「あなたは何にも分かってない」
自分の罪を暴かれて、閉口しない人間などいるわけがない。それが怯えだと判断し、己斐西は安斎を安心させたくて、そっと抱きしめてやった。
「相手が殺人鬼とは言え……刺し殺して、自殺に見せかけるために証拠隠滅までしてさ。それってかなり社会的にヤバい奴。それを自覚したとき、あんたはきっと相当苦しんだんだと思うんだ。だってウチはあんたの優しいとこもたくさん知ってるから。優しい気持ちと、殺したい気持ちでないまぜになって。――で、苦しみ抜いて、あんたは決めたんでしょ? これ以上誰にも迷惑かけない内に死んだほうがいいって」
安斎は微動だにしない。
そっと腕を撫で、いつか安斎が自分にやったときのように、額同士をこつんと合わせた。至近距離から覗いた瞳は、やはりぼんやりとしていて、どこか浮世離れしていた。
きっとこの子も自分のように、社会で生きていくことに向いていないと悟っているに違いない。
「で、ウチもやっと気づいた。パパ活とかしてさ、それを知った石橋君を脅して半殺しにしようとかしたりして……これだって、結果的に人を殺してないってだけでかなりヤバイことだよ。結局ウチもあんたと根っこは同じで、生きてるだけで人に迷惑をかけたり、搾取したりする、社会不適合者ってやつなんだ。それにあんたを見捨てて逃げたときに、ウチの人としての最悪さはすでに証明されてたんだしね。本当はあのときあんたと手を繋いで、一緒におまわりさんに全部話すって選択をしないといけなかったんだ……」
本音を言えば、今から石橋と会っても良いと、少しだが思っていた。
彼に会って、真柴のことを打ち明けても良いと思っていた。
本当は殺人衝動を抱えた自分の親友が彼を殺したこと、自分がそれを見捨てて逃げたこと――この愚かな懺悔を彼に聞いてもらえたら心が軽くなると、確かに数分前までは確信していたのだ。
だがもう遅かった。
誰にどう懺悔したところで、自分がこれ以上生きることが、世界に及ぼす負債を増やすことは変えられないのだから。
それに、腕の中でじっと固まる親友を、一人で終わらせることなどできなかった。
「この前小蓮が言ってた人生観。人生はまるで終わりの見えないって話。……ここで無駄に長生きして、人から搾取したお金で夢を叶えてもまた罪悪感に襲われるだけだから、本当は今ここで終わらせるのが一番綺麗なんじゃないかって、ウチはあのときどこかで納得してたんだよね」
目の前のきょとんとした目が、ようやく真っすぐ自分に向く。
そして華奢な手が、おずおずと自分の腰に回される。
――ああ、安斎小蓮には自分しかいないのだと、強くそう思った。
一度ぎゅっとその背中を抱きしめてから、体を離して背を向ける。
古いビルの屋上には、柵もフェンスもない。端まで歩けば、爪先の下は宙である。
軽い口調で話し続けた。
「こういう気持ち、実はずっと昔からあったんだ。だけど気付かないフリしてた。だって自殺なんて、何だかみじめな気がすんじゃん。……でもあんたの言う通りかも。本当はみじめなことなんかじゃなくって、もっとポジティブな、自分へのご褒美みたいなものなのかもしれない」
まばらな街灯と、ビルの灯りと、不規則な車のヘッドライトが、ショコラの上の粉砂糖のようにきらめいて見えた。
振り返ると、まだ不思議そうな顔がこちらを見ている。
「ウチに共犯だって言ったのは、きっとあんたなりの、最初で最後のラブコールだったんでしょ? 気づくのは少し遅かったけど、間に合って良かった。――どうせタイムマシンなんてない。法とか道徳とかが説教しに来る前にさ、あんた一人じゃなくて、最悪な社会不適合者同士、二人一緒に逃げ切ってやんの!」
にっと笑って手を伸ばすと、そこでようやく、心底驚いた顔をされた。
くるんとした瞳を見開き、口を半開きにして何かを言おうとしてためらう。初めて見た顔だった。
「……確かに、そうかもしれないですね。今が、逃げるのに最適……」
暗い夜空の下、震える手で安斎が手を差し出してきたのが分かった。
その手を握って己斐西は一歩後ろへ下がって――心底不思議に思ったことを口に出す。
「――あれ――――なんで、あんた――手袋なんて――」
柔らかい皮膚の感触などない。無機質なビニールの感触。
一度は握られたはずのその手が離される。
「あなたは何にも分かってない」
おどろくほど温度のない声でそう伝えて、安斎はそっと屋上へ後退する。
その静かな顔が遠ざかる直前――たった一人で宙に投げ出された事実に気づいて悲鳴を上げようとしたが、背中から地面に叩きつけられる方が先だった。