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魔導院の調律

 日が落ちてから、教室の空気は一段と冷え込んだ。


 生徒たちが帰り、ディートリヒが書類を抱えて退室し、ハルグリムも新たな教本の原稿を持って自室に引き上げた後、『王立魔導院』の教室には灯油の一灯と、作業台の上に並べられた鉄の器具だけが残された。窓の外では風が石壁を叩き、隙間風が灯油の炎を揺らすたびに、壁に映る影が不規則に伸び縮みしている。暖炉用と戦闘用。どちらも王国の鍛冶師が鋳た粗末な筐体で、回路の精度は目を覆うものだった。


 ナナハルトは作業台の椅子に座り、最初の器具を手に取った。


 掌の中の鉄は冷たかった。筐体の内側に、聖遺物の欠片が粗い鉛で固定されている。回路の接続は力任せで、エーテルの流路が分岐点で詰まり、本来なら直進すべきエネルギーが側面に漏れ出す構造になっていた。この一つを使い続ければ、必要な三倍のエーテルが垂れ流される。


 管理者がいないから、自分が手作業で調整するしかない。ハルグリムにはそう説明してある。エリュシオンの管理者が不在の現状では、聖遺物の回路は野放図にエーテルを吸い上げる。人間の手で流路を整え、消費を最小限に絞り込む地道な作業が不可欠だと。

 だが、エーテルの利用自体が、地下の少女の呼吸が繋がっていることを、ハルグリムに伝えられていない。


 細い金属のヤスリを手に取り、筐体の蓋を外した。鉛で固められた聖遺物の欠片が鈍い光を放っている。その周囲に走る回路の溝を、ヤスリの先端で慎重に浚う。金属粉が指先に付着し、灯油の明かりの下で鈍く光った。削りすぎれば回路が断線し、欠片が暴走する。削りが足りなければ、エーテルは溝の段差で滞留し、熱に変換されないまま空中に散逸する。


 一つの器具を仕上げるのに、小半時はかかった。

 三つ目の器具に取りかかった頃、教室の扉が軋んだ。


 振り返らなくても分かった。革靴の底が石畳を擦る音の重さと間隔で、誰が来たかは判別できる。アデルベルトは歩幅が広く、踵を先に着ける癖がある。


「まだやってるのか」


 赤毛の少年騎士は扉を閉め、教室の隅の椅子を引いて腰を下ろした。毛皮の肩当てに雪が残っている。夜の巡回から戻ったばかりなのだろう、頬が寒風で赤く、吐く息がまだ白い。


「あと九つ。明日の昼までに仕上げないと、ハルグリムさんが兵舎への配備分として持っていってしまう」


「調整しなくても動くんだろ?」


「エーテルの消費が三倍になる。回路が焼けて暴走する可能性もある……できるだけエーテルを消費したくない。それには訳があるんだ」


 ナナハルトは覚悟を決めた。アデルベルトには、真実を話したい。


「聖遺物や魔導具を使うエーテルの根源は、エリなんだ」


「待て、それはどういうことだ?」


 アデルベルトはナナハルトの言葉を茶化さなかった。


「火を起こすには、薪を燃やすだろう。ランプにはオイルを使う。それと同じ理屈で、エーテルは、エリの命を燃やしてるんだ」


 アデルベルトはしばらく目をつぶり、何かを考えているようだった。


「それがどんな原理かさっぱり分からないが、そうか……ナナハルトが、せっかくの兵器を手放したのも、こうして無理に時間をつくって機械いじりをしているのも、説明はつくな。お前の必死さは、そこか」


 しばらく、金属を削る音だけが部屋に響いた。ヤスリの先が回路の溝を浚うたびに、微かな振動が指先から手首に伝わる。風が窓枠の隙間から吹き込み、灯油の炎が揺れた。ナナハルトの影が壁の上で歪み、ゆっくり元に戻った。


 次の器具の蓋を外しながら、ナナハルトは口を開いた。


「暖房や灯りの器具が、城の要所や街の重要地点に配置されただろう」


「そうだな。聖王の恩恵だとみな喜んでる」


「あれだって、本当は……去年までは要らなかったものだから、『使わないで欲しい』と言いたい」


 ヤスリの先端が回路の溝を浚い続け、金属粉が指の腹に溜まっていく。


「言えば良いんじゃないか」


「言えないよ。『エリの命が削られる』なんて言っても、笑われるか、僕が独占するつもりなのかって責められるよ」


 ふと、自分の知る真実を伝えた時のことを想像した。『あの少女の命など構わない』――ハルグリムなら平然と言い放つだろう。そう思い至り、ナナハルトは身震いした。


「今日、マティスたちに戦闘用の器具を持たせた。暖炉器具と同じ力加減で流しただけで、あれだけの出力が出る。戦場で瞬間的な大出力を引き出せば、回路への負荷は桁違いだ。制御して、暴走させないことは最優先だ。それが結果的に消費を抑えることにも繋がる」


 ナナハルトはヤスリを作業台に置いた。金属が木の天板を叩く乾いた音が、静かな部屋に落ちた。アデルベルトは沈黙して、ただ聞いている。



「暖房や灯りはさ、まだ人を助けるための道具だから耐えられる。でも今日から、僕は人を殺すための武器にも同じ手順を教え始めてしまったんだよ」


 両手の指を組み、額に押し当てた。指先に残った金属粉の冷たいざらつきが、額の皮膚に張り付いた。


「僕がエリの負荷を減らそうとして考えた手順が、逆に効率を上げてしまい、使える人を増やしてしまって、余計にエリに負担をかけてる。人殺しの道具にも使われる」


 アデルベルトは黙って聞いていた。椅子の背もたれに体重を預け、腕を組んだまま、ナナハルトの横顔を見ている。


「お前がやらなきゃ、もっと酷いことになってた」


 ナナハルトの手が止まらなかった。ヤスリを拾い上げ、また別の器具の蓋を外す。中の回路は先ほど調整したものより雑で、鉛の固定が歪んでいた。


「分かってる」


「雑な使い方で回路が焼ければ、消費は何倍にもなる。お前が教えたから、まだマシなんだ」


 ヤスリの先端が回路の溝に入り、金属粉が灯油の明かりの下で散った。


「そうかな」


 分かっていた。自分がやらなければもっと酷いことになる。教壇に立ち、カリキュラムを組み、ディートリヒに技術を共有した判断は、どれ一つとして間違っていない。間違っていないからこそ、降りられない。


 そしてその最善が、エリを殺していく。


「誰も悪くないんだ、アデル。聖王も、ハルグリムさんも、ディートリヒさんも、リーゼルも、マティスも。全員が、誰かを救おうとしてるだけだ。僕も含めて」


 風が窓枠の隙間から吹き込み、灯油の炎が大きく揺れた。ナナハルトの亜麻色の髪が風に乱れ、額に張り付いた金属粉が鈍く光った。


 アデルベルトが椅子から立ち上がり、ナナハルトの肩を掴んだ。革手袋越しの力が、骨に届くほど強かった。


「誰も悪くなくても、それが最善とは限らない……か」


「それは……」


 そうかもしれない。みなが善人であっても、良い行いをしていても、物事は必ずしも良い方向に動くとは限らない。エリを地上に連れ出したところから間違いだったのかもしれない。


「無理すんなよ。とはいえ、応援はしきれないけどな。俺は聖王に恩義があるし、この国側の人間だ。でも、できるだけ」


 アデルベルトの声が硬かった。肩を掴んだ手の革手袋の下で、拳の骨が浮いている。嘘が嫌いで、正しいことしかできない男の手が、行き場のない力で軋んでいた。王の近衛騎士に近い立場にありながら、彼が王に告げ口することはないだろう。ただ友として心配し、ここへ来てくれた。だからこそ、ナナハルトも信じて打ち明けることができたのだ。


「ありがとう、アデル」


「礼を言われることなんかしてねえ。さっさと仕上げろ。手伝えることがあるなら言え」


 アデルベルトは手を離し、元の椅子に座り直した。


 ナナハルトはヤスリを拾い上げ、手元の器具に向き直った。冷たい鉄の筐体を左手で押さえ、右手のヤスリで回路の溝を浚う。金属を削る微かな音が、再び静かな部屋に響き始めた。


 この一つを調整すれば、エーテルの垂れ流しがわずかでも減る。明日もまた一つ。明後日もまた一つ。それが地下のエリの命を延ばしているのかどうか分からない。ただ、冷たい鉄に触れている間だけは、自分が何も裏切っていないと思えた。


 ヤスリが回路の溝を浚う音が、灯油の炎の揺れる部屋に一つ、また一つと落ちて消える。

 春まではせめて、少しでも地下都市の――エリの負担にならないようにとナナハルトは祈りながら作業をすすめた。

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