「おじいちゃん、おねがい」
六月十七日、夜九時二分。
男は何も置かれていないダイニングテーブルの上で、クソ、と一人呟いて目元を覆っていた。そこへ、施錠された玄関の鍵が開かれる音が割り込む。
やがて足音がし、迷いのない歩みで彼の孫娘が入ってくるのを見て、男――安斎の祖父は細く息を吐いた。
いつのまにか可憐な女子高生に成長を遂げた孫は、その手にスクールバッグではなく、武骨な狩猟用の散弾銃を構えている。
「こんばんはおじいちゃん。いきなりで悪いんだけど、猟銃を貸してくれる?」
思わず顔を歪めながら、孫を指差して言う。
「馬鹿言え、お前が勝手に持ちだしただろう」
「わたしが今借りてるのは散弾銃。おじいちゃんがもう一丁持ってる、ライフル銃の方を貸してほしいって言ってるの。もちろん弾は入ってるよね?」
そう言って孫は、祖父である自分にすら銃口を向けて見せた。照準と目が合う。
こうなっては仕方がない――しぶしぶ立ち上がり、クローゼットの奥からライフル銃を取り出して、銃口側を握って銃床を差し出した。
唯一の血縁者であるはずの華奢な押し込み強盗は、満足げににっこりと笑ってそれを受け取り、ライフル銃のベルトを肩にかけた。
散弾銃の方は、未だ構えられたままだ。
「いよいよ、丸腰にされたというわけか」
「どうせかわいい孫にはいつだって無抵抗でしょ? だから無抵抗ついでにね、遺書を書いてほしいの。どうせ脱税で税務調査が来るなんて、死ぬほど耐えられないって思ってるでしょ? だから死ぬ前に、遺書を書いておいてほしんだ。わたしのことは書かないでね。ただあなた自身がいたって個人的に、法を犯したことがいつバレるか怯えながら過ごすのが耐えられなくなった……って書いておいてほしいの」
「拒否権は?」
「おじいちゃん、おねがい」
まだ握られたままの散弾銃の引き金に指をかけられ、またもや応じるしかなかった。
電話台の引き出しから、罫線のみのシンプルな便箋を取り出してダイニングに座り、ボールペンを握る。
背後で自分の後頭部に銃口を構えながら、孫娘は丁寧に説明した。
「遺書の書き方は分かる? 遺言書と違って形式なんてないけど、日付と署名と書いた理由、死ぬ理由は書き残すのがベターだよね。まず書き出しは、脱税について。売上をちょろまかして経費を水増ししてましたーってちゃんと書くんだよ? いつバレるか分からないし、法的に追い詰められたり追徴課税や逮捕なんて、考えただけで胃が痛くなって、プライドが傷ついてとてもじゃないけど死んだ方がマシだーって、思いつめてる感じで書いてね。先祖代々に受け継がれてきた、この小さなかわいい農園に、泥を塗ってしまった……って。おじいちゃんは字がとても綺麗だから、きっと気の小さい生真面目な人だって読んだ人はすぐわかるよ。思いつめるくらいなら悪いことなんてしなきゃ良かったのに、って思うだろうね……」
便箋の上をペンがコリコリと音を立てて滑る。それが続いたかと思えば止まり、重たいため息が聞こえて、またペンが動きを開始する……。その一連の流れが何度か繰り返され、やっとペンが止まった。
安斎は祖父の背中に銃口を突きつけながら、肩越しに綴られた文章を覗き込む。
「わあ、さっすがおじいちゃん、文才ある。……あれ、日付が一日ずれてるね。あはは、もうボケちゃった? まあ、いいか。昨日これを書いて一日悩んで、今日決行っていうのもリアリティかもね……」
ご機嫌な口調でそう呟いて、ライフル銃を肩にかけたまま安斎は後ずさり、散弾銃の銃口を向けたまま祖父に命じた。
「ほら、その手紙をテーブルに置いて立ち上がって。――なんだか映画みたいで楽しいね、おじいちゃん。――じゃあ頭の後ろで手を組んでみて。そう……あはは、ほんとに映画みたい。わたしこういう映画、ちょっと前にサブスクで見たんだ。うん、じゃあそのままゆっくり歩いて外に出て。暗いから、転ばないように気をつけてね」
まるで、孫が祖父を散歩に連れ出すような穏やかな口調だった。
語る安斎の言葉通りに、祖父は従順に行動した。黙って後ろ手を組んだまま歩いて、背後からの合図があるまで農園の敷地内を歩かされた。
数人しか雇っていない農園の従業員は、当然だがすでに帰宅している。
まだ夏を迎えていないとは言え、六月中旬の山奥の敷地の中、日が沈み薄暗い空間は、湿度の高い不穏さがある。
居住に使っているログハウスを出て、左手に鶏小屋、右手に養豚舎がある中心。その開けた場所で立ち止まらされた。
「はい、止まって。じゃあそこで膝をついてじっとしててね。きっともうすぐだから……」
もうすぐ、と言われてから一分か、五分か。その異様な時間の流れ方が、実際に何分だったのか彼には分からなかった。
ずっと同じポーズを取らされて腕が痛くなってきたところで、遠くに人影が見えた。
豪胆にも閉じられたフェンスをよじ登って敷地内に侵入してくるその姿は、普段なら不法侵入で通報すべきだが、今回ばかりは歓迎することになった。
「やっと来た。――石橋君、こんばんは! 遅かったですね!」
嬉しそうな声を張り上げて安斎が言う。
石橋――そう呼ばれた学生服の少年が、こちらに気がついて歩み寄ってきた。その少年に新鮮な打撲や鬱血、切り傷の跡が見えたが、祖父は何も言わなかった。
石橋が声を張り上げながら正面まで歩いて来る。
「やあ、こんばんは安斎さん。その人は誰?」
「別にとぼけなくても良いのに。お察しの通り、わたしの祖父です。知ってたでしょ?」
「まあね。でも……」
石橋は祖父を、そして祖父は石橋を見た。
ただ黙って、男たちは互いに視線を交わす。
「直接お会いするのは初めてだからさ」