「鍵しかかけないなんて不用心だぜ……」
彼女への伝言を断ると、「じゃあ下のポスト使ってね」と残して大家は去って行った。下まで降りて遠ざかる背中を見ながら、玖珠が耳打ちしてくる。
「ねえ石橋君、大家さん言いくるめて合鍵貰えないかな。それか開けてもらうとか」
「流石に怪しまれるよ。……それより玖珠さん、ちょっと大家さんに耳打ちしてきてくれる? シャツの色が薄いから下着が透けてるって」
「え? なんだって?」
「聞こえただろ、下着が透けてますって伝えてきてよ。早く。僕みたいな青少年からは恥ずかしくて言えないことだぜ――!」
言いながら玖珠の背中を押す。たたらを踏んだ玖珠は、小首を傾げながらも言う通りに大家を追いかける。
誰もの目線が自分から離れたのを確認し、石橋はポケットの中に入れていたICレコーダーを起動した。ついでに小柄な工具を取り出し、サムターン錠の鍵穴へと差し入れる。
「……え? うそ、やだわごめんなさいねぇお見苦しいものを…………」
背後でそんな声が聞こえる。肩越しに振り返ると、アパートと車道を挟んだ向かい側の一軒家へ走っていく大家の後姿が見えた。
軽く手を動かし続けて、ガチリと施錠の破られる音がした。
工具をポケットへ仕舞い込み、玖珠が再び戻ってくるのを待った。三階分の階段を往復させられて軽く息切れしながら玖珠が言う。
「一体何なの? ブラジャーなんて見えなかったよ、石橋君のスケベ千里眼?」
「悪いが年上はタイプじゃない。それよりほら……鍵、開いてるみたいだ」
ドアノブをゆっくり捻って少しだけ玄関扉を開けて見せる。それだけで玖珠は、石橋が何をしたのかを悟ったらしい。
「おうおう、デトロイト市警でもこんな開け方しないぜ? 犯罪はあたしのポリシーに反するけど、まあ正義のためならしゃあないよな!」
自分のポリシーに柔軟な対応を見せる玖珠を背後に待たせ、石橋は慎重に玄関扉を開いた。チェーンロックが掛けられていたら別の工具でそれをずらして外す予定だったが、どうやらその必要はなさそうだった。
「安斎さーん? 入るよ。鍵しかかけないなんて不用心だぜ……」
声をかけながら、石橋は玖珠を引き連れて室内に忍び込んだ。
小奇麗な玄関だった。靴は学校用のローファーと、スニーカーと、彼女の印象とはかけ離れた派手なミュールサンダルやロングブーツがある。
ワンルームの部屋は、玄関を入ってすぐに居住空間が晒される。思ったよりも片付いていないキッチンに、ノートPCが出されたままのガラステーブルと、引き出し付きのベッド。
全貌を見渡せるその部屋の中に、誰の姿もなかった。
「安斎さんマジでいない? こんな日にどこいったんだろうね石橋君」
「さあ。本当に風邪で休んで病院行ってるのかもね」
石橋が中へ踏み込んだのを合図に、玖珠が靴を脱いで入る。
「おっ水槽発見! 三匹のカエルが飼われてるよ石橋君!」
我先にと玖珠が興味津々に室内に向かったので、
「いざってときの非常食じゃない? バリバリ、ムシャムシャってさ……」
声だけで適当に答えながら石橋はもう一度玄関を振り返り、玖珠のスニーカーの中敷きの下に、小さなICチップを隠し入れた。忘れ物防止タグとして使われる、GPSの内蔵された商品だ。
「――っわあああ! 石橋君石橋君ッ!!」
玖珠が悲鳴を上げた。立ち上がり、石橋は声の上がったキッチンへ向かう。
「何さ意外に可愛い悲鳴上げて。白骨死体でも見つけ――」
つまらない冗談も言えなくなるほど、流石にこれには驚いた。
キッチンの流し台で水に浸けられた、血のこびりついた大きな肉切り包丁。同じくどす黒い色がこびりついた、細身の電動ノコギリ。