最悪の再会【天正17年8月初旬】
「与祢、姫……?」
紀之介様と目が合った。
瞬間、全身の血が音を立てて引いていく。
見られた、と理解すると同時に、誤魔化さなければ、と頭がフル回転を始める。
しかし、思考はまったくまとまらない。
ハムスターが全力を出しすぎて暴走させた回し車のように、空回りをするばかりだ。
とにかく何か言いわけをしようにも、唇はわななくばかりで声が出ない。
ならばこの場から逃げ出そうと思っても、金縛りにあったかのように足が動かない。
ふと、令和の記憶がよみがえる。
あれは大学時代、彼氏の浮気現場に踏み込んだ夜だった。
半裸の女を膝に乗せたまま、空のワインボトル片手に仁王立ちする私とアマンダを見上げて凍りついていたあのクズも、きっとこんな思いをしていたのだろうか。
なんて考えた瞬間、猛烈な恥ずかしさと逆ギレに近い怒りがお腹の底から湧き上がる。
(ああああ! あのクズの気持ち、一生知りたくなかったあああぁぁぁぁぁぁ!!)
香様の一件以来、私は一度も紀之介様と顔を合わせていない。
私の男遊びの噂に巻き込んでは申し訳ないから、少し距離を置いたのだ。
すごく心苦しかったが、紀之介様が嫌な思いをするよりはずっと良い。
そう考えて『しばらくそっとしておいてください』と手紙を送ってから、やっと三ヶ月。
人の噂も七十五日と言うとおり、最近ようやくほとぼりが冷めてきた。
なので、そろそろおこや様経由で連絡を取ってもいいかな、と考えていたところだった。
だが、まさか、手紙を送るより先に。それも、男の子と一緒の時に、出くわしてしまうとは。
(運が悪すぎるぅぅぅっ!!!)
「…………久しいね、与祢姫」
嫌な予想外に内心で頭を抱える私に、紀之介様が話しかけてきた。
口調はいつも通り柔らかい。でも、声が少し硬く、ぎこちない。
ああ……わかりやすく不審がってる……。
私と福松丸様をさりげなく見比べる目に、警戒心がちらついている。
増した後ろめたさと焦りを誤魔化すように、私は挨拶を口にした。
「あら、ごきげんよう。き……」
声に出しかけた名を、慌てて飲み込む。
いけない、いけない。隣に福松丸様がいるわ。
紀之介様と私が親しくするところを、身内以外に見せるわけにはいかない。
不安げな福松丸様に微笑みかけて誤魔化し、改めて紀之介様に向き直る。
「ごきげんよう、大谷刑部様。お久しゅうございますね、ご息災でいらっしゃいましたか」
とりあえず、官途名──役職名で呼んでおけば、間違いないよね。
一番フォーマルな呼びかけだし、福松丸様に誤解を持たせる余地はないはずだ。
「…………」
あれ、返事が無い。
「…………」
「ぎ、刑部様?」
「…………」
「あの、刑部様? ごきげんよう?」
「…………」
返事はない。丸ごと地面に落としたソフトクリームを見つめる子供のようだ。
私と福松丸様を見つめて一言も発しない紀之介様に、いつもと違う胸のざわめきを感じる。
やだ、ちょっとなんか言ってよ。無言は怖いよ、紀之介様。
そのガラス玉みたいな目で見ないで。キレた秀吉様っぽくて怖いから、ほんと。
ねえ! 私、やましいことは一切してませんからね!?
「与祢姫」
隣から袖を引かれて、我に返る。
福松丸様が、心配そうに私の顔を覗き込んできた。
「大丈夫ですか?」
「だ、だいじょうぶ、大丈夫です」
大丈夫じゃないけど、これから大丈夫するので大丈夫だ。
何を言っているのか自分でもわからないが、ここは私がどうにかせねばならない。
まずは……そうだ。隣の福松丸様を横目で見て、ひらめく。
私と連れ立つ人間が誰だかわかれば、紀之介様もこれ以上不審がらない! かもしれない!
「ぎょ、刑部様、ご紹介しますね!」
思いついた瞬間、即座に福松丸様の手を引いて、紀之介様の前に押し出す。
二人とも目をぱちくりさせているが、気にしない。
にこにこ笑顔を取り繕って、福松丸様を紹介する。
「こここ、こちら、駿河大納言様のご子息です! 福松丸様と申されますの!」
「……徳川家、の」
「はいっ、さようですわ。浅井の三の姫様とご婚約なさった兄君の付き添いで、上坂なさいましてね。私はその、福松様の城中の散策のお相手を務めている次第ですの!」
ほほほほ、とわざとらしく笑って説明する。
紀之介様は少し前から、私の周りに男の影が無いか気にするところがある。
もちろん、恋人の浮気を心配する感じではない。
年頃の妹か娘に、変な虫が付かないかという方向の心配だ。
紀之介様が固まった理由は、きっとそこにある。
福松丸様の素性を知らない紀之介様には、私が能天気に見知らぬ男の子を近づけて遊んでいるように見えていたのだ。
ならば、話は簡単。福松丸様の素性を教えて、杞憂だとわからせてあげればいい。
そうすれば安心して、いつもの紀之介様に戻ってくれるはず!
「……」
「あ、あの、刑部様?」
「…………」
……おかしい。反応が、ない。
紀之介様は、福松丸様に眉間に刻んだ皺を深くして、ひたすら黙り込んでいる。
え、どういうこと? もしかして、紀之介様には徳川様に隔意や怨恨があったりした?
慌てて思い返してみるけれど、そんな話は聞いたことがない。
そもそも紀之介様は、人間関係を上手に回す人だ。一方的に妬まれる以外で、特定の誰かと敵対関係になることはない。
苦手な相手、政治的に対立している相手でも、上手にあしらえる人なのだ。
だから私も、紀之介様がこんなふうに誰かを睨む姿なんて、初めて見た。
初対面で一言も発していない福松丸様が、何かやらかしたってわけでもないし……。
どういうことなのだろう。理由がわからなくて、怖いんですけどぉ……!
「与祢姫、行きましょう」
ふいに、福松丸様が、繋いだ手を揺らしてくる。
横を見ると、朗らかな笑みを浮かべる彼と目が合った。
「座敷で義母上が、ボーロを用意してお待ちですよ」
「え?」
「食べたいっておっしゃっていましたよね。早く行きましょう!」
無邪気に言って、福松丸様は私の手を引いて歩き出してしまう。さりげなく、紀之介様の様子を気にしながら。
それに気づいて、ピンとくる。福松丸様は、気を遣ってくれたんだ。
たぶん、私が見知らぬ大人、もとい、紀之介様への対応に困っていたからだな。
無理をして間を取り持つよりも、わざと気まぐれな子供っぽく振る舞って逃げた方が手っ取り早いと考えたのだろう。
そこまで思って、私はほっとした。紀之介様には悪いけれど、助かった。
私にもどうすれば良いか、わからなくなりつつあったのだ。
いったんこの場を離れて、仕切り直すことにしよう。そう思って、福松丸様に手を引かれるままになった。
それと、同時だった。
「待ってくれ、与祢姫っ!」
我に返ったような声が、背後で上がる。
反射的に振り向く。紀之介様が、裾を捌いて追ってきている。
顔をきつくこわばらせたまま、けれどもはっきり焦燥を滲ませて。
え、なに、こわ!? 紀之介様、どうした!?
鬼気迫るそのお顔に、つい身が固くなる。
「頼む、逃げないで──、ッ!?」
「姫に触れるなっ!」
バチン、と、大きな音が空気を裂く。
福松丸様が私を引き寄せ、伸ばされた紀之介様の手を叩き落としたのだ。
紀之介様の動きが、一瞬止まる。
間髪を入れず、福松丸様が声を張り上げた。
「御免っ!」
言うや否や、彼は私の手を引いて走り出す。
慌てて私も、足をもつれかけさせながら付いていく。
ぐいぐい引っ張る力は強くて、走る速度は振り返る余裕が無いほど速い。
あっという間に、私はその場から引き離されてしまった。
「ここまでっ、きたら、大丈夫、ですか?」
ほとんど全力で走ること、しばらく。
城奥に繋がる御錠口まで駆けてきて、ようやく福松丸様は止まってくれた。
「は、はい」
動揺する御錠口の番の者たちをなだめつつ、乱れた息を整えて頷く。
「ありがとうございました、若君様……その、助かりました……」
息を落ち着かせてから、お礼を伝える。
福松丸様の機転であの場を逃がしてもらえて、助かったのは事実だ。
紀之介様のことを考えると、ちょっとどころでなく頭が痛いけれど。
頭を下げる私に、福松丸様は、安心したように表情を緩めた。
「なら、よかった」
「ご迷惑をおかけしました、本当に」
「お気になさらず。姫が大谷刑部を怖がっておいでだったから、つい体が動いてしまっただけなので」
「怖がったってわけでは、ないんですけどね……」
ちょっと、びっくりしただけだよ。
あんな紀之介様は、初めて見たんだもの。
会話が成立しないことも初めてで、戸惑いも大きかった。
番の者に持ってこさせたお水を飲み干して、福松丸様は難しい顔をする。
「つかぬことをお聞きしますが、よろしいですか」
「え、はい、どうぞ」
「では……大谷刑部と姫は、どのような間柄なので?」
おっと福松丸様、直球ですね。
でもあんな空気に当てられたら、気になるのも仕方がないか。
「……私が幼いころより、とても大切にしてくださる御方、と申せばいいのかしら」
少し考え、当たり障りのない言葉を選んで答える。
「ずっと親しくさせていただいてきたのだけれど、最近、お付き合いの仕方に悩んでいまして」
「さようでしたか……」
真剣な面持ちで、福松丸様が目を伏せる。
答えておいて、なんだか申し訳ない気持ちになってきた。
こんな話を聞かされても、福松丸様は困るだけだよねえ。
「お気になさらないでくださいね」
意識した明るい声で言って、深刻そうな福松様に微笑みかける。
「私個人の問題ですし、たいしたことではないのですから」
「そうなのですか? 本当に?」
心配してくれるなあ。
内心苦笑しながら、気遣わしげな福松丸様に頷いてみせる。
「だからもう、ご案じくださいますな。もうすぐ御役目の時間になりますから、気持ちを切り替えてまいりましょう」
「……わかりました。姫がそう申すなら、そうします」
不承不承といった感じだが、福松丸様は引いてくれた。
うむ、素直で大変よろしい。
ちょっと心を和ませつつ、私は話を切り上げて、いったん城奥へ戻ることとした。
タイミング良く置き去りにしてしまったお夏も追いついたし、そろそろ江姫様のお支度を始めなければならないしね。
また後で、と戸が閉まるまで福松丸様と手を振り合ってから、早足で廊下を進む。
(あ、紀之介様のフォロー、どうしよう)
いくらか歩いたところで、ふと思い出す。
きっと今頃、あの人は落ち込んでるはずだ。香様の一件で私がつい拒絶してしまった時も、自分が殺されたかのような顔をしていた。
不可抗力とはいえ、あのトラウマをほじくり返してしまった申し訳なさが、今更ながらこみ上げてくる。
うぅ、引き返してフォローをして差し上げたい。
というか、しないとまずい気がする。恋愛はこういう小さなすれ違いの積み重ねが、破局に繋がるのだ。
早いうちに手を打たないと、と思うが、大事な仕事を放り出すわけにもいかないしなあ……。
歩きながら悩んで、しばらく。
後ろ髪を引かれながらも、今回は仕事を優先することにした。
紀之介様には申し訳ないが、私も勤め人なのだ。こればっかりはしかたがない。
「ままならなーい……」
人気のない廊下に、やるせない自分の呟きがこだまする。
……後で、おこや様に愚痴ついでに相談しよ。
福ちゃんと大谷さんの因縁、開始。
難治性咳嗽を患ったり仕事忙しかったりしてた。
ぼちぼち不定期更新で再開します。
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