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歯車城  作者: HAL
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1/3

平凡お人よし少年が残念なイケメンけもみみ少年に連れ去られたうえ脅されて仕方なく世界に立ち向かう話

全編(1~5話)です。全13話。ヴィジュアルはこちらに https://twitter.com/kemo526

(本編に要素はありませんがツイッターには腐向け絵も投稿しておりますのでお気を付けください)

#1

つんとした冷気が彼の頬を撫でる。朝霧に隠されてその姿の全ては見えないが、服の裾は破れ、ぼろぼろのマフラーには所々穴が見受けられた。短い黒髪は、目深に被られたフードに殆どしまい込まれている。


「上々だ」


最上層から次の層へ。ざっと見数十メトルはありそうな高さを、ひょいと降下する。バネ機構付きの靴は難なくそれを耐えた。最下層まで行く頃にはすっかり霧も晴れて、替わりに大量の煙が視界を覆い始める。マフラーを鼻先まで引き上げ最南端へ急いだ。


最南端にほど近い最下層の一角に機械音が鳴り響く。警告音なんだから不快な方が理にかなってるか。そんな事を思いつつ、自分の持ち場にオイルを注していく。色素の薄い肌も橙色の髪も、ススと油で汚れていた。擦った指が黒く染まり、少年は思わず溜息をこぼす。

「あとは南端だけだ」

彼はそう自分を鼓舞していた。


がちゃがちゃ。手袋の先が茶色く汚れていく。そこかしこから溢れ出る蒸気に、頬が火照り額から汗が流れ落ちた。視界を邪魔する水滴を、袖で拭いとる。単純な作業だ。所定の場所に油を注ぐ。この作業に何の意味があるとか、この場所に注油したからどうなるかとか、そんな事は考えない。知らないで済むことは知らなくていい、その方がいい。それがここの掟だった。

「ふう」

南端の整備も終え、口元を覆うマフラーを外す。端はまだ空気が澄んでいる。再び煙の巻く町に戻る前にと、肺いっぱいに吸い込んだ。汗が風に冷やされ、気持ちよさに目を細める。そこで少年は一つの異変に気づいた。 見慣れない麻縄が、南端に引っかかっている。

「なんだろうこれ」

疑問符を浮かべた少年は、なにげなくそれを引いてみる。その時だった。

「そこを退け」

煙の中から現れた、真っ黒にも近い人影。白い顔と二つの赤い瞳だけが彼の色味のように思えた。

「…っ、君が、侵入者か!」

手にしていたスパナが、彼の頭を突こうと宙を切る。命中するかに思われたそれは、あっさりと手で弾かれた。

「お前はここの警備者か?」

「…そんな所だ。大人しく捕まってほしい。迷惑してるんだ」

「迷惑?何でだ」

「えっ…何で、って」

言葉に詰まる少年に、侵入者はずかずかと近づいてくるが、丸腰の彼ではなす術も無い。

「どうしてお前は無条件にここを守るんだ?」

絶対零度の様な声。逃げた方がいい、勝ち目は無い。脳内の警告音が最大限に彼を叩く。

「…ここは僕の持ち場で、ここを守れと命じられているからだ」

「まるで白血球だな」

「は?」

場に合わない呑気な台詞に、少年は思わず声を上げた。そもそもこいつの何処かのんびりとした喋り方、それも場違いだ。

「考えることを知らない、従属者。この大きなガラクタ城の」

突然、油断していた少年の腹に拳が食いこんだ。胃液か何かがじわりと上昇する。口を抑えて、吐き気を必死に耐えた。

「そんな奴が、ここには溢れかえっている…考えることを止めた時、人は死ぬ。ここは幽霊城だ」

彼は、突っ伏した少年には目もくれず、そう吐き捨てて麻縄に手をかけて…そこで、足を止めた。

「…ん?」

くるりと振り返り、よたよたと立ち上がった少年の肩を掴む。顔を近づけ、鼻腔にその匂いを吸い込むと、びくりと少年の体が震えた。それに構わず、彼は少年の顔、首、脇腹をくまなく嗅ぎまわる。

「…ち、ちょっと?」

すん、と鼻を鳴らして、こちらを見上げた赤い瞳孔が開いていった。僕だって多分、同じ顔だろう。突然侵入者に腹を殴られて、匂いを嗅がれたりなんかしたら、当然だが。

「マスターと、同じ匂いがする」

「…誰、そのマスターって」

呑気なやつだ。腹を殴られた時から、もっと言えばこいつを見つけた時から、こっちの足は震えが止まらないってのに。

「俺を作ってくれた人のことだ。お前はきっと、あの人の子供だろう」

少年の眉が動いた。父親との間に明るい過去は無い。信じないにしろ口調が冷たくなる。

「…ふーん。つまり君、僕の失踪したお父さんの愛人の子供、って言いたいの?」

「愛人?それは何だ」

「なっ…何って、二人目の恋人、みたいな」

「愛人とマスター、二人いれば子を作れるのか?教えろ、どうやって俺が生まれたのか」

「はあ!?」

片眉が上がり、どちらかと言えば子供っぽい純朴な顔が歪んだ。馬鹿にされてるのかと思ったが、彼の仔犬の様な瞳で真っ直ぐ射貫かれ、言葉に詰まった。顔に熱が集まる。

「どうやるっていうか…男と女がそうやるってか...」

しどろもどろに、少年は指を交えつつ説明する。お前はやったことあるのか?という問に対して、少年は無言で手刀を翻した。

「勉強になった。ありがとう。俺はそれをまだマスターに教わってなかったんだ。...このままじゃアトツギが作れない、そう思ってた」

「それはどうも…」

なんだこの茶番は。少年がそう思って頭を抱えていると、侵入者は小首を傾げた。

「あ」

「ん?」

マフラーを緩めて、フードを外す。その下から、ぱさりと耳の横を避けて髪が広がった。人間の耳があるべき場所に、動物の耳が生えている。それがぴくぴくと動き、音を拾った。

「…君、キメラなの!?」

「逃げるぞ」

「ちょっと…!!」

ひょいと腰に腕を回され、そのまま抱え上げられた。か弱い女子なら嬉しがったかもしれないが、何分男なので屈辱なだけだ。それだけでも良くないのに、彼は麻縄に手をかけ、そのまま南端の柵を乗り越える。目の前に広がるのは雄大な砂漠と、それに負けない碧空だ。


一瞬、目に流れ込むその青を、中空に身体がふわりと浮かんだ感覚を、脳が全力で否定した。


「何して…うわあああああああ!!!」

手袋が麻縄との摩擦で火花を立てる。片手で彼と変わらない体躯の自分を、もう片手で麻縄を掴んで遥か下へと滑降しているのだ。顔に当たる砂っぽい空気が妙に現実的で体が縮み上がった。たった数十秒だと後に彼は説明したが、少年には永遠にも感じられた。 ごうごうと鼓膜を突き破る風の音が心臓に悪い。突然、風が止んだ。そして、地面にたたき落とされる。全身に走る強い痛み。じんじんと響く鼓膜。冷や汗が睫毛に乗っかり気持ちが悪い。


生きている、そんな事実を実感した。

「いった…うう…怖かった…」

「すまん。何となく連れ帰ってしまった」

彼はそう言って、今しがた自分達が使った麻縄をぶつりと切った。少年は今更になって気づく。ここが今までいた場所じゃ無いこと、彼のズボンと上衣の間から、ふさふさとした黒いしっぽが生えていること。たっぷりの空白部に、かたことと小さな城の足音が響く。

「何してんの!?歯車城と離れちゃったら、僕達どうやって生きていくんだ!!」

「安心しろ。ここはマスターの用意した水浄化装置や畑がある。おまけにこれは歯車城から五百メトル後をぴったりと牽引されている。城に、今はまだパラサイトしているんだ」

「…白血球の次は、寄生虫か。ああーおしまいだ!!僕はもうあっちでは暮らせない!!」

「最下層の暮らし、しかも見た所オイル注ぎだろ?そんな暮らしが、ほんとに恋しいか?」

ぐさぐさと突き刺さる言葉を吐かれ、少年は自分に言い聞かせるようにこう呟いた。

「恋しいかどうかじゃない。僕の居場所はあそこだからあそこにいるべきなんだ」

それに、やり残してきた仕事が沢山。そう膝を抱えてへたりこんでしまった少年を見て、彼の後ろの尾は下がる。それが少し可笑しくて、少年は寸での所で泣かなかった。ぐう、と少年の腹が鳴る。 ここまで来てしまえばと、いっそ彼は大胆に居直った。

「…もういいよ。あーあ、まだ朝ご飯も食べてなかったんだ。ねえ、ひとつ貸しにするからさ、何か食べ物をちょうだい」

「…ああ、待っててくれ」

秀麗で、少し怖い位の雰囲気を持つ彼の顔はたいして変化しなかったが、尾ははたはたと横に揺れていた。あの反応を見る限り、犬のキメラなのかな。そう少年は結論づけ、彼の後について行った。


「ここにいろ」

パラサイト…彼がそう呼んでいたにしたそこは、殆どが研究所のようだったが、結構広い。しかし、幾つかの生活棟は、どこも紙や機械、がらくたに覆われていて足の踏み場も無かった。

「ここって…うわっ」

ひとまず少年は、二つ椅子を確保し、机の上にスペースを作ろうと、物を整理し始めた。紙は紙、重たい機械は端へ、がらくたは一つの箱に…やたらと多い紙には研究の記録が記されていたが、その殆どの字を彼は理解出来なかった。最下層の子供は字が読めない。父は昔、第二層の研究者だったと聞いていたけど、本当だったのか。そもそも本当に父親かどうか確認は出来ていないが、もしそうだったら、どうしてこんな所に引きこもって、母さんや僕を助けてくれなかったのか。怒りがふつふつと沸き上がり、書類を大きな音を立てて床に置いた。歯車城を動かす為の機構の殆どが、最下層に存在している。オイルを注ぎ、点検してやらないと動かなくなってしまう。最下層の住人は朝から晩までそれに労力を費やしている。煙や塵で肺をやられてしまう人も多かった。母親は長年の過労の末倒れ、去年に亡くなっている。溜息を溢してどうなる訳でも無いのだが、それ以来溜息の回数は増える一方だ。


「お待たせ」

扉を開いた彼は、床に座り込んでいる少年に気遣う言葉をかけた。なんでもない、お腹が空いただけだと少年は笑った。広くなった机に、二つの皿が置かれる。新鮮な野菜が半分、目玉焼きがもう半分を占めていた。

「野菜に卵…!?すっごい貴重品じゃないか!!どうしてこんなに?」

九つの街が巨大な歯車の上に存在し、そのそれぞれが層と呼ばれている歯車城では、言わずもがな下層に行くにつれ日照量は少なくなる。野菜は当然の如く高価な物だった。

「…貴重なのか?水をあげてれば育つぞ」

当の住人は、首を傾げている。お腹の空いていた少年は、ばくばくとそれを平らげた。

「ご馳走様…あのさ、君の名前ってなんだっけ?」

「マスターは、俺のことをクロイヌと呼んでいた」

「黒犬…」

少年はぶっは、とつい吹き出した。それはきっと、たまに彷徨いている動物の名前に、色の名前を足しただけのものだ。安易な名前が、静かで冷静な彼と相まってなんだか面白く感じてしまう。

「僕は、スート。姓はクラシマ」

「ん、よろしく」

「うん、よろしく、ね」

よろしく、家まで送り届けてね。そんな含みを気づいてもらえたかどうか。クロイヌはいつの間にか僕の後ろに回っていた。

「ごみがついてるぞ。取ってやる」

「えっ、お願い」

スートは素直にそう言った。急展開の連続で、脳のどこかが麻痺していたのかもしれない。兎に角、彼は油断していた。

首の周りに、しゅる、と何かが掠った気がする。首筋で、かちゃりと音がした。今までは感じなかった、首の周りの緩い圧迫感。

「…知ってるか、このチョーカーの意味」

まさか。嫌な汗が額を流れる。手を回すも、それは鍵無しでは開かないようだ。

「…囚人用の、チョーカー…」

「ああ。それは模倣品だけどな。」

俺とお揃いだぞ。楽しそうにそう言って捲られた首元には、黒いリボンが巻きついていた。

「う、うわあああああああ!!」

「…さてと、俺の頼みを聞いてもらえるか?」

「聞きます聞きます何でも聞きます!」

クロイヌの指をくるくると鍵が回った。少年は涙目になり、それに手を伸ばす。

「お座り!待て!」

「はいっ!!」

犬耳尻尾持ちの男にそう命じられる。傍から見るとかなり滑稽な格好だ。しかも、互いの首に首輪の如きチョーカー。喜劇か。誰の為の。

「…じゃあ、こっちに来い」

クロイヌがそう言った。


フード付のポンチョと、ジャケットを脱いでラフな服装になった彼は、服の上からでも筋肉がしっかりとついていることが分かるシルエットだった。思わず目を逸らす。自分の貧弱な体と比べてはいけない。そう、だって僕の主食って固いパンだし。そう自分を誤魔化した。 幾つかの部屋を通り過ぎ、奥へと向かう。途中、温室の中に沢山の野菜と何羽かの鶏を見つけ、少しばかり羨ましくなった。彼は自分の持っていない何もかもを持っている気がしていた。

「ここだ」

壁に大きな地図の貼られた、ごちゃごちゃとした部屋。周りの紙には何やら計算式が書いてあり、地図にはぐるりと大きな正円が書いてある。

「お前は、この歯車城がどうして動いているか知っているか?何の為に動かしているか、分かるか?」

「…知らない。自分の仕事の事しか教えてもらってない。」

「最下層まで行くと、それすら知らないか。上層部の奴らは、『悠久の砂漠を越え、神なる大地に再び巡り会う』為だと信じているらしい」

「砂漠…?ああ、確かに下には砂が広がっている。神なる大地って何?」

「なんでも、元々砂の無い土地があって、そこでは地面に草木を植えれば勝手に育っていくそうだ。それが、終末戦争によって汚染されたから、生き残りが逃げて作ったのがこの歯車城らしい」

「そんな、壮大な話が…?終末戦争って、聞いたこともない」

「そのまんまの話だ。世界中沢山の人が生きていたらしいが、今生き残っているのは俺達だけ、みたいになる要因の戦争」

「へ、へえ…じゃあ、汚染されてない土地を探して動いてたんだ。確かに、あの城じゃあ面積が足りないし食料も足りない。いつか、僕達最下層の人間も野菜をお腹いっぱい食べられるってことかな」

「…そんなに、甘い話じゃない。それを考えてマスターはこの城の軌道を計算したんだが、それがどうやら、ぐるぐる回っているだけらしい」

そう言って、クロイヌは地図を辿った。幾つかの街を繋ぎ、元の場所へ戻る。

「油の街、水の街、石炭の街…街とは名ばかりの、ただの廃墟だ」

「確かに、年に二回大量にオイルが手に入ることがある。それはそこを通っていたのか」

「そう。そして、オイルが無いといくら何でもこの乗り物も動かない…言いたいこと、分かるか?」

「…いつその給油の日が訪れるか、知りたい。そして僕を使って、そのオイルを頂戴したい…」

「ご名答」

「…なるほど…」

「目的も無くぐるぐる回るだけ、それを疑問に思う、考える葦すらいない。そんなのがらくたですらない。幽霊城だ。そんな所からおさらばして、地に足をつけて生きていこうかって、マスターが言ってたんだ」

「へー、なるほど…で、そのマスターは、どこ?」

「死んだ」

静かな声色でそう彼が言った。思わず、こちらの声が上擦る。 死は、出来事の中で一番重いことだ。そう去年彼は実感していた。

「え...」

「だから俺はこれを、遺言として実行している。被支配階級であるキメラの俺を、ここまで育ててくれたマスターに感謝を捧げて」

鋭い赤が、強い力を持って揺らめく。夢物語の様なことを、彼は本気で実行しようとしているんだと、今更ながらに怯んだ。

「お前がマスターの子供だって分かったのは、匂いだけじゃなくて、マスターが毎日の様に息子の事を話していたからだ。追放されてしまったから二度と会えない、申し訳ないと。お前と同じ位の年齢だと。嬉しそうに、誇らしげに」

彼はさっきの強い顔と対称的な、本当に嬉しそうな声色で言った。何故だか涙が滲みそうになり、慌てて顔を背ける。

「…そっか。オイルまでは僕が手助けしてあげる。だから、父さん…かもしれない人のこと、もっと教えて」

クロイヌの耳が、ぴんと張る。顔よりずっと雄弁な尾がはためいた。


蒸気に覆われた最下層は、直ぐに汗をかいてつなぎを汚してしまうが、ここではそんなことは無く、快適だった。いつもの比では無いがそれでも汗はかいたので、浴室を貸してもらう。シャワーを浴びる時にも、チョーカーは外してもらえなかった。流石に裸で逃げるような間抜けな真似はしないのに、けちだと文句をつける。それがある方が男前だぞ、そうクロイヌは茶化した。 そう言えば、なんで彼は外さないんだろう。いや、外せないのか、何をしたのか。鏡に映る黒い首輪を見て、そんなことを考えた。


「着替えとか無いの?」

「用意した。着ていいぞ」

「ありがとう」

肩幅の余るシャツを着て、柔らかいズボンに足を通す。 夜ご飯が机に並べられていた。話が盛り上がり、うっかり昼を抜いてしまったんだった。思い出したかのように、腹がぐうと鳴る。

「頂くね」

「ああ。俺は風呂入ってくる」

「はーい」

入れ替わる様に二人は別れた。少し黄ばんで襟ぐりの広がったシャツは、どうやらマスターと呼ばれる人のものらしかった。


「うわ!?」

「おっと」

風呂場から出てきた彼は、ワンピースの様にも見えるトレーナーしか着ていない。そこから、だらりと尻尾がはみ出している。同じように解かれた黒の長髪が肩の上に流れていた。

「なんか履け、何か!!」

「尻尾あると、結構ズボンとベルトって痛いんだぞ。今ここの城主は俺だ。ぐだぐだ言うな」

習慣の違いに戸惑ってしまう。それもそうか、尾は痛そうだなーと、納得しようと試みる。 よく見ると、剥き出しの脚のあちこちに大きく古い傷痕が走っていた。

彼、一体どんな過去を持って、そんな壮大なことを言っているんだろう。その事で頭が埋め尽くされたスートは、次に声をかけられてもしばらく反応できなかった。

「…で、肝心の給油の日、分かるか?」

「あっ!?え、えと」

彼は、未だ戸惑うスートを気にせず人参を摘んで口に入れる。とことん呑気だ。そう思った。

「もうあまり残量が無いし、前回の給油が…去年の晩秋だったから、そろそろあってもおかしくないかな」

「そっか」

端正な顔に合わず、口元を汚して貪る様に食べるクロイヌに、スプーンを握らせてやる。

「なんだこれ」

「…なんだ、習わなかったのか?ふふっ、教えてあげる」

口元を歪めて苦戦する彼に、いつしかスートは兄弟の様な安堵感を覚えていた。一人じゃ無いなんて久しぶりだ。自然と口元が緩んだ。これが仮初の関係であっても、いや仮初でないと困るのだが…今は、何故だか離れ難い。偶然生まれたこの関係にずぶずぶと足を引きずりこまれていた。


「マスターの…ベッド使え。そこにある」

ベッド、と言われ指さされた所には、古書や機材が山を成していた。冗談かどうか測れず、目がそちらとあちらを行き来するも、彼の目は至って真剣そのものだ。

「いや、いいや…その布貸して。床で寝るから」

「わかった」

布をよこすと、彼も眠いらしくそのまま床に丸まった。横向きに眠る彼の尻尾が膝に当たり、擽ったい。鋭い眼光が長い睫毛に仕舞われてしまうと、その顔は大分幼く見えた。きっと、歳はあまり変わらないはずだ。

寝ようとして、眠れない彼の胸中を、強い脈拍が満たしていく。これから僕はどうなるんだろう。彼は何をするつもりなんだろう。ぞくぞくと背筋が震えて止まらない。沢山の焦りと不安と、そこには認めたくないことに、確かな高揚があった。夜風に火照った体が冷まされるまで、彼は眠れなかった。


仕事柄、朝は早い。いつも通りスートは今朝も大分早く起きてしまった。もぞもぞと動く隣の塊に、声をかける。

「起きた?」

「ん。おはよう」

そう言えば、犬って早起き得意だよね。言ったら怒られそうなので、頭の中だけで考える。起き抜けの彼に、質問をした。

「今は、歯車城に牽引されているからオイルは四脚に必要なだけだよね?パラサイトが自立して歩く時には、今の何倍必要になる?」

「ざっと見て…三倍って所か」

「了解。それはオイルとグリースを合わせて?」

「ああ。総計千二百リターあれば、百年は動かせる」

「それなりの量だな。まあ、歯車城よりもとてつもなく小さいから、ぎりぎり給油分から横取りできる...かな。どこに貯める?」

「今、南端と繋がれる所に隣接する部屋を使わないから、そこを丸々貯蔵庫にする。万が一の時に備えて、歯車城と再び連結出来るような機構も備えておくつもりだ」

「輸送用の配管は?こっちにある?あっちから頂ける?」

「頂けるアテがあるなら…お前、昨日と打って変わって乗り気だな。何でだ」

「乗り気っていうか…まあ、協力するのはあっちに返してもらうまでだけど。多分、生まれて初めて自分のしたい事をしてるから...ってことなのかな。オイルを注いで機械を点検して、配給の固いパンに満足して…その頃には想像出来なかった世界が、今この手の中にある。昨日、君に叩きつけられた時みたいに、生きてる実感に満ちてるんだ」

あの頬を擦る痛み。肘と膝に走った衝撃、身体にずきずきと残った熱。蒸気と煙の最下層ではしたことの無い経験だった。あれこそが生きている実感!それを無償で味わえたんなら、悪くない、なんて。

「…叩きつけたのは、悪かった。」

「それとさ、なんとなく、じゃなくて、僕でも僕じゃなくてもあの時誘拐してたよね」

「…まあそうだな。状況が状況だから。脅して従わせてっていうセオリーだったんだ。まさかマスターの息子で、こんなに乗り気になるとは思ってもみなかった」

「白血球よりも寄生虫の方が考えられるだけマシかなって思えたんだ。考えることを止めた時、ひとは死ぬ。だろう?」

ふふん、とスートの鼻が鳴る。クロイヌは満足げに耳をぱたぱたと動かして、くるりと後ろを向いた。

「朝食だ。パラサイト君」

「僕も君もでしょ」

埃っぽい部屋に、朝日の筋が伸びていく。二人分の笑いが溢れ、和やかな一日が始まろうとしていた。


#2

どたばたと、慌しくパラサイトが揺れている。歯車城の数百分の一程度の、城から見ればほんの玩具の様な存在。象についた蚤の様な、気付かれても誰にも気にされないようなちっぽけな小島。人口が一人減って一人増えたそこは、今日は珍しく賑やかだった。

「クロイヌ!もっと右!そのまま固定!」

「…スート、計画の実行と掃除と、何の関係があるんだ!?」

クロイヌの体が、二人分の体重を受けてよたよたと傾ぐ。今、スートは彼に肩車をしてもらい、天井付近の本棚の本を片っ端からどけ、そこの埃をはたいていた。ひどい埃を避けるため、スートは母親の形見である赤いマフラーで鼻と口を覆っている。大切な物は持ち歩く、そんな習慣が不幸中の幸いだった。

「あるよ。例えば、散らかっているとその場にある部品や道具の数が掴めない。留め具一つでも歯車に入ってしまえば全体の故障に繋がる。見たところ、ここは四肢以外使われていないようだね?丸々二日かけて、中身を全部点検しないと。設計図ある?」

「あ...あると思う。でも、何処かは」

「ほら。掃除は必要だ」

釈然としないクロイヌを傍目に、スートはばさばさとはたきを振り回した。パラサイトの中央、一際高い棟は天窓を除くと一つも窓が無い。けれどもそれを利用して、ぐるりと本棚が円形を作り沢山の書籍が保管されている。スートが今一番好きな場所だった。文字は読めなくても、母親から貰った知識ならある。絵を辿れば、ある程度の事象は理解できた。

「あっ」

一番上、肩車をされてもなお見えない空の棚から、四角い箱が落ちてくる。避けようも無く、固い箱が肩を掠めてスートはバランスを崩した。姿勢を持ち直したクロイヌが、片手でそれを受け止める。

「…なんだこれ」

「あ!これ、何か重要な物が入ってるんじゃない?鍵がかかっている」

固いブリキの箱は、揺らすとかさかさと音がした。鍵穴はすり減っていたが比較的綺麗で、かつては頻繁に使われていた事が伺える。

「分かった。鍵をとってくる。一旦ここで大人しく待っていてくれ」

荒々しく落とされ、思わず尻もちをついた。尻を軽くはたき、姿勢を正す。

「痛い」

「…その、誰かを持ち上げたの初めてで、終わらせ方が分からなかった」

「昨日の謎の白血球についての知識は何だったの…機械にもそんなに明るくないし。」

「マスターが、教えてくれたのが俺の全部だから。知らないことは沢山ある」

「その全部ってのに、肩車をした後は、ゆっくりと相手の足を地面に降ろすってのも付け加えといて」

「…ん」

垂れ下がった尾を見て、スートはきつく言い過ぎたかと心配した。

「…あのさ、ちょっと休憩しようか。お昼でも食べながら、これの中身見てみよう」

「分かった。先、鍵取りいってくる」

ちょっと上を向いた黒が遠くへ消える。ふう、と安堵のため息をついた。マフラーの埃をぽんぽんとはらい、彼の後を追う。


温室で二人は昼食をとった。ぱさぱさのパンに挟まれた野菜と卵焼き。野菜と鶏に挟まれてこれを食べるのは、少しばかり気が引けた。

「これ、有精卵だぞ。父母の前で子供を」

「今そういうの止めて」

軽い調子でクロイヌがからかう。そもそも生き物に触れる機会が無かったスートは、鶏に少し苦手意識があるようだった。

「ほら、本題。鍵は?」

「ん」

手渡された錆びかけの鉄輪には、幾つかの鍵がついている。先程の箱に合いそうな鍵を探し出し、一つ一つ鍵穴に押し当てた。

「この中には、君のチョーカーに合うものは無いの?」

「…無い。マスターも知らなかった。俺はここに来る前の記憶が無いから、そもそも合う鍵が現存してるかどうかも分からない」

「…そ、そうなんだ」

途切れた会話に反する様に、鍵穴がかちゃりと開く。 中から、擦り切れた茶色い紙が数枚出てきた。

「…やった!これ、設計図だ!それと、写真と、記録…?読めるか、これ」

一枚だけの手書きの記録には、人間と何か動物のものらしき絵が描かれている。

「ああ。

…09.26ロープを通じて来客あり。犬を抱えた、黒髪の少年。どちらも酷い怪我。発熱あり。応急処置をして寝かせる。残念ながら、最善は尽くしたが犬は永くなさそうだ。以下、少年の容態。

二箇所の骨折、殴打痕、ロープを掴んだことによる右手への酷い裂傷。細かい擦り傷や切り傷が沢山。また、囚人用の黒チョーカーがある。

09.27明朝。少年はいよいよ危ない。

…ここの文字は、読めないな。黒く消されてる。...続きが、

持参した文献から、合成獣手術を行う。結果は成功。首元のチョーカーはどうしても外せず、諦める。意識の回復までは一週間はかかる見込み。

10.03意識回復。口の切り傷が痛むのか、あまり喋ろうとはしない。まだはっきりとした意識は無い。

11.07体は犬の治癒力もあり、大方回復。どうやら記憶を失っているらしく、過去の事は聞いても答えられない。犬の事は微かに覚えているらしく、時折何かを探している。

11.12必要最低限の事を教えている。おそらく、息子と同じくらいの年。

...

妻子が恋しい。」

幾つかの塗りつぶしを残して、文字はそこで終わっていた。その他は増築に増築を重ねる為の設計図、文献の記録など。クロイヌは暫し無言になって、記録を読み返している。

「…これは、俺のことか?」

「そうみたいだね」

スートは、ちらりと紙を持つ彼の右手を眺めた。手のひらには何本か大きな傷が走っている。

「俺は、元は人間だったのか。マスターが俺をキメラとして作ってくれたんだと、ずっと思っていた」

「そう書いてあるね。僕と同じ仕事をしていたキメラは、大体皆先天性だったけど。犬のキメラは鼻が効くし耳がいいから、故障や異変にすぐ気づくんだ。...そもそも、後天性のキメラがいるなんて初めて知った」

「初めて知ることばかりだ。マスターは俺に、これからのことしか教えてはくれなかった」

「そっか…君は記憶が。それじゃあ、どうして歯車城の構造は分かったんだ?」

「マスターが教えてくれた。前回の目標は図面の正確さを確認すること、協力者を得ることだった」

「脅迫できそうな人を攫う、の間違いでしょ」

返事に窮する彼を見て、ふふとスートが笑った。紙をまとめて、端を揃える為とんとんと軽く叩く。その中から、一枚の写真がこぼれ落ちた。

「ん?」

やや色が褪せ、角の取れたそれには、長髪の微笑んだ女性、抱えられた赤ん坊、短髪に丸眼鏡の優しそうな男性が写っている。これは、母親と僕と、おそらく…マスターだろう。

「ねえ、この文字読める?」

裏面のやや汚い文字を、クロイヌの眼前に押し付けた。少し仰け反った彼が、目を瞬いて答える。

「…ああ。えーと…

『一緒に生きれて良かった。愛してる』」


スートの脳内に、確かに強い映像が走った。煙が視界を覆い、歯車が音を立てて、オイルの匂いが充満した、今までの彼の全て。 日の当たらない、最下層での日常を思い出す。いつも薄暗く煙たかったが、悲しい思い出ばかりでは無い。

母親に、小さい頃は何度も自分の父親の話をせがんだ。最下層には片親がいなかったり、孤児だったりする子供は珍しく無かったが、それでも何となく無視出来ない好奇心があったのだ。その度母親は周りを見回してから小さな声で、「私達の事が大好きだったのよ」と教えてくれていた。何処にいて、何をしているのか。きっと生きているという事を信じて気丈に生きていく彼女に、少年はいつしかそれを聞けなくなっていった。初めて、やっと確信できたんだ。母親は嘘をついてはいなかった。彼女は幸せだったんだと。


「…スート、おい、スート」

クロイヌが肩を揺さぶる。慌てた様子でスートの目を覗き込んでいた。

「頼む。泣かないでくれ。慰め方なんて、俺はわからない」

その時初めて、彼は自分が泣いていることに気づいた。 どうしてなのかはよく分からない。ただ温かい涙が頬を滑っていく。

「…ううん、大丈夫。別に泣いてないから」

服の裾でごしごしと目元を拭うその姿に、彼は動揺し視線が定まらなかった。

「さてと、部屋の片付けに戻ろうか!」

母親は、棄てられた訳じゃ無かったんだ。その事実に、心の底から感謝できた。父親がどうして追放されたのかは分からないが、二人は何層をも飛び越えた恋の末に夫婦になれた、幸せを味わっていたんだ。少しだけ、救われた気分だ。

「ありがとう、クロイヌ」

「?…ん」

理解できない、という様に彼の首がかしいだ。


他愛も無い話が続いた後、少し真面目になってクロイヌが問う。

「…文字、本当に読めないのか?」

「うん。第七層と最下層の人間、その他キメラは字に対して規制があるから。知識は教えてもらったけど、文字は教われなかったんだ」

「ふーん...お前のその知識量は、字が読めないくせに大したものだと」

「そりゃ、仕事場所は毎日変えなきゃだからね。朝イチで覚えるんだ。暗記は得意だよ。おまけにさ、年に数回、住む場所と仕事場ががらりと変わることもあって…」

会話をしつつ、徐々にがらくたを片付けていった。夕闇が訪れる前には、そこは綺麗に床を見せている。

「じゃあ次は、生活棟を片付けようか」

「明日、明日じゃ駄目なのか?」

げんなりしつつあるクロイヌに、意地悪そうな笑みを湛えて僕は言った。

「そんなんじゃ間に合わないかもしれないよ?いいの?チャンスは年に二回。それも、近いんだぞ」

「なら、明日は、一度二人で歯車城に行こう」

「え、僕はここにいる」

「お前は行かないのか?」

「やだよ僕。身体能力には自信無いんだ。...おい、なんで鍵をちらつかせる…投げないで!!砂漠に落ちたら二度と見つからないから!分かりました、僕も行きます!」

「そうか。良かった」

意地悪に頭上に伸ばされた手を下げる。掃除の為外されていた天窓を戻して、大人しく次の部屋へ向かった。 スートは少し、ため息をつきながら。


「ご馳走様でした」

「お粗末様…俺、風呂入ってきてもいいか」

「分かった」

夜も更け、二人は新鮮な野菜と卵とで互いの腹をそれぞれ満たした。クロイヌが汚れた服を無造作に脱ぐ。衣紋掛けに掛けられた彼のマフラーの汚さに驚いたスートが、それをそのまま洗い出した。

「悪いな」

「こんなに汚くなる前に、ちゃんと洗おうね。これ、黒にしか見えないけど、元は違う色みたいだよ」

「洗ったら余計ほどけるかと思った…だから、洗わなかった」

「あー…結構大切な物?僕強めにごしごし洗っちゃったな。裁縫道具でもあれば、見よう見まねだけど繕ってあげる」

「そうしてもらえると有難い。これ、マスターの形見なんだ」

「うわ…どうしたらこんなにぼろぼろになるんだ」

「金具やネジ、歯車に引っ掛けて破いた」

「大切にしなよ。これ結構いい布…ん、これ、赤だ。それにこの端の小花模様…これ、僕の母さんが作った物じゃないか!?」

ぼろぼろの黒い布だと思っていたが、洗うと赤い、端に小さな花の刺繍のある、スートの物と同じ作りのマフラーだった。きっと母親が家族、父親と僕…に編んだものだろうと想像に易しい。

「お揃いなんだね。兄弟みたいだ」

「マフラーもチョーカーも、だな」

「...」

真剣な顔でそう言う。彼に対して綻びかけた気持ちが、また静かに離れていくのを感じた。天然なのか、わざとなのか。

「終わったよ。さあ干して」

「…スート、俺何かお前の気に触ること言ったのか?」

「いいから、早く!!」

びしょ濡れのマフラーを腕に押し付けられ、クロイヌはとても戸惑っていた。


「スート、いいか?」

「いいよ。明日の事、説明してほしい」

良かった。もうスートは怒っていない様だ。意思に関係なく揺れだす尾を抑え、部屋の戸を開けた。ぱちん。糸を切る軽い音がした。繕われたマフラーが、スートの腕の中に眠っている。

「はいこれ。直したから」

「…ありがとう」

どういたしまして、と少年は当たり前のように軽く笑った。襲われて連れ去られて無理やり従わせて、それについさっき喧嘩したこと、もう忘れてんのか。クロイヌは首を傾げて疑問に思う。

「何ぼーっとしてんのさ。明日、何の為に…危険を冒してまで、歯車城に行くの?」

スートに問われて、ようやく彼は話を始めた。

「いつ給油なのか、正確な日時を知りたい。そこから逆算して計画を立てたい。もし後三日しか無いようなら諦めて次の機会を待つし、ひと月後ならそれに合わせて考える」

「なるほど。層ごとに認証用の鍵が必要なのは知ってる?僕は最下層のだけだから、殆どアテにならないよ。あそこ正直出入り自由だし」

「マスターが、第二層の鍵を追放される前に複製していた。それでそこまでは行ける…ただし、おそらく給油の日を知っているのは、制御系の集まる第一層か、最悪最上層だな」

「君は、どこまで行ったことがある?」

「歯車の上、街の中で無くても良ければ最上層まである。けれども今回はそれではいけない」

「情報をつかむ程度までは近づきたいわけか…」

ううん、と二人は頭を捻る。

「第二層に、父さんの知り合いはいないだろうか」

「いたとして、どうやって探す?」

「んんー...昇降機で上る人から鍵をちょっと拝借する…とか」

「…考えが大分物騒になりつつあるな」

「囚人に仕立てあげるほど外道では無いよ」

目線がかち合い、どちらからともなくくすりと笑う。

「朝行った方がいい。あそこは上に行けば行くほどねぼすけだから」

「そう言えば君、随分早く僕を連れ去ったもんね。いいよ、もう寝ちゃおうか」

マスターのベッドは、結局まだ荷物置き場になっている。二人はまた、床に寝た。


誰か、横にいる気がする。それも、起きている誰かが。そんな予感がして、クロイヌは身を起こした。月光の射す中、スートが座っている。

「…眠れないのか?気分が良くないのか?」

びくりと肩を震わせたスートが、こちらを見て微笑んだ。

「…ううん。眠れないだけ…なんか、ドキドキしちゃって。胸が高鳴るんだ。」

本当に、こうしているだけでも息が切れそうな程だった。一昨日まで見ていた世界とは違いすぎて、夜でさえ輝いて見える。今までどうしてそれを知ろうとしなかったんだろう?と、考えずにはおれないくらいに。

「来い」

「…え?」

クロイヌがスートの手を引いて、薄暗い中を移動する。三つ目の戸を開けた時、風が二人の前髪をさらった。

「わ...あれ、歯車城だな」

「一つしか無いだろう。あんな馬鹿でかくて明るい幽霊城」

視界のほとんどを大きながらくた、もとい歯車城が覆っていた。ぎい、ぎいという重たい音が聞こえる。下から登る沢山の煙が、上からの光に照らされて輝いた。

「…あんなに、上は明るいのか」

「ああ。ガスに加えて、マスターはそこでエレクトロニクスも研究していたらしい」

「…それも、過去文明の遺産か」

「幽霊城には相応しいだろ…気をつけて、こっちこい」

きいきいと音を立てる梯子を登り、急勾配の階段を降る。じりじりと壁に沿って進んでいくと、パラサイトの反対側にたどり着いた。

「しゃがめ」

「うん…あ」

二人の頭上には、汚いくらいの星空が広がっていた。星座を形づくれない彼らには、ただ ペンキを撒き散らしたような星空 として目に映る。

「初めて、見た…空の他に何も無い。虚空みたいだ。吸い込まれそう」

「星だって砂だってあるぞ。目の奥が痛くなるような黒だろ。」

「最下層では、空なんて見えないし、真っ暗だと何かあった時大変だって、常に薄明るいんだ。すごい、な。僕の世界の屋根と君の世界の屋根はこんなにも違うんだ」

「…時々お前、俺が驚く程詩的な台詞を吐くよな。どこで覚えてくるんだか。どうだ?眠れそうか?」

瞬いて空ばかり見ていた両の目、今は只の黒にしか見えない深緑が、こちらを捉えてまたぱたぱたと瞬く。そしてこてん、とこちらに頭を預けた。

「…ううん。益々難しくなりそう。あのね、クロイヌ」

「なんだ」

「君が見つけたのが僕で良かった」

「…そうか」

出逢えたのが、と言うべきだろう、そこは。彼に負けず劣らず、無駄に情緒的な脳がそう呟いた。

来た道を戻り床に転がると、流石に眠いのかスートは欠伸を溢した。閉じかけた瞳には、まだ星が瞬いているようだ。おやすみ、と声をかけるとそのままその星空は閉じられていく。


朦朧とした意識で朝靄の中立ち上がると、クロイヌはもうしっかり着込んでいた。慌ててつなぎを着ようとすると、古いが綺麗な服をクロイヌから手渡される。

「なんだこれ」

「マスターの上着とスラックスだ。第二層に入るのに、そのつなぎじゃいけない」

確かに、クロイヌは以前と同じマフラーとポンチョ以外は小綺麗なコートとズボンを着ていた。納得して袖を通すも、中々着るのには苦労が必要だった。

「似合うな。マスターみたいだ。あ、マフラーは巻いてけよ。チョーカーあるから」

「そうだね…って、誰のせいだと思ってるんだ」

クロイヌが、にやと犬歯を見せる。歯車城と接するベランダへ移動すると、もうそこから鉄製の棒が伸びていた。

「上に上がるには、リフトを利用する。念の為、五番と七番の整備をしてくれ」

「分かった。帰りも、そのリフトだよな?」

「安心しろ。専用の革手袋を用意した」

「あっ…やっぱそっちなんだ」

スートが苦笑する。あんまりあれは好きになれなさそうだ、と。

「大丈夫。見た所設計図と同じだ」

「よし」

小さな円筒状の箱に乗り込んだクロイヌが、スートに手を伸ばす。

「エスコートするよ。マスターの息子」

「宜しく頼むよ。できたら帰り道もね」

「それは約束しかねないな」

スートが、やっとのことでリフトに乗り込んだ。二人乗れればぎゅうぎゅうで、身体はだいぶ密着してしまう。開いた隙間からからクロイヌが脚を伸ばし、つま先でレバーを蹴飛ばした。

「さてと。潜入開始」

ぎこぎこと音を立てて、リフトは上昇を始める。


#3

小さなパラサイトから伸びた鉄柱と二本の鎖は、その先の大きな歯車城の南端に繋がっていた。その丁度中間に、簡素な造りのリフトが揺れている。定員を明らかに超えているそれは、どちらかが話す度大袈裟に揺れた。

「うわ、下に砂漠が広がってる...しかもこれ、結構高いよね?落ちたらどうなるの?」

「下を見るな、考えるな」

「しかも、扉閉まりきってない気がするよ…?このキイキイ言う音、これは」

「黙ってろ。至近距離で喋りかけられる俺の身にもなれ」

素っ気なく返されて、スートは黙った。流れてくる蒸気に視界が阻まれ、より恐怖心が募る。本当にこれであちらに着けるのか?この蒸気の先に地面はあるのか?等々。

「着いたぞ」

リフト全体が大きく揺れ、すぐ足元に鉄の地面が見えた。揺れる箱から降りるのは案外難しくて、結局尻もちをつく。

「いて…」

「急ごう。昇降機は中央か?」

「確か。場所は知ってるけど、乗ったことは無いな」

一昨日までの全てだった最下層は、随分と窮屈に思えた。人ひとりやっと通れるような機械ばかりの通路を抜ける。途中で仕事仲間とすれ違ったが、身なりの違う彼に誰も気付かず、ちらりと見た後興味無さげに自分の仕事に戻っていった。走りながら、チョーカーが見えないようにとマフラーをしっかりと巻き直す。トロッコに飛び乗ると、中央を目指しどんどん加速した。操作を覚えてはいるが、悠々と最下層を見学できる程のいとまは無い。

「凄くないかな僕。メーター振り切ってるかもよ?」

「景色が線の様だ…これ、止められるのか」

流石の彼も少し怯えているようで、耳が殆ど髪に埋もれていた。速度を調整し、終点の壁の直前で止める。薄暗さを背景に幾つかの火花が飛び散った。互いの頬を汗が伝う。一つ深呼吸をすると、飛び降りて入り口を探した。

「ここだ!」

「分かった。乗り込もう」

周りの機械に比べ幾分かしっかりした造りの昇降機に乗り込む。数字を頼りにして鍵を差し込むと、それを合図に足元が動き出した。

「う、動いた…!」

「その為の昇降機だろうしな」

ごうごうと搬器は登っていく。最下層と第七層の機構部を抜けると、第六、第五と上がるに連れ、機械は減り、人々の顔には笑顔が増えてくる。第二層は整然とした街並みが揃っていた。


ぎぎ、と扉が開く。クロイヌは足を踏み出したが、スートは暫くその場で動けず、外の風景に驚いていた。

「…すごい。ここは、こんなにも、物が溢れているんだ」

昇降機が面する大通りには、沢山の店が軒を連ねている。新鮮な肉や野菜、上質な革や布の店、本や紙の並ぶ窓、美しい装飾品の数々から、最下層と比べようも無い程ここは富んでいる事が明らかだった。用水路が流れ、噴水に繋がり、その上の橋に車や山羊、美しい身なりの人々がゆっくりと歩いている。天窓から注いだ光が鏡によって増幅され、ここを、その下の階層を照らしていた。

「驚くな。ここが初めてという風を醸すな。怪しまれたらどうする」

クロイヌが小声で忠告する。こくこくと頷いて、ぎこちなくクロイヌの隣へ足を進めた。路地裏まで歩くと、壁にもたれかかってしゃがみこむ。

「びっくりした。歯車城の中に、こんなにも裕福な場所があるなんて」

「最上層は、こことも比べ物にならないと聞いた。マスターが一度、行ったことがあるらしい」

これ以上の裕福を、スートは想像出来なかった。それに加えて、ここに父親が住んでいたことも想像し難い。

「早い所、昇りそうな人を捕まえよう」

「どうやって探せばいい?」

「そうだな。乗ろうとした人に声をかけるとか」

「じゃあ、僕に一つ考えがある。教えたら、その通りにやれるか?」

「分かった。言ってみろ」

ごそごそとスートがクロイヌの耳に言う。彼の犬の耳がぱたぱたと動いた。


晴れた日差しがさんさんと射す、第二層中央道路。最上層に用事のある彼女は、昇降機に乗り込もうと道を歩んでいた。そこに、フードを被った人物が近づく。

「お嬢さん、少しお尋ねしたいことがあるのですが、お時間宜しいですか?」

不審な人物だと、無視して入ろうかと最初は思った。けれども、フードの中の二つの紅玉と目が合ってしまってからは、そんな考えはどこかに飛んでいってしまう。澄んだ瞳、高い鼻筋に、笑顔を作った口元から健康的な白い尖った歯が見えた。ここ第二層には珍しい出で立ちだと、つい彼女は目を奪われてしまう。

「貴方は何者ですか?何を聞きたいのですか?」

「私は第一層のブラン。うっかり鍵を無くしてしまいまして、困っていた所です。もしよろしければご一緒させて頂いても?」

上等な外套やスラックス、柔らかな物腰、何より気品溢れるその見た目から、彼女はあっさりとそれを信じてしまった。頬を上気させて、首を縦に振る。

「いいですよ。その代わり、私は最上層に用事があるので、鍵を貸すことしか出来ないのですが」

「それは都合が…いえ、残念ですね。美人と過ごす時間が短いとは」

歯の浮くような台詞もざらに似合う、いい男。彼女がそんな彼を先に乗せようとした所で、静止が入った。

「少しお待ちを。連れがそこにいますので」

そう言って連れてこられた、橙色の髪の少年。小間使か、年下の友達か。

「可愛い男の子ですね。小間使ですか?年少のお友達?」

「いえ、こう見えても兄弟なんですよ。なあマフ」

「…はい。僕は彼の兄弟です」

声からも顔つきからも、兄弟だとは信じ難かった。けれども同じマフラーや、彼の目からは嘘をついていないことが明らかだ。何か事情があるのだろうと、彼女は微笑む。

「ブランは優しいお兄さんなのね。三人で乗りましょう。」

「ありがとうございます」

「…ありがとう、ございます」


女性は昇降機に残り、上へ上がっていった。にこやかにクロイヌは手を振り、彼女を見送る。如何にも人畜無害と言った表情を作っていた彼の顔は、数瞬後にはもういつもの仏頂面だった。

「…なんか釈然としないな。僕、終始君と同い年に見られてなかったみたいで」

不満げに彼がそう零す。クロイヌが鼻で笑った。

「雰囲気の違いかもな。俺はお前より明らかに知識を持っている。机上の物の話だが」

「それに君、結構本気で演技してたよな。なんだあの柔和な笑顔」

「女性には優しくしろと教わった…ちゃんと行動するぞ。朝の内に帰りたい」

クロイヌが走り出す。スートも小走りでそれについて行った。それと、貴族然としたあの振る舞い。あんなもの一体どこで身につけたんだろう。上層部に行ったことのない彼にも分かるほど、その振る舞いは俗世離れした何かがあった。


第二層の賑やかさと打って変わって、まだそこに人影は見えない。そもそも、日も入っておらず薄暗かった。ここは研究機関や城の運転が主なのか、無機質な雰囲気が漂う。

「あれが中央制御装置か?コンパスと地図があれば、そこから計算できるかもしれない」

「分かった。行こう」

大きな機械が中央部、剥き出しにそこにあった。装置を操作すること自体には沢山の鍵を要したが、地図は平たい板に打ち付けられているだけだ。ご丁寧にも、現在地と思しき場所に磁石の印が付けられている。

「これだけじゃ正直分からないな。もっと正確な…」

「そうだね、微妙だ…ん?

どうした、クロイヌ」

彼は固まり、斜め後ろをじっと見つめた。スートも身構え、そちらを見る。

「伏せろ!」

「うわ!?」

クロイヌがスートの肩を掴み、そのまま床に自分ごと叩きつけた。軽い銃の音が、頭のすぐ上を通過する。

「護衛だ!匂いからして数は多くない。突破して今日で日数を掴むぞ」

「僕は何をすればいい!?」

「自分の身を自分で守ってろ。俺を助けるのはまあ無理だろうから」

スートは言われた通り、大きく横に身を引いた。クロイヌの方向に銃声が響く。自分を守ることしか求められない自分が歯がゆいが、今きっと彼の役に立てるのはその指示に従うこと、それだけだろう。それに、彼がたった敵二人に負けはしないだろうという確信があった。


クロイヌは身を翻し、制御装置の真後ろに回る。ここを撃ち抜く事は流石に不可能な筈だ。案の定、武器を下げる気配がする。敵の片方が随分軽い足音で後ろに回った事が分かった。それに続き、武器が捨てられる重い音が響く。ほぼ同時に前方の敵が跳ねてこちらに飛び交ってきた。肉弾戦に持ち込むなら、一対二は不利だ。そう判断し身を低くしてそれを交わすと、機械の上に飛び乗る。

「うわああ!壊れちゃうよ機械!やめて!」

男の悲鳴が上がった。声を元に場所を推定してそちらへ走る。人の目よりやや優れた獣の目が、暗闇の中その影の位置を掴んだ。

「そこか」

「ちょっと…!グレイス!この人強い!逃げて早く!…うぎゃっ」

薄い胸を蹴飛ばした感覚があったが、倒れる気配はしない。そんなに大きな図体では無いのに、持ちこたえていることが不思議だった。ともあれ、片方が気絶している間にもう片方を狙う。相手はすぐにこちらに殴りかかってきた。容易にそれを交わすと、軸になった足を狙って払いかける。当たったのは確かだった。想定外だったのは、その足が関節が無いかのようにぐにゃりと曲がり、力を逃がしたことだ。

「…は?」

バランスが一瞬崩れ、立ち直そうとした瞬間に敵の足が自分の足に絡む。今度は自分が完全にバランスを崩し、後頭部を強かに床に叩きつけた。思考が飛んで、何かを考える事が難しくなる。ちらりと残った意識に、敵二人の姿が写った。蛇のような鱗が浮き上がっている女に、下半身が大蜘蛛の、目が四つある男。キメラだ。同族かとぼんやりと思った。


スパナ、銃二丁、何かの袋をそれぞれ見つけ、彼らが戦っていたであろう場所へ急ぐ。物音がしないことを不審に思った。銃声が先程まで響いていたそこは、不気味なほど静かだ。人影が見えた場所を見る為じりじりと動き、それを観察する。信じ難い事に、クロイヌは力無さげにくたりと身体を垂らして、男に糸を巻かれていた。紐の切れた操り人形の様な、無惨なそれを、スートは直視できなかった。その糸が男の、蜘蛛とのキメラの男が吐いた糸だと信じられるまでにも、また時間を要した。

「…そこ。さっき逃げてた腰抜けがいるね?あたしの目には誤魔化せないからさ」

女の声が響く。壁を越えて見えているのか?それとも見つかっていたのか。とにかく、何とかしなくてはいけない。ゆっくりと足音が近づいてくる。その前に、なんとか。

右手が腰のスパナにのびる。冷たい感触で身体にその存在を知らせた。人を傷つけたいなんて、思ったことは一度も無い。けどそれ以上に、今は彼を助けるべきだと確信していた。何かを引きずる様な音が、近づく。


飛びかかってきた女を避けた彼が、光る二つの目玉をめがけてスパナを放った。それがしっかりと額に当たったのは、殆ど奇跡に近いだろう。きゅうと床にのされてしまった彼女を見て、もう一人の男は途端に慌てた。

「グレイス!!嘘でしょ、僕喧嘩苦手だ!」

ぎっとそれを見つめ、力の限りに叫ぶ。

「彼女の命が惜しければ、言われた通りに行動しろ!」

そう言って、彼女の腹部に銃口を押し付けたのは、ほぼ反射のようなものだった。自分でも判らないような、内臓を焦がす様な怒りが湧き上がる。そのあまりの殺気に、下半身が蜘蛛の男は震えて従った。


大蜘蛛のキメラに、気絶した女の全身を彼の糸で包ませる。あの柔らかい関節なら時間稼ぎにしかならないかもしれないが、やらないよりはマシだ。彼女の頭にずっと銃口を突きつけて、刃向かうことの無いようにとキメラに念を押しておく。右腕で重たい身体を持ち上げ、ぐったりとしたクロイヌの鼻に頬を近づける。息はあり、ただ気絶しただけだと分かって安堵した。銃は掴んだままに彼の糸を解く。その途中で彼は目を覚まし、こちらを見た。

「…怖い目をしてる。狼みたいだ」

「怖かった。何か手違いでこの人を殺しちゃうかもって。でも、それよりもずっと、友達を失うかもしれないってことに怯えていた」

クロイヌは、自分の言葉が正しく伝わらなかったことを悟った。彼の今の瞳は、怖れている瞳、では無く、誰をも黙らせるようなぎらついた肉食獣の瞳だと伝えたかったからだ。よく見れば、彼は女の頭に銃を突きつけたまま自分の介抱を試みている。正直ぞっとした。彼の精神が正常か異常か、判断がつかなかった。


自由を取り戻し、クロイヌがよいしょと立ち上がる。スートはそれを心底嬉しそうに見ると、未だびくびくと震えている蜘蛛の男を睨みつけた。

「あと何日で給油なの」

「は…?え、給油?」

「あと何日後にオイルを得られるのか、と聞いた」

低い少年の声に、キメラは更に震えて答える。

「はいっ!たしか、昨日が十日前とか言ってました!」

「それは、信頼できるんだよね?」

「そうだと、思います…僕、字は読めないし只の警備員なので、話を聞くしか無いんです」

「分かった。それと…」

「はい!」

「彼女を助けたければ、僕等とやり合ったことは忘れて。管理者が来たら、ここに何も異常は無かったと言うこと。さも無ければ、二度目は容赦しないからな」

キメラはただこくこくと頷いた。クロイヌはスートが運んできた物を拾い昇降機に乗り込む。スートはぎりぎりまで女を掴んで脅し、昇降機の手前で手放した。扉が閉まり、男が必死に女を介抱する画が上に上がっていく。最下層まで下がるまでに、二人は大きくため息をついて、身なりを正した。


キメラの糸に締め付けられ、歪んでいた外套とポンチョを整える。不意に胸のポケットが、ちゃり、と音を立てた。

「残念だったな。俺の胸ポケットにお前の鍵が入っていることを知っていれば、拘束されている俺から鍵を奪って逃げれたのに」

「オイルを渡す。そういう約束だったろ。おまけに僕は、自分の首の後ろの錠を外せる程器用じゃない」

軽口の応酬。クロイヌはずっとスートの身体が細かく震えていることに気付いていたが、敢えてそれには触れなかった。

「着いたぞ。さあ、帰るか」

「うん」

最下層の中央から南端へ、何を話したかスートは何一つ思い出せない。


最南端にもうリフトと鉄柱は無く、ただ以前のように縄が引っかかっていた。

「なんで帰りはこれなんだ?」

「リフトを放置しとくと、俺ら以外の誰かが侵入するかもしれない。リフトを今から呼ぶようにすると、それを待っている間に捕まるかもしれない。それに大抵最後は逃げ帰ってるのがセオリーなんで、こっちのほうが都合がいい」

「納得出来なくもない。てか結局、僕は抱えられるんだな」

「配慮して、前より安定した抱き方にはしている」

「なんだろう、この余計屈辱な感じ」

小脇に抱えられるのでは無く、横向きに抱きかかえられている様な状態だ。彼の少し上げられた膝に尻を横向きに下ろし、首に腕を回している。空いた腰を、彼の片腕が支えていた。足元に広がる砂漠を見て、身震いする。

「やっぱり好きになれそうにないや…」

「そう言えばこの抱き方、女性にすると喜ぶってマスターから教えられたな」

「殴るぞ」

「冗談だ。余裕じゃないか」

クロイヌが柵を蹴飛ばした。強烈な力に身体が下に引っ張られる感覚がする。

「うわあああああ!!」

「五月蝿い。耳がもげる。あと腕締めんな。首もげるぞ」

さっきまでお前、抵抗できない相手に銃を突きつけてたじゃないか。しかも目が本気だったぞ。そんな突っ込みを飲み込んだ。


「あああああ死ぬかと思った」

「朝の方が生命の危機を感じた」

日は大分高くなっていた。朝食と昼食の間になってしまったけど、と食事を準備する。昨日見つけた料理の本を参考に、スートは野菜炒めと蒸し野菜の卵とじを作った。中々なんじゃないか?とクロイヌが褒める。スートも誇らしげにそれを食べた。

「さっき初めて知ったんだけどさ」

「なに?」

「俺とお前って、友達だったんだな」

思わず彼は、自分の料理を吐き出しかけた。そこからだったのか、僕達の関係。自分でも不思議な程のショックを受けた。もう否定はしない。スートは、自分とは全く価値観の違う彼にある種の愛着があった。同じ世界で、これほどまでに生を実感させてくれる彼が気に入っていた。

「…えーと、本当に君は僕のことをただ脅しに従っているだけだと?」

「そう思っていた。別に、そういう話をした覚えも無いし」

「ふーん...あのさ、流石に自分の好奇心や知的欲求に後押しされていたとしても、命をかけてまで脅迫に従ったりはしないよ」

「じゃあ、今までお前が俺に従っていたのは、ある種の愛情があったから、と?」

「…まあ、そういう事になるな」

馬鹿らしい問いを真剣にされる。君には恥じらいとかそういう感情は無いのか。

「俺は、マスターから幾つか教えてもらえない事があった。料理の作り方、子供の作り方…友達の作り方。聞いても自分で見つけられるだろって、返されてた」

「…まあ、それはそうだな。料理は僕が少しなら教えられそうだ。子供…も、まあいつか知れる時がくると思う。友達の作り方?

君はもう習得してるもんだと思ってた。少なくとも僕は、君と僕は友達なんだと思ってた」

やや突き放す様に、目の前の彼はそう言った。そして目を合わせ、少し微笑んでこう続ける。

「ねえ、父さんはきっとさ、これから自分で学ぶべき大切な事は教えなかったんだよ」

妙に説得力のある調子で。教えてくれないと怒る俺を宥めた、あの人の調子で。

「…そっ、か。」

ほけたように、そう彼が返した。できれば子作りくらいは教えといて欲しかったけどな。そう一人ごちる。

「あと九日」

「整備には一日しか当てられそうにないかな」

「銃二丁持ってたんだが、弾を忘れた...一度、買出しか拝借として貰いに行くことになるな。あのがらくた城に」

「じゃあその間ここの整備しよっか?」

「お前がそこまで嫌がる理由が分からん」

「冗談。僕がいないと君死んじゃうかもしれないしね」

「…その節は感謝する」

とりあえず、今日は残り全部整備に当てよっか。そう言うと、彼の眉は少しだけ歪んだ。


#4

全ての整備が終わった頃、歯車城から帰還してから丸一日が立っていた。思い出したように、ぐう、と腹が鳴る。そういえば香しい匂いが漂ってきていた。クロイヌ、と名前を呼ぶ声が聞こえたので、小走りでその方向へ向かう。


「出来たのか」

「ううん。まだ…ぼさっとしてないで手伝う!ほらお皿!」

「わ、分かった」

慌てたようにがちゃがちゃと食器を運ぶクロイヌを見て、スートは軽く微笑んだ。

ここにスートがやって来てから、食事が楽しみになっている。彼の料理が美味しいことも勿論要因だとは思うが、誰かと顔を合わせる、喋りながら食べる食事が、こんなに楽しい事だとは思わなかった。マスターにもこれを味わってほしかったなと少し思う。息子が作る料理の味を、三人で食事を囲んで話す午後を。

「焼けたよー。お皿」

「ん」

じゅう、と音を立てて野菜の入ったパンケーキが皿に落ちた。そこからほかほかと湯気が上がっている。

「あれ、一つだけなのか」

「言ったろう、料理教えるって」

焼きたてのパンケーキをテーブルに置かせ、代わりに生地の入ったボウルを渡した。ずしりと重いそれに、少しだけ彼はよろめく。

「ほら、油は引いたから、ゆっくりと流して。そうそう、円を形作るように…」

粘り気のある生地は、案外扱うのが難しい。徐々に軽くなっていくボウル。相反して、フライパンの上の丸は大きくなる。

「表面に泡が浮かんできた。端っこにフライ返しを入れてね、フライパンから持ち上げるだろ?ひっくり返す!」

彼の傷だらけの右手が、ぎこちなくフライ返しをゆるりと回す。僕は内心どぎまぎしていた。知らずのうちに唾を飲み込む。力を加え過ぎてしまったのか、生焼けの生地が少し広がってしまったが、綺麗な焼き色が現れた。

「うん。後は少し焼くだけだよ。僕お皿取ってくる」

「分かった」

方向を変えると、クロイヌの尻尾が丁度背に当たりこそばゆい。十分な大きさの皿を見繕って、水で軽く洗い流す。あと、今日から数えて八日。そこから後に、自分が此処に居られる確証は無い。

ぷつぷつと広がる黄色い泡が、ゆらりと脳裏で置き換わる。随分昔、珍しい炭酸を飲んだことを思い出した。仲間の誰かの誕生日で、その子のぶんを回し飲みさせて貰ったんだっけ。舌に乗った途端パチパチとした刺激が走る。それは一瞬で消えて、後は甘い液体が残るだけだった。

特別な日々はあっさりと去り、後には思い出となって残るだけ。もし、今の日常も舌の上の小さな気泡だったとしたら?そうだとしたら、どうだって言うんだ。彼に、彼のこれからの刺激ある人生に、僕といた十日間は遺らないだろう。日常のほんの楽しみだって、僕はもう朧げだ。現に、炭酸の味はもう舌に一片も残ってはいない。折角友達になれたのにな。僕ら、あと数日しか無いんだなんてな。

「皿、寄こせ」

ぼんやりとしていた彼の手の中の皿から、肘まで水が滴っている。はっと気づいたスートは、慌てて皿の水気を拭った。

「ごめんね!今渡す」

ひっくり返されたパンケーキは、先に焼けた面より少しだけ茶色くなってしまっている。

「食べよう」

「…!うん、食べようか」

ぼんやりとした様子のスートに、彼は首を傾げた。何でもないよ、とスートは笑う。あと八日、八日で終わることを、自分は喜ぶべき筈じゃ無いか。彼は必死に自分に言い聞かせた。


食器を片付け、空いた空間に二人分の肘が置かれる。向かい合う赤の鋭さに、スートはようやく慣れてきたようだった。

「あと、確実に動けるのは七日。その間にするべきことは、配管の確保、退路の確認、動作試験、ある程度の武器の調達…徹夜って、お前はやったことあるか」

「無い。今夜から明朝動きたい、ということか?」

「ああ。これまでは騙せる様な量、燃料やオイル、種なんかを拝借してきた。燃料はこつこつと貯めることができたが、液体のオイルとなるとそうはいけない。頂ける時にどっさりと貰った方が、都合いいと思ったから」

「その前に、尻尾は絶対に掴まれない様にしたいと。文字通りだな」

くすりと笑ったスートを、クロイヌがじとりと睨みつける。

「俺は一度、捕まってる。あいつらがどこまで約束を守るのか、それも微妙だ。できたらすんなりと拝借して、その後ぎりぎりまでここに籠っていたい」

「分かった。尽力するよ」

今から仮眠だな、そう言って彼は寝室へ移動した。尾の後をつけて、スートも布団に潜り込む。


夜になると、最下層の人々はすぐ家に戻り、燃料を節約する為すぐに眠った。それがどうだろう。ここ第二層では、沢山の灯りが煌々と輝いている。こんな早い時間に眠るなど馬鹿らしい、とでも言いたげだ。至る所に楽しそうな連れ添う家族、寄り添う男女が見受けられ、ガス灯がちらちらと星空を作り出す。けど、この前見た本物の星空の方が、遥かに美しい。自信を持ってそう言える、そう考えるだけでスートはもう狼狽えなかった。

「で、どこへ行くの?」

「そうだな。今ここに、あるだけの貨幣がある。どうせ幽霊城に寄生していないと使い道が無いから、今ここで武器や必要な物の費用に当ててしまおう」

「分かった」

二人の影が離れる。コートの腰布に隠された彼の尾が、窮屈そうに揺らめいた。


紙切れを幾つか、スートはクロイヌから渡されていた。こんな物が本当に弾と交換できるのか、甚だ疑問ではあった。けれどもそれは、確かに渡せば商品となって返ってくる。貨幣の存在は知ってはいたが、やはり驚かずにはおれない。

「クロイヌ?そっちはどうだった?僕はちゃんと弾を買えたぞ!しかも店の人が、おまけだって燃料型の爆弾もくれた」

「ああ。俺も、布地や嗜好品、種に生活用品…」

興奮気味のスートに対して、クロイヌはなんだか遠くを見ている様だった。なんだか彼の影に見知らぬ金糸が見えた気がして、スートは尋ねる。

「と、これは何」

クロイヌの尻尾にしがみつく、僕らより少し年下に見える女の子。問われたクロイヌの耳が落ち、尻尾も力無く下がった。目線は何処か遠くをさ迷っている。

「私はアズ。ねえあなた方、蜘蛛の男を知ってるでしょう?」

きらきらと光る二つの蒼。ふわりと踊る同じ色のワンピース。

「…さっきからずっとこの調子だ」

今度こそ彼は大きく溜息をついて、げんなりとこちらを見上げた。


アズ・トルマン。彼女は、最上層の首長の養子の娘だ。自由奔放に何一つ不自由なく暮らす、生粋のお嬢様。けれども、最上層に彼女と歳が近いのは、兄しかいない。その兄も父親の元で最近忙しいので、もっぱら警備のキメラが遊び相手だった。気の弱いが心の優しい蜘蛛の男、スー。彼は彼女の一番の遊び相手だ。けれども、昨日いつもの様に遊びに行った時、彼はびくびくと怯えていた。黒い犬。それとオレンジの髪の少年が怖い、とずっと怯えていたのだ。

「オレンジの髪なんて、ましてや黒い犬のキメラなんて、警備の中には居なかったわ。だから私、どこか別の層のキメラが入ってきたんじゃ無いかって思ってたの。見つけたら、友達に手を出さないでって怒ろうって。何より、とっても退屈だったんですもの」

金色の髪がぱさぱさと震える。笑っているのだ、彼女が。どうやらクロイヌは捕まったらしい。そう、彼女に。

「きっと貴方でしょ!ねえ、スーに一体何をしたの?」

きらきら光る彼女の目を避けるように、二人はそそくさと顔を見合わせ話し合う。

「どうする?」

「ここで大声で話したい内容じゃないな。何処か、店に入りたい。嘘を付いて撒きたい所だが、こいつどうやら少々厄介だ」

くそ、余計な出費だ。二人は同時に顔をしかめた。


「ご注文はお決まりですか?」

「シチューパイ、あと紅茶と林檎ソルベ!」

「水」

「水お願いします」

明るい料理店。大衆料理が主なそこでも、二人は倹約しようと料理は頼まなかった。店員が不審げにこちらを見る。個室を頼んだからって料金が発生したりしないよね、と情けない会話をこそこそ交わした。

「…お前、前俺に会ったことがあるか」

カーテンが引かれ、個室が生まれる。テーブルに着いた途端、唐突にクロイヌがそう言った。

「無いはずよ?どうして?」

「お前から、嗅いだことのある匂いがした。あんまりいい思い出じゃ無さそうな、舌の奥がじりじりと痛むような匂いが」

冷たい言い方に臆せず、彼女はマイペースに続ける。

「さあ。私はスーとよく遊んでるから、それが原因じゃないの?」

ぎすぎすした雰囲気が二人の間に漂った。スートがごく、と水を飲む。

「本題に入ろう。僕達は、蜘蛛の…スーって人とは、ちょっと遊んだだけだ。弾みで怖がらせてしまったなら、謝るよ」

よく言うな。確実にお前が一番怯えさせてたぞと胸中で呟く。獣の様に本能的で、人間の様に理性的だった。思い出すだけで身震いする。スートは友達になったと雖も、まだ何処か掴めなかった。彼では無い何かを、彼が腹の中に飼っている気すらしていた。

「嘘よ。私を子供だと思って見くびらないで…そうよ!私にはこの城の首長の父様と、その補佐である兄様がいるわ!その二人に貴方達の事を言ったら、どうなるかしらね?」

クロイヌの眉がひくり、と動く。スートも唾を嚥下して固まった。

鴨が葱を背負って来た、とスートは考える。

悪魔が面倒事を背負って来た、とクロイヌは考えた。

「君の父親が、ここの首長なの?」

「ええ。でも、私は兄様の方が好き」

「どうして?」

「だって…兄様はね、凄いのよ。この城をもっと良くしようと尽力してるの。父様は、ここの維持を目指してる。だから、兄様の方が好き」

「具体的に何をしようとしてるのかな」

「えっとね…女性の職業選択の自由、キメラを増やして労働力につなげる、そんな所かしらね。凄いでしょ!」

へえ、そういうことね。スートの目が静かに凍っていく。陽の当たる場所からは日陰は暗すぎて見えないということだ。少し考えれば想像に容易い。

「ふーん。それで、君の兄さんは下の層に行ったこと、あったりする?」

「この前視察したのよ。下の人々の事も忘れない、高い志しだわ」

「ああ、あのすごい大変だったやつ」

機械を全部一時的に止めるの、苦労したなあ。無駄なオイル使っちゃったし。嫌な思い出として記憶に新しい。

こんな奴に何話そうが無駄だろ。そう、冷徹なクロイヌの目が迫る。苦笑いが口角を上げた。

「…じゃ、じゃあ僕達はこれで」

「待って。私も、兄様みたく下を見に行ってみたいわ。それでその事を、父様と兄様に自慢したい」

動物園でも見るつもりなんだろうか。クロイヌの鼻から嘲笑が漏れた。スートの瞳は対照的に、真剣な光を帯びる。

「そんなハイリスク、できる訳が…」

「来て、そしたら僕達を忘れられるの?」

「勿論」

「よし」

彼はいつもの様な、何を考えているのか分からない緑の瞳でそう言った。嘘だろ、内心俺はそう呟いた。こいつはどこか、掴めない。


「静かにしててね」

「分かってるわよ!」

何を兄様とやらに話そうとしているのか、薄暗い昇降機の中できらきらと瞳を輝かせる彼女をスートが見つめる。クロイヌは軽く肩を竦めた。第二層から数分間。昇降機を使えば、ものの五分もかからずに最下層へ到着する。ぎいい、と音を立てて扉が開き、弾き出されたように彼女は飛び降りた。

「…ここ?」

「うん」

薄暗さに、少女が立ちすくむ。きっと上層の明るさに慣れた者にとっては、闇にも等しい照度だろう。

「鼻が痛いし、喉も痛いわ。目もなんだかひりひりする。それに、この重低音は何?」

「塵と煙と、時々燃えかすが舞ってる。このごうごう鳴る音は…その左の歯車と天井の歯車の音。これがいつもだよ。全部、この城を動かすためにこうなっているんだ」

先程までの様子と対照的に、少女は何度か咳をし、えずき、目をこすっていた。

「まだまだこんなもんじゃない。稼働部へ行く?君の見たがっていた、「下」を体感してみる?」

もういい、と言いたいのだと思う。彼女が口を開いても声が咳としてしか漏れない。よたよたと昇降機に入ると、そこでしゃがみこんでしまった。

「…どうかな。多分、これが君の見たかった物だと思うんだけど」

スートは終始冷静にそう述べる。もう戻ろうか、そう彼が言った。クロイヌも頷き、二人も昇降機に乗りこむ。第二層までは、ものの数分だ。


「じゃあ、これで俺達の事は忘れてくれ」

まだ少し、咳を出しながら彼女はそれを誓った。どこで付いたのか、上等なスカートの膝が煤で汚れている。

「ねえ、兄様はあれを、見たわけじゃないでしょ。だって、想像より静かで、居住に適してるって」

「ああ。君以外は現実を見てない」

「じゃあ、どうして誰も、現実を見ようとしないの?あそこを良くしようとしないの?」

幼さ故の疑問が、彼女の語調に強みを与えた。クロイヌは尚も突き放すように言う。

「さあな。それこそお前の父親にでも聞いたらどうだ」

「私、私が話すわ。あそこはあのままじゃ良くないって。人が住める訳が無いって。」

「勝手にしてろ。俺達を忘れるならな」

「…うん、分かった」

アズの透き通った蒼を見て、スートの目が二、三度瞬いた。最下層を見せるという僕の判断は、正しかっただろうか。正しく作用するだろうか。首長にどれほどの声が届くかは分からないが、少なくとも、被支配階級の僕達よりも伝わるのは確実だろう。

「じゃあ、ありがとう。知らないそこの人々」

「じゃあな。知らない子供」

もう街灯も消えかけた夜のとばりの中を、彼女は駆けて行った。二人で顔を見合わせ、安堵の溜息を吐く。

「まいったな。時間を無駄にした」

「でもさ、もしも僕等の生活が改善される可能性があの一時にあったなら、僕は嬉しい」

ふわりと笑うスートを、甘いなとクロイヌが横目だけで見た。耳はげんなりと頬まで下がっている。

「どうだかな…さて、次は配管を頂戴出来そうな目処を立てよう。出来ることなら飛翔蒸気機関も」

「どうしてそれがいるんだい?」

「それを使い、俺が囮になる。上層で暴れてれば確実に下層は手薄になるだろう。そこでお前がオイルを拝借。どうだ?」

「うん、いいんじゃないかな」

深夜でも明るい第二層を、二つの影が揺らめいた。


最上層の、とりわけ高級な住居。首長であるトルマンとその補佐であり彼の養子、へゼルが話し合っていた。革張りのソファーに大理石のテーブルと、随分と豪華な住まいである。そこに訪れる、一つの影。

「父様!兄様!私、最下層へ視察に参りました!」

如何にも強い興奮を示す彼女に、兄は驚き心配して、首長は軽く口角を上げ、お転婆な行動をたしなめた。

「危ないじゃないか。そんなことして、こんなに汚れて…どうだったかい、何か勉強になった?」

「とってもなったわ。兄様、今すぐ貴方も最下層へ行って。そこでちゃんと現実を見て」

軽い気持ちで尋ねたヘゼルだったが、アズの瞳の真剣さに驚き、一つ息を呑んだ。

「…何を言い出すんだ。もう遅いよ」

「それでも、よ!あそこはとてもじゃないけど人が住める場所じゃ無いわ!眠るなんてもっと向いてないと思うの。涙と鼻水と咳、それに耳鳴りが今も止んでないわ」

「そんなに…?でも、あそこに人がいないとこの城は動かないんだよ」

「城を動かす意味なんてあるの?」

「アズ、君はまだ幼いから知らないかもしれないけど、この城で僕達は“悠久の砂漠”を越えて、神なる大地を探しているんだ。そこまでたどり着けば、もう動かす必要は無い…そう言えば父さん、いつごろこの城の操縦は教えて貰えるんですか?」

「この城は、過去文明の頃に造られたのは知ってるよな?その技術で、何もしなくても進むようになっているんだ。だから心配は要らない」

静かに笑みを浮かべる首長に対し、アズは強い口調で返す。

「…父様、本当に?だって私、五歳の誕生日会で外に出た時、北に大きな四角い岩を見たのよ。それと同じのが、昨日も北に見えたわ。この城、ただ足踏みしてるんじゃ無くって!?」

首長の目が、その上の眉が少しばかり動いた。すかさず、へゼルが反論する。

「そんなこと無いだろう。終末戦争の生き残りが、叡智を集結して我々子孫の為に作り上げた城だ。そんなことある訳ないさ。ね、父さん」

首長は食い気味とも言えるほど、即座に返答した。

「ああ。有り得ないな」

「でも、調べたことはあるの?」

「確かに…アズの言う、変わらない石の事は調べるべきかもしれない。今度、計測してみようか?」

間髪入れずに、首長が口を挟む。

「そんな無駄骨、お前が折らんでもいいだろう。私が調べるさ」

「そうですか。ありがとうございます」

「いや、やるだけの価値はある…けどな、もう遅い。二人とも寝室へ向かってくれ」

初老の男の目元に、優しげな皺が刻まれた。如何にも我が子の身を案ずるような、少し出来すぎた表情である。


二人が去った後、広い首長室にふらりと男が現れた。爬虫類の鱗が目の下を走る男は、細い目をきりりと開いてこう述べる。

「首長。本日もお疲れ様です」

「全くだ。あの小娘、どこでそんなことを仕入れて来たんだ。おい、ニトカを呼べ。出処を調べるんだ。それとレオン、お前はアズに怪我をさせろ。なに、動けなくなるか喋れなくなる程度でいい」

男は暫時言葉を詰まらせて、その後冷静に続けた。

「…養子とは言え、ご息女さまでしょう?それにへゼル様、たいそう彼女を気に入っておりますよ」

「構わん。あいつは明日勉強の為第一層に送られる。今夜までは、手を出さないように」

何か呟くと同時に、男の姿は消えた。カメレオンとのキメラである彼は、そのままふらりと仲間の元へ向かう。

「気味が悪い動物だな」

首長が吐き捨てる様に呟いた。


ニトカ、と呼ばれた人物は禿げかけた頭と口元に大きなスカーフを巻いた、太った男だ。少女の寝室に入り込むと、口元のスカーフを外して、異様な程に大きく尖った鼻とその鼻腔を彼女に近づける。少女の匂いに紛れて、オイルの匂い、煤の匂い、そして…彼にしか形容し感じ取ることは出来ないのだが、二人分の体臭を嗅ぎつけた。片方は小柄な男でこれまで嗅いだ事は無く、もう片方は恐らく犬と人のキメラで、僅かに嗅いだ記憶のある匂いだった。男はその醜悪な顔を隠すと、部屋を出て報告に向かう。


がたごとと若干音を立てて、第二層のトロッコが監視者のいない暗闇を悠々と駆けていた。ここには侵入者は来ない、と想定されているのだろう。絶対的な平和社会…そういうのを、なんと言うのだったかとクロイヌは一瞬考えた。

「上々だね」

「ああ。お陰で財布は空っぽだけどな」

二人は運送用トロッコに、買い付けたばかりの飛翔蒸気機関を積んでいる。少し壊れていて破格の値段だったが、直せばまだまだ使えそうだった。元々壊れた物を修理するのは得意なスートは、楽しそうに帰路を歩んでいる。

一方のクロイヌは、ずっと顔を歪めていた。さっきの喉の苦みが、じわじわと広まりつつある。あの娘は何者だ。いや、記憶が無くなる以前のものだと意味が無いだろうけど。頭の片隅から、そんな頭痛がずっと離れない。

唐突にぎしり、とトロッコのスピードが一瞬落ちた。後ろに傾いた様にも思えた。明るい第二層に、黒い影が揺らめいている。殆ど反射で、クロイヌは空中を殴った。確かに、皮膚に当たる感触がする。それが人の物かどうかまでは分からなかった。

「痛いですね…どうして気づいたんですか、その犬キメラ」

空中から現れでた長身の男が、不服げにこちらを見る。

「困りますよお二方。貴方達がアズ様を下へ連れていったお陰で、あの方を傷つけるしか無いのですから」

細い瞼とその下との間隙の中、二つの金色がじっとりと輝いている。目の下の鱗がそれを照り返して光った。

「…おい、誰だあいつは」

「分かんないけど…アズってあの子、だよね」

くそ、やっぱり厄介事だ。クロイヌは内心臍を噛んだ。

つま先から男が消えてゆく。それが完全に背景に溶け込むのと同時に、クロイヌは姿勢を低くした。黒い影がその後方へと跳ねる。その瞬間脚を思い切り跳ねあげ逆立ちの様な姿勢になると、踵に何かが思い切り当たったことが分かった。影だけでは場所や蹴りは特定できても、上体の動きは把握しにくい。頬を掠る腕を避け、脚を崩しにかかる蹴りを避ける。再び体勢を低め、じっと影の動向を伺った。下から殴ろうと飛び交ったクロイヌを、男が高く跳んで避ける。それとトロッコが家の下を潜るべくトンネルに差し掛かったのは、ほぼ同時の出来事だった。クロイヌが一歩退いて間合いを取る。男の影がトンネル前の壁にしっかりと映し出された。その腑の辺りに重い蹴りを入れると、どさりと荷台の上に影が

落ちてくる。

「クロイヌも頭下げて!ぶつかるよ!」

彼が素早く座ると、トロッコは何事も無かった様にトンネルを通過した。


気絶している男の両腕を縛る。こいつは武器も何も持っていないから姿さえ見えれば大したことは無いとスートに言ってやった。遅れて目を覚ました男の顔に、明らかな苛立ちが浮かぶ。

「貴方達…こんなことして、今度こそ本当に首長が黙ってはいませんよ。私には早く帰って、哀れなお嬢様を傷つける任務がある」

スートは彼に近づくと、丁寧な物言いでこう尋ねた。

「その、彼女というのは、金髪で青いワンピースを着た少女のことですか?」

「ええ。矢張りお二人がお嬢様を…ニトカの嗅覚も大したものですね。私の敗因は、出しゃばって貴方達を殺害しようと企てたこと。何せ少年二人と言われたので、喧嘩にお強いことまで想定していなかった」

男の腰差し、胸元からそれぞれ出てきた凶器が並べられている。用途が違うのか、刃先や装飾はそれぞれ異なっていた。

「どうして、傷つけなければいけないのですか?」

「彼女はですね。最下層の現状を知り、首長に自ら述べたのです…それと、この城が動いて無いんじゃないかと言う疑問を呈しました。」

鼻が効くんだな、そうクロイヌはちらと思う。最下層を気にかけてくれる人が上層にいて、更に行動に移してくれたことが、スートには少し嬉しかった。そんな彼女が、どうして父親に狙われているのかと思うと、言葉に不思議と熱が篭る。

「実の娘なのでしょう?その理由だけでも、傷つける必要は無いはず」

「いえ。彼女は、養子です。元々才覚のある御兄様だけを養子に、との話でしたが彼がそれを拒んだのです。言ってしまえば、本意では無い養子。なので殺すことは出来ず、でも喋れると困る。そういった説明でした」

「彼女を救う事は可能ですか?」

「おい。いい加減にしろスート。もう邪魔者はいないんだから、早く昇降機に向かってくれ。こんなとこ、もう用は無い」

クロイヌの声には、焦りと苛立ちが込められていた。確かに真夜中の内に退路を確認する、そういう手筈ではあった。

「落ち着け。彼は、出しゃばってと言っていた。僕らを狙う敵は少なくとも今は彼一人だ」

「良かったな。もうそれでいいだろ」

「けど、あの女の子はどうなるんだ」

「さあ。俺は幽霊場を憎んでる訳じゃない。あれがどうなろうが巻き込まれて誰が死のうが関係ない」

「見捨てるのか。君は、それを知って尚」

「ああ。それが悪いのか」

「悪いさ。どうして真実を知って動かない。僕や君やマスターみたいな、この城によって不幸になる人間を増やすつもりなのか」

クロイヌが、スートの胸倉を突然掴んだ。ぶちりと音を立てて釦が一つ外れ、踵が持ち上がる。互いの鼻先がぶつかり、荒い息がクロイヌの犬歯の隙間から漏れた。彼は、今にも喉元を切り裂きそうな狼の目をして睨みつける。スートはそれを、しっかりと見据えた。幾分か冷静さを取り戻したクロイヌが、スートに低くこう言う。

「…お前と俺とは、分かり合えない」

「そう」

「どうして分かり合えないんだ?お前が優しくて俺が冷酷だからか?お前が人間で俺がキメラだからか?答えろ、スート」

最後の声色は、殆ど獣のそれだった。低く濁り、断末魔を待つ捕食者のものだ。

「違う。僕はあの城の仲間を救いたい。君はオイルさえあればそれでいい。それだけの違いだ」

「偽善者め。お前がマスターの息子で無ければ、喉元を噛み切ってやったのに」

「やらない善よりやる偽善だ。命の恩人に牙を向くなんて、犬ですらしないことだろうな」

襟と、特に掴まれた赤いマフラーはぐしゃぐしゃだった。鋭い爪が刺さった所には、穴すら開いている。緩んだクロイヌの指から、それが滑り落ちた。

「それと、クロイヌ。君は今『考える葦』なんかじゃない。マスターの命令だけに従って、盲目的に動き続ける幽霊だ…泣く泣く命令に従っている、この人と同じ。マスターが、僕の父さんがそれを望んだのか?」

クロイヌが腕を振りかぶる。スートは大人しくそれに殴られようとした。けれども拳は彼の頬を打つ事は無く、そのままそこに留まっている。彼は両の手をスートから離すと座り込み、黙り込んだ。迷子の子犬の様に、その目は狼狽えているようだった。

「…それで、すみません。彼女をどうやれば救えるのですか?」

スートは別の方向を向くと、縛られた男に話しかける。クロイヌはただ膝を抱えて、目線を下に下げていた。


#5

かつ、こつと鋭い爪が図面の上をなぞる。優雅な流線を描くその動きは、鱗と相俟って官能的にすら見えた。

「…ここが、その寝室です。明朝にご子息様が出立致しますので、それまでにお嬢様を私達キメラの住む屋敷に連れ込みましょう。キメラ達と彼女は仲が良いので、きっと匿ってくれるはずです…頼まれて、くれますか?」

長い瞼が持ち上がり、懇願するような金色が垣間見えた。スートは静かに首を上下して、同意の意を示す。

「彼女は僕達最下層の人間の事を思い、行動してくれました…そして、この事態を引き起こしたのは僕です」

「ありがとうございます…私は、手を貸すわけにはいきません。それでも、助け出してくださるのですか?」

「はい。彼女は、僕達の声を代弁してくれたのですから…それに、僕はどうやら父親譲りのお人好しのようですので」

困ったようにはにかんだようにスートが笑う。膝を抱え、その上の腕に突っ伏したような姿勢だったクロイヌが、顔を上げて横目でその笑顔を見た。彼はそれを見て、思わずマスターを重ねてしまう。


記憶の殆どは無くなっている。あの場所に辿り着く前のものは、恐怖と憎悪だけしか覚えていなかった。


逃げろ、逃げろ、逃げろ。記憶の空白、どうして自分は瀕死の犬を抱えようとしたのか。最下層の南端。元いた場所より遥かに離れたそこにも、追手の音が迫り来る。

生きたい。逃げたい。死にたくない。

醜く生に縋りつこうと、そこに引っかかっていた麻縄を握った。ずるずると片手の力だけで城から離れようと麻縄を辿る。薄い皮膚がそれに耐え切れず、血を流しては肘に血だまりを作った。左腕の犬を離さなかった理由もわからない。覚えていない。痛みはじりじりと身体を焦がして、もう指先に力も入らなくなった頃、一つの小さながらくたが見えたのだ。

オレンジ色の髪に丸眼鏡の男性は、初めとても驚いていたが、すぐさま少年の手当にかかった。奇跡的に回復し、目に映る物がはっきりとしてきた時、あの瞳を見たんだ。

『元気になってくれて良かった』

本当にただ、人の為だけにやったのだ。その笑顔は少年の腑に落ちる物では無かったが、ただ嬉しかったことを覚えている。


その瞳だ。そう、思った。

「私にはどうしてそこまでやってくれるのか見当もつきません。それがキメラと人間の違いなのでしょうか」

「…どうですかね。人の思考である以上、断言は出来ませんが」

笑みを浮かべていたスートの顔がすっと引き締まり、金色の彼の瞳を見つめた。

「…あとおよそ、五時間。では、あなたも気をつけてください」

「なんと感謝を述べれば良いのか…ありがとうございます」

「僕がするべき事ですので」

はっきりと答えたスートの顔が、クロイヌの方へ向く。一瞬肩を震わせた彼の目が、黒髪の向こうからぼんやりと光った。

「…クロイヌ、君はまだやりたい事が残っているよね。元は一人の予定だったんだろうから、 支障は無いだろう。そっちも気をつけて」

嫌にはっきりとそう言う。どう考えても、彼一人に対処できる問題では無いのに。

「…お前、本当に一人で行くのか」

「うん。僕は君が思っているほど子供じゃない。それに、君に迷惑はかけたくない」

「…いま、」

何をすべきなのか、本当に分からない。

問がぐるぐると頭を駆け回った。マスターの遺言を守るか、スートについていくか。マスターには大きな恩がある。けれども今ここで、彼を手放すべきでは無いという警鐘が頭の中で鳴っていた。気持ちを汲んだかのように、緑の光が優しく細められてこちらを見る。

「クロイヌ。君が協力してくれるなら、僕はとても嬉しい。けどね、それがマスターと僕の首がすげ変わった様なものじゃ駄目なんだ。僕は君を操り人形にしたい訳じゃない。自分でちゃんと考えてほしいんだ」

自分で考えること。クロイヌはそれがとても苦手だ。今まではマスターに従ってさえいれば良かったのに、今はそうはいかない。結局、考えるより先に唇が動いていた。

「スートについていく。これは自分の意思だ」

オレンジの髪の彼の唇は薄く弧を描いたが、言葉を紡ぐことは無かった。


警備のキメラ達は、先程見た彼とは明らかに異質だった。尖った鼻や不自然に盛り上がった筋肉を身にまとっており、なんの動物か判別も怪しい。人間の見た目からも離れ、酷い猫背でゆるゆると闊歩していた。

「レオンさんが教えてくれたことによると、こいつらの鼻を欺くことはほぼ不可能だから、できるだけ短時間で救い出す事が肝心らしい」

あの窓が、少女の部屋の窓だ。スートが指さすと、クロイヌは頷いた。

「分かった。俺が走って行って窓を割り、お前がそれに全速力でついていく。それでいいな」

「うん。くれぐれも怪我はしないように」

百メトルほど離れたその建物から、彼女の部屋の窓までを駆け抜ける。クロイヌの影はあっという間に離れて行った。精一杯、それについていけるように脚を動かす。

「駄目だ、スート!」

先に窓に到達したクロイヌが叫んだ。

「これ、強化炭素硝子だ!」

透明なそれは、奥の画の淵が歪む位には厚い、人間の手で割る事は到底不可能な、普通は檻にでも使われるような堅固な硝子だ。

「どうすれば」

騒ぎを聞きつけた警備のキメラが一匹、足音を立ててこちらに駆けつけてくる。時間はない。

「クロイヌ!!跳んで!」

言われた通り、クロイヌがふわりと跳躍し、窓の縁に立った。彼目指してキメラも飛び掛る。すかさず、窓枠を重心に身体を躱した。彼のいなくなった空間に、勢い良く大きな図体が突っ込む。けたたましい音で窓の破片が飛び散った。きらきらと舞う破片が、二人の体にも細かい傷を作る。

「大丈夫?」

「ああ」

クロイヌがポンチョを払い、割れた窓の淵に立った。幸い、気づいたのはこの一匹だけらしい。物音を立てないよう、ゆっくりと彼は部屋に足を下ろす。砕け散った破片の上に、仰向けにキメラの巨体が転がっていた。

「これ…本当にキメラか…?」

尖った鼻に、口は裂けて牙が除いている。目は小さく、それは普通のキメラよりも遥かに動物に近かった。人間の顔の原型は余り残されていない。恐らくは、思考もだ。

「…わからない。研究者達は一体、何をしたいんだろう?」

覗いたスートが、首を傾げた。同じ後天性のキメラのようだが、クロイヌとは似ても似つかない。

クロイヌはそれをまじまじと見つめていたが、時間が無いことを思い出すとそれを踏み台に部屋に入った。

「お前も早く」

「う、うん」

奥の寝台に、先程の少女が眠っているのが見える。二人が駆け寄り、クロイヌがそれを担いだ時だ。異様に長身のキメラが、何匹も窓に押し寄せて来た。これもまた、人にはまるで見えない。

「くそ!!クロイヌ、少女と身を隠せ!」

飛び込んだスートに続き、クロイヌが上質そうな椅子を思い切りその影に叩きつける。窓にぶつかりそれは砕け落ちたが、キメラ達はものともせず高く跳んでそれを避け、そのまま壁を這ってこちらへ襲いかかった。クロイヌが少女と廊下へ出た事が分かると、スートは扉を閉めてそれと対峙しようとする。影は五つばかり見えている。四つは陣形を取りじりじりとこちらに近づいているが、一つだけは不審な動きでこちらに近づいて来た。目だけがぎょろりと大きなそれは、こちらを見て口を動かす。

「…ろ、し…え」

殺して。

感情が無いキメラからの、願い。

「…なんで?」


スートは焦点も合わないほどに焦っていた。今やるべきこと、自身の感情よりも優先すべきこと。冷静に冷静にと声が頭に響く。ポケットの中に、震える手が伸びた。護身用だと、彼が手渡してくれた小型の銃がひやりと手の熱を冷ます。触った事も見た事も無いそれを、かたかたと胸の前で握った。歯の音も合わず、震えは肩全体まで走っている。残りの四匹は飛びかかる寸前だ。そうなれば、自分は確実に捕まってしまうだろう。そのキメラだけは、大人しくそこで固まっている。音を立てて安全装置が外れるのが、自分よりもっと遠い何処かの出来事のように感じた。ほんの数秒が、ずいぶんと長い。


配管に身を屈めて潜んだ時には、流石に少女は起きていた。夢うつつの彼女に勝手に動かれる方が迷惑だと思い、何も言わずにただそこを進んでいく。スートから何も教えられていないので、どこがどう出口なのかはてんで分からない。空気の流れてくる方へと身体を進めた。

「…さっきの、キメラさん?忘れ物?」

「黙ってろ。それと、外に出たらキメラ達の屋敷まで走れ。分かったか?」

「…走るの?私そんなに得意じゃ無いわ…まあいいわよ、走る」

冷たい風が顔にひしひしと当たる。重い金属製の蓋を蹴り上げると、梯子の終わりに外が見えた。

「ここがどこだか、分かるな。走れ」

「大丈夫よ!」

寝起きの彼女がやや頼りなく小走りで駆けていく。護衛のキメラが視線を寄越すのが分かったが、追いかけることは無かった。侵入者にしか反応しない、良く出来たシステムの様だ。人間として、キメラとしてさえ見られているかは微妙だったが。

「…そうだ、スート」

元来た道を急いで戻る。フードが引っかかって外れ、鼻先が煤で汚れても彼は進み続けた。


入り込んだ所と同じ穴から身体を捻り出すと、扉に力無くもたれかかるスートが見えた。蒼白の顔面から、多量な出血でも起こしたのかと真剣に心配したが、そういう事では無さそうだ。

「どうした」

「...」

無言で指を扉に向ける。扉の内部に、数匹のキメラが横たわっていた。もう死んでいるようで、ぴくりとも動かない。足元には大量の薬莢が転がっていた。止め方が分からなかったのか、トリガーハッピーにでも陥ったのか。弾を買い足さなければ、とどこかでぼんやり思った。消音機が働いていたのか、激しい銃声は響かなかったのが不幸中の幸いだなんて、妙に冷静で。

「この人が、殺してと頼んできた。僕は彼を殺そうと銃を握って、そしたら止められなかった。皆、殺してしまった」

俯きそういう彼は、ドアノブを離せば崩れ落ちてしまいそうだった。

「落ち着け。そうしなきゃお前が死んでた。それにあいつらはキメラだ。人間じゃない」

「でも、君だってキメラだ」

ポンチョの全面をがしりと掴まれる。マフラーも引かれ、首が締まった。震えている身体の側面をぺしぺしと叩くと、深い緑と目が合う。

「しっかりしろ。今そんな事を言っている暇は無い。こんな騒ぎを起こしたんだ、気づかれて追いかけられるのは時間の問題だ」

手をしっかりと握り、半ば無理やり走る。あのお嬢様もお前よりしっかり走ってたぞ。そう叱責しつつ、出鱈目に脚を動かした。


「侵入者が現れたようですね。騒がしい」

「君が最初に気付かないとは珍しいな」

色の薄くなった金髪を撫でつけた男が、レオンを見つめた。その瞳には軽い苛立ちが潜んでいる。努めて自然に、彼は振舞った。

「…すみません。流石に、お嬢様に手を出すことを考えると、気が気でなくなりまして」

「まあいい。様子を見てこい」

「はい。承知しました」

ふわりと姿を消した男は、気配のする方へ歩いて行った。その直後、布を巻いた男が現れる。

「匂いますね。お嬢様についていた匂いと同じ、古い汚れた匂いが」

布を持ち上げる醜い鼻がぴくぴくと動いた。首長は軽く笑みを零すと、彼の指す方向へ歩いて行く。部屋に残された影が、ぬるりと生き物の形に蠢いた。

「ああいいんだ。今日はお前は留守番で。...それにしても、もうあいつも頼りにならんな」


古い扉を蹴破ると、そこは外の様だった。裏口なのか、ガス灯は少なく互いの顔が見える程度にしか照度はない。キメラの数もそれほどでは無く、なんとかやり過ごせるかと思えた。

「スート、ここがどこだか分かるか?」

息を切らし腰を下げた彼は、少し顔を上げ呼吸を整えると一息に答える。

「三番目の裏口。ここからなら、真っ直ぐ走ったトロッコが近い」

「流石」

巨大な門の上へ跳び、彼を引き上げようと手を伸ばした時だった。ぞわり、と全身に悪寒が走る。反射的に彼は横に退いた。そこに、目を光らせてこちらを狙う大きな動物が現れていた。

「なんだ、こいつ…」

「クロイヌ、逃げろ!」

大きな猫の様なそれは、暗闇で高所の中クロイヌの足を崩そうと執拗に下半身に攻撃を仕掛けた。何度かは避けたが、遂には足を崩し、門の端ぎりぎりで膝を着く。見計らった様に動物はクロイヌの首元に跳びついた。彼は咄嗟に背を仰け反り躱したが、身体に飛び乗られ腕は前脚で、脚は下半身で縫い止められてしまった。標本箱に縫い付けられてしまった蝶の様に、もう何も出来ない事が分かる。追い詰められた彼の顔に、冷や汗が一筋流れた。

「そこまでだ」

低い声がそう制すると、機械の様に獣は固まった。そして、のそりと声のする方へ歩く。男の影にその黒は吸い込まれた。その一匹だけじゃない。確実に何匹か、彼の影に、いる。

クロイヌの喉がごくりと鳴った。先ほど感じた物とは別の汗が頬を伝う。苦い唾が粘膜を流れ、嚥下出来ずにじわりと口内に溜まった。

「君は、被検体君だったか?そしてもう一人、君はカズサ君の息子だね。わざわざようこそ」

初老の男が、口を薄く開け笑っていた。

「手荒い歓迎、感謝する」

直されたマフラーはずたずたの布と化し、首元に血溜まりの様な色を添えていた。切れ間から黒いチョーカーが覗いている。彼が姿勢を直すと、辛うじてそれは首に引っかかっていた。

「ああ、やっぱり被検体君…君が逃げ出したお陰で、こちらの研究は滞ったさ。おまけに、あの男の息子をここまで連れてきて」

迷惑だ。

そんな呟きが零れると同時に、動物が飛びかかった。クロイヌには見向きもせず、スートの上体に爪をかけようとする。大きな図体に蹴りをいれると、それがかしいで地面に落ちた。

「分かるかな?こいつは、人間の脳を持って思考をしているのだよ」

身を反転し、クロイヌの蹴りを躱すと執拗にスートを追いかける。逃げ回る内に、スートの呼吸は乱れていた。

「…っ、なんの、ためだ」

「何の為…そんなこと、考えたことも無い。強いて言えば、私の邪魔者を一人でも減らすため、だな」

マフラーが遂に外れ、クロイヌの長い犬の耳がフードから顔を出す。それと同時に服の隙間からナイフを取り出した。猛獣の喉元にそれを突き立て、上へ掻き切る。スートに飛びかかっていた動物の体は上に持ち上がり、重力に従って下に落ちた。重たい音に続いて、血が床を汚していく。

「…ははは!そうか君、キメラになったのか。なんて偶然だ。私の所でキメラになれば良かったものを」

「マスターがくれた身体だ。お前なんかには渡せない」

「クロイヌ?君、この人を知っているのか」

「知らない。覚えてない。けど、俺はこいつを殺すべきだと思っている」

びくびくと痙攣している獣を見て、スートの顔は青ざめた。

「…クロイヌ、君は彼をこうしたいのか」

「こうする?ああ、殺すって言いたいのか?」

「止めて」

「何でだ。こいつは俺達を殺そうとした。それだけで十分だろ、理由は」

「…やめて、ほしいんだ」

「…理由をつけろ。それを聞いて、考えるから」

「君は僕と同じになってはいけない」

「は?」

「人をもう、殺してほしくない」

「どういうことだ」

「僕はさっき、目的が分からないままキメラを殺した。頼まれたんだ。殺してって。銃が止められなかった。僕がやった事は殺人だ」

「落ち着け。どのみち殺さなきゃ殺られてた。それに、あいつらはキメラだろう」

「君だってキメラだ…君は、僕やマスターにとって大切な人だ。あのキメラだって、元々は人間で、誰かの大切な人だったのかもしれない。誰かの大切な人を殺した。許される事じゃ無い。君には一番やってほしくない」

感情を押し殺した様な声で彼がそう言った。静かに唸る熱が、疲弊した緑の奥から伝わった。

「キメラが人間と同じか」

低い声が響く。

「笑わせるな」

首長のものだ。喉の奥のえづきの原因がやっと見つかった、そんな気がした。

「キメラは所詮キメラだ。さっき君が沢山殺してくれたのは、バッタと人間のキメラの失敗作だよ。やはり脊椎動物以外との完全なキメラは、思考を犠牲にしてしまうようだ。君の父親に、伝えてくれないか」

にやりと笑う口の脇に、深い皺がよる。それに臆せず彼は毅然と言葉を返した。

「父さんに伝える事は何も無い。父さんはエレクトロニクスの研究者で、あなたがここから追い出したはず」

「追い出した?よく考えてみてくれ。私は彼に立派な家をくれてやった。研究施設や道具も一通り。私は飼い殺していたのだよ。優秀なキメラ開発者の彼を」


頭の片隅で、音を立てて熱が走った様な気がした。喉の奥まで息が詰まり、それが上手く吐き出せない。


「…父さんは、キメラの開発者だったのか?」

「ああ。普通に考えろ。エレクトロニクスの研究者が、持ち前の技術と道具だけで人間をキメラ化できると思うか?追い出されたとして、家はどうする?ここに寄生する以外生きる道の無いこの世界で?尤も、勝手にキメラが産みだされていたのは気付かなかったのだが」

初老の男の顔中に笑い皺が刻まれた。勿体ぶる様に言葉を溜め、顔が酷く歪む。

「君はね、技術を持っていたのにそれを私の為に有効に利用しようとせず、更には城が回っている等と言って皆を混乱足らしめた不届き者の息子だ。おまけに、結局はそのがらくたに飼い殺されている、ね。そっちの君。お前は、私達の元で人間の脳を持った犬キメラにする予定で捕まえられた子供だ。互いの身体が弱っていた方が都合が良いんで、犬と共に折檻したというのに逃げ出した、けれども結局キメラになってしまった愚か者だよ」

軽い沈黙の後、追い詰められた鼠の様にスートの口が開いた。

「僕の父さんは、真実を伝えようとしただけだ!ちゃんと考えた末の…考える事を止めた幽霊のお前に理解できる訳が無い!この城の皆を騙して…何の為にやっているんだ、こんなこと」

「何の為か。私の先祖によって保証された、この素晴らしい世界の秩序と安定を守るため、そしてそれを永遠に持続させるため、だな」

訳が分からない。そういった苛立ちを湛えて、スートの口調が弾んだ。掠れた叫び声が、腹の奥から発せられる。

「お前の行った事は、紛れもなく偽証罪だ!そして、最下層の僕らにとっては殺人となる。事実、僕の周りで死んだ人は何人もいた!」

「殺人?知ってるかね、君は。一人殺せば殺人者だが千人殺せば英雄ってな。私はまさしく後者だ。秩序を守る為の英雄だ」

口角が上がり、唇がぐるりと弧を描いた。もう、何を言おうが無駄だ。この人はある意味、可哀想な人なのかもしれないとスートは直感的に思った。自分の立場が、財産が、権限が奪われる事が怖くて何も出来ない、幽霊の様な人間だと思えたのだ。

「クロイヌ、逃げよう、クロイヌ」

愉快気に俯いて笑う首長に気づかれないよう、ひそひそと耳打ちをする。

「こんなに話すという事は、僕らをここから帰す気が無いはずだ。今回の目的は女の子を逃がす、それだけだろう。ここは今すぐ立ち去るべきだ」

「分かった」

首長の目がぎり、とこちらを見つめた。身を構え、退路を見つけようと神経を研ぎ澄ませる。

「いかんな」

首長の胸元から小さな口径のピストルが飛び出し、それはそのまま軽い音をたてた。次いで甲高い音とともに手近の街灯が幾つか壊れ、赫と輝いていた炎が空中に霧散する。

「スート、逃げろ!」

反射的にクロイヌが叫んだ。辺りはかなり薄暗く、人を影としか認識できない。けれども、クロイヌは夜目が効くので大した支障も無く動ける。犬キメラの特性を知っている彼の事だ、スート一人を標的にしようとしたことが明白だった。

「逃げるって、どこに…」

「くそ!」

仁王立ちして獣に対峙しようとしたクロイヌをすり抜け、影が横切る。ナイフを通じてそれを掠めた腕が、びりびりと震えた。

「そっちへ行った!」

言いながら、走ってそれを追いかける。恐らく、夜目が効く上に人間の脳を持っているキメラだろう。本気で襲われれば、スートに勝ち目は無い。爛々と輝く黄色い光が全速力で走る彼へ近づいた。見える形は不規則で、どこを攻撃すれば致命傷になるのか見当がつかない。間違えれば、スートを傷つけてしまう可能性がある。光が、光が無い。

「!!」

端のほうから、反射板から跳ね返される光が走ってくる。帯状の光が増えていく後、辺りは急激に明るくなっていった。朝日が登り、それがこちらに反射されているのだ。胴体ほどに太い首が見える。大型の魚の様な鰭と裂けた口が見え、頭の位置が明らかになる。

「こっち来い、スート!」

「うん!」

スートが切り返してクロイヌの元へ向かった。数メトルほど彼と離れていることをクロイヌが視認すると、額の中心を目がけてナイフを飛ばす。朝日を受けて一筋の光の様になったそれは、窪んだ目と目の真ん中に突き刺さる。

明るくなったそこに、血を流して咆哮する動物と、舌打ちをした初老の男だけが残された。振り向かずに走り去り、トロッコに飛び乗った彼らを追いかけられるキメラはもういない。

「最下層に行くか。材料が足りない」

灰色の瞳が、朝日を受けて輝く。その口元には、やはり笑みが浮かんでいた。


朝日の射す、けれども起きるにはまだ早い朝の薄もやの中。トロッコがぎしぎしと揺れていた。遠くには全ての層を繋ぐ昇降機と、昨夜停めてあった武器の積まれたトロッコが見えている。

「びっくりした…」

「流石に俺も、疲れた」

「結局徹夜だったもんな。あー眠い」

「お疲れ」

「君もね」

スートが、拳をぐっとクロイヌの鼻先に出した。顎を引いて疑問符を頭に浮かべた彼も、数瞬の後頷いて同じ形をそれにぶつける。

「へへへ」

スートは何だか嬉しそうだった。けれども、その下げられた眉の意を汲めるほど、クロイヌは彼を知らなかった。

拳を下げて、スートが笑う。

「…あの時さ、実のことを言うと、君についてきて欲しかったんだ。僕だけじゃ不安だった。君が自分の頭でそれを考えて、その上で僕についてきてくれて…僕は嬉しい。ありがとう、クロイヌ」

素直に感謝を伝えると、照れた様に彼はそっぽを向いてしまった。尾がはたりと揺らめき、彼の重たい口が動く。

「あの時、初めて怒ったんだ」

友達の胸倉を掴み、怒鳴りつけた。きっと大して大切で無い人間なら、逆にああはならないだろう。彼だから、スートだからああなった。大切な人だったからこそ、激情をぶつけてしまった。

「怒り、ってのも教わらなかったんだね?」

「ああ」

「なんで怒ったの?」

「…お前は、俺の初めての友達で、マスターが居なくなってからは俺の唯一の仲間だった。だから、意見が合わなかった時、その唯一の仲間さえ失う気がして…なんだろう、マスターが死んだ後みたいな気がして、どうしようもなく…ううん、どうしてだろう」

「それが、悲しさそして淋しさだと思うよ。」

「…そうなのか」

自分が一人で連綿と背負っていた感情に、どうやら名前がついたようだった。それが、果てしなく、


「怖い」


気がついたら、舌がそんな音を弾いていた。とても小さなその音は、スートには聞こえなかったようだが、形作ってしまったクロイヌの身体を端から蝕んでいく。名前がついてしまった事によって、今まではぐらかせていたような感情にこれから襲われてしまうような、そんな気がした。これは本当に知っていい感情だったのか。これから、自分の足枷になりはしないだろうか。いつか、そう遠くないいつかに訪れる、友達との別れは…

失ってもいないのに、心に穴が空きつつあることに気づいていた。マスターを失った時の悲しみが今になって穴を開けたのか、これからを予期してのものなのか。首元のずたずたに引き裂かれた布を握りしめると、繕ってあげるよと、友達の声が脳内に響いた。

完結済みです。こちらの文庫本を受注生産いたしますので、読んでみて気になった方は11月10日までに連絡ください。

https://twitter.com/kemo526

※普通に無料で全話読めますが公開は考え中です。読みたい場合お声掛けください。

誤字脱字感想などお待ちしております。

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