「少しでもあたしのこと考えた?」
六月十七日、夜十時三十五分。
明らかに夜闇だけではない暗さが空を覆っていた。雨雲だ。
六月の夜、つまり梅雨の時期だ。いつ雨が降り出してもおかしくない。実際、アスファルトはすでに湿気を帯びた特有のにおいを放っていた。
安斎農園からの最寄り駅は無人式だった。
二人は無言でそこまで歩き、駅員のいない改札を通り、最終電車を待つために、ホームのベンチに並んで座る。
僻地の無人駅だ。二人以外に人はいなかった。防犯カメラだって設置されていないだろう。されていたって、音声まで録っているかいるかどうか……。
――パタッ、と音がした。ホームを覆う屋根を、雨粒が叩いた音だった。
ついに降り出したらしい。
「……石橋君さ。さっき、安斎さんと一緒にいたとき。少しでもあたしのこと考えた?」
周囲に誰もいないのを確認してから、いよいよ降り出した雨音に紛れるように、ぽそりと玖珠が呟いた。
石橋は隣に顔を向ける。玖珠はまるで拗ねた子どものような顔で、じっと自分の膝を睨みつけていた。
「そりゃ、もちろん。だって僕は君を助けるためにわざわざここまで来て……」
「本当に? あたしがいなくたって石橋君、自ら進んで安斎さんに会いに行ったんじゃないの?」
「何それ。まるで僕が彼女と仲良くなりたくて会いに行ったみたいな言い方だな」
「違うの? だってまるで君らは一緒じゃないのさ。人の秘密を使って脅迫したり、友だちを人質に取ったりして、自責の念で震える老人に遺書まで書かせた。人の心をあやつって、自分の気に入る方に差し向けてる……」
膝の上で、震える手を握り込んで玖珠は俯きながら続ける。
「……他言しないよ。あそこであったことと、君のやったこと、あたしがやられたこと――全部他言しない。だけどそう約束するのはな、石橋君。君をごたごたから守るために他ならない。断じて君があっち側に踏み外して、口封じにあたしを殺すんじゃないかって怯えたからじゃない。……石橋磐眞が……彼女と同じになったことを危惧したからじゃないんだよ……!」
耐えきれないというように頭を振り、玖珠は乱暴にメガネを外した。眉間をもむように見せながら、片手で目を覆う。膝に肘を置き、まるで神にでも祈るような姿だと石橋は思った。
膝の上で、メガネのフレームを握るもう片方の手が震えている。
「…………頼むよ、お願い。君はあの子と違うんだって信じさせて……」
か細い声だった。恐怖が快楽になるといつか高らかに語った玖珠璃瑠葉からは想像もできない、怯えた少女の姿だった。
……雨音は一層激しさを増している。
ゆっくりとその震える手に触れようとした石橋が、自らの手も震えていることに気づき、苦笑して手を引っ込めた。
「……ごめん。本音を言うと、よくわからないんだ。僕はもう僕自身の倫理や道徳を、信頼できない」
「お前――ッ」
やっと玖珠が顔を上げると、青ざめた顔で腕置きに頬杖をつく石橋がいた。
手で口元を覆い、玖珠に顔をそむけるように俯いている。口元を隠しながらぼそぼそと語るその姿は、まるで告解でもするようだった。
「正直、同じなんだと思ったよ。僕はあの瞬間、本気で彼女を殺しても良いと思ってた。安斎さんが初めて人を殺したのと同じっていう、ライフル銃を持たされてさ。そいつを彼女の祖父ではなく彼女自身に向けて、本気で引き金を引くことを考えてた」