「本当にあなたのことが大切なんですね……」
玖珠の膝の上に残りのペットボトルを置き、ハンドルを握ろうとした安斎の手を、今度は玖珠が握って止める。
「……なんで……」
「さっき言ったでしょう。ああ、聞き取れてなかった? いいですか、あなたは人質だから――」
「何で、己斐西さんを殺した!?」
その手を握る自分の両手に、少しずつだが力が戻ってくる。
「あんたはこうやって、人を助けるための方法を知ってる。その歳で車を運転する技術だって学んでる。己斐西さんはあんたを信頼して、友だちとして慕ってた。あの子は――きっと気が強くて誰より繊細な子だって、そんなに会話したことないあたしでさえ分かった。その己斐西唯恋に心を開かせるほどのやさしさを振舞えるあんたがッ! なんでわざわざあの子を死なせたのッ!?」
どんなに予想していても、鳥肌が立ち、背筋が凍る瞬間というものはある。
喜怒哀楽のどれにも該当しない、安斎の冷めた瞳を見て、玖珠は自分の言葉の無力さに絶望した。
「……どんな人にでもやさしさが備わっているって、思いたがる人はいるものです。そういう人は大体、自分がそうだから他人もそうだと思い込みたいんでしょうね。だけど残念、人ってみぃんな違うんですよ、玖珠璃瑠葉さん?」
玖珠が握っていたはずの手が、いつのまにか玖珠の手を掴み返していた。
引っ張られる。顔が近づく。
ただ光を反射して自分の顔を映すだけの、無垢にも見えるそのからっぽの瞳で彼女は語る。
「あなたは性善説を信じる人。だからあなた自身がそうなんでしょうね。だけどわたしは違う。善だとか悪だとか、罪だとか罰だとかは、全て個人的な正義でしかない。あなたの常識はわたしにとっての誰かの宗教。わたしはね、人の死を見たいだけ。その人が死ぬ瞬間も死なせる瞬間も見るのが好き。だからそうなるように頑張っているだけ。わたしの頑張りはあくまでわたしのための努力であって、誰かを殺すという目的には結びつかない。だけどこれも結局わたし個人の主観でしかないなら……あなたのような人から見れば、人殺し、になるのかもしれませんね」
「……なるほど。つまり、安斎さんはあくまで己斐西さんを殺すために彼女を死なせたわけじゃなくて、石橋君を殺すか殺させるかするために、その過程として己斐西さんの死があっただけと、そう言いたいわけか?」
正解だとでも言いたげに、安斎はにっこりわざとらしく笑った。
***
しばらく路肩に停車していたものだから、後続車が来てもおかしくはない。
後ろから迫りくるヘッドライトを目だけで追い、その白と黒、てっぺんに赤をくっつけた姿を見て玖珠は瞳を輝かせた。
――パトカーだ!
どうやってこのパトカーを止め、自分が襲われている状況を説明したものか――玖珠が考えるまでもなく、パトカーは玖珠たちの乗っていた軽トラックに並んで停車した。
助手席から一人の警官が出てくる。
――まさか、自分は助かるのか?
玖珠はいよいよ期待した。
パトカーから出てきた警官が、運転席の窓をノックする。
安斎は大人しくそれに応じた。
「ちょっといいかな。免許証見せてもらえる?」
勝った、と思った。
少なくとも安斎は免許不携帯で引き止められる。その間に自分は悲鳴を上げ、拘束され襲われかけていることを説明すれば良いのだ。
「……ええ、ちょっと待ってくださいね……」
玖珠が悲鳴を上げようと口を開きかけた瞬間、運転席の下に身を屈めた安斎が、足元から黒い筒を取り出した。
――猟銃、だ。
「っ――……」
玖珠は黙り込んでしまった。いたずらっぽく笑った安斎が、玖珠にしか見えない角度で銃口を彼女に向け、軽くウインクする。
――つまり玖珠は、ここでは助からないということだ。
ここで警官に喚いた瞬間、安斎は、玖珠か警官か、とにかく誰かに向けて発砲するつもりだ。
安斎は全く動じる様子も見せず、猟銃を再び足元にしまってから、身を起こしたときには可愛らしいカードケースを手にしていた。
中からなんと運転免許証を取り出し、窓の向こうの警官に手渡す。
受け取った警官がそれを確認し、苦笑いして返した。
――偽造、もしくは免許証の本人ではないと、どうやら気づいてもらえなかったらしい。
「すみませんね、いきなり」
「いえ、この顔だとよく疑われるんですよ。R指定の映画のチケットを買うのにも一苦労です」
「そりゃ難儀だね。大学生かな? ……そちらは妹さん?」
ええ、と安斎が玖珠に流し目を向ける。
「具合が悪いから学校まで迎えに行ったんです。これから帰るところですよ……」
今ここで悲鳴を上げるかどうするか――ギリギリまで迷って、結局玖珠は安斎に合わせるように警官へ頭を下げた。
偽造の免許証まで用意して、凶器を携帯している女だ。
拘束された今の自分に太刀打ちできるとは思えなかった。
「それはお大事に。……帰るってあっち方面だよね? さっき通報があったから気を付けてね。何でもイノシシが出たらしいから」
「イノシシ……」
「そう。もし見かけたら通報してね。それから、絶対に興味本位なんかで近づいちゃいけないよ」
「……ええ、分かりました。お仕事お疲れ様です」
警官が去り、再びパトカーに乗り込んでサイレンも鳴らさず静かに遠ざかる。
それを見送ってから、安斎はくすくすと声を上げて笑い出した。
「イノシシが出たんですって、この先の道で。……わたしのことを通報するなと脅してみたら、こんな裏技でおまわりさんをけしかけるだなんて。かわいい牽制をするんですね、あなたの王子様は?」
「は、王子様?」
安斎の言っている意味が分からず、玖珠はただただ顔をしかめた。
まだ笑いながら、安斎が再び足元に頭を潜らせる。
まさか、ここで始末されるのか――。
ぞっとする玖珠の予想に反して、安斎は猟銃には手を伸ばさず、迷いない手つきで玖珠の足首を掴んだ。
履いていたスニーカーが脱がされ、中敷きを剥がされるのを黙って見ていると、その中から小さなチップが出てきた。
つまらなそうに鼻を鳴らした安斎が、首をかしげる玖珠にそれを見せる。
「忘れ物防止タグ――つまりGPSですよ。石橋君は本当にあなたのことが大切なんですね……」
言うや否や、安斎はスニーカーを玖珠の足元に置き、石橋が仕込んだというGPS付きのタグを、車窓から山の中に放り投げた。