7話
その翌日、翡翠との稽古をしている最中だった。藍に来客が来ていると告げられたのだ。この屋敷の者であれば、翡翠を通すだろうし、菖蒲であれば直接言いに来る。加奈も同じだ。それ以外で藍に会う者など心当たりもなかった。
「翡翠?」
「いえ、まずは会ってみましょう。私も同席いたします」
「わかった」
途中ではあるが稽古は中断。木剣を置き、軽く汗を拭いた後で身支度を整える。自室で会うわけにはいかず、来客が来た場合には相応の場所が用意されている。敷地内でも外に近い部屋。どの部屋も造りは同じなので、これは位置で覚えるしかなかった。
通された部屋には、図体の大きい者が二人。角が見えていることから鬼の妖であることはわかる。一人は男性で、もう一人は女性だ。
上座である場所に藍が座り、その右斜め前に翡翠が座った。
「顔をお上げください」
翡翠の声に二人の顔があげられる。藍は男性の顔を見て驚いた。そこにいたのは昨日、菖蒲に異論を唱えていた伍緑だったからだ。
「伍緑、さんですか?」
藍が呼びかければ、気まずげに伍緑は顔を逸らした。その頬には微かに引っかかれたような痕が残っている。治りかけではあるが、爪か何かだろう。
「っ……その昨日は」
「ほら、さっさと謝罪をしなさい。藍様にもご迷惑をおかけしたんだから」
バンとやや大きめの音で伍緑の頭を叩き、その背中を押しながら頭を下げさせる女性。豪傑のような振る舞いに藍は戸惑うことしかできなかった。
「……昨日は、申し訳ありません、でした。つっかかってしまって」
「言えるじゃないかい。全くもう、藍様うちの馬鹿息子が申し訳ありませんでした」
「いえ俺は別に――」
「既に姫様が牙を立てている相手に何を言っているのであれば、こちらから言うべきことは何もないというのに」
藍が言葉を変えそうにも、相手があれこれと話を続けてくる。どこの世界でもこういう母親はいるのだろう。
「木蓮殿」
「ああ、すまないね。姫様にも謝罪をしに行きましたら、藍様にまずはそれをお伝えしてほしいと言われまして」
「……謝罪を受け入れます。なので気にしないでもらえると俺も有難いのですが」
気を悪くしたわけでもないし、伍緑が藍に不満を持つのもわからないでもない。そもそも人間である藍を厄介に思うことはあって当然だ。
「藍様、今はまだそれでも宜しいですが、姫様と婚儀を交わした後は、へりくだった対応はいけません。翡翠にも言われるでしょうが、覚えておいてください。それじゃあ、私らはこれでお暇します。ほれ、伍緑行くよ」
「……あぁ」
わざわざそのために屋敷へと足を運んでくれたようだ。姫である菖蒲に対して、鬼たちが強い敬意をもって接しているのが良くわかる。だからこそ藍へも同じように丁寧に接してくれている。若干、伍緑は居心地が悪そうではあるが。
「伍緑さん」
「さんなんてやめてくれ、じゃなくてください、藍様」
「なら俺のことも、藍で構いません」
伍緑からそう呼ばれると、むず痒い気分になる。屋敷に住んでいる以上、そういう扱いをされるのは既に慣れた。だが屋敷の外の者たちはまた別だろう。そもそも自ら望んだわけではなく、その呼び名に違和感を覚えているのであればなおさらだ。お互いに違和感がない方がいい。
「……姫様が許さない」
「俺がいいと言っているんですから。多少のことは菖蒲も目を瞑ります」
何かしら要求されることがゼロではないが、菖蒲も強く出ることはない。女性相手ならともかく、伍緑は男性だ。
「藍、俺はお前のことは好かない」
「当然ですね」
「ただ……姫様の怒りを買いたくもない。仲良くなんざできねぇが、仲違いしたいわけでもねぇんだ」
「……それでいいと思います」
「その喋り方も擽ってぇ……翡翠の旦那にするみたいにやれよ」
本当に嫌そうにしている。明らかな年長者に対してはそうするべきだと思っているためだが、気に入らないと言われてしまえば藍も別に拘る理由もなかった。
「わかった」
「まぁいい。國の連中にもお前に面と向かって歯向かわないようには言っておく。だが認めたわけじゃないってことは忘れるな」
「肝に銘じておく」
「ちっ……」
舌打ちをしつつ伍緑は去っていく。その態度に様子を見る立場をとっていた母木蓮は大きく息を吐いていた。
「申し訳ありませんね。後できつく言い聞かせておきますから」
「そのままでいいです。俺は気にしないし、彼らにも思うところはあるのでしょう。俺が人間なのは事実だから」
「姫様がいいと選んだんですから、それで十分ですよ。それでは私もこれで。婚儀を楽しみにしてますからね」
婚儀、その言葉に藍は乾いた笑いしか出てこなかった。
二人を見送ってから、藍はその場にしゃがみこむ。
「藍様?」
「……何でもない」
「お疲れでしたら少し休まれますか?」
「そうする」
自室まで翡翠に送ってもらうと、一人にしてほしいと頼んだ。
藍の立場、菖蒲との関係。鬼は人間とは違い、何というか短絡的で感情的だ。複雑な感情はそこにはなく、ただ思うがまま感じるがままに行動を起こす。そもそも物事を深く考えることが苦手なのかもしれない。翡翠を見ていると、人間とよく似ているとは思うが、菖蒲や伍緑といった鬼たちはどこまでも真っすぐだった。その真っすぐさに、時折息苦しさを覚える。
縁側に座り片足だけを下ろすと、そのまま背中から倒れこんだ。冷たい床の感触が今は有難い。そのまま目を閉じて、藍は深呼吸を繰り返した。そうしていると、小さな手で触れられているような感触があり、藍は目を開いた。そこにいたのは、小さな妖。見た目はカエルか何かだろうか。と思ったが、その頭に皿のようなものをみつける。河童らしい。妖の河童は幼い頃から川の側でよく見かけたもので、藍にとっては珍しいものでもない。
『――…――』
「何でもないんだ」
聞き覚えのない言葉を発しているが、何を言いたいのかは伝わった。これも幼い頃と同じだ。鬼の國で河童を視ることになるとは思わなかったが、妖は千差万別に存在している。別に不思議なことではないだろう。
『……――!』
「藍?」
しばらく河童の声を聞いているところで、背後から音がした。この声は菖蒲だ。藍は身体を起こして振り返る。
「どなたかとお話をされていたのですか?」
「いや、ただの河童だ」
「河童? まぁここにまで来るとは珍しいですね。あまり鬼の住処には近づきませんのに」
そうなのかと再び藍が顔を戻したが、既にそこには河童の姿はなかった。菖蒲が来たので逃げたのかもしれない。
「逃げたらしいな」
「誰かの傍に姿を現すことだって珍しい種族ですからね。それにしても、藍からは私の気配がするというのに……それでも近づくとはなかなか度胸がありますね」
河童からすれば鬼は畏怖の対象。この國にもいることはいるが、その姿を見た者は少ないらしい。すぐに逃げてしまうし、見つかって捕まりでもすれば子が面白がって遊ぶ。子どもたちからすれば遊んでいるつもりでも、河童からすれば恐怖だろう。
「私の藍に触れるとは」
「たかが河童だろう」
「藍、鬼を見くびってはいけませんよ」
「菖蒲、何を?」
菖蒲が不敵な笑みを浮かべたかと思うと、藍の身に着けていた狩衣を止めていた紐を解き始める。
「おいっ」
藍の静止にも動きは止めず、首元から布を広げていく。その目的が何かを理解した時には遅い。常に首回りにあった包帯を完全に解くと、首から肩口近くにかけての牙の痕が露わになった。そこへ菖蒲が口を寄せる。
「っ!」
鋭い痛みが藍を襲った。菖蒲が牙を立てているのだ。そう理解すると同時に藍の中に妖力が入ってくる。菖蒲の力だ。どれだけ経っただろうか。数秒、数分、もしくはそれ以上か。時間の間隔が鈍りどれだけ噛みつかれていたのかもわからなくなった頃、満足したのか菖蒲が顔を離した。力の抜けた状態となった藍はそのまま菖蒲に寄りかかる。
「あや、め」
「油断は禁物です。これであの河童も藍に触れることはないですよ」
「……お前、ほんとに」
「申し訳ありません。私もあまり藍を傷つけたくないのですが、止められないのです」
「勘弁してくれ……」




