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プロローグ わたしの、大切な嘘

 この序章は、宿屋「雫亭」の女将の視点でお届けする、ひとつの打ち明け話。


 次話からは、看板娘ルルの「あたし」の目線で、賑やかな雫亭の日常が始まります。


 ゆるりとお付き合いいただけたら嬉しいです。

 今日も早朝から、カウンター越しに、看板娘が笑っている。


 常連の軽口を受け流し、次々と注文を捌いて、テーブルにこぼれたスープなどを拭い、また笑う。この雫亭(しずくてい)でいちばんの人気者。人にも魔物にも分け隔てなく優しくて、少しばかり──いいえ、かなり、恋には鈍いあの子。


 ルル。わたしの、たったひとりの娘。


 あの子は知らない。今その頬に浮かんでいる笑顔が、その顔立ちのぜんぶが、かつて──ずっとずっと昔、わたし自身がまとっていた"顔"だということを。


 わたしは、スライムだった。


 名前も、言葉も、心も持たない、ただの一匹。気づいたときには、あの人たちの旅についていっていた。魔王を討つという、人間の勇者の一行に。誰にも数えられず、記録にも残らない、荷物の隙間の居候(いそうろう)


 けれど、あの人たちのそばで人の言葉を覚えるうちに、わたしはゆっくりと"わたし"になっていった。嬉しいという形を、寂しいという色を、覚えた。そうして人の心というものを知ったとき──わたしは、あの人に恋をした。


 勇者ヘリオス。まぶしいひとだった。太陽みたい、と言えば陳腐だろうか。それでも本当に、そう思ったのだ。


 魔王が(たお)れて、旅が終わって。


 人間の英雄と、名もなき魔物。結ばれてよいはずが、なかった。世間が、身分が、それを許さない。


 それでもわたしは、決めたのだ。


 スライムのわたしには、ひとりで子をなす術がある。その営みに、ヘリオスのひとかけらを溶かし込み、わたしのいちばん美しかった"昔の姿"を、この子の器にした。


 だから、顔立ちはわたしのもの。けれど──その瞳も……髪の色も、まぎれもなく、あの人のものだった。何も知らぬ者には、わからない。けれど、あの人を知る者がひと目見れば、きっと息を呑むだろう。顔はわたし、色はヘリオス。この子は、まぎれもなく、ふたりの子だったのだ。


 娘が生まれたと伝えたとき、あの人は泣いた。英雄と讃えられた男が、子供みたいにくしゃくしゃになって、泣いて、喜んだ。


 ……それが、わたしのいちばん幸せで、いちばん遠い記憶。


 一緒には、暮らせなかった。


 いくつもの地を治める大領主となったあの人と、ただの一匹の魔物。その間に、生まれるはずのなかった子。──知られれば、なにもかも、終わってしまう。


 せめてもの償いだと、あの人は言った。もっともらしい理由をいくつも並べて、魔物のわたしに"人権"を与え、この境界の町フォンスに、雫亭という居場所を遺してくれた。会えない代わりに。名乗れない代わりに。


 だからわたしは、姿を変えた。母と娘が瓜二つでは、"拾い子"の嘘が崩れてしまう。──美しかった昔の顔は、ぜんぶ、あの子にあげてしまったのだ。


 今日も、雫亭は騒がしい。


 薬を求める客がいて、湯けむりが立ちのぼって、ルルは相変わらず、言い寄る男たちのことを"仲のいいお友達"だと思っている。


 そして時おり、ふらりと、ひとりの"常連客"がやってくる。目深にフードをかぶった、旅の男の顔をして。


 「いらっしゃいませ!あ、いつものお客さん。奥の席、空いてますよ」


 ルルは何も知らないまま、実の父に茶を出して、笑う。


 あの人は、その笑顔を──わたしのかつての顔で笑う娘を、まぶしそうに、こわれものを見るように、見つめている。


 わたしだけが、知っている。この、嘘だらけの食卓のことを。


 いいのだ、これで。


 名乗れなくても、触れられなくても。あの子が笑って、今日を生きて、明日も雫亭の暖簾(のれん)をくぐる誰かに「いらっしゃいませ」と言えるのなら。


 わたしは、この嘘を守る。悠久の時をかけてでも。


 ──さあ、前置きが長くなってしまった。


 わたしのかわいい、恋も、恋心すらも、まだ知らぬ娘。スライムの子、ルルの話を──聞いてやってくれるだろうか。


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