「ご足労に感謝しろよボケナスがッ!」
エレベーターを使って指定された階層へ進み、目的の病室をわざと大げさに、ガラ、と音を立てて引き扉を開ける。手前のカーテンから覗いた金髪頭がびくっと反応した。
ベッドは四つ。見渡す限り、今この病室にいるのは河合の向かいのベッドにいる少年だけのようだった。
昨日――月曜日の午前中にすでに石橋はこの病室内の面子について把握していたため、少年を追い出すための策を講じるのに時間はかからなかった。
わざと大声で玖珠に話しかける。
「なあ、玖珠さん見た? さっきの一階にいた患者さん。あの泣き黒子に猫目、マスク越しにもオーラが分かる。もしかしなくても我が県代表のアイドル、かるぴっぴじゃなかった?」
「え? かる……」いきなりアイドルの話題を振られた玖珠が、石橋の目配せで話を合わせ始めた。「あ、あー! あー、あの子ね、確かに見たことある顔だとは思ったんだよね! そういや昨日のステージで足ひねったってSNSで書いてあったもんなぁ。まさかこの病院に来てるとは。いやはや、あたしら豪運だな……」
話している内に、少年のベッドのカーテンが開いた。
こちらには一切目を合わせることなく、かけたメガネをいじりながら少年はそそくさと病室を出ていった。彼のベッドには、地元アイドル“かるぴっぴ”のブロマイドが鎮座している。
つまり、この病室内はたった今個室になったわけだ。
お互いににやりと笑って、玖珠は腕を組み病室のドアに背を預け、門番のごとく立ち止まる。おそらく誰かが病室に近づいたら分かるよう、廊下に聞き耳を立ててくれているに違いない。
頼もしい親友の助力にあやかり、石橋はずかずかと河合のベッドに歩み寄って――勢いよくカーテンを開けた。
「やあ、こんにちは河合君。大親友の僕が――わざわざ直々に! 見舞いに来てやったぜ、ご足労に感謝しろよボケナスがッ!」
怒鳴るや否や、張られたガーゼごと鼻をつまんで河合の顔を持ち上げる。
「ヒイッ! やめっ、やめてよ石橋君っ、ぼく今、ケガしてるんだからぁ……!」
「ケガぁ? おいおいおいおいお前の目は石ころか? 僕のこの足を見ろよテメェ! 抉れてんだぞ、超グロテスクにッ! お前はちょっと肌が焼けたくらいで何だ、日焼けを楽しんでるようにしか見えねえな、ああ゛!?」
「ごめんなさい、ごめんなさい! だけど覚えてないんだ、本当だよぉ。ぼくが調理実習の練習に無理やり君をつき合わせたこととか、うっかりガス爆発起こして石橋君に大けがさせたこととか、全部覚えてないんだ! 覚えてないんだから、つぐないようがないじゃないか……!?」
顔の前で両手をかざして、ちらりと薄眼でこちらを見る河合。中学時代からこいつを見ていたからわかる。この男は演技であっても、このような情けない態度は取らないはずだ。
つまり記憶喪失は確かな事実ということらしい。
鼻から手を放して石橋はがなり続ける。
「本当にそうか? マジで覚えてないのか? 罪を逃れたくて忘れたフリしてるだけじゃねえのか!?」
「診断書もあるよぉ! さすがにお医者さんの目はごまかせないよぉ。信じてよぉ……」
「ああそうかい。じゃあ信じてやるよ。ただしお前をじゃない――医者がヤブじゃないってことをだ!」
バチンッ! と利き手を振りかざして、やけどと切り傷の痛々しい頬に強めの平手打ちをくらわせた。突然の暴力に眼を見開いた河合の、唇が切れて血がにじむ。
石橋は表情一つ変えずにそれを立ったまま見下ろしていた。そして今度は、打って変わって静かな口調で問う。
「あーらら、強くやりすぎたかな。怒った?」
「……お、おおお、おこって……ない……」
「本当に? 声が震えてるぜ、怒りが爆発しそうでこらえてるんならそう言ってくれよ」
「本当にっ、怒ってないよっ! ぼくが、ぼぼ、ぼくが石橋君に怒るわけがないじゃないかっ、だってきみは……」
「僕は? 何だよ、教えてくれないの、河合君」
「き、きみは、恩人なんだ。ぼくの、学生としての、いや、人としての生命を繋いでくれた恩人。だってきみは、ぼくがここに入院して初めて来てくれた友だちで、ぼくが記憶をなくす前にやったいろんな失敗を、クラスにも先生にも、誰にも黙っててくれるって約束してくれた。きみはぼくのせいで、足にそんな酷いけがをしたのに、だ。きみは良い人だよ石橋君。ぼくは今はこの通り何にも覚えてないけど、それでもきみが良い人だってのは分かる気がするんだ」
「……気がするだけ? 気のせい?」再び利き手を上げて見せると、分かりやすく河合は怯えた。
「分かるっ! 確実に間違いなく絶対っ! きみは良い人です! それに比べて、記憶をなくす前のぼくは、本当に酷いやつだ。クラスの女の子に無責任に手をだして傷つけたり追い詰めたり、遊び半分で家庭科室にライターを持ち込んだり……。だけどその度にきみがこうやって止めてくれたっていうじゃないか。きみがそんな風に暴力的なのは、きっとぼくのせいなんだ。きみのその一見乱暴な態度は、ぼくへの友情の証なんだ! だからぼくは石橋君を信じるし、今度はもう、絶対に失望させたりなんかしないよ! 早くケガを治して、学校に戻って、迷惑をかけた他のたくさんの人たちに謝るんだ!」
持ち上げた手を髪の毛に持っていき、石橋は毛先をいじりながらその話を聞いていた。
河合が先程から語っているその内容は、昨日母から外出を許されたとき――友人の見舞いに行くと告げたとき――に、河合のベッドで彼の髪を鷲掴みにしながら石橋が語って聞かせた内容だった。
どうやら記憶喪失とはいえ、目を覚ました後の出来事はしっかり記憶できているらしい。
今こちらを見つめる瞳はキラキラと無垢に輝いていて、以前の河合とはまるで別人だった。
病室の扉前で会話を聞いていた玖珠が、そのあまりの変わり様にゲホゲホとせき込んでいる。それはそうだろう。顔と声だけが同じの全くの別人と化してしまったこの“河合雁也”には、石橋も笑いをこらえるのに必死だ。
「……まあ、頑張れよ。多分復帰したところでクラスじゃ針のむしろだろうけど、お前のこれまでのツケが回ってきたってだけだ」
そう言い残し、河合を脅すだけ脅してから石橋は背を向けた。
「うん……。だからまた来てね、絶対だよ……!」
石橋はそれに返事を返すこともなければ振り返ることもなく、用は終わったとばかりに玖珠の隣に立った。
玖珠はおそるおそるちらりと振り返り、恍惚とした顔で石橋を見つめる河合を見てしまって戦慄した。うえ、とおもわずうめくと、玖珠の存在に気づいた河合がにこっと笑って手を振ってくる。
青ざめた玖珠が、苦笑いで手を振り返して石橋と一緒に退室した。