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都市の子守歌

 ウーラの管轄する居住区へ戻ると、湯の張られた浴室が用意されていた。


 湯に入るのは、北方の山脈へ踏み出して以来、七日ぶりだった。

 地上の貧しい村では、冬場に大量の湯を沸かすための薪すら惜しい。七日前さえ凍りつくような冷水で身体を拭くのが精一杯だった。だが目の前の湯船から立ち上る湯気は、まるで無尽蔵の熱に支えられているように濃密だった。


「……こんなに、使っていいのか」


 思わず声が漏れた。湯船の縁から溢れ出した湯が、白い水路へと流れ落ちていく音がした。


 うながされるままに衣服を脱ぐ。自分の身体から立ち昇る汗と獣の脂、古い布の臭いが、この清浄な空間ではひどく異質なものに思えた。

 父の形見である革のコートは、分厚く重い。極寒の地上では命綱だったそれが、常に春のような温度が保たれたこの地下ではひたすらに重苦しく、ナナハルトはそれを壁のフックへ掛けた。


 湯に沈んだ瞬間、凍てついていた筋肉の強張りが芯から解けた。


「頭、洗うわね」


 ウーラの温かい声とともに、後頭部に柔らかな手が触れた。湯気の中で白蛇の胴体が滑らかにうねり、彼女はナナハルトの背後に回っていた。


 手渡された白い固形物は、石鹸というらしい。ウーラがナナハルトの頭髪にそれを揉み込んだ途端、信じられないほどきめ細かい純白の泡へと変わった。


 泡が弾けるたびに、農園で嗅いだ植物の匂いと、微かな甘さが混じった香りが広がる。

 凍りついてごわついていた髪が、他人の指先によって丁寧に解きほぐされていく。泥と煤と獣脂の層が溶け落ちるにつれ、隠れていた髪の色が湯の中に浮かび上がった。暗い亜麻色だった。日に焼けて褐色に見えていた髪が、本来の柔らかな光沢を取り戻していく。


「あら」


 ウーラの手が止まった。蛇の胴体が少しだけ傾き、上から覗き込むようにナナハルトの顔を見た。


「あなたの瞳、ただの灰色だと思っていたけれど」


 湯気の中で白蛇の穏やかな瞳がナナハルトの目を映していた。


「少しだけ、緑が混じっているのね。この光の下だと、よく見えるわ」


 自分の瞳の色など、気にしたこともなかった。母や妹もナナハルトも同じ色だったはずだ。単純に灰色の瞳だと思っていた。クイルにも何か似たようなことを言われた気がしたが、あの時は殺されかけた直後で、記録の言葉は頭に入らなかった。


「この街の住人にも灰色の瞳は珍しくないの。でもあなたのは、少しだけ響きが違うみたい」


 ウーラはそれ以上は何も言わなかった。再び温かな手が髪に戻り、泡が頭皮を包み込み、描写を続けた。響きが違う。それが何を意味するのか、ナナハルトには分からなかった。


 十五歳の少年が一人で生き延びるためにまとっていた緊張が、温かい湯と柔らかな泡によって容赦なく剥がされていく。あまりにも無防備な心地よさに、ナナハルトは湯船の縁に額を押し付けて静かに目を閉じた。


 剣を突きつけられるよりも、巨大な鉄の塊を見せつけられるよりもただ、この絶え間なく溢れる温かな湯と、柔らかな泡の感触に、自分はあっけなく屈してしまった。


 ただ尽きることのない温かい湯と、汚れを落とすこの白い泡一つが、エリュシオンという都市の底知れない豊かさを証明していた。


 湯を出た後、ウーラから清潔な衣服を渡された。地上の麻布とは比較にならないほど滑らかな生地で、縫い目すら見当たらない作りの服だった。

 異国風のその装束に腕を通すと、身体の軽さと相まって、まるで自分が別の生き物になったような錯覚すら覚えた。


 用意された寝台は清潔だった。掛け布の素地は地上の織物とは肌触りが違い、体温に応じるように温度を変えた。頭を横たえると、まだ柔らかい振動が身体の下から伝わってくる。


 天井には擬似空の光が淡く映り、地上の星空のようでもあり、まったく別の光のようでもあった。暗くはなかった。完全な暗闇にはならない場所なのだ。地下であるはずなのに、光は常にどこかにある。


 今日出会ったものを、ナナハルトは頭の中で順番に並べた。


 猫耳の少年は、殺そうとした。音のない殺気と、身体が裏切る耳の動き。殺意の中で唯一カリンバの音だけが猶予を生んだ。

 鴉の男は、記録した。温もりのある声で事実を述べ、判断を保留し、すべてを観測データとして収めた。


 白い蛇の女性は、食べさせた。何も聞かずにスープを出し、涙を見ても黙って二杯目を注いだ。

 黒い梟の職人は、手を見た。短い言葉しか喋らず、手の触感だけでナナハルトの何かを測り、「悪くない」と言って梟に戻った。


 四つの存在。四つの全く異なる接し方。群れではない。一人ずつが違う。彼らは人間ではないのに、人間より遥かに個別的だった。


 そしてエリ。角のある少女。長い名を、短く差し出した少女。彼女が何者なのか、ナナハルトにはまだ輪郭すら見えていない。

 ただ、他の三人がその名をどこか特別な響きで口にし、彼女の言葉に従っていることだけは分かった。

 それ以上は何も掴めない。ナナハルトの中に残っているのは「エリでいいわ」と告げたときの、声の温度だけだった。


 カリンバに触れようとして、止めた。腰に巻いたまま寝台に持ち込んでいたが、今は弾かなくていい気がした。音がなくても、ここは静かに鳴っている。都市そのものが、ごく微かに、しかし絶え間なく振動を続けていた。


 都市の微かな振動が、背中を通して全身に伝わっている。子守歌のようだ、とナナハルトは思ったが、それがウーラの白い手なのか、壁を流れるエーテルの脈なのか、区別はつかなかった。


 目を閉じた。地下に星はないが、まぶたの裏にはまだ回路の光の残像が青く瞬いていた。


 青い光は残像ではなかった。

 目を閉じてもなお、都市は内側で鳴り続けていた。

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