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「冷静にあいつらを殺す」

 扉の開く音がして、つい癖で物陰に隠れる。

 アパートの二階から安斎が出てきた。乱れた制服の襟を正しながら、小さな唇を舐めてうっすらと笑う。


「はあ……全く乱暴なんだから。……ふふ……あんなのほんと、はじめてだなぁ……」


 気だるいためいきと共に吐き出された、誰に聞かせるわけでもなさそうな小さな呟き声。


 へえ、と河合は呟いた。意外と俗っぽいことをする人だったのか、とも思った。別に意外には思わなかった。


 何をやらかしても不思議ではない人ではある。たとえそれが鈴蘭の妖精との婚約でも、誰かとの性行為でも、殺人であっても。

 要は河合は、彼女に一切の興味を抱いていなかったのだ。

 好意も敵意もない、ゼロに等しい感情で一人の知人として接してきていた。


 ただ、今のこの治療経過中の顔を人に見られたくはなかった。

 駅前の美容外科で鼻にシリコンを詰め直す施術を受け、処方薬を受け取って帰宅した河合は、そこで運悪く外出する安斎と鉢合わせになりかけたのだ。

 物陰で制服姿の安斎が去っていくのを見送ってから、河合はそっと二階の自分の部屋に入った。

 手洗いとうがいをして、美容外科で処方された薬をビニールごとテーブルに置く。


 それからしばらく――二時間半ほどだろうか。

 朝から敷きっぱなしの布団の上で、微睡ながら仰向けに本を読んでいると、少し経って上の部屋からドスン、と壁を殴るような音がした。

 誰かいるのだろうか。いるなら、安斎のロマンチックな相手と考えるのが妥当だろう。


 それから十数分と経たずに、人が玄関を出る足音がした。

 間違いない、男の足音だ。

 何十回、何百回、何千回と聞いたから分かる、体重52~56㎏程度の男の重みの音が――。


「ったく酷いことしやがる。体の節々が痛い――」


 呟く声が遠いが分かる。愛ですぐに分かった。

 河合はハッキリと覚醒した。

 ふらりと立ち上がって河合は玄関へ向かう途中、流れるようにキッチンから包丁を手に取った。


「大丈夫よあたし口は堅いから! でも気を付けた方が良いわよ、ここ。首のとこ。それじゃ、ふふ……丸わかりじゃない」


 そっとチェーンロック越しに扉を開けて、隙間から覗く。


 アパートの前で年甲斐もなくさえずる大家と、気まずそうに首を手で覆った石橋磐眞の頭頂部が。

 去っていく石橋の後ろ姿を見届けながら、歯肉から血が滲むほど歯を食いしばって前歯の隙間から細く鋭い息を吐く。

 大家が去っていく。


 河合は自分でも冷静になるほどゆっくりと穏やかに扉を閉め、鍵をかけて、


「――このクソ泥棒猫がッッッッ!!!!」


 絶叫して壁に包丁を突き刺した。

 安っぽい壁紙が剥がれ、安っぽい包丁の刃が欠ける、安っぽいこの部屋にお似合いの安っぽい光景が安っぽく広がる。


「ふざけんなふざけんなあのクソアマがッ! これだから女なんてやつはどいつもこいつも薄汚い猫被りの優良誤認だけはクソうめえ詐欺常習犯の脳みそクソカス詰まりの淫売尻軽クソビッチどもの――――ッ!」


 ザック、ザックと、唾をまき散らして何度も壁に包丁を突き刺し続けながら河合は喚き散らした。

 眉間が熱い。

 気が付いたら涙まで出ていた。


 そう、自分は泣いていたのだ。


「……ひどい…………ひどいじゃんかよ……ひとのこころ、もてあそんで……」


 先が歪な形に欠けて折れた包丁を握りしめて、冷たい玄関に河合は膝から崩れ落ちた。


 ぼろぼろと五分ほど、ただ涙を流すだけの時間を過ごして、すん、としおらしく鼻を鳴らしてからようやっと立ち上がった。


「そうだな……そうだ。俺は冷静になれるように訓練しなきゃならない。クソ安斎はいつも冷静だった。それが俺の敗因だ。今度は負けない。俺も冷静になる……」


 呟きながら包丁をキッチンに戻し、脱衣所でTシャツを脱ぎ捨てて顔を洗い、制服に身を包む。


 鏡に映った自分を見つめた。

 殴られ腫れた頬に、同じく腫れた目元。まだ施術後の、いびつな鼻。

 しかし外見などでは心を揺さぶられないと、先ほど決意したばかりだ。


 自分は冷静なのだ。

 冷静に、一途に愛を射止める。


「冷静にあいつらを殺す」



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