズ!良かった、無事だったんだ!」
駆け寄ってきた少女が、抱きついた勢いのあまりスートに尻もちをつかせていた。ドレスも金糸も肌も煤と油に汚れていたが、酷い目にはあっていないことを感じ、少年は安堵した。
「レオンから聞いたわ!私のこと、助けてくれたんですってね!」
「心配してたんだよ。僕達二人」
さり気なく頭数に含まれたクロイヌが、そっぽを向く。遅れて現れたレオンが、彼女に家に入るよう促しつつ、膝を折って挨拶をした。
「アズ様をお助けしていただき、本当にありがとうございます。思っていたより遅かったですね。心配しましたよ。私達、丸二日も待ったのです」
第三地区の外れの一角に、彼らは潜んでいた。
「……妙だな。周りに敵対するキメラがいない」
クロイヌが耳を揺らして言う。レオンが同意して首を振った。
「はい。妙なんです。知能のあるキメラは味方としてここにいるのですが、キメラの大部分、知能の無い警備用のキメラが全くいないんです。私達を探すなら、もっと広範囲にいてもいいはずなのですが。ここにいないなんて、上で何か重大な問題でも起こったのでしょうか」
重大な問題。クロイヌの目が赤く光り、レオンの金がそれとかち合った。
「……それが、追い風になる可能性があるということか」
「その通りです」
立ち話もなんですから。そう言って、彼は二人を小さな家に招いた。
小さな家は、生活感に溢れてはいたが、宿主は居ないようだった。そこに揺らぐ影が、二人分増える。
「僕のいた家と、ちょっと違うな」
「呑気なこと言ってる場合か。本題に移るぞ」
よく見ると小さな部屋の隅には、クロイヌを襲った二人のうちの一人、下半身が蜘蛛の若いキメラがいる。改めてまじまじと顔を合わせたスートは、気まずくなって目を逸らした。相手も同様だったらしく、そそくさと目を離していたが、突然目を見開いてこちらに寄ってくる。
「……え⁉」
「な、なに⁉」
唐突にキメラに近づかれて、スートはやや後ずさった。キメラは口を酸素不足の魚のように動かし、言葉を探している。
「君……第三地区の!僕が、誕生日に炭酸をあげた!……誰だっけ」
「え⁉君、第一地区の……ネッケンなの?」
誕生日に炭酸だなんて記憶、彼一人しか当てはまらなかった。ネッケンと彼とは似ても似つかないが、その思い出を知っているのは本人達ぐらいだろう。
「僕はスート。君は確か、第一地区だったよな。第一地区って、場所移動があってから誰とも会ってないけど、どうして君はそんな姿に?」
額の小さな二つと合わせて四つの目が、困ったように上を向いた。
「えと……僕も、あんまり覚えてない」
「それもそっか」
キメラは記憶が無い。クロイヌの例からすると、そうなってしまうのが当然なんだろう。その会話にクロイヌが割り込んだ。
「場所移動ってなんだ?」
「僕達は、地区毎に担当する場所があるんだけど、それがたまに変わるの」
その度家も仕事もがらりと変わる。何の為にやっているのかは分からなかったが、他の地区に知り合いが出来にくいのは確かだった。疑問が結びつき、一つの結論へ辿り着く。
「……でも、憶測なんだけど、その制度は、キメラの材料集めを誤魔化すためだったんだ……」
第三地区も、だから突然沢山の人が連れ去られたんだ。普通に日々を過ごしていれば、僕もその一人だったはずなのだ。
「思い出せる?その日のことを」
スートがキメラに顔を寄せた。彼は二度三度頷き、言葉を探しながら途切れ途切れ音を紡いでいく。
「……あの日は、確かいつもより暗くて」
時々考えつつ、彼はその日のことを話だしていた。
いつもより暗いことを家族に聞いたら、もうそろそろ燃料の供給だから、今は燃料が足りないんじゃないかという答えが帰ってきた。大して気にとめず、彼の家族は寝床につく。なんだか寂しくなって、彼もそのまま眠ってしまった。
騒がしくなったのはそれからしばらくのことだった。どこかから聞こえる叫び声が、段々と大きくなってくる。少年は飛び起きて、異常を家族に告げる。しかし、その時にはもう遅かった。扉を開けて現れた大きなキメラに、どうすることもできず、彼は妹を抱えて逃げ惑う。足に怪我をして、逃げきれなかった所で彼は一度意識を失った。
その次に彼が起きた時、もう家族は周りに居らず、彼と歳が近そうな少年だけが集められていた。その中には、彼が知っている人が、友達が、沢山いた。皆台にうつ伏せに固定され、口には布が噛まされている。彼らの元に、知らない大人達が近づいてくる。みんな何処かおかしな動きだった。それが人間でないことに、注射を射たれた者から気づいていく。
彼の目が覚めた時、部屋の人数は大幅に減っていた。夜を越せなかった者は皆捨てられたようだったが、それを気にする余裕は最早無かった。背中、額と下半身が酷く痛くて熱くて、少年は身悶える。数時間か、二、三日か、彼には永遠にも感じられた。
意識がはっきりとした時、部屋に誰か数人がいるのに気がつく。皆のたのたと這いずり回っていて、どうやら意識は無いに等しいようだった。元の仲間の悲惨な姿を見たって、少年の頭にはそれだけしか感想が湧いてこなかった。その頃にはもう、すっかり記憶が無かったからだ。
『生きている。おまけに、意識がある。おめでとう。君に名前をあげよう。そして職を……』
彼は言われたままにこくりと頷いた。台から降りた時、下半身が潰れた様になり細く頼りない脚が何本も新たに生えていることに気づくも、それを気にすることは無かった。
「……それで、僕は警備に回されて。ああ駄目だ、それ以外は出てこない。家族の名前も、友達の名前も、自分の名前ももう思い出せないんだ」
「そっか……やっぱり、皆キメラにする為に集められてたんだ。周期的に僕らはまとめて配備場所が変わる。それは、突然会えなくなる仲間がいても気づかれないようにか」
「……そうみたいだな」
クロイヌが重くつぶやく。
「……じゃあ、なんだ」
喉が乾いて、声に熱が籠った。
「僕達は、動かすための奴隷であり、材料だった、と」
千人殺せば英雄。キメラと人間は違う。そんな言葉が、脳裏を駆け巡って弾けた。
「……最初から、人間として見られてないんだ。僕らは」
スートはクロイヌと出会った時のことを思い出していた。細胞。従属者。尽くして尽くして、結局は捨てられる。君は、最初から本質的に僕の、僕達のことを見抜いていたのだろうか。
「君に言われたことを思い出すよ。身を呈して尽くして、主からは気にされない、細胞。じゃあ、何の為に母さんは死んだんだろう」
「……スート」
「首長は……結局身勝手に、僕達を利用しているだけなんだ、くそ」
「スート!」
話を止めようとしたクロイヌに対し、怒鳴るようにスートが唸った。目には激しい怒りが滲み、捕食者のようにクロイヌを怯ませる。
「なんだクロイヌ!」
「……顔、怖い。こいつが怯えてる。」
挟まれるような位置にいたスーが、がたがたと震えていた。アズも少し怯えているようで、レオンの体にしがみついている。
「あ……ごめん」
「君が友達だと分かっても、やっぱりこの前を思い出して怖いよ……」
「スーの言ってたこと、ちょっと理解できたわ」
怯えている二人と、睨みつけるようでいて焦っているようにも見えるクロイヌの瞳に、スートは冷静さを取り戻した。
「……俺は、お前が泣いていても困るし、怒っていても困る。止められない、何もできない……だから、怒ってほしくない。頼む」
クロイヌが肩に手を伸ばし、空いた方の手でスートの頭を軽く叩く。悲しげな赤に、スートは素直に申し訳なく感じた。今、怒りを向ける相手はクロイヌじゃない。そもそも、取り乱す暇なんて無いはずだ。
「……ごめんね。ごめん。あ、あと、ネッケン、この前はその……取り乱しちゃって怖い思いをさせてごめん。あの蛇の女の人にも謝っておいて」
「……う、うん。大丈夫」
場が静まり返ってしまったのを見て、レオンが口を開いた。
「……お二人がここに戻られたのは、首長のことを聞きたいからですよね?」
「はい、その通りです」
「首長は……今、人間の味方はおそらく連れていません。ただ、キメラを引き連れているでしょう。頭脳のあるキメラは……ニトカと、ディスト……黒豹の姿ですが、頭脳があるそうです。それくらいですかね。二人は首長の側近でしたから間違いなく手元に置いておくはずです。あとは沢山の失敗作の、頭脳の無いキメラですね」
「ありがとうございます。貴方がたは、これからどうするつもりですか?」
「私達は……一旦はお嬢様の安全を確保して、また有志で募りへゼル様の救出に向かう予定です。最下層で落ち合おう、と仰いましたのに妙に遅いので、きっと何らかの危機に見舞われているはずです」
「その……もしよろしければ、なのですが、僕達も加わってもいいでしょうか。その作戦に」
スートの提案に、糸のようなレオンの金が開く。強い口調で、彼は叱責した。
「いけません。危険すぎます。貴方がたには私達のために沢山の危険を犯させていますし、これ以上は子供である貴方達には任せたくありません」
スートの声が、クロイヌの声が重なりあう。
「子供じゃないです」
「子供じゃない」
ふたりぶんの視線を受けて、彼はたじろいだ。
「……僕は確かに、クロイヌに比べると弱いですし、まだ十六年程しか生きていません。けど、自分の事は自分で決められます」
「……それが出来ないほど、子供じゃない」
二人の強い意志に、レオンは息をのむ。
「……いいのですか?首長と会うことは避けられませんよ。ディストに勝てる保証もありません。それに、私達は貴方達よりよっぽど警戒されていますから捕まる恐れもあります」
スートが力強く頷いた。追ってクロイヌも話し出す。
「俺も、首長と話がしたい。それと……疑問が一つある。蜘蛛、お前は何故突然過去の記憶を思い出した?」
指名され、怯えたスーが答えた。
「本当に、さっきだけ、突然……スート、に出会った時に、思い出したんだ。話してるうちに、また更に思い出した」
「あら?あなた、前に私に最下層にいたって話をしなかったかしら?」
「あ、その前君たちと対峙した後も少しだけ思い出したね。僕は最下層にいた、それだけ」
「じゃあ、僕に会うことがきっかけだったってこと?」
「……確かに、そうみたい」
スーが頷く。それに、クロイヌが同調した。
「俺は、ここ最近昔の記憶が突然現れる。その始まりは、首長と初めて出会ってからだ。そしてあいつは、俺のことを知っていた……仮説だが、キメラになる前に関わりがあった人と出会った後、過去を思い出すんじゃないだろうか」
「……じゃあ、首長と会えばまた、思い出せるのかな?」
「恐らく……あまり、知りたいわけでは無いが。それとスート、お前は以前、先天性のキメラもいると言っていただろう。そいつら、本当に先天性だと思うか?」
最下層には、確かに先天性と思われるキメラもいた。再び問われ、スートは悩む。
「でも……生まれた時からキメラ、みたいなこと言っていたような」
「キメラは遺伝要因じゃない。いくら動物の血が混ざろうと、遺伝子には関係が無いと、マスターから聞いたことがある」
「あれも皆、元は人間……?一体どんな規模でそんな事が行われているんだ」
「おそらくは、この城ぐるみでだな」
クロイヌの発言に、スートが息を呑む。スーもアズも、呆気にとられたように二人を見つめていた。レオンは努めて冷静に振る舞う。
「……キメラ達を集めましょう。もうじき夜です。見張りが帰ってくる前に」
切れ長の瞼が少し持ち上がり、金色が輝いた。夜とは名ばかりの、色の変わらない最下層でのことである。
招集されたキメラ達は、第三地区の指導者の家に集まった。他に比べ格段に広いそこも、周囲と同様にもぬけの殻だ。
集められたキメラ達に、レオンが話しかける。
「……全員おりますね?各層の代表者の方、こちらへ。説明を致しますから」
数人がレオンの元へ向かう。キメラ達を率いて彼が部屋に入ると、クロイヌとスートがお辞儀をして出迎えた。筋骨隆々の逞しいキメラや、一見しただけでは人間の様にしか見えないキメラに、スートは思わず身構える。
「彼らが、今回行った作戦に協力してくれた恩人です。こちらの方がスート様、そちらの方が……」
クロイヌ、と名前を呼ばれる直前だった。
「ナハト‼」
数人の中に含まれていたキメラと思しき少女が、クロイヌに突然抱きついた。避けきれず、咄嗟に彼は受け身をとるも、そのまま彼女の下敷きになる。
「誰だお前」
クロイヌが身じろぎして少女の体の下から退こうとした。そんな事もお構い無しに、彼女は話し続ける。
「心配してたんだよ……貴方が来た時と同じく、突然消えちゃってさ」
「ナハトって、誰だ……」
「へ?」
亜麻色の髪の中から同じ色の耳を生やした彼女が、ようやく身体を持ち上げた。そして哀れにも下敷きになったクロイヌを見下ろす。
「……似ているけど……ナハトじゃ……ない……?」
「俺はクロイヌだ。お前は誰だ」
無遠慮に彼女はクロイヌの犬の様な耳を引っ張ると、本物だ、そう呟いた。クロイヌの眉間の皺が見る間に増えていき、スートがびくびくと後ずさる。
「……私は、アルカナ。子供の頃からずっと、首長に仕えていたの……やっぱり、ナハトじゃ無いんだ」
明らかに落胆した様子の少女を見て、数歩退いていた彼が口を挟んだ。
「あの、ごめんね、アルカナさん。でもクロイヌは記憶を失ってるから、ひょっとしたら君の知り合いかもしれない」
彼女の瞳に光が満ちる。垂れていた耳が、せわしなく上を向いた。
「ほんとに⁉……でも、この耳は」
無抵抗のクロイヌの耳が引っ張られる。下敷きになっている、クロイヌの目付きが益々厳しくなった。まずい。そう彼は直感的に思い、早口で捲し立てる。
「ナハトって誰か、どんな人だったか、後で教えてほしい……今は、ちょっと時間が……」
そう言ってスートは、ちらりとレオンを見た。彼は静かに頷き、スートの指示を待っている。
「分かった!」
大人しくなった少女に、とりあえず退いてくれ、そう尻尾を逆立てたクロイヌが嘆いた。
#9
ざわざわと雑音が聞こえてくる。十メトル下に、沢山の影が見えた。きっと皆キメラだ。自分は探されているのだ。怯えた青年は、決して下を見ようとはしなかった。対して無精髭の男はのんびりと話す。
「下が騒がしいですね。今は降りない方がいいでしょう」
錆びかけた連絡用通路の上で、男と青年が話し合っていた。二人とも衣服はぼろぼろで、切り傷や擦過傷が目立っている。
「あの、そのナハトさんって、誰ですか?」
「そうですね……いい機会ですし、お話しましょう。少しだけ、私の話も挟みますが」
男は少し瞬きをして、青年に向き合った。
「私と私の友達は、首長の……トルマン卿の、直属の研究者でした。そこで私達は、この城が回っていることの証拠を見つけて、彼にそれを伝えたのです……それが、きっとひどく都合の悪いことだったのでしょう。」
妹と同じだ。青年にはそう思えた。首長は反抗する者を徹底的に嫌うのだという事を、時折へゼルは感じ取っていた。
「私は、この城に元々付属していた小島に幽閉され、友達は処刑されました。私達は共に家庭を持っていたのですが、彼の妻子は、妻を持たなかった首長の家族となったと聞いています。その子供が養子として付けられた名前が、ナハトです……その後長らく関わりが無かったので、彼がどうなったかは定かではありませんが、貴方と同じぐらいの年頃でしょうか」
生きていれば。
唇だけが紡いだ言葉を、へゼルはしっかりと嗅ぎとっていた。
「……なんて話だ」
へゼルが俯いて、唇を噛み締める。
「申し訳ないのですが、私は知りません。でも、四年間も大切に育ててくれていたのに、つい最近あっさりと私を棄てたのですから、恐らくは……きっと、彼も同じ様になったのなら、今頃キメラになってしまっていると思われます。」
もっと悪ければきっと死んでいるでしょう。彼は口の中でそう呟いた。
「……そうですか」
男は明らかに落胆した様子で俯く。
「……貴方の家族は、どうしたのですか?」
「最下層に送られました。何も出来ずに幽閉されているしか無かったのですが、この度家族のいる地区が材料集めと称され攫われるとの推測に及びましたので、こうしてここに助けに来たわけです」
「少し遅かった、のですか」
「……その通りです。そこに残してきてしまった家族には悪いことをした。今、この城全体に何か大きな事件が起こっている様ですね」
馬鹿正直に私の計画を引き継いで、自ら危険に身を投じないでいてくれるといいのですが。男は自分ひとりだけに呟く。そして、遠い目をしてその話を止めた。
「おや。もうだいぶんキメラが少なくなりましたね。でしたら行きたい場所があります。そこへ行きましょう」
男はそう言って、よいしょと下の配管に足を下ろす。へゼルもよろよろとその後をつけていった。
最下層、ほぼ使われることのない昇降機の側に揺らめく影がある。その付近での待機を命じられた二人が、こそこそと話していた。やや食い気味に話しかける少女と、時折口に指をあて静かにするよう促す少年の二人だ。
「それで、あの犬キメラがナハトかもしれないって、どういうこと⁉」
亜麻色の髪を分けて、ぴんと横に張る三角の耳。キメラの少女がスートの肩をがっしりと指でつかみ、鼻先が触れそうなほど近くで捲し立てている。
「しーっ!……かもしれない、ってだけだからね。それで、そのナハト……さんって人はどんな人?君とどんな接点があったの?」
人差し指を立てて口元にあて、ついでに彼女の顔から自身の顔を少し遠ざけた。待ってましたとばかりに、少女の喋り方が早くなる。
「ナハトは、私と同い年で、黒髪と葡萄色の目を持った美少年で……クロイヌにそっくりなんだよ。私、彼にずっと仕えてた。……首長の養子、今は二人いるでしょ。あの人たちは二度目の養子。ナハトは最初の養子だったけれど、ある日突然いなくなって、その後あの兄妹が来たの……でも、私はあの二人とは関わったことが無い。きっと、関わらないようにされてるんだと思う」
「首長が?」
「多分。ナハトみたいに、養子はぽんと棄てられてしまう事があるってのを、隠すため」
言い終わると、彼女はさっきの元気さが嘘のように、俯いて膝を抱えて溜息をついた。涙のにじむ眦を見て、やっぱり僕には荷が重い、そうスートは思っていた。
スートと彼女が二人で行動しているのは、レオンがそう指示したからだ。箝口令が敷かれていたらしく、現在の側近である彼もナハトの存在は知らなかった。そこで、前の養子の行く末を知っている可能性のある彼女から、歳の近いスートが聞き出してほしいとのことだった。その他に、スートにはもう一つ思惑がある。クロイヌは、首長と会ってから思い出す事が増えたと言っていた。それはどうやら、蜘蛛の彼とは違って、出会ったその瞬間に思い出した訳では無いらしい。ならきっと、切欠となる人と離れた今頃、何か思い出しているはずだ、と。
「ナハトさんは、いつごろ、どんなタイミングでやって来て、そして何処かへ消えちゃったの?」
気を取り直したスートが、酷だと思いつつ質問を重ねる。
「そうだね、確か……やって来たのは私より先で、つまり八年以上は前。私は八年前、記憶が無いまま首長の元で働き始めたの。と言っても、首長に会うことはあまり無くて、歳の近いナハトの遊び相手、みたいな感じだったかな」
八年前、アルカナが起きた時には彼女は既に最上層に居り、身体には動物の血が流れていた。周りに子供は居らず、酷く心細かったことは覚えている。彼女には早速仕事が与えられた。首長の息子であるナハトの話し相手になることだった。首長宅の長い廊下を歩く時に、心労でひどい吐き気に見舞われたのは覚えている。怖いあの人の子供なんだ。きっと同じ様に冷たくて、怖いに決まっている。
「おいで?」
犬を連れた少年が、動物の耳を持つ少女を指で招いた。
「あなたが、ナハト様?」
黒髪の少年が、目を細めて笑う。
「うん。僕はナハト。おまえは?」
自分と同い年の、自分よりも小さな、可愛い少年。彼女は自分の心配が杞憂に終わったことを察して、途端に笑顔になる。
「私はアルカナ。ナハト様、それじゃ駄目かな。お前、じゃ駄目だよ!あなたと言う方がいい」
口調を指摘され、彼は少し言葉に困った様子だった。
「ごめん」
「ううん、気にしてない。よろしくね、ナハト様」
二人のやり取りを見ていた綺麗な婦人が、こちらへ微笑みかける。
「おや、可愛いお客さん。あなたがアルカナか。私はリヒトだ。ナハトの母親」
そう言って少女の頭を撫でる彼女を見て、アルカナは直感的に思った。彼は養子なのだと。夫人の瞳は翡翠色で、首長の瞳は灰色だ。けれども彼の瞳は誰も持ち合わせない葡萄色だった。けれども、首長は度々訪れてはナハトに優しく話しかけていたので、それ以上の詮索を彼女はしなかった。
出会ってから二年も経つと、ナハトに様は付かなくなり、おまけに彼女は少年を好きになっていた。明け透けにその事を伝えたが、まともに取り合ってもらえなかった。めげずに何度も伝える。アルカナは本当にナハトが好きだった。
「ねえ、結婚しない?」
「なに、突然」
「私はナハトのことが好きなの。ナハトだって、私のことは好きでしょう?」
耳をぴんと立たせ、瞳を輝かせたアルカナに半ば乗っかられたようなナハトがたじろぐ。
「それは……そうだけど……そういうものなのか、結婚って」
アルカナより目線の低いナハトが訝しんだ。結婚なんて考えたことは無い。ましてや、家族同然に親しい彼女なんて、その括りに入れたことが無かった。
「そういうものだよ!二人が好きあってれば、いいんじゃないかな?それに、女の子には優しくしろって、首長も言ってたし」
「何か履き違えて無い?」
それに、まだこの年じゃ無理だから。そう素っ気なく返した彼に、彼女はじゃあ婚約だねと、前向きに声を返した。
「ずるいやつ」
「そうかな?」
あと重い。早く退いてよ。つっけんどんにナハトが言うのも、アルカナはにこにこと受け止めていた。身分が違いすぎて結婚など出来ないという事を知ったのはもう少し後だ。そのころのアルカナは、ただ無邪気に喜んでいた。
椅子に腰掛けたナハトの首筋に、そっとハサミを当てる。少し早すぎるが、ふたりきりなのは今だけだ。少女は彼に声をかけた。
「ありがとう、アルカナ」
「ナハト、十二歳おめでとう。すっかり私と同じくらいの背丈になっちゃったね。可愛いナハトはどこに行ったのやら」
もうそろそろ、盛大なパーティーが開かれる。彼の襟足を切りそろえて、いつも以上に彼を格好よく見せることが、今のアルカナの任務だ。首長の意図でもあった。誕生会には、当然歳の近いお嬢様も沢山来る。未来の為に。分かりきっていた。もう座っていないと見えない項が、不意に滲んで彼女は一歩退いた。
「アルカナの為に背を伸ばしたわけじゃ無いんだからな」
「いいよ。貴方はかっこいいナハトでも……最近は首長の仕事を任される様にもなったんだね。すごいよ。未来の首長として、この城をきっとずっと良くしてくれるの、期待してるから」
首長の手腕は、正直彼女には分からなかったが、ナハトはきっとその先を行けるだろうと彼女には思えた。
「……そのことなんだが」
ナハトがじっと、彼女の目を見る。何か躊躇っているように彼女には思えた。なあに、とその目を見つめ返す。不意に、彼の顔がぐっと近づいた。
この城は、動いてないことが分かったんだ。
声を低くして、ナハトがそう耳打ちした。その時アルカナには、それが大した問題だとは思えなかった。行く行くはナハトが首長になる。それで城を動かせばいいのではないか、そう思えたのだ。片耳が、頬がひどく熱かった。そっちの方が、彼女にとっては重要な問題だった。なんと返したのか、もう覚えていない。
それからすぐの事だった。彼の姿が見えなくなったのは。
「ナハトと、そのお母様は、突然居なくなった。でも首長はなんとも騒がなくて、私達キメラだけが悲しんで、探したんだよ。その後すぐに配属が変えられて、私は第三層の見回りになって、他のひと達も、散り散りになった。それ以来、最上層には一度も行ってない……ナハトはきっと、首長に殺されたんだ、って……」
アルカナは大粒の涙を何度も滴らせて、それでも話しきった。スートはもう何も聞けなかった。なんて酷なことをしてしまったんだろう。彼は出来ることもなく、ただぼんやりと少女の泣き顔を眺めていた。
第二層の研究棟。大きな円筒型の、第一層まで届きそうな建物を中心に、小さな棟が放射状に走っている。中心棟の最も高い一室、連絡用の昇降機が通る四角い部屋で、首長直属の研究者のひとり、ルインは頭を抱えていた。頼まれていた髄液は全て完成している。このままここにいれば、首長自ら取り立てに来るのは明白だった。頭脳キメラが皆居なくなってしまった、という噂は既に聞いている。それが噂では無く真実だと言う事も、手元にある髄液の存在によって確信していた。 はあ、とため息をつく。ついても何も解決しない。足が震えた。恐怖心に苛まれ、その音は段々大きくなる。自身の立てる貧乏ゆすりの音に気を取られ、彼は通風坑の蓋が音を立てて落ちても気づかなかった。
「浮かない顔ですね?」
「うわあああ出たああああ!」
壁からひょこりと首を出した無精髭の男に、ルインは驚いて声を上げた。無理もない。その男は、彼がよく知っている人物だったからだ。
「ま……マスター⁉……えっと、元」
「如何にも。久しぶりですねルイン君。見ない間に随分大きくなりましたか?」
そこに居たのは、以前の首長直属研究チームの代表者の一人、カズサであった。
「は、はい……あなたが居なくなってからもう、十数年は経っていますから……そもそもマスター、あなたはここに居てはいけない筈ですよ!小島に幽閉されているんでしょう?ここに来たことが露見すれば、貴方は確実に殺されてしまいます!」
鬼気迫る表情の彼に対し、呑気にも聞こえる言い方で男は返す。
「実は既に一度捕まってますけどね。ああ、ここにいると言うことは、貴方が今のマスターなのですか。そして、これから来客があるのですね……この大量の注射器は、何に使用するか聞いていますか?」
彼は少し言葉につまり、答えた。それぞれの棟の責任者は、マスターと呼ばれ様々な権限を与えられる代わりに、首長から直に命令を受けることになる。昔カズサの元で働いていたルインは、今は自分の方が立場が上であったとしても、男の言う事を聞かなかったことには出来なかった。
「いえ……聞いておりません。キメラ化用の抽出髄液です。そうだマスター、貴方がここを去ってからキメラ化手術は格段に進歩したんですよ。もう人間一人に動物を一体用意する必要はありません。この髄液を打ち込むだけで……」
懸命に話を逸らそうとする彼に対して、カズサは臆せず核心を突く。
「こんなに沢山、キメラ化が必要な人がいるのですか?キメラ化は、人間として生きられない程の重傷者に施すものでは……内紛でもあったのですか?」
自分の生んだ技術のことだ。それが悪用されていないか気掛かりであるカズサの事を、彼の助手であるルインは一番理解していた。だからこそ、伝えたくない。話したくない。
「い……いえ、安全ですよ、ここは」
では、どうして?そんな瞳がルインを追い詰める。視線が揺らぎ、脚が震えて一歩後ろに下がった。冷たい汗が流れる。
「さっきから、どうして怯えているのです?」
「それ、は……」
彼の顔色は真っ青だ。遂に、これ以上の自供は難しそうだと判断したカズサが口を開いた。
「キメラが何時もなら来るのでしょう。けれども、今キメラは居ない。つまり首長が来る。そうでしょう?」
「なんで、それを知って……」
目撃していた青年がいるのですよ。自分が最上層を離れるタイミングで、沢山のキメラが荷物を持って移動する事に気づいていた人が。カズサがそう言って、少しだけ後ろを振り返った。通風坑の少し奥では、首長の元養子、へゼルが顔を上げる。
「そして貴方は、これから任される任務に怯えている。いつもならキメラ達が行ってくれる、その任務を」
キメラ達に大量の髄液を渡す。それだけしか彼は行わなかったが、気づいていた筈だ。その後、屋敷を歩き回るキメラが増えていることに。
「キメラが居ない今、貴方が直接哀れな人間達に注射を打つのですね。貴方はとっくに気づいている筈だ。この注射器は、最下層から集められた人間のためにあるのだと」
ルインはもう立っているのがやっとのように思われた。今は先程までと違い、明確な恐怖が、恐れが彼の中に芽生えていた。
「考えなさい。私に従うか、首長に従い貴方がキメラ化注射を施すか。人間らしい思考が一欠片でも残っているのなら、その髄液は全て破棄するのです」
今までずっと、避けて通ってきたことだ。人間らしい思考。間接的ならまだ良くても、直接人を殺したくない。そんな醜く愚かしい思考。人間である彼の心の奥底に、染み付いて拭えなかった。
「時間がありません。早く」
軽いノックの音が聞こえる。一回、二回……それは回数を増す事に力強くなっていく。間違いなく、首長の物である。
「早く」
カズサの静かな命令と、首長の怒号が聞こえてきたのはほぼ同時だった。ルインはすかさず、注射器の箱に布を被せる。
「居ないのか⁉生物班マスター!首長の私が訪問しているのだぞ!」
「失礼いたしました!」
急いで扉の方向へ向かい、カズサが消えたのを確認すると彼はドアノブに手を掛けた。
「遅いじゃないか。どうしたんだ」
「……首長、その、実は」
忠誠を誓い、胸に宛てられた腕が震えた。声は弱く窄まり、今にも吐きそうな程だった。
「先ほど……こちらに、侵入者が参りまして、お作りした髄液は全て盗まれてしまいました」
首長の眉間に見る間に皺が刻まれていく。ちゃんと瞳を見ろ。いいな。そう自分に言い聞かせて必死に自己を保つ。
「……どういうことだ、それは。ここにも来たのか。キメラだったか。どうだ。答えろ」
「顔は……分かりませんでしたが、部下は全員無事で、」
「そんな事はどうでもいい‼」
大声で遮られ、より一層肩が竦んだ。
「髄液の材料の脊髄はまだあるのか?」
「いえ、もうありません……」
くそ、と彼は吐き捨てて踵を返す。
「次もしもキメラがやってきた時は、脳幹から背骨にかけてを摘出するんだな。それで髄液は作れるんだろう?君達が開発してくれた技術の筈だ……以前のマスターのことを思い出せ。ああなりたく無ければ、私に従うことだ」
扉が閉められた後、彼は床に座り込んだ。恐怖と、生まれて初めて世の中の絶対であるものに背いた背徳感が渦めいて、彼が次立ち上がるまでには時間を要した。
小さな昇降機の中、首長が側近であるニトカを怒鳴りつける。
「キメラの匂いは分かったか⁉あいつらの中にいるのか⁉」
「……すみません。下の油の街から漂う匂いが強すぎて、私には何も……」
「くそ!役に立たん奴め」
明らかな苛立ちが、何時もは静かな口調にも現れている。ニトカは肩を竦めた。
偵察に行ったキメラ達が帰ってきた。最下層の胸に重い空気に、キメラ達も少しばかり辟易しているようで、すぐに狭い部屋に戻る。先陣を切って話し出したのはレオンだった。
「やはり、キメラはここには少ないですね。見つけたキメラは捕まえておきました。最上層の材料庫……の方に沢山集まっているようなので、誰か脱走した者がいると考えられます。囚人用のチョーカーには、索敵キメラだけが感じ取れる微細な匂いがあるそうです。クロイヌ様、そのチョーカーはどうしても外れないのですか?攻撃の対象と成りやすくなるかもしれません」
「問題無い。今までこれを付けていて、特別気づかれやすくなることは無かった」
クロイヌが、マフラーを持ち上げ、そこにある黒いチョーカーを見せる。首の後ろの錠は、確かに金属ではない何かでできている様だった。
「……確かに、匂いで貴方を襲ったわけではありませんでした。そのマフラーは何か特殊な加工でもされているのでしょうか?」
過去、彼を襲ったことのあるレオンが思い出したようにそう言う。
「これは、マスターの妻が作ってくれたと言っていた。細工は施されてない、と思う」
いや、施したとしたらマスターか。あの人ならやりかねないと、クロイヌが言った。
「マスター……?主人のことですか?」
レオンが疑問に思い、尋ねる。
「……家族、だったと思う」
家族とクロイヌは口にした。何の気なしに発した言葉であったが、それは、彼にとって何かの切欠となったようだった。
家族。
「今日から」「私の」
家族?
「おめでとう」
家族。
「おれが?」
「そうだ」
「……クロイヌ様?」
突然、静かになったクロイヌに、レオンが声をかけた。
「……待ってくれ」
弱弱しい声が喉をつく。レオンに問いかけた様にも、自分自身の記憶にそう懇願した様にも思えた。
「これが、記憶か。俺の」
流れるように、そして爆発的に、映像が生まれる。家族。犬。キメラ。その中にはあの、少女らしきキメラもいた気がする。座り込み、手をつけられなくなってしまったクロイヌを見て、レオンは早くスートを呼べと指示を出した。
中々居心地の悪かったスートは、二つ返事で本営に戻った。少し泣いてすっきりしたのか、アルカナももう泣きやんでいる。
「えと……進軍するのですか、レオンさん」
「そのことではなく……彼を」
そう言って彼はクロイヌを指さす。スートは、蹲るクロイヌに両手を伸ばした。クロイヌがそれを掴んで立ち上がる。
「……やっぱり、思い出したのか、記憶」
こくこく、何度も顔が縦に揺れた。彼の目は瞑られ、眉間に皺が寄っている。
「しっかりするんだ」
スートが、眉間の中心を指で弾いた。はっと気づいたように、クロイヌの目が見開かれる。 真っ赤な瞳。少し人間らしくないそれに、スートの姿が映される。
「君に何か悲しい記憶が蘇ったかもしれない。けど、今は先にすることがあるだろう。レオンさんが、作戦を立ててくれた。君は、記憶の中に有益な情報が無いか探すんだ」
分かったかい、できるな。そうスートが励ました。クロイヌは二、三秒ほどただ目を開いているといった風だったが、今は、その二つの赤に光が滾っている。
「分かった」
クロイヌの目がしっかりと開く。いつもの、何にも曲げられない何かをもつ、彼の姿だ。
「……まず、レオン。作戦を説明してくれ」
スートの手腕に、レオンもしばらくの間驚いていたが、直ぐに冷静さを取り戻した。
「はい。では説明します。あなた方の役割は……」
#10
もうとっくに日付は変わり、そろそろ朝日が登ってもおかしくないような時間だった。ここには日は入らない。少し前までそれが当たり前だったのに、今はなんだか落ち着かない。目と鼻の先で、昇降機が何度も行ったり来たりを繰り返す。キメラ達は散り散りに、最上層へ登っていった。
ふと疑問が生じ、スートはレオンに問う。
「皆さんは鍵を持っているのですか?」
「まさか。行きと同じですよ。扉は壊して頂きました」
丁度やってきた昇降機の、硬そうな扉が半壊してぶら下がっているのを見て、スートは苦笑した。私達も、この最後の便で行きましょう。レオンがそう言って、最後に残された一行も登っていく。
最上層。ぼろぼろの扉の先に、キメラ達が蠢いている。一つの黒い影が、くるりと白い顔を見せた。
「遅かったな」
二番目の便で登っていたクロイヌがスートを出迎える。少し余裕があったらしく、髪が綺麗に結ばれ、繕い損なわれたマフラーが首を締めていた。出会いたての頃と同じように感じた。人形みたいに、綺麗だ、と。
「これ、預かっててくれ。大切な物なんだ」
彼はそのマフラーを外すと、綺麗に畳んでスートに手渡した。彼は素直に受け取ろうとはせずに手を引く。クロイヌの目をきっと睨みつけ、明確に拒んだ。
「……やめろ」
「……?スート?」
怒ったような声にも、泣き出しそうな声にも聞こえ、クロイヌはスートに問いかけた。
「どうしたんだ、一体」
「大切な物なら預けるな。覚悟なんて決めるな……頼むから、自分で大切にしててほしい」
「……」
少し前なら、人間の感情はキメラの、感情の欠落した俺には難しいと言って割り切ってしまうところだった。けれども、クロイヌはその時、ある一瞬を思い出した。綺麗に身なりを整えたマスターを送り出した時。彼は自分に、全てを託していた。託して空っぽになって、ああ満足した、とでも言いたげにそこを後にした。重たいものを沢山背負った少年だけがそこに遺されていた。彼がここに戻ることは二度と無い。そう思えて怖かった。だって彼は未練を遺さなかった。それすら自分の中に託してしまったのだから。
スートはきっとそれを感じているんだ。そう考えると腑に落ちた。人間もキメラも変わらないのかもしれないと、ようやく少し思えた。
こんな時なんて言えばいいのか。マスターはなんて言ったのか。考えるまでも無く、クロイヌは手を伸ばした。
「ありがとう」
軽く彼の背を腕の中に収め、背中を叩く。すぐにスートは解放され、次見上げた頃にはクロイヌはもうフードを被りその中にマフラーを巻いていた。その顔は、少しだけ笑っているようにも見えた。
「じゃあ」
何も言わないスートを残して、彼は幾人かのキメラと共に去っていく。
いつかみたいに、空っぽだけが彼を満たしていた。
もう後にしたはずの最下層の、薄暗さをちらちらと照らす灯を、ぎこぎこと何かが擦れる音を思い出す。
「スート!もうこっちは終わりでいいよな」
仲間からの声に、考え事をしていた少年はびくりと肩を震わせて振り向いた。いけないと分かっているのに、物思いに耽ってしまうのは悪い癖だ。
「いいと思う。僕も終わりにして、早く点呼に向かおうか。朝食をとりたい」
作業着の腰に縫い付けられた布で、オイル塗れの手を拭った。点呼に遅れるということは、唯でさえ少ない配給のパンにすらありつけないことを意味する。毎朝のそれによって一人分のパンしか貰えないんだから、つい最近までスートは今より空腹だった。
「しかしまあ、ここは本当に煩いよな」
「仕方ないよね。中心部は特に、機械が集まっているんだから」
「あ、第三地区の奴らもう集まってる。急ごうぜ」
「ん」
ごうごうと、重たい音が絶え間無く響いていた。歯車と歯車の間、鉄柵に囲まれた細い道を進んでいくと、開けた広場に出る。自分達の所属する第三地区の面々は、もう殆ど集まっているようだった。間もなくして昇降機から役人が降りてくる。
「点呼。第二地区から順番に」
「はい……」
「第一地区、一人もいないな。別の場所の担当になったのかな」
「多分ね。結構、入れ替わり激しいから」
「残念だ。お前、覚えてるか?父親が指揮長で、誕生日に炭酸?飲んでたやつ」
「覚えてるよ。ネッケンだろ?美味しかったよねあれ」
「そろそろあいつ誕生日だから、ちょっとそれ期待してたのに……」
「あはは。そんな理由か」
「そこ、私語は慎め」
ひそひそと話していた事が見つかり、咎められる。第一地区のいない点呼は、いつもより早く順番が回ってきたようだった。
「……よし、第三地区はこれで終了だな。二週間連続で一人足りない。逃亡か死去か、分かる奴は教えろ」
「はい」
スートが手を挙げた。
「僕の母です。三日前に死亡しました」
「そうか。第三地区は今日から百十五名だな」
名簿の上でペンが踊る。きっと、数を一つ減らしたに違いない。
「では次、第四地区……」
二十分ほどかけて点呼が終わると、あとはその数に応じてパンが配られる。点呼に応じた者、つまりは今日働ける者のみが食事にありつけるのだ。三日前までは、自分の分から母親の分を削っていたので、余計に空腹だった。今はもう、そんなことは無い。
「じゃ、ユカ、また昼に」
「ん。今日も一日頑張ろうぜ」
持ち場へ向かうと、先についていた先輩が最初に、と忠告をしてきた。
「最近、侵入者がいるらしい。実害は無いから本当にいるのか分からんが、万が一会ったら気をつけろよ」
「それ、本当なんですか。取られて困る物は持ち歩いていますが、資源を取られたら大変ですね」
「その通りだ。今の所、大した問題にはなっていないみたいだけども」
「なら良かったのですが」
すすの付いた袖で顔を拭いたものだから、鼻先が黒くなった。犬みたいだぞ、男前になったな。先輩のそんなからかいが上の方から聞こえる。
「あ、あとなスート、お前これからしばらく最南端の見回り担当だから」
「分かりました。朝のですよね?」
「ああ。忘れるなよ」
「了解です」
一日の仕事を終えて家に帰ると、扉の前に女の子が一人立っていた。確か、母さんが昔手当をしてた子だ。また怪我をして、母さんに手当をしてもらいに来たんだろうか。そう思うと、なんだか胸が痛んだ。なるべくなら見ないように、考えないようにしていたのに。少しだけ彼は彼女を憎んだ。
「……ごめんね、母さんは」
「知ってる。あなたのお母さんに、お礼を言いに来たの」
汚れた服に汚れた髪の少女が、小さな手から紙切れを渡した。そこには母の筆跡で、ここでは禁止された文字が載っている。
「最近、あなたが働いている間に、お母さんと話していたの。私が死んだら、これをお兄ちゃんに渡しなさいって言われた。今は分かんなくても、いつか分かるかもって」
目元を赤くした彼女が、ぐいとそれを押し付ける。紙の端を握ると、あっさりと彼女は手を離した。そして何処かへかけて行ってしまう。
「……いつか、か」
見慣れた赤茶けた天井を見上げ、呟いた。
「そんないつか、なんて来ないよ」
思想だっていつか奪われてしまうのでは無いだろうか。思想も自由もいつかは命も奪われる。生きている、のでは無くて生かされているのでは無いかと、スートはその時既に感づいていた。感づいてはいたが、何もしなかった。しようとすらしなかった。
紙は二つに折りたたまれ、腰布の内側のポケットに収められていた。それきりずっと忘れていたのだが、指示に従ってクロイヌと別れた後、突然思い出した。
呼び止めようにも、彼はもうずっと遠くを歩いていたし、そんな余裕は無さそうだった。不意に彼は、自分はクロイヌを失ってしまうのだと、そんな予感がした。
「レオンさん」
スートが遠くをじっと見て問いかける。
「この作戦は、成功しますよね」
天井を仰いで、レオンは言葉を探す。
「……させるつもりです」
「良かった」
クロイヌと別々に動くのなんて久しぶりだったからそう思っただけだ。そうスートは自分に言い聞かせた。喪失感に苛まれることはよくある。それでも彼は、問いかけてしまった。
「あの、少し変なこと聞いてもいいですか?」
「……?どうぞ」
「レオンさんは、自分が今までに使っていた部屋の、椅子の色を思い出せますか?」
唐突なその質問に、レオンは首を捻る。暫く考えた後、彼は顔を戻して言った。
「……いえ。考えてもみませんでした。毎日見ている筈なのに……」
「それとおんなじ、なんです」
余計にレオンは戸惑い、続きを待つ。
「母さんのこと、最下層のこと……毎日毎日見ていたのに、思い出せることは皆ぼんやりしてて、一つもはっきりしていないんです。この作戦で、クロイヌが死んだら、そうなってしまうのかもって。僕、ネッケンに会った時、言われてもぼんやりしか思い出せませんでした。それが、恐怖で……首長達が強ければ、万が一ってことも有り得るんですよね。彼、強いのですが、前に一度キメラに負かされているんです。僕、怖いのです。彼が死んで、記憶なんていう薄っぺらいものに変わってしまうことが」
俯き唾を飲み込む彼を見て、レオンは何も言えなかった。確かにその作戦は、クロイヌにとってよいものとは言い難かった。
首長宅の周りを、今残る全てのキメラが彷徨いている。言葉は通じない所詮失敗作なので、それはあまり彼を安心させる物とはならなかったが。今首長にとっての仲間とは、ニトカとディスト、それだけである。
「ディスト。どうするべきだろうか、私は」
知能を持つも、人間の舌と声帯を持たない黒豹は、ただ低く喉を鳴らした。
「お前は残しておきたかったのだがな。キメラ達はもう頼りにならんし、ニトカは私を守ることは不向きだ」
首長はその獣の顎を優しく撫でて、革張りの椅子から立ち上がる。
「ニトカ!敵の匂いはしないのか」
「それが……前より更に、油の匂いが酷くて……」
「もういい。外の対敵キメラはどうだ」
「反応がありません。恐らく大丈夫でしょう」
「そうか」
再び首長は椅子に腰掛ける。
「それと、ここから第二層までの反射鏡を全て閉ざせておけ」
ニトカは静かに去った。やがて、大きな重い音を引き連れて、陽光を引き込む反射鏡が引き上げられていく。最上層は徐々に暗くなり、周囲はもう夜のような暗さだった。
帰ってきたスートを見つけた、アルカナの顔がぱっとほころんだ。茶色い尻尾が、大きく横に振られている。クロイヌのと同じで、この子の尻尾も随分正直だなと、彼は思った。
「どうだった?レオンは、なんて?ナハ……クロイヌさんは?あなたは?私は何をすればいいのかな?」
親しげに話しかける彼女を牽制しつつ、スートが口を開いた。
「アルカナ。落ち着いて聞いて……クロイヌ、ナハトだったのかもしれない」
大きな琥珀色の瞳が、目一杯見開かれた。煩くなるのを予想してスートは耳を塞いでいたが、そんなことは無く、彼女は魚のように口を開閉させて、何も喋らなかった。
「落ち着いてね……でも、記憶が戻った今、彼は少し混乱している。君と合わせてはいけないと……レオンさんが、判断した」
肩をがっしりと掴み、向き合う姿勢ではいたが、彼は目を逸らす。やっと記憶を取り戻した懐かしい人に、会うな、と言っているようなもので、彼にも心苦しさはあった。
「分かった」
意に反して少女はあっさりと返す。
「え⁉」
「四年も待ってたから。別に、そんなの苦じゃ無いよ」
何時間か、何日かすれば、どうせナハトに会えるんでしょと、彼女は楽観的に話した。素直に頷けず、彼は曖昧な返答をする。
「とりあえず、僕と君は……僕には場所が分からないんだけど、屋敷の最東端に潜入だってさ。そこでやることがある……分かる?場所」
少女は付いて来て、と少年の手を引いた。
彼女の足の速さに、心の準備が出来ないまま首長宅に近づいてしまったスートが騒ぐ。
「ちょっ、キメラがわりといるんだけど」
ひょいと高い塀を乗り越えた彼女が、振り向いて笑った。
「ここは私達が仕えていた場所だよ?反応するわけ無いって。あっ、あなたは気を付けた方がいいかもね。もろに侵入者だから」
「はあ⁉」
とりあえず塀に足をかけたスートが、眉間に皺を寄せる。アルカナがふふっと不敵な笑いをこぼした。
「でも……見つかんなきゃ大丈夫じゃない?ここ最近油の匂いが酷くて、正直鼻はアテにならないから。よっぽど近づいてしまえば別だろうけど」
確かに、と眼下に広がった青とオレンジを思い出す。キメラ達の良すぎる鼻には、悪影響を及ぼすはずだ。
「ほら。手を引いてあげるから、早く来て」
中々登れないスートに、少女は手を伸ばした。まだ少し怯えつつも、彼も手を掴んで塀を越える。
今は三人のみが居る広い屋敷で、首長が椅子に座っていた。組まれた脚の先が何度も地を叩き、彼の苛立ちを表している。ここにも何れか敵は来る。時間の問題だと、彼にも解っていた。
不意に、部屋を歩き回っていたディストが、低く喉を唸らせた。身体が、今にも扉に飛びかかろうと歪む。
突然、派手な音を立てて扉が吹き飛んだ。黒豹は身を翻して間一髪逃れる。気づいた首長がすかさず拳銃を握った。
「何者だ!」
男は大きく穴の空いた扉に、半ば錯乱状態で弾を撃ち続ける。数十秒ののち、握られた銃が弾切れを起こして音が途切れた。
誰もいないようだという事を確認すると、念のためディストを先に歩ませる。どこにも人影はいない。一秒、二秒、三秒。緊迫した空気が男を押し潰していた。足音にも似た、軽い音が背後からする。彼はまた、考え無しに銃を撃った。弾切れした銃が突然手から離れ、床に落ちる。激しく手が痺れたのは、それとほぼ同時だった。銃の反動とは違う。透明な腕に叩かれたような、そんな感覚である。
「レオンか⁉反逆者のトカゲめ」
やや遅れて、ディストが首長の前に出た。その瞬間、視界が真白に染まる。発煙筒だ。天井の通風坑が外れ、何者かが降り立つ音がする。
「誰だと聞いている!」
白煙に、枯れかけた声が響き通った。
壊された通風坑から、勢いよく風が吹き込んで白を散らす。そこにはっきりと、人影が映った。
煙に隠されてその姿の全ては見えないが、何度か繕われ、それでもぼろぼろな赤いマフラーがはためいている。その下に被られたフードの中、赤い瞳が二つ瞬いていた。
「俺だ」
綺麗な服装に包まれた、人形の様な顔立ちの少年が立っている。
「この前の……くそ、これ全部お前が企てたことか」
あの時殺すべきだった、と首長は舌を鳴らした。
「いや。全部じゃない……首長、俺は今お前を殺したい訳じゃない。ちょっと聞きたいことがあるだけだ。素直に答えるなら手は出さないと、約束しよう」
「答えなければ無理矢理にでも、ということか」
彼の秀麗な顔が頷いた。それを合図に、首長はにやりと歯を見せる。
「ディスト!行け!」
首長の影から現れた獣が、クロイヌの喉元を目指して跳ねた。これぐらいなら想定内だった。
ひょいと飛んで避けたクロイヌを、荒い息を吐く黒豹が追撃する。首を狙おうと、後ろを取ろうと、足元を崩そうと、何度も仕掛けられる素早い攻撃に、いつしかクロイヌは息を切らしていた。首長が笑う。
「強いだろう。お前とほぼ同時期にキメラになって、以来訓練を積ませたからな」
男の話は全く耳に入れずに、クロイヌは拳銃を取り出すと殆ど闇雲に首長の方へ撃った。黒豹は構わずクロイヌの方へ駆け寄る。両腕の銃で威嚇し続け、彼は後退を始めた。両腕が反動で痺れる。時折撃つのを止め、更に後ろへと戻った。
「この屋敷の中を逃げ回ろうなんて、馬鹿な事を考えるなよ。お前はここの構造を知らない」
その先は行き止まりだ。阿呆め。首長は心の中で意地悪くそう思った。
黒豹の身体を何度か弾が掠め、警戒したのか彼との距離を詰めないようになる。クロイヌはその間にも更に後退を続け、広い屋敷の末端部に辿り着いた。
「……なんだ、この匂いは」
場の二人に比べ、格段に嗅覚の劣る首長でも分かった。オイルだ。何処からか漏れだしているのか、それは酷く強く匂っている。
かちり、と一丁の銃が音を立てたのを、首長は聞き逃さなかった。
「いけディスト!弾切れだ!」
勝ち誇ったかのように首長が声を上げる。クロイヌは残りの一丁を撃ちきると、どちらも床に捨て、短刀を握る。銃を無くしたクロイヌに、黒豹は容赦無く飛びかかった。腰差しから引き出された、最後のやや大柄な銃が左手に握られる。黒豹は一瞬立ち止まるも、突進を止める気配は無さそうだった。重い音が何度か響き渡る。利き手では無い方のコントロールは酷いもので、一発も当てられずまた弾切れを起こす。
「やっと終わりかな。犬キメラ君」
首長が一歩退いたところから、今まさに黒豹がクロイヌを殺す瞬間が訪れるだろうと、高みの見物を始めた。黒豹の脚が、首がしなる度に、少年の服の布地が飛び切り傷が幾つか刻まれる。首元への攻撃だけは何とか交わし続けた。この命とマフラーは、スートの前に再び戻さなくてはいけないと、心のどこかで思い続けていたからなのかもしれない。どうしてかはやっぱり分からなかった。少し深めに削られた脚から、血が滴り落ちる。これ以上の後退は不可だ。その場の誰もが、それを理解していた。彼は脚をずり寄せ、再び黒豹と相対峙する。
「もう逃げるなよ。彼女がお怒りだ……と言っても、無理だろうがな」
首長が楽しそうにそう言った。襲いかかる獣に、退路を絶たれたクロイヌが必死に刃物を振るう。
「……っ」
何度か短刀を振るったが、獣には傷の一つも付いていないようだった。頬を爪が掠り、血が流れる。飛んだ血に視界が遮られ、クロイヌの身体が傾ぐ。状況は、絶対的にクロイヌに不利だった。前方からの攻撃を何とか避けるも、マフラーが裂け、首筋を生温い何かが這ったのが分かる。飛び散る毛糸に気を取られた、その時だった。
背後に回った黒豹が飛ぶ。足元を蹴られ、遂にはバランスを崩して彼は膝をついた。
「手こずらせたな。ディスト、噛み砕いてやれ。憐れな子供を」
硬い長靴の底が、跳躍した黒豹の体に当たる。血の流れた脚が痺れ、力はそれ以上入らなかった。一瞬、獣は歪むが、元に戻って確実に仕留めようと跳ね上がる。くそ、と悪態が口をついた。とどめを刺さんと黒豹の体重が身体に掛かったのと、首長が悲鳴を上げたのはほぼ同時だった。
「あ⁉」
低い短い悲鳴に、主の危険を感じ取ったディストは振り向いた。それが合図だった。クロイヌの拳が獣の腹を突く。油断していた獣の身体が飛び上がり、それはそのまま床に叩きつけられた。突然、廊下中の排気口が次々と開き、沢山のキメラが降りてくる。瞬く間に現れた彼らに獣は四肢を押さえつけられた。
「……どういう事だ」
首長の首の左右に、それぞれ鋭利な刃物が突き立てられている。しかし、そこに人の姿は無い。
「こういうことですよ」
首長の眼の前、何も無い空間が震えた。空中から姿を現したレオンが、細い目を開けてにやりと笑う。
「貴様……!」
首長の顔が醜く歪んだ。捕えられ、脚をばたつかせる黒豹の横の、仰向けの少年が目を瞑って息を吐く。
「クロイヌ!大丈夫だった⁉」
「ナ……クロイヌ!早く怪我の手当をして!傷になっちゃうから!」
遅れて配管から姿を現したスートとアルカナが、すぐさま駆け寄った。クロイヌの目が一瞬開き、すぐに鬱陶しいという顔に変わる。
「……退いてくれ。話がしたい」
首長と、だ。起こしてくれ。クロイヌがそう言った。弛緩した身体を、二人が引っ張る。
「……さてと」
血糊に汚れた左頬を袖で拭い、クロイヌが立ち上がった。ずるずると脚を引き摺りながら、怯える首長に近づく。身動きの出来ない彼が捲し立てた。
「待て。どうしてお前が、この館の構造を知っている⁉油の配管を、非常用の隠し扉を、通風坑を知っている」
クロイヌが、ほんの少しだけ口角を上げた。楽しい時の物では無い。何か異質の感情が、彼の中身を満たしていた。
「どうしてかっ、て?」
クロイヌの赤い目が、首長を射止める。彼自身が獣であるかのように、その閃光が彼を掴んで逃がさなかった。
「それはお前が一番よく知っているだろう、お父様」
冷たさの中に滾る熱を孕んだ瞳が、そこには凛と立っている。
#11
形勢は逆転した。少年が嬲り殺される様を傍観していた男が、今は壁際に追い詰められている。その少し上には少年の顔があった。
「ま、待て」
「黙れ」
だん、と首長が壁に押し付けられる。がっしりとした身体は、見た目の割に筋肉がついていないようで、あっさりと大人しくなった。それを細身の少年が見下ろす。
震える哀れな初老の男が、肉食獣の様な赤い瞳に捕えられていた。
「答えろ」
低く、聴く者全てを威圧しているような声。肩を強く握りしめられた首長が、喉を引き攣らせ助けを乞う。
「頼む。助けてくれ。首長は降りても良い、お前の父親と母親に対する処遇なら謝る、だから……」
「違う。俺は今、この城の動かし方について聞いているんだ。きちんと答えろ。さもなければ喉笛噛みちぎってやる」
クロイヌが口を開いた。真っ赤な舌の上で、白い八重歯が光る。本気の声色に、首長が息を呑んだ。息が荒くなり、より一層歯ががちがちと触れ合う。
「……知らない。私は知らないのだ。本当に」
首がゆっくりと横に振られた。クロイヌの手から、少しばかり力が抜ける。
「……じゃあ、どうやって今まで城を動かしていたのですか?」
今度はスートが問いかけた。何か渋るように目線が空中をさ迷って、遂に彼は口を開く。
「……機械だ。巨大な旧世界の機械が、この城を動かしている。制御の方法も進路の道筋も、その機械だけが掌握しているんだ」
「その機械は、誰も研究していないのですか」
「……いや。ナハト 、あくまでそれはお前がトルマンであった時だけの名前だが……お前の父親、サイファがこの機械を研究していた」
「……その後、彼を殺した、と」
首長は再び俯いた。クロイヌはもう怒る事にも疲れたようで、ただじっとその俯いた金髪を眺めている。
「……あの時は、それが最善だと思ったんだ。彼が機械制御の鍵を得た時、恐ろしかった。首長なんてもう名ばかりだ。襲名制度になり権威だけが残っている。とてもじゃないが、治世なんて分からない。この城の……歯車城の、私も言わば部品のひとつだったんだ。突然この生活が、この世界が変わったらどうなる。私はどうすればいい。そう怖気付いてしまったのだ」
呆れきった様子のスートが、クロイヌの方を向いて言った。
「じゃあ、この城はもう、誰の意思でも無く動き続ける、正真正銘の幽霊城なんだ」
「……そうみたいだな」
クロイヌが軽く頷き、スートもそれに同調する。赤とかち合った緑が、そのまま首長に向けられた。
「一人じゃ無いでしょう。他の研究員、彼の妻……クロイヌの母親は」
「殺したのは彼一人だけだ。あとは皆、キメラの材料に」
クロイヌの手が首長の襟首を掴む。釦が一つ飛び、ぶちりと嫌な音を立てた。息が詰まり苦しげな顔をする男を、少年が睨みつける。スートがそれを牽制した。
「クロイヌ」
「……そうだな。今はこんなことしてる場合じゃない」
彼の声に感情は読み取れなかった。出逢ったばかりの時に聞いた、絶対零度の声だ。けど、確実にその時のものとは違う。彼は感情を沢山吸い取って、それを抑制することが出来る。スートは場違いにもそれが嬉しかった。
「……どうしようもないな。もう、オイルをいただけたら俺は出る」
見放すようにそう言い放ち、二人が首長の元から離れかけた時だった。
「ひょっとしたら、クラシマなら……いや、ううむ」
ちらりと飛び出たその名前に、スートが反応する。
「僕の父親のことですか⁉生きて、いるんですか⁉」
首長が目線を漂わせた。クロイヌも興味津々といった様子で、再び彼に近づく。
「……つい最近、捕らえて今は材料庫にいる。ひょっとしたらもう、最下層の住民と一緒にキメラにされてしまっているかもしれない」
「マスターが……生きてる?」
クロイヌの喉がこくりと鳴った。
「話を聞く限り、囚われているみたいだ」
「行こう、スート」
少年達が、目を合わせ頷く。
「勿論だ……そうだ、首長」
スートが、壁にもたれ座る彼に静かに近づいた。冷静に、冷静に。言葉を選べと、数呼吸空けて少年は話しかける。
「アズ、それからレオンさん、キメラの人達、貴方がたの実験の材料になった最下層の人々、それからクロイヌと僕の母親に……したことは、全て許される事ではありません。それだけ覚えておいてください。そして、首長を辞めるという約束も」
首長が力無く頷いた。服をはたくと、少年二人は再び目線を交わす。
「行こう。スート」
「うん……レオンさん、案内お願いします」
レオンがこくりと頷いた。老人のように力なく座る男を残して、一同は歩き出す。跳ねるようにしてアルカナも着いてきた。
「お前が付いてくる必要ないだろ」
「ひどいなー、この薄情者!」
「まあまあ」
冷たく返すクロイヌを、スートが少し宥める。そしてちらりと彼を見上げ、低音で首長の話の続きを切り出した。
「サイファ……って、誰だかわかる?」
「俺の父親のようだな……どうだろう。聞いたことある、くらいしか」
「無理しなくていいよ。なんだか、僕もつい最近聞いた気がするし」
緩く喋りつつ少し歩いていた所で、レオンが足を止めた。
「私達が材料を運んだのは、ちょうど首長宅の反対側でした。少し歩けば辿り着けます……ですが、クロイヌさん。その怪我で歩く事はお辛いでしょう。せめて、手当を……」
言われてスートが振り向く。ばつが悪そうに、クロイヌは顔を逸らした。
「これぐらい平気だ」
「いけません。歩いてきた跡を見なさい」
クロイヌの後ろには、血が点となって床を汚している。立ち止まっているそこには、徐々に血だまりが形成されているようだった。
「ごめん、僕、気づけなくて……」
「私、包帯取ってくる!」
アルカナがたっと走り出し、慌ててスートがその場に膝をつける。クロイヌが仕方なさそうな様子でその向かいに腰を下ろした。硬い長靴の革の上に、大きな溝が口を開けている。
「脱いで……あー、結構酷いよこれ……相当歩いてて痛かったでしょ。靴の中、血が溜まっちゃってる」
靴を脱がせようと四苦八苦している間、何度もクロイヌは眉間に皺を寄せていた。よく今まで何ともなく振る舞えたなとか、キメラは痛みに強いのかとか、スートはなんとなく聞いてみた。
「俺が傷ついたら、お前が悲しむかと思ってた」
予想外の答えに、スートは弱ったように、眉根を寄せる。数秒おいて、それを少し崩して笑った。
「なにそれ」
「前、俺の右手を見た時、熱を出した俺を看病した時、なんだか……悲しそう、だったろ。だから」
「馬鹿」
スートに自分の感情を理解させられず、むしろ怒らせてしまったか?と、クロイヌは唇を尖らせる。
「スート、俺は、お前のために」
「そういうの、馬鹿っていうんだ。あほ。朴念仁め」
目元は笑ったまま、口を尖らせてスートが怒った。布を運んできたアルカナから、それを受け取って傷口を包む。
「ほんとに僕のこと考えてたら、なんであんな作戦、受け入れたんだ」
「それは……だって、作戦ってそういうものじゃ……」
「囮になるなんてさ。君、見た目ほど喧嘩強くないし。下っ端に負けてたし。ほんと馬鹿。友達を失うのって、辛い、だろ。分かるだろ君なら。馬鹿」
作戦に従わないと勝てない。勝てなかった。そんなの当たり前で、屁理屈を唱えている自覚くらい彼にもあった。不意に、その頬に涙が伝っていた事に気づいて、余計にクロイヌは口篭る。
「ごめん、悪かった」
「ほんとに理解出来てるか怪しいなあ……君さ、泣いてたら謝るって、癖になってるよね」
突っ慳貪な彼に、これ以上何が有効か分からず、諦めたようにクロイヌの眉が下がった。スートはぎゅう、と包帯を巻ききり、頬を拭って立ち上がる。彼は痛みに一瞬顔を歪めたが、すぐに唇を結び直してその頭を撫でた。皮の歪んだ手が、煤けた髪をはらう。そのオレンジの頭が引き寄せられて、赤いマフラーに埋もれた。
「ほら。子供扱いして。それも首長から教わったのかよ。馬鹿」
「違う、マスター」
スートの拳が、軽く胸板に当たる。いて、と上から声が漏れた。
「生きててくれて、良かった」
彼らしくない弱々しい声だ。でもそれは本心だと、どちらにも分かっていた。空白が満ち、若干気恥ずかしくなったスートが首を回す。そして、囮と言う言葉に反応したアルカナが、レオンに襲いかかる様を目撃した。
「……あ!アルカナがレオンさんに殴りかかってる!僕のせいだ!止めなきゃ!ちょっクロイヌ、離して!」
ぱっと離れるかと思った手が、外れない。うわああれ本気だよ!と喚く頭を肘の中に収めたまま、クロイヌの口角がくるりと弧を描いた。おまけに軽い笑い声が漏れたような気がして、スートは、それと怒っていたはずのアルカナも、彼の顔一点をぎゅっと見つめる。
「……なんだ。二人共」
「い、今、君」
「ナハトが……口を開けて、笑った⁉」
信じられない、という視線を二方向から受けて、クロイヌの顔がむくれた。
「そんなに珍しいか」
「えっ……そりゃあ……」
アルカナから解放されて、やっと人心地のついたレオンがシャツの襟元を正す。
「あの……手当をした後に行くにしろ、まだ彼は怪我をしていますよ。いいのですか」
二人共はっとして、包帯を手に取りクロイヌの傷を包み始めた。包帯で全身を包まれてしまいそうな剣幕に、クロイヌは少し悲鳴をあげた。
「駄目だ僕、集中できない」
「私も……表情筋、もう退化しきっちゃったと思ってたくらいだもん」
「つまり、数年に一度くらいの珍しさ……」
「お前ら、真面目に手当してんのか。ちょっ、痛い」
涙目になったクロイヌが目線でレオンに助けを求める。彼は曖昧に笑って肩を竦めただけで、何も指示はしてくれなかった。
「どうかな⁉痛くない、ナハト!じゃなかった、クロイヌ!」
「歩かない方がほんとはいいよね。僕とアルカナで運べるかなあ……」
「やめろ。歩けるから」
クロイヌはもううんざりだという顔で、脚を引き摺り歩き出した。待ってよ、と二人が追いかける。
「ねえスート、クロイヌは本当にナハトだったことを覚えているの?」
クロイヌのあとをつける彼の横、アルカナがひそひそと耳元で話した。
「多分……作戦の時、クロイヌのくれた指示で僕らは動いていた。どこの配管が首長の部屋の前にあるとか、どの箇所を壊せばオイルを流し出せるかとか……」
ひと段落つくまでは、そのことは話さないでね。スートが釘を差し、アルカナも納得して首を縦に振った。そういや彼、アズを助けに行った時も迷った素振りは見せなかったな。いくら図面を見たといえ、配管の中を辿って外に着くだなんて難しすぎる。今思えば、それもナハトであったからなのか、と彼は考えた。
「そっか、思い出してるんだあ……じゃあちゃんともう一回、久しぶりだねって言わなくちゃ」
にやにやするアルカナを見て、スートも微笑む。誰かの幸せに触れられることは素敵だ。素直に彼は嬉しかった。それに少しだけ、誇らしい気持ちにもなった。
「俺の思い出せることは、これで全部だ」
四年前のことだから、変わってるかもしれないけどな。そう、クロイヌがスート、レオンに首長宅の構造を説明する。
「作戦を確認させてもらう。……まず、レオンが首長を部屋から引き摺り出す。ディストに気づかれないよう、スート達は周囲の配管を全て壊しオイルを流出させて、匂いで眩ませてくれ。俺はそこから、一番端、通風坑の所まで首長を連れてくる……から、頃合を見計らって、首長を捕まえてくれ。俺とディストは恐らく戦ってるはずだから、捕まえるのは戦闘員がいい。ここまであってるか、レオン」
スートが突貫に作った図面の上を、クロイヌの白い指が行き来した。
「その通りです。護衛のキメラや、ニトカはどうすればいいでしょうかね?」
「元々ここで働いていたキメラは、護衛は気にしなくていいだろう。俺とスートは、油の街の上にでもいなければ危なかったが……ニトカは、見つかり次第捕まえておこう。あいつが何処にいるかの見当はつかないな」
ナハトって呼ぶべきなんだろうか。でも今更変だよな。スートは話もそこそこに、クロイヌの事が気がかりで仕方なかった。養子の小さな女の子さえ殺そうとした首長のことだ。前の養子だと言っても、酷い記憶に最後は固められているはずだ。作戦に支障は出ないだろうか。首長を間違えて殺してはしまわないだろうか。
「スート」
「あっ⁉うん、何」
考え事に耽ってしまったスートに、クロイヌが問いかけた。
「首長は口をきける状態で渡してやるから、尋問は頼んだ。できるか」
自分よりよっぽど冷静な彼に、スートは少し恥ずかしくなった。クロイヌはクロイヌだ。ナハトであったことを思い出しても、きっとマスターとの暮らしは忘れてはいない。復讐に駆られて暴走したクロイヌを見たくない、そう思っていただけに彼は嬉しかった。誇らしかった。
「努力するよ……君は、命のある範囲で頑張ってね」
最下層から昇降機が登っていく。クロイヌも一緒に、見えなくなっていった。
変わったんだよな。彼。確かに。スートは横顔だけで軽く笑った。訝しむようにアルカナがそれを眺める。
「どうしたの?」
「なんでもないよ。気にしないで」
「嘘だね。絶対ナハト関係でしょ!」
「……お二人とも、いいですか。あれですよ」
小競り合いに発展しそうな二人をたしなめて、レオンが指を伸ばした。その先、堀と柵が幾重か折り重なった要塞の向こうに、ぽつんと小さな小屋がある。
「皆と、マスターがここに……」
スートが目を見開いてそれを見た。
「行きましょう。ここにいた見張りのキメラは、皆首長の守りに回されていたので、警戒する必要は無いですから」
レオンの指示で、足早に彼らは小屋へ向かう。
「……うわ」
重い扉を開けて、まず目に飛び込んできたのは大量の細長い台だった。薄いシーツの上に古い血がこびりつき、黒く色を変えている。固そうな拘束用ベルトがどの台にも付き、ここで何が行われていたかぼんやりと分かった。
「私、ここが一番古い記憶の場所。多分、他のキメラの人も」
アルカナが台を指さす。台の数は百を超えるくらいで、最下層のひと地区ごとの人口とおおよそ一致していた。スートの眉間に皺が寄る。毎日、人数だけは確認されていた、朝の点呼を思い出した。
「……最初から人間として見ていなかったんだ。だから平気であんな事ができたんだろう」
クロイヌの眉間にも皺が寄った。きっと俺もだ、そう彼の唇が静かに動く。
黒く変色した染みを、スートが指で撫でた。もうすっかり乾燥してこびりつき、固く布地を引き攣らせている。
「この血は少し古い。きっと、第三層の人達では無いと思うよ」
なら、と四人の視線が一点に向かう。やけに大きく、重たそうな鉄の扉がそこにはあった。
「開きますかね?」
「……近くに、何かしらの仕掛けがあった。そこを押すんだ。それで、開けられたはず」
クロイヌが壁を撫でていく。四角く区切られたそこのある一つを触った時、軽い音と共に、大きな扉が横に開いていった。
「本当だ……すごい」
スートが感嘆の声を出す。クロイヌは素っ気なくそのまま扉の奥に向かった。
「覚悟、決めておけ」
クロイヌが呟く。スートも一歩、足を踏み入れた。
「……うん」
入った瞬間、酷く淀んだ空気が肺に染み込んでくる。獣達の寝床に入ったような、生き物の臭さだ。排泄物か、腐った匂いか、垢の匂いか。ともかく沢山の動物が、或いは人間が、劣悪な環境に置かれていることが伝わった。
「……誰ですか、そこに、いるのは」
曲がり角の先、そこにスートが声をかける。返答はない。震える脚を抑えて進むと、暗闇に沢山の目が光り輝いた。
「うわ⁉」
「皆人間だ……キメラには、されてない」
先に暗闇に目が慣れたクロイヌが呟く。
「……お兄さん?」
その時、人の奥から、か細い少女の声が聞こえた。奥から、密集する人を避けて、よろよろとこちらに向かってくる。
「……君、母さんの友達の……!」
「知ってるのか、スート」
檻の向こう、少女が顔を緩めた。母さんに手当をしてもらったあとに見せる、安堵の顔。間違いなく、あの少女だった。
「第三層の人達……」
目が馴染むうち、光が人間へと戻る。その中には幾つか、見たことのある顔もあった。
「レオンさん、ここはどうやって開けるのでしょうか」
「……そうですね、そこに掛かっている鍵で開くかもしれません。試しましょう」
無造作に掛けられた金属の輪を掴み、その鍵を試す。呆気なく鉄の扉は開いた。暫くは呆然としていた人達も、次第に檻から出、ふらりと歩いたり座ったりしている。
目的を失っている彼らの動きは、人よりも無脳キメラに近いと、スートは直感的に感じた。ただ開放しただけでは駄目だ。ちゃんと、この人達が人間らしくあれるような目的を、まず第一に探さなくてはいけないと、そう思った。労働力として人間らしく生かされるのでは無く、一人一人がちゃんと目的を持って、ひとらしく生きられるように。でも、どうすればいい?治世の仕方なんて、誰が知っているのだろうか。
「僕には、できることがあるんだろうか」
「何の話だ。ほら、手伝え。まだ半分も檻は開いてない」
漏らされた不安に、クロイヌが反応した。スートは鍵を受け取るも、ぽつりぽつりと不安を漏らす。
「不安なんだ。今の制度が崩れた時、その先どうなれば一番いいのか……前はさ、僕が最下層をなんとかしたいだなんて考えちゃってたけど、それは君に会ってないと思いつかなかっただろうし、それぐらい僕もみんなと同じ受け身だったんだ。同じ状況になってたら、きっとどうすればいいか分からなくなってた。ひょっとしたら、最下層の部品だった頃を懐かしくさえ思うかもしれない。そんな僕が、この人達を正しい方向に導くなんて、きっと難しい。下なら……ずっと、そうだったけどさ、上から考えて指示するなんて、やったことないんだ」
すごいよね。クロイヌは。この城から出るなんて言って、本当にできちゃうんだから。スートが感嘆とも嘆きとも取れない声でそう言った。クロイヌは無言で、開けないなら返せと鍵をもぐ。
「できるよ」
「うわっ⁉」
スートの横どなりに、いつの間にかあの少女がいた。気が付かなかったスートは、驚いて少し飛び上がる。
「お兄さん、絶対救うって言った。それで、本当に救ってくれた。できるよ、お兄さんなら」
少女の痩せた頬に赤みがさす。スートもつられて、口角が上がった。
「……え?ちょっと、待って」
「え?」
「僕、絶対救うなんて言ったっけ」
「……?ちょっと前に、ここに囚われてたでしょ。それで、他のお兄さんと逃げたんじゃ無かったの?」
あれ、そう言えばだいぶちぢんでるかも。少女の目線が頭上を這う。
「それ、本当に僕?」
「でも、オレンジ色の髪だった。珍しいから。あれ?でも、眼鏡ないね。やっぱり、違う人かも、ごめんね」
少女が小首を傾げてそう言った。クロイヌとスートの目が合う。そのどちらにも光が宿っていた。
「それは……まさかマスターか」
「父さん……?」
オレンジ色の髪。眼鏡。そしてスートと間違えられた声。それはもう、二人の中に答えは一つしか無い。
「でも……逃げたってことは……」
「ここにはもういないってことか……」
二人は揃って落胆した。確かに、二つだけ何も入っていない檻があった。もう抜け出した後だったのだ。入れ違いになってしまった運の悪さに、期待が外れた彼らは少し落ち込む。
「脱走って……どこを探せばいいのさ……」
「流石マスター、と言いたいところだが……」
「ちょっと!二人してへこんでないで、こっちを早く手伝ってよー!」
アルカナの元気な声だけが、暗い牢獄にこだました。明るく朗らかな声に半ば埋もれつつも、少女が低く静かに音を零す。
「私、見てたよ」
「え?」
少女の細い指が、牢獄の更に奥を指した。けれども、そこには何の変哲もない壁があるだけである。
「何にも、無いけど……?」
「ううん。そこの上、開いたの」
通風坑か、何かか。クロイヌとスートは目を合わせて頷いた。
「レオンさん、アルカナさんはここの人達を見ておいてください」
「俺達は、こっちに行く」
スートはゆっくりと這い上がり、その後をクロイヌが軽々と通風坑に入った。またスートがクロイヌを独り占めしてると、アルカナが頬を膨らませてむくれる。
通風坑から何度か落ちると、突如澄んだ明かりの色が見えた。真白な空間は、一度だけ見た恒久炉を思い出す。首を伸ばせば、澄んだ空気が鼻に入った。
「うわああああああまた出たあああ」
突然、目も口も大きく開いた男性がそう叫んだ。驚いてスートも少し後ろに下がる。
「だ、誰ですか⁉」
「えっ……?あれ、マスターじゃありませんね……?」
スートの後ろに控えていたクロイヌが、利きすぎる耳でその名前を捉えた。
「マスター⁉ここに来たのか⁉」
「クロイヌ止めてここ顔出すの一人が限界だから!」
狭い通風坑と固いクロイヌの体に押しつぶされ、スートは潰された蛙のような声を上げる。それを見て、少し冷静さを取り戻したルインが手を差し伸べた。
「どうぞ……首長はもうしばらくは来ないでしょう。今回のへまで、この組織も解体だ」
どこか吹っ切れた様な笑顔で、彼がそう笑った。何か事情があるらしい。それも、首長に関連した。後で問いただそうという若干物騒な思想を持って、クロイヌもスートに続いて床に降り立った。
「あれ、マスターって、そう言えば誰のことですかね」
スートが畏まって聞く。ひょっとしたら勘違いかもしれない。マスターという呼称が似ているだけで、と疑ったからだ。あの汚いパラサイトとこの綺麗な研究室とは、どうも結びつかなかった。
「カズサ・クラシマのことです。ここ生物班の、元マスター……生物学、特にキメラ作成の権威ですよ」
「……父さんが、この技術を作ったんですか?」
「はい。元は重傷者を生かす為に開発された技術でした」
けれども、と彼は続ける。首長がその技術に目をつけたのだ、と。技術の引渡しを拒んだことと、また何か別の問題もあり、彼は排斥された。その次ここのマスターになったのは彼の助手、ルインだった。研究は専ら、「重傷者の回復」から、「健全な人間のキメラ化」へと偏る。重傷者一人に動物一匹の方法から、健常者一人に動物の髄液という方法が生まれ、キメラの大量生産が可能となる。その次首長が目論んだのは何か。それが、キメラによる近衛兵の作成だった。人間は大量に必要だ。だとすれば、どうするべきか。
「髄液を健常な人に投与すると、高い確率で拒絶反応が起こり、その人間は死にます。生き残っても、記憶は破壊されてしまうことが殆どです。僕達は、その事実に暫くして気がつきました。……首長に逆らえず、本来は今日の予定である第三地区の人々のキメラ化の準備まで、こうして研究を重ねてきたわけです」
「……最下層の地区分けには、点呼には、そんな意味があったのですか。キメラ化に耐えられない死にかけの者は、見放されていたと」
ルインが目線を落とす。劣悪な檻の意味は、少しでも抵抗力を落としてキメラ化しやすくするため。だからといって動けないほど弱ってしまっては死んでしまう。だから、点呼に集まれる人しか生かしてはもらえない。全ての謎に終止符が打たれたような、そんな感じだ。決してすっきりとはしなかったが。
「父さん、何処にいるんだよ。今」
呆れるような縋るような声色が漏れる。彼は大きく溜息をついた。
暗い部屋をランプが紅く舐め回す。紙の束が埃と共に部屋の輪郭をぼやかしていた。
少年の背中に残る手術痕を、男性が確かめるようになぞる。続いて、包帯の残る他の傷を消毒した。少年が顔を顰めると、男性はごめんねと声をかけた。
「良かった。傷は……恐らく、残ってしまうが、経過は良好だね」
獣の血が流れている証の、耳と尾を男性が観察する。手を軽く叩けば、耳がそれに反応して震えた。
「なんと呼べばいい。名前」
今まで口を閉じていた少年が、まだ高さの残る声でそう言った。
「うーん……そうだね。僕は、ちょっとあっちから追われてるから……本名は、知らない方がいい。そうだ、マスターと呼んでくれ。あれなら慣れてるから」
「マスター?分かった。覚える」
あまり詮索せず、気にすることでも無いように彼は頷いた。じゃあ、と男性が喋る。
「君は何と呼べばいい?名前は?……ひょっとしたら、手術の前のことは何も覚えてないかもしれないけど」
少年がこくりと頷く。参ったな、そう言って男性は黒い頭を撫でた。特徴的な耳が揺れる。
「クロイヌ」
「くろ……いぬ?」
我ながらセンスとかそういうものに欠けてるんじゃ無いか、そう男は苦笑したが、少年はやはり対して気にしなかったようだ。
「クロイヌ。分かった。今日からおれは、クロイヌだ」
「いいかな?……宜しくね、クロイヌ」
「ああ。宜しく、マスター」
包帯で巻かれ、どこが指かも分からない小さな手に、男性の手が重ねられた。クロイヌが首を傾げる。これは挨拶だよ、握手。そうマスターが教えた。
「クロイヌは無事、逃げ出せたでしょうか」
最下層の一角で、無精髭の男が独り言をごちた。近くにいた青年が首をもたげる。
「……いえ。すみません、独り言です。 昇降機の往来が激しかったですよね。首長のキメラ達が私を探し回っているのですかね。妻のマフラーが無ければ、危なかったと思うのですが……ああ、大丈夫ですよ、これさえあれば。逆に言うとね」
男が静かに笑う。ひとまず、今動けば昇降機を取り押さえられてしまう危険が高い。往来が無くなって一時間余り。もう暫く辛抱すべきかと、彼は画策していた。
「奥さんも、研究者だったのですか?」
へゼルが問いかける。
「はい……それどころじゃないですよ。私の一族は皆研究者です。関わりがあったのも、他の研究者の一族とだけでした。」
その中でもミモザ、ええと僕の妻は群を抜いて美人で、優しくて聡明で、でもちょっと抜けてて……そう眼鏡を光らせて語り始める男を、へゼルはくすくすと見守る。
「ごめんなさい、興味なかったですよね」
「いえ。僕には母親は居なかったので、ちょっと……羨ましいです」
確か、ナハトも、その母親も同時に首長の元へ渡ったはずだ。それを考え、褒められた事では無いと分かりつつも、直接彼に問いかける。
「……あそこでは、どんな生活を送っていたんですか?」
へゼルは一瞬瞳を開いて、その後すぐにまた遠くを見た。
「父親としては、いい人でした……後継である私に、礼儀を、身のこなし方を、色々教えてくださいました。養子である私を四年間育ててくださって、感謝しています……今でも」
傷の残る頬を揺すって、彼が笑った。人のことを疑わずに育っているのだ。彼も、ここの誰もかもが。
「母親は……父の方針で、居ませんでしたね。元々、僕ら兄妹は孤児だったので、高望みはしませんでしたが。ああ、妹は元気でしょうか。なんとか、首長から逃げきれたでしょうか。レオンさんと」
思い出したようにへゼルが嘆いた。男が青年の頭を撫でる。それきり言葉は生じなかった。
「マスターはどこにいるんだ」
クロイヌが嘆く。スートもそれに同調して、何度目か分からない溜息を吐いた。
「……ね。ルインさんの所に来た後が、さっぱり掴めない……」
二人は仕方ないと元来た通風坑を辿る。最上層の牢にはもう誰も居らず、生き物のいた強い臭いが残っているだけだった。
「レオンさん!」
「ああ、スート様……その様子だと、見つかってないのですか?」
変わらない人数に、レオンが苦笑した。そんな所ですとスートも笑みを返す。
「まあ、難しいでしょう。相手も見つからないように気遣っているはずです……マスター様を探す、それ以外のあなた方の目的は?」
「恒久炉を探しています」
クロイヌよりも早く、スートがそう言った。
「……場所は、おそらく首長が知っているでしょう。けれども、何故?」
「ともかく、この城が動き続ける限り、労働者は必要でしょう。つまり、最下層の人達が働かなくてはいけません。その連鎖を止めるため、です」
なるほど、とレオンが頷く。恒久炉がどんな物か、彼には想像もつかなかった。ただ、彼らが実現しようとしているならば、必ず実現するだろう。細い目がより一層細くなる。
「ありがとうございます」
スートがしっかりと頷いた。クロイヌも、目線だけをこちらに寄越す。不安を飲み込んで、彼らは前を見つめた。ずっと遠くに、青い空がぼんやりと浮かんでいる。
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