「ヒュウ、ホームラン」
吠えられた安斎はリノリウムに伏したまま、全く動く様子がない。まさか死んだということはないだろうが、頭を強く打たれたのだ。気絶していてもおかしくない。
――チャンスだ!
石橋はこの状況がまったく呑み込めなかったが、とにかく逃げるなら今しかないと考え、踵を返して床を蹴る。
「待ァてよ子ウサギパンケーキちゃん」
「ぐ、ッ!」
もちろん逃げられるはずもない。
河合が木製バットをフルスイングし、石橋の背中を酷く打ち付ける。勢いよくリノリウムに顔面から倒れ、口から血の味が染みた。前歯を強く打った気もする。
「ヒュウ、ホームラン」
全く不機嫌そうな口笛と共にそう言い、背後に河合が馬乗りになる。襟首を掴んで乱暴に頭を持ち上げられ、襟で首が締まった。
「悲しいぜ俺は。お前は賢い奴だと思ってた。誰にも媚びない、素敵な、不屈の、気高い、姑息な、卑怯者のお前が好きだった。愛してた。でもなんだ、蓋を開けて見りゃくだらないッ、下劣なッ! 女なんかに絆されやがったただの性の奴隷でしかないッッ!!」
叫んだ河合は石橋の髪を掴み、顔面を再び床に打ち付ける。
奴にこうやって暴力を振るわれるのには慣れていた。怪我の功名とでもいうべきか、この時の石橋にもう恐怖はなかった。ただ痛みだけが、体を支配して動けずにいた。
背後から聞こえる河合の声が、とてもとても悲しそうに語りだす。
「俺の愛してたお前はもういない。俺は愛する人を失ったんだ。俺をこんなに悲しませたんだからお前には俺を慰める義務がある。俺の安らぎのためだ。お前をここで殺すよ、安斎もだ。お前ら己斐西と仲が良かったみたいだから、後追いってことにしよう。二人仲良くここで死ね。俺の愛したお前は、俺の胸の中だけで生き続けるんだ……」
腹ばいに床を見つめていた石橋は、リノリウムの床に反射して、後ろに倒れていた安斎がそっと立ち上がる姿を見た。
――やはり、気など失っていなかったか。
流血する、か細い足がガラスを踏んだ音が、僅かだがジャリ、と響いた。
河合がそれに耳聡く気づく。石橋の頭を掴んだまま、顔だけで振り返って怒鳴り上げた。
「動くんじゃねえメス豚がッ!」
「……とおい、は……」
安斎が何か言おうとしている。トレードマークのお団子頭を結っていたリボンがほどけて、柔らかそうな髪が流れた。
額から血を流して、安斎が顔を上げる。
石橋は初めて髪を下ろした安斎小蓮を見た。こんなときに腹立たしいが、妙に大人っぽくて綺麗だと思った。
安斎が口を開く。
――その右手が、まだ、何かを握ったように拳をつくったままで。
「……後追いは……わたしの案です、河合君っ!」
言い逃げるように宣言し、安斎が家庭科室の開け放たれたままの扉の向こうに何かを投げ入れた。
動体視力ではなくただの勘で、石橋はそれが何かを悟った。
きらりと光るあれは、間違いない……。
――ビーーー! ビーーー! ビーーー……!
けたたましいビープ音がその直感を正解だと知らせる。――家庭科室で警報機が鳴っている。
つまりあの女が投げたのは、火のついたライターだ!
「ガス漏れだッ!」
石橋が叫ぶと同時に、真っ赤な光がチリッと光る。
ガス漏れの警報機が危険を叫ぶ家庭科室に、火のついたライターを投げ入れやがったのだ!
安斎は激しい爆音が轟くよりも少し前に、河合が親切にもショートカット用の出入り口にしてくれた窓枠から飛び出した。