落下と追憶の音
はじめまして、ご一読ありがとうございます。
本作は、少年の純粋な善意が世界を壊してしまう、少し切ないダークファンタジーです。
※現在30話ほどストックがありますので、序盤は毎日更新(または複数話更新)で駆け抜けます。完結まで構想済みですので、安心してお付き合いください。
それでは、第一部「理想郷の少女」編、開幕です。
「ずっと聴こえていたの。地上から降りてくる音。あなたの音だったのね」
涼やかな声が、広い空間の反響を伴って耳に届いた。
後頭部がずきりと痛んだ。ナナハルトは自分が地面に仰向けに寝そべっていることに気がついて、慌てて身体を起こした。
肘をつき、首を回して周囲を見回す。見たことのない場所だった。天井から筋のような光がいくつか白く滑らかな床を照らしている。その床はどこまでも続いていた。
そして、見たことのない少女がいた。
十歩ほど先に立っている。黒い衣装に身を包んだ、自分と同じくらいの歳の女の子だった。華奢な肩、顎の線で真っ直ぐに切り揃えられた黒髪、青いリボンで留められた襟元。黒い手袋をした両手を身体の前で軽く組んでいる。
その佇まいには妙な静けさがあって、怒っているのでも笑っているのでもなく、ただこちらを見つめていた。何かを計っているような、あるいは確かめているような、澄みきった目だった。
暗がりの中でも、瞳だけがかすかに光を拾っているように見えた。
視線が、自然と少女の頭部に引き寄せられた。前髪の生え際のやや上、左右対称の位置から、二本の角が伸びていた。
滑らかな黒い曲線を描いて後方に反る山羊の角で、表面はどこか鉱物めいた光沢を帯びている。
光の加減で、内部にごく細い青い筋が眠っているようにも見えた。
ナナハルトの喉が一瞬だけ引きつった。角だ、と認識するのに数秒かかった。人間にはないものが、当然のようにこの少女の頭に生えている。
だが、それだけだった。
怖いとは思わなかった。理由は自分でもわからない。角の異質さよりも、その下にある金色の瞳のほうが、ずっと気になった。
暗がりの中で、灯りを溶かしたような色をしている。瞳孔は黒く、妙に大きい。まばたきもせずに、こちらを見ていた。
七日前のことを思い出す。
村を出たのは、収穫祭の翌日だった。
父が遺した手書きの地図と使い古しの採掘鉤、それに腰に巻いたカリンバを持って、ナナハルトは北方の山脈に向かった。
目的は、父が生前に記録していた採掘点のうち、まだ誰も掘り返していない最後の一箇所を探し当てることだった。聖遺物の欠片が採れれば王都に献上できる。妹のリーゼルに新しい靴を買ってやれるかもしれないし、母の薬代にもなる。
革のコートは父のものだった。十五の身体にはどうしたって大きすぎるが、これよりましな防寒具が家にはなかった。袖を折り返して手首を出し、長すぎる裾が岩に引っかからないように腰紐で縛り上げる、というのが毎朝の支度になった。
稜線にたどり着いた時には、足の感覚もあやしくなっていた。
地図に記された最後の採掘点は、この稜線を越えた先にあるはずだった。父の筆跡はところどころ滲んで読みづらく、等高線に沿って引かれた赤い線だけが辛うじてルートを示していた。だがその線は、稜線のすぐ向こう側で途切れていた。父は、ここから先を歩けなかったのだ。
稜線の岩場に腰を下ろし、風を避けて身を縮めた時、ナナハルトは腰からカリンバを取り出した。
十七本の金属の鍵が極寒の空気に触れてもなお鈍い光を返す小さな楽器で、リーゼルが一番好きな道具だった。
まだ雪の降る前、囲炉裏の前で妹が言った。
「それ、星みたいな音がする」
帰ったら弾いてやると約束した曲がある。
五音の単純な繰り返しだが、妹はこれを聴くと決まって目を閉じて身体を揺らした。
森で音を立てるのは、人に害をなす獣を呼ぶこともあるため本来はご法度だ。
けれどナナハルトが奏でると、不思議と集まってくるのは鹿や兎や小鳥ばかりだった。音の届くあたりに、気づけば静かに輪ができている。
それはナナハルトの好きな時間だった。
こんな極寒では、さすがに動物も寄ってはこない。それでも、心を落ち着けるには十分だった。
かじかんだ親指でいちばん高い音の鍵に触れると、金属は冷たかったが、弾いた瞬間に返ってくる振動には不思議と体温に近いものがあった。
まるで、この楽器そのものが息をしているみたいだった。
旋律は岩壁に反射して谷に散った。風が運ぶ音の残りが、やがて足元のクレバスの細い裂け目に吸い込まれていった。暗い亀裂の奥へ、さらに奥へ。
音の行き先を目で追ううちに、自然と身体がそちらへ傾いた。
靴底の下で霜の層が割れる音がした。
足場が崩落した。
暗転。落下。そして、風切り音。コートの裾がはためく感触と、カリンバを握った右手の力だけが最後まで残っていた。
何秒落ちたのかはわからない。やがて空気の質が変わった。冷たさが引いて、肌を押し包むような暖気が全身に触れ、意識はそこで途切れた。
そして今、目を覚ましたのだ。
目の前には、角のある少女がいた。
立ち上がった瞬間、空間の広大さがナナハルトの言葉を奪った。
ナナハルトは改めて周囲を見渡した。先ほどは少女に意識を奪われていたが、立ち上がってみると、この場所の規模が視界を圧した。
頭上に空があった。地下であるはずなのに、空があった。淡い青の光を帯びた広大な天蓋が頭上に広がっている。
雲のない空で、光源は見えず、天蓋そのものが柔らかく発光していた。自然の空とは明らかに違う。光の濃度がゆっくりと呼吸するように移ろい、その変化の周期が奇妙に心地よかった。
白い床の表面を、青白い光の筋が走っていた。血管のような、回路のような脈動が一定のリズムで床から壁へ、壁から天蓋へと循環している。
透明な水路が幾筋も地面に埋め込まれ、澄んだ水が音もなく流れていた。水底の回路の光が水面を通して揺れ、空間に細かな光の紋様を投げかけている。
空気が甘かった。嗅いだことのない匂いだった。清浄だが無味ではない、何かの結晶を溶かしたような、かすかな甘み。地上の土と汗の世界とは別の原理で循環している空気だった。肌に触れる温度は心地よく、凍えきっていた手足の強張りがゆっくりと解けていくのを感じた。
遠くに、巨大な金属の管が何百本も林立しているのが見えた。
都市の壁面から天蓋に向かって垂直に伸びる管の群れは、大きな教会にあるパイプオルガンに似ていたが、その一本一本が大木のような太さを持っていた。管の内側を光が走り、都市全体に満ちている微かな振動がその管群から発せられていることは、耳ではなく足裏から伝わってきた。
都市が振動していた。機械の稼働音とも楽器の残響とも取れる微細な振動が、床を通じて足裏に伝わってくる。不快な音ではなかった。むしろ何かの生き物の呼吸に近い、一定の周期を持った波だった。右手に握ったままのカリンバの金属鍵が、その振動に共鳴して微かに鳴った。
ナナハルトは少女に向き直った。
「さっき、音が聴こえていたって言ったのは」
「あなたが弾いていた楽器の旋律。地上から、ずっと降りてきていた」
少女は抑揚の少ない声でそう言った。
声の質感が、この空間を満たしている微かな振動に似ていた。壁が震えて言葉になったような、と言えば近い。
「僕のカリンバの音が、ここまで届いていたのか」
「この都市の外殻は音を通す。それを聴いていた」
少女は事実を述べるようにそう答えた。感情の起伏はほとんど読み取れなかったが、敵意も警戒もなかった。ただ正確に、観測したことを口にしているだけだった。
ナナハルトは一歩踏み出した。
「僕はナナハルト。ナナハルト・アスターだ。あなたは」
少女は首を傾げた。傾げ方があまりにも自然で、角があることを一瞬忘れた。
「エリュシオン」
四音節の名前だった。聞き慣れない響きだが、この場所の空気や光の質に、その音はどこか馴染んで聴こえた。
ナナハルトは口の中で繰り返してみた。エリュシオン。綴りのわからない異国の言葉のようだった。短く呼ぶなら、どこで切ればいいのかもわからない。
「言いにくい名前だな」
文句のつもりでも、相手を蔑めるつもりでもない。素朴な感想がそのまま口から出ただけだった。
少女は少しだけ目を細めた。怒ったのとも笑ったのとも違う、初めて見る種類の反応だった。都市の光が、わずかに脈動を速めたような気がした。
数秒の沈黙があった。
「エリ……でいいわ」
少女はそう言った。声の温度はほとんど変わらなかった。けれどナナハルトには、たった今この少女が、それまで使ったことのない名前を初めて口にしたのだということが、理屈ではなく直感でわかった。
カリンバの鍵に残る振動と同じ種類の何かが、少女の二文字の名前のなかに、一瞬だけ混じっていた。
少女の名前がカリンバの音階でどう奏でるか思い描く。
その時だった。
ありえない種類の寒気が、ナナハルトの首筋を撫でた。
お読みいただきありがとうございます。
本日は連載開始記念として、このまま第4話まで一挙更新しています!
画面下の「次へ」から、引き続きお楽しみください。




