第二章第三節
さて、その日の帰りは、昼の約束通り、苑子と帰ることになった。
そう言えば俺は、昼もふと思ったんだが、俺は苑子のクラスすら知らないから、俺から迎えに行ったり出来ないんだよな。
俺は先に帰っていく推古やクラスメートを見送ってたら、いつの間にか隣に苑子が立っていた。
「なあ、苑子お前のクラスってどこだ?」
「……おやかたさまは某のクラスに興味があるのですか?」
軽く聞いただけなのだが、苑子は何故か暗い顔でそう聞き返してきた。
「? いや、どこのクラスか聞いておかないと、いざという時にお前を呼びに行けないだろ?」
「……2組ですが、おやかたさまにお越しいただくのは畏れ多いので、御用があるときは某から参ります」
「いや、用があるわけじゃないんだけどさ、来ない日に様子を見に行きたい時もあるだろ?」
俺が言うと、苑子は深く沈んだ表情になる。
「……某のクラスでの扱いを、おやかたさまに見られたくはないのです」
「まさか、いじめられているのか……?」
「……違います。ですが、あるいはそうかもしれません」
苦しそうな表情の苑子。
苑子は確かに無口だし、表情もあまりないし、コミュニケーションが得意とも思えない。
だから、誰にも相手にされない、なんてこともあるかもしれない。
そして、陰湿ないじめに遭っても黙って耐えるだけなのかもしれない。
ここに来るのは、俺に仕える、なんてわけの分からないことを言い出すのは、そこからの逃避なのかもしれない。
だとすると、俺がこいつを拒否したら、こいつはどこに行くんだろう。
「なあ、悩みがあるなら何でも相談しろよ?」
俺は軽く頭を撫でてやる。
「……はい、おやかたさま」
苑子は気持ちよさそうに目を細めながら言う。
「──一つ、お願いがあるのですが、よろしいですか?」
「ああ、いいぞ?」
俺が言うと、苑子はうつむいて、恥ずかしそうに顔を染める。
「某は、接吻というものがしてみたいのです」
「それはまた畏れ多いな!」
「おやかたさまが何でも言っていいと言いましたので、大胆にもお願いしてみました」
「いや、そんなこと言ってないだろ?」
てれてれとうつむいて恥ずかしがる苑子はとても可愛いが、言ってることは大胆を通り越して図々しかった。
いや、図々しい方が好感が持てるとは言ったけどさ、限界があるだろ?
俺だってファーストキスはまだなんだよ。
「ん~」
苑子が目を閉じて唇を突き出す。
うすピンクの苑子の唇と、少し赤い頬が俺の前に差し出される。
……ここは、ほっぺにでもして場を収めるか?
いや、駄目だ、駄目な要求は妥協もなしに駄目と言わないと。
「しないぞ?」
苑子は更に突き出してくる。
「ん~」
「だからしないって」
「んー!」
自分から唇を寄せて来たので、俺は胸を反らす。
「んーっ! んーっ!」
苑子と俺は身長差があるので、俺が顔を上げると、苑子は届かない。
ぴょんぴょんと跳ねながら、唇を突き出し続ける苑子。
「もう無駄だからやめとけ」
「出来ます、もう少しです」
「全然もう少しじゃないし、無理だって」
俺は苑子の肩を押し返しながら言う。
「では、出来たらどうしますかっ?」
苑子はぴょんぴょん跳ねながら悔しそうに言う。
こうまで必死だと、からかいたくもなってくる。
「その時は何でも言う事を聞いてむぐう」
その瞬間、俺のファーストキスは苑子に奪われた。
暖かく柔らかい感触が、俺の唇に伝わる。
それは、とても気持ちがよく、嬉しい事なんだが、やたら悔しい。
迂闊だった。
そうだ、こいつは忍者だったよな。
跳躍力がないなんてことがあるわけがない。
あの言葉を引き出すためにわざと跳躍力がないふりをしてたんだ。
ちなみに、苑子はそのまま、俺の首に抱き付いて、ぶらーんとぶら下がりながら、キスを続けている。
口を塞がれた俺は、言葉を発せずに、だが、この状態を振りほどくことにためらいもあり、しばらく苑子を首にぶら下げたまま、呆然と立ち尽くしていた。
ま、教室には誰もいないし、しばらくはいいだろう。
「ふう」
堪能したのか飽きたのか、しばらくしてから苑子が唇を離し、すとん、と俺から降りる。
「人間、頑張れば出来るものですね」
「いや……うん」
ボケかトボケか分からないが、苑子はさっきの跳躍が頑張った産物だと言い張った。
それをどうこうするつもりはないから黙っていよう。
「ところでおやかたさま、何でも言う事を聞いてくれるのですか?」
教室を出て、俺の家に向かって二人で並んで歩いていると、苑子がいきなりそんなことを言いだした。
「……そんなこと言ったっけ?」
「言いました」
「俺は『何でも言う事を聞いてみようと前向きに考えるかも知れない』と言おうとしたんだ」
「言いました」
「途中で言葉を途切れさせたお前の敗北だな」
「言いました」
「いや、だから、俺の話を聞けよ」
「言いました」
「…………」
「言いました」
「……言いました」
「はい」
これ以上言い逃れは出来ないと思い、俺は認めることにした。
苑子は嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねる。
「何でもって、何でもですか?」
「……まあ、そう言ったんなら、そうだろうな」
俺はもう諦めた。
何でも言う事を聞いてやろう。
こいつは多分、付き合ってくれとか、そういう事を言い出すんだろうが、まあ、それもいいか。
悪い子じゃないのはここ数日で分かったしな、変な子だけど、可愛いで済ませられるレベルだしな。
そう覚悟を決めた俺に、苑子は意外な願いを言った。
「では、次の休み、デートしてください」
「デート? それでいいのか?」
案外軽い話だった。
「いいけどさ、どこ行くんだ?」
「映画見て、お洒落なカフェーに行って、ボーリングやカラオケに行くのです」
なんだその芸のないデートプランは。
ま。俺もデート経験ないし、じゃあどうすればいいんだと言われてもよく分からないしな。
あ、そう言えば推古とも連れられて一緒に映画見てカフェで飯食って、カラオケ行ったけど、あれは親友と休日に遊んでただけだから違うしな。
「分かった。次の休み……明後日だな?」
「はい。頑張ってお弁当作ります」
「いや、カフェで食べるんじゃないのかよ」
「今度は父上も上達していることでしょう」
「また親父さんかよ!? 頼む! 作るならお前が作ってくれ……いや、その前にカフェで食うんじゃないのか?」
だいたい、何でそこまで親父弁当を推すのかさっぱりだ。
「カフェのご飯とお弁当は別腹です」
「どう考えても同じ腹に入るよな!?」
「おやかたさまは健啖家だから大丈夫です」
「だから俺は一度も健啖家を名乗った覚えがねぇぇぇぇぇっ!」
疲れた。
思わず怒鳴ってしまった。
「おやかたさまとデート!」
対して苑子は元気だ。
苑子は表情が乏しいが、その分身体全体で喜びを表現していた。
ぴょんぴょん跳ねるわ、走り回るわ、とにかく元気だった。
学校ならともかく、街中だからちょっと勘弁して欲しい。
「実はですね、某、おやかたさまとデートするのです」
「ああん?」
なんか、見知らぬ人に言いふらしてるし!
「おい苑子!」
俺は追いついて止めようとして、一瞬固まる。
苑子の話してた相手は、ちょっと危険な雰囲気を持った輩だったからだ。
4Lくらいの馬鹿でかいTシャツを着て、だぼだぼのハーフパンツを穿き、首からはジャラジャラとシルバーのアクセサリーがぶら下がっている。
髑髏とか十字架とかあるが、統一感はない。
頭にはアメリカの球団のキャップをかぶっている。
足はちょっと高そうなスニーカー。
これはいわゆるB系ファッションって奴だ。
あいつ、人見知りじゃなかったけ?
何でいきなり相当ヤバそうなのに絡んでんだよ!
そこまで嬉しい事なのかよ。
「苑子、来い!」
俺は苑子の手を引っ張る。
「あ、すみませんね、こいつ馬鹿で。それじゃ、失礼しますね」
俺は適当にBボーイに挨拶して走って逃げようとしていた。
「待てやコラ」
が、俺は思いっきり腕を掴まれた。
「すみません、マジすんません!」
俺はとりあえず必死に謝ることにした。
「あのちっこいのはてめぇの女か?」
「違います、無関係です」
「おやかたさまは、某のご主人さまです」
余計な事を言うな!
「ところでこの人はヒップホップでもやるのですか?」
この状況でのんびりと聞いて来るなよ!
「いや、多分ワナビーですよね」
「? 小説でも書くのですか?」
「何言ってんだ。B系の格好をファッションでしてる人だよ」
俺が説明し、苑子がうんうん頷くと、なぜかそのBボーイさまは怒っておられた。
「てめぇ、確かに間違っちゃいねえが、人を侮辱しておいてただで帰れると思うなよ?」
「ええっ!? なんっすか? なんっすか?」
俺は理由も分からないまま、ビビりまくって三歩くらい後ろに下がる。
だが、Bボーイさまはそれ以上俺に突っ込んできて、拳を振り上げて──。
ぱしぃ
俺は、強く閉じた瞼を、恐る恐る開く。
目の前にはBボーイがいて、俺を殴っているはずだった。
だが、その拳は、俺とBボーイの間に入った苑子によって止められていた。
「おやかたさまに何をするのですか?」
苑子の声は、静かに怒っていた。
「ざけんなこらぁぁっ!」
怒り狂ったBボーイは、今度は苑子に殴りかかる。
苑子はそれを高速で避けて、苦無をその首筋へ突き立てる。
「おやかたさま、殺人の許可を」
「ええっ!? 俺?」
いや、殺人指示なんて俺に出来るわけないだろ?
そもそもお前、人殺せるのか?
「ちょ、ちょっと待て! 分かった、悪かったから離してくれ!」
死に直面して、途端に泣き言を言い出すBボーイ野郎。
「苑子、離してやれ」
「……ぎょいです」
苑子は素直にそいつを離す。
そいつは何も言わず、逃げて行った。
俺は苑子を見る。
「あのな、苑子。いや、助けてくれてありがとうな。だが、人を殺そうとするのは駄目だろ」
「ですが、あやつはおやかたさまを──」
「殴ろうとしただけだろ? それを助けてくれたのは感謝する。ありがとう。だが、殴られそうになった相手を殺すってありえないだろ?」
「…………」
「お前はそれで犯罪者になるんだ。俺はお前をそんな奴にはしたくない」
「ぎょいです」
多少不満げだが、苑子はそう答えた。
「まあいい、帰るぞ?」
「はい」
俺が歩き出すと、苑子もとことことついてきた。
帰ってから、ネットでワナビーを調べたら侮辱的用語だった。
ワナビーは「○○になりたい人」という意味で、もともとはネイティブでもないのにネイティブアメリカンの格好をしてる人を嘲笑するために言い始めたらしい。
ヒップホップは誰でもマイクを持てば出来る、という前提から、格好だけ憧れてB系にした見かけだおしの輩や、ヘタクソを侮辱する時に使う言葉らしい。
まあ、つまり俺はサーファーファッションしてるだけの人に「丘サーファー」と言ってしまったわけだ。
その上、苑子の方から絡んで、最後には殺しかけたんだから、どう考えてもこっちが悪いよな。
今度会ったら謝ろう。
まあ、会う事なんてないと思うけどな。




