2話
藍が振り返ると、そこにいたのは溶けかけている何か。人のような形をしているようにも見えるが、顔という部分には何かがあったという程度のくぼみしかなく、まるで人であったものが溶けてしまったかのようにも見えた。それが複数体。一体どこから現れたのか。
「きゃぁぁぁ!」
叫び声をあげたのは有希だ。だが声をあげないまでも驚き、恐怖を感じたのはその場にいた全員だっただろう。何故、どうして、など考える余裕などない。ここですべきなのは逃げる事。ただそれだけだ。
「卓也、走るぞ‼」
「え⁉ あ、あぁ、有希こっち!」
「折宮!」
「う、うん!」
卓也は有希の手を引き、藍も加奈を立たせてから駆け出した。最後尾を走りながら藍は後ろを振り返る。追いかけてきているようにも見えるが、さほど速いわけではなかった。建物があれば身を隠したいところだが、まだそういったものは見えてこない。
「っとに何なんだよ、ここは……」
悪態の一つや二つ吐きたくもなる。ねっとりと纏う嫌な気配が徐々に濃くなり、身体もいつもより重たく感じてしまっていた。それでも足を動かさなければならない。ひとしきり走り、追ってくるモノが見えなくなったところで藍たちは膝に手を置くようにして息を整えた。
「はぁ、はぁ……な、なんなの、あれ」
「知らないって」
その問いに答えられる者はいない。藍は今走ってきた方角を見据える。花畑しかなかったはずの風景が、少しずつその輪郭が歪んできていることに気づいた。剥がれてきたようにも見える。季節感が全くない花畑から、枯れた草木の風景へと。徐々に見えてくる姿。古びた家屋、井戸、そしてもっと遠くには大きな壁も見えてきた。
「はぁはぁ……恐かった……」
「大丈夫か、有希?」
「う、うん……でも、私たちこれからどうなるの、かな……ねぇ卓くん、私たち戻れるよね? 帰れるよね?」
「わかんない。ここがおかしいってことくらいしか、今の俺たちにはわからないんだ」
「そう……だよ、ね。うん、ごめん」
卓也と有希の二人の会話をどこか遠くで聞きながら、藍は現状を把握しつつ、その頭の中には最悪の考えが浮かんでいた。帰れないかもしれない、ではなく、もっと最悪な事態を。休むこともできずに空腹のままでいれば、いずれは力尽きる。そう、生きて戻れないのではという考えだった。
腕時計が示す時刻は10時を通り過ぎている。いつまでも茜色の空でいることで時間の間隔が鈍りそうにははるが、今は本来ならば夜遅い時間だ。高校生が出歩く時間ではない。夕食の時間はとっくに過ぎており、藍たちが口にしたのは先ほど有希がくれた飴玉だけ。糖分の補給ができたことはいいが、水分補給はできていない。耐えるといっても限界がある。生きることを優先するか、それとも戻ることを優先するかと。
「久遠くん、どうかしたの?」
「いや……折宮、今の景色を見てどう思う?」
隣に立った加奈に問いかける。今、何が見えているのかを。すると加奈は首を横に振った。
「最悪としか思わない。だってずっと同じ光景で、その先にも、後ろを振り返っても何も変わらないし……ずっと同じ景色の中を歩かされているみたいだもの」
「そうだよな」
「それがどうかした?」
それは確認だった。今、藍の目に見えてきた光景が他の三人に見えているのかということの。先ほどの発言からみて有希も加奈と同じく景色が変わったようには見えていない。卓也が見えていたならば、有希にもそれを告げるはず。帰れるかどうかはわからないにしても、あそこへ向かおうと言ってくるだろう。それがないということは、卓也の目に映る光景も加奈と同じだということ。つまり、藍だけが見えているということになる。
「生きることと、帰ること。お前ならどちらを優先する?」
「……何それ、どういうこと?」
「そのままの意味だ」
この問いかけに加奈は少し考えるそぶりを見せる。今の状況でふざけて出た言葉ではないというのは理解しているが、どうしてその問いかけが来るのかわからないと言ったところだろう。それでも律儀に考えてくれる辺りが真面目な加奈らしい。
「どちらかだけしか選べないというのなら、私は生きることを選ぶと思う。帰りたいのは同じだけど、まだ死にたくないもの」
「そうか」
「久遠くんはどっちを選ぶの?」
「同じだな」
得体のしれない状況に巻き込まれて大人しく死んでやるつもりはない。帰れるならばその方がいい。ただいずれにしても、今のままではそのどちらも選ぶことはできない。
「久遠くん、その質問を有希ちゃんにはしないで。今の有希ちゃんには」
「わかっている。だからお前に聞いた」
「……本当、久遠くんって優しいんだか冷たいんだかわからない人よね」
「気遣う役目は卓也一人で十分だろ」
有希にとって先ほど藍が加奈にした質問は残酷なものだ。希望に縋りたいと願っている有希の心を折りかねない。それでも誰にも告げずに行動を起こすこともできない。だからこそ藍は加奈に聞いたのだから。卓也がどちらを選ぶかは聞くまでもなかった。残りは有希だけだが、本当にその選択を迫られた時に聞けばいい。それが訪れることがないと願ってはいるけれど。
「卓也、姫川も」
「藍?」
二人に近づいた藍は、視線を合わせてから遠くの方を見るように顔を向けた。それにつられるようにして三人も藍が見た方へと顔を向ける。
「向こうに建物らしきものがある。人がいるとは思えないし、別の生き物がいるかもしれない。それでもここにいるよりはマシだろう」
「藍、お前何か見えるのか?」
「あぁ……今は信じてくれとしか言えない。ただ、もう俺には花畑の光景は見えていないんだ」
「えぇ! もう見えてないって……ここにチューリップとかひまわりとか咲いているのに? こんな近くにあるのに?」
そうして加奈が指で示す。だがその示されたところにあるのは、枯れた草。花びら一枚さえも落ちていない。
「枯草だ。俺に見えているのは」
「どういう、こと?」
「つまり、だ……ここってもしかしなくとも、いや考えはしたけどよ……幽霊とか、そういう連中がいる場所、ってことか?」
「ひっ⁉」
青白い顔になった有希が卓也の背中に抱き着く。明らかに異質な場所。そこでまっさきに思いつくのが、霊的な場所だろう。どういう表現をしていいかわからないし、そもそもそういった場所が本当にあるなどとは誰も思っていなかった。けれども、もはや目を背けてもいられない。
「さっき追いかけてきた連中が元々人間だった、と考えれば自ずと答えは出てくる。俺たちが迷い込んだのは、そういう場所なんだろう」
「久遠くんって霊感とかそういうのあったの? 知らなかった」
「こんなこと誰かに言うものじゃないだろう。それに、俺自身もここまではっきりと何かを感じたのは初めてだ」
もし危機的な何かを感じていたとすれば、里山に来た時点で引き返していた。感じなかったからこそ、藍も何も考えずにいたのだ。迷い込んでから気配を感じるようになった。それだけ隠ぺい力が強かったのか。藍が鈍かっただけかはわからない。
「ね、ねぇ……もしか、して、このままだと私たち……あの追いかけてきたものみたいになっちゃう、の?」
「そうなりたくないから行く」
少しでも手がかりがあるならばそれに越したことはない。そのためには行動するしかないのだから。
「わかった。藍、案内してくれ」
「そうね、今はそれしかないでしょ」
卓也と加奈が頷く。怖がり続ける有希はただ卓也の腕に掴まり怯えているだけだ。だがこのままでいても悪い方にしかいかないことはわかっているのだろう。小さく頷きを返してくれた。今はそれだけで十分だ。
「こっちだ」




