「さっきお友だちが来てたわよ」
いよいよ通報ボタンを押そうとした瞬間――勢いよく窓が開いて、角材の先端が自分の腹を目掛け飛び出てきた。そのスピードに一切の容赦はない。
思わずスマホを取り落とした。これは避けられない――そう判断した瞬間、石橋は逆の手に握ったままの注射器を前方へ投げつける。
「ウぐぇッ――」
「っ……!」
みぞおちを貫かんばかりに突かれてえずき、尻もちをつく。そのまま横に転がり、体を丸めて酷くむせた。息ができない。
床から見上げた視界の中、安斎がするりと窓のすき間から滑り込むように入り込み、フローリングの上へ膝をつき倒れ込んだ。
「……まったく、なんて無礼なひと……人のおもちゃを勝手に使うなんて……」
投げた注射器の針が、上手く彼女の脇腹に刺さったらしい。何が入っていたかは知らないが、青ざめた安斎がゆっくりとふらつきながら立ち上がる。
呼吸を整えながら石橋も床に手を突き、上体を起こそうともがいた。
「人のお家に上がりたければね、石橋君。まずアポイントメントを取らなくちゃ……」
「それを言うなら、安斎さん。人をもてなすときにはな、角材なんか使っちゃだめだぜ……」
さまよわせた視界の隅で、開け放たれたベランダに横たわる玖珠の頭を捉えた。石橋は血相を変える。
「玖珠さ――」
玖珠に意識を奪われた、その瞬間を狙われた。
安斎が自分に刺さっていた注射器を抜き、そのまま石橋の首に刺して、ゆっくりピストンを差し込んで言う。
「いくら親友でも、親しき中にも礼儀あり、って言うでしょ、石橋君?」
「……しん、ゆう…………」
一体、誰が。
――そこまで言えず、石橋は意識を手放し倒れ伏した。
チャイムが鳴る。
アドレナリンのいたずらによって震える左足をひきずり、ドアスコープを覗く。いつもの親切そうな顔をした大家が立っていた。
ドアを少しだけ開け、安斎は顔だけを覗かせる。大家が驚いたように言う。
「あら、いるんじゃない安斎さん。さっきお友だちが来てたわよ」
玄関扉の内側で、震える太ももに部屋着の上から解毒用の注射器を刺しながら、安斎は顔だけでいたずらっぽく笑った。
「ええ、知ってます。苦手な子なので居留守を使っちゃいました」
***
<おっはよー! まあおはよって言っても、今は夕方だけどさ、あはは! ま、朝までお寝坊しちゃうってことはないよね――>
酷い頭痛でふらつきながら立ち上がったとき、ガラステーブルの上に自分のICレコーダーが立ててあった。
それを再生したら、元気な声がけたたたましくそんなことを喋りだしたのだ。甲高い声音と口調で最初は分からなかったが、次第に冴えてくる頭が、安斎小蓮の声だと認識する。
<勝手に人ん家に入って、もう、サイテーっ! ……ほんと酷い人だけど、しょーがないから許したげるよ。でもこれがラストチャンス、いい? ――絶対に、ポチに余計なこと教えないで。歌を教えるのはナシ。わかった? うるさくされるのは嫌なの>
なるほど、ポチ――わんこ――犬のおまわりさんか。歌――“歌う”は自白を意味する暗喩だ。
つまり石橋は警察にこのことを通報してはいけないらしい。
あまりにも遠回しな脅迫に、思わず鼻で笑ってしまった。
時計は午後六時半を過ぎた頃だった。着ていたシャツをめくると、腹に酷いあざができている。ベランダ窓に反射する姿を鏡にして確認すれば、首には鬱血した注射痕がある。
どうやら石橋は、謎の薬物で今まで寝坊してしまっていたようだ。