「名前のある」関係
純喫茶の重いドアを押し開けると、湿り気を含んだ秋の風が二人の頬を撫でた。
街灯がぽつぽつと灯り始める夕暮れの中、どちらからともなく足は駅ではなく、沿道にある小さな区立公園へと向かっていた。
ベンチの木彫りは古び、誰もいない砂場にカラスが一羽降り立っている。
慧太郎はポケットに手を突っ込んだまま、ブランコの横で足を止めた。揺花里は柵に背を預け、足元に転がる落ち葉をすっとつま先で踏みにじった。
二人の間に、冷たい風の音だけが通り過ぎる。
揺花里は小さく息を吸い込み、何かを言いかけようとして、ふと口をつぐんだ。言いたい言葉は喉まで出かかっているのに、それを口にしてしまえば、積み上げてきた現実がまたガラガラと音を立てて崩れ去るのではないかという恐怖が足を引っ張る。
「……ねえ、慧太郎」
迷うように視線を彷徨わせ、揺花里は一度、首を横に振った。
(違う。こんな綺麗に整理された言葉で、また探り合うのは――)
「……やっぱり、違う」
呟きと同時に、揺花里の中で何かがプツリと切れた。
「私ね、あの部屋にいた頃、哲学の難解な言葉を使っていたのは……本当はただの強がりだったの。世間を知らない子供だって思われたくなかった。慧太郎の対等な相手になりたかった。だから本を読んで、理屈を捏ねて、頭のいい振りをしてた。……でもね、本当はそんな議論なんてどうでもよかったんだよ」
揺花里は一歩、慧太郎へ踏み込んだ。その瞳には、さっきまでの冷静さなど微塵もなく、剥き出しの感情の炎が揺らめいていた。
「私はただ、慧太郎のそばにいたかった。昔からずっと、本当に慧太郎が好きだった! ……それだけだったの!」
「揺花里――」
「拒まないで、聞いて!」
揺花里の声が夜の公園に響き渡った。
「その気持ちを、大人たちが全部壊したのよ! 『洗脳されている』『傷つけられた被害者だ』って決めつけられて、私が感じていた熱も、胸の痛みも、全部『病気だ』って否定された! 自分の気持ちを信じられなくなって、壊れて……足場を失って……それでも泥をすするみたいに自分を組み立て直して、最後に残ったのがこれなの!」
「『やっぱり私は、慧太郎が好きだ』っていう、それだけは絶対に嘘じゃなかった! 昔も、今も、私はあなたが好きなの! それのどこが悪いの!?」
胸を打つ言葉の重みに、慧太郎は言葉を失い、固まった。
「昔は未成年だったから、社会に否定された。守られるべき子供だからって、私の気持ちはなかったことにされた!……でも、今はもう子供じゃない。自分の足で立って、自分の意志でここにいる一人の人間だよ! もう誰にも、この気持ちを否定させない!」
揺花里は慧太郎のコートの胸元を強く掴み上げた。
華奢な指先に、血が通わないほどの力がこもる。
「あなたは? 依存? 社会正義? 倫理? 過去の過ち?……そんなの昔はあったかもしれない! でも、今は? 『今の』天黄道慧太郎の気持ちはどうなの!?」
掴まれた胸元から、彼女の吐息と震えがダイレクトに伝わってくる。
「私はあなたが好き。それのどこが悪いの? 逃げないで、答えてよ! 天黄道慧太郎!!」
魂を絞り出すような叫びが、秋の静かな空気を切り裂いた。
その言葉を受けた瞬間、慧太郎の中で何かが音を立ててキレた。
五年間の独房、終わらない自責、社会が押し付けてきた「正しさ」、そして何より、目の前の女に怯え、自分を守るために「反省した加害者」という安全な防壁に引きこもっていた自分自身への怒り。
慧太郎は揺花里の手を力任せに振り払い、彼女の肩を掴み返した。その瞳には、穏やかな後悔など微塵もなく、剥き出しの荒々しい熱が宿っていた。
「ふざけるな……!」
低く、押し殺した慧太郎の声が夜の闇に震えた。
「俺がどれだけ怖かったかお前には分かるか! お前が警察に連れていかれ、すべてを奪われていく中で、俺がどれだけの地獄を生きてきたと思ってるんだ! お前を守れなかった無力さに押しつぶされそうになりながら、それでもお前の未来を壊さないために、自分の感情にフタをして、犯罪者として生きる覚悟を決めたんだよ!」
揺花里は驚いたように息を呑んだが、怯むことなく慧太郎を睨み返す。
「それを『綺麗に反省して逃げた』だと? 勝手なことを言うな! 俺だって怖かったんだよ! お前の人生を狂わせた張本人だという現実から、お前へのこのどうしようもない執着から、目を背けたくて仕方がなかったんだ!」
慧太郎の指に、自然と力がこもる。
「依存だ、倫理だ、社会正義だ、そんなものクソくらえだ! お前が俺を狂わせたんだよ、一六立揺花里! あの狭い部屋で、生意気な口をききながら俺の孤独をめちゃくちゃにしたお前のせいで、俺の人生はとっくの昔に狂わされてんだよ!」
息を荒げ、互いの胸倉を掴み合うような距離で、二人の視線が激しくぶつかり合う。
それは綺麗事の愛の告白などではなく、互いの生への執着をぶつけ合う、あまりにも泥臭い獣のような剥き出しの肯定だった。
「……っ、何よそれ」
揺花里の唇がわずかに震え、やがて、その目から大粒の涙が一筋、こぼれ落ちた。けれど彼女は泣き顔のまま、フッと歪んだ笑みを浮かべる。
「……やっと、本音を吐いたじゃない。綺麗事の反省なんかより、ずっといい」
「……あぁ、そうだな」
慧太郎は乱暴に息を吐き出すと、掴んでいた肩から力を抜き、その頭を自分の胸元へと引き寄せた。拒む間もなく、揺花里の体温が慧太郎のコートの隙間から染み込んでくる。
「もう逃げない。お前が正しい罰や綺麗な後悔の裏に隠れるのなんて、もうおしまいだ。揺花里が俺を好きだと言うなら、俺もすべてを引き受けてやるよ。……どうなっても、知らないからな」
「当たり前よ……」
冷たい秋風が吹き抜ける公園の暗がりの中で、二人はもう二度と離れないと確かめ合うように、互いの身体を強く抱きしめ合っていた。
よろしければブックマークと、下の☆☆☆☆☆から評価を入れて頂けると大変励みになります!
「面白かったらアクションか評価をいただけると、作者が喜びます」




