4話
「ちぃ」
「まだです、脇が甘いですよ」
翡翠の懐に深く踏み込み、持っていた木剣を振り下ろす。だが軽くいなされてしまい、翡翠に届くことはなかった。力だけで振り回してはただ腕が疲れるだけ。全身を使い、剣を振り下ろすだけでも膝、足の踏み込みを行う。言われていることはわかる。そうして木剣を振る事にも慣れてきたものの、それでもまだまだ翡翠に当てることさえできない。何度も何度も繰り返し、翡翠へ打ち込む。ただ立っているわけではなく、翡翠は攻撃こそしてこないものの動き回る。大きな体格に似合わず、それはとてつもなく速かった。
「ここまでにしましょう」
「っ……はぁはぁ……」
終わりを告げられ、藍はその場に片膝を突く。肩で息をしている状況だ。何度も深呼吸を繰り返して、息を整えてから顔を上げた。
「藍様は読みがいいですから、私も油断できません」
「そういう割に、全部躱されているけどな……」
「これでも指南する立場ですから。そう簡単に受けるわけにはいきませんよ」
息一つ乱さず翡翠は微笑んでいる。藍は膝が笑っている状態だというのに。これが今の藍と翡翠の差だ。遠すぎるその差に、悔しささえ湧かない。それだけ差が有り過ぎるのだから。
「……気が付いているかはわかりませんが、藍様は疲労を感じている時の方が良い動きをします」
「よくわからない」
「人は疲れているときほど、無意識に楽をしようとしますから。本能的にどう動けばいいのかと判断し、無駄な動きが制限されるのです。私も、幼い頃に師からよく言われました」
それは藍にも理解できる話だ。藍は現世の学校でバスケ部に所属していた。疲労がたまる後半のクォーターほど集中力が増し、シュート本数は少なくなるものの成功率は上がる。とはいえそれが可能なのも反復練習の賜物だ。全く何もしていなければそれさえない。おそらく剣技も同じ。理解したところで、今の体たらくを見る限り上達しているとは思えなかった。
「身体にしみ込んだ動きでなければ意味はない」
「藍様も動きが徐々に身体に馴染んできているのでしょう」
「……そうだといいけどな」
初めて翡翠に教えられた時、数分で木剣を持つことさえできなくなった。強い治癒力を持つ鬼の血を菖蒲から与えられたためか、手のひらの皮が剥がれてもその日の内に治ってしまう。痛みも同じだ。鬼の血を少し与えられただけでこの状態。鬼という妖はもっと強靭な肉体と力を持っているのだろう。多少の傷や打撲でさえも彼らにとっては怪我の内にさえ入らない。
「翡翠」
「なんでしょうか?」
「お前よりも強い鬼はいるのか?」
「何を強さと判断するのかに困るところですが……そうですね、少なくとも実戦に重きを置いた戦いにおいて私よりも強い鬼はいます。この國の中であっても」
「……そうか」
胡坐へと姿勢を変えて、藍は自分の両手を持ち上げる。強くなりたいと思っているわけではない。けれどもそうしなければ、この世界では生きていけない。この國だけで生き抜くのであれば必要ない力だが、この國がいつまで平穏でいられるかはわからないという。
「藍様には、私よりも強くなってもらいたいと思っています」
「無茶を言うな……俺は人間だ。何をしたところで、鬼である翡翠たちには敵わない」
「……藍様、一つ教えておきましょう」
翡翠の言葉に藍は顔を上げた。見上げる形で見た翡翠の視線は藍ではなく、遠くを見るように明後日の方向へ向けられている。眩しいものを見つけたようにその口元は弧を描いていた。
「我ら鬼の始祖様は、元は人間であったと言われています。元々霊力が強いだけの人間だったと」
「え?」
「人間であろうと、その先がないと私は思っておりません」
翡翠の視線が藍へと向けられた。それはまるで、人間であることを言い訳にするなと言われているようだった。
道場での稽古という名の扱きを終えた藍は、約束通りに菖蒲たちが手縫いをしているという小屋へ向かった。屋敷の敷地内にあるそこは、菖蒲を中心として小さな鬼の子が揃っている。鬼の子に囲まれているのは菖蒲だけでなく加奈もだった。その中に角を持たない幼子を見つける。よくよく見れば、その子の頭にはふさふさした耳、加えて背中近くには勢いよく動く尻尾があった。
「尻尾?」
「まぁ、藍。お疲れでした。待っていましたよ」
「少し遅くなった」
「構いません。どうぞこちらに座ってください」
藍が来たのを見つけた菖蒲がその手を引っ張る。連れてこられたのは先ほどまで菖蒲が作業していた傍だ。こうして小屋にいても、藍は菖蒲の側にいさせられる。もう慣れてしまったが、当初は幼い子たちの視線を受けるのは居心地が悪いものだった。
「菖蒲」
「はい?」
「折宮のところにいる子は鬼ではないんだろ?」
「……藍には見えるのですか?」
見える、とはどういうことなのか。わからず藍は首を傾げた。すると菖蒲はクスクスと笑い出す。
「加奈の側にいるのは狐や兎といった妖の子です。あの子たちは鬼の姿を見て、それを模倣しているのですよ。だから普通ならばあの子たちも鬼の子に見えるはずなのです」
狐や兎、他にも色々な姿を持つ妖がいる。生まれ成長し、そうして一定の妖力を得た妖は、姿を変える術を一番最初に学ぶ。何かに姿を変えることで、自らを守るためだという。鬼の妖がこの國では最も強い。だから鬼の姿に模倣する。妖力が強いものであっても、簡単に見抜けるものではないらしいが、藍にはそれが丸見えだった。
「藍の霊力がそれを可能にしているのかもしれません。予てより霊力は真実を見定める力を持つと言われていますから」
見えないものを視る。そこに有るはずのものを見定める。確かにそういう言い方をされることはあった。霊を視るというのもその一環だ。霊力と妖力では、そもそも力のあり方から違うのだろう。それはそれとして、藍は誰がどの妖なのかが丸わかりだ。こうしてみれば、鬼の子は菖蒲の周辺にばかり集まり、それ以外の子は加奈や他の鬼の下に集まっていた。
「あの子たちに私の妖力はまだまだ強すぎるものがありますから、それでも来てくれるだけで嬉しく思います」
「……相変わらずあんたは他の妖にはそういう態度なんだよな……」
「藍?」
「何でもない」
菖蒲の手元を暫く眺めていたが、器用に動く指先を見ているだけで眠くなりそうだ。ほどほどに疲労も感じている。瞼を閉じれば即座に寝入ってしまう気がした。
「そろそろ俺は戻るよ」
「来たばかりですのに戻るのですか? もう少しここにいてもいいのですよ」
「眠い」
見ているだけなら確実に寝る。手持無沙汰だし、ここにいても邪魔になるだけだ。そう伝えると、菖蒲は小さく手を叩いて手元を片付け始めた。
「菖蒲?」
「でしたらこちらに来てください」
立ち上がり藍の手を引いた菖蒲は、小屋の端まで移動し座る。当然のように藍の腕を引いて隣に座らせると、ポンポンと正座をしていた膝の上を叩いた。菖蒲の行動の意味を即座に理解し、藍は右手で顔を覆う。
「あのな……」
「いいではありませんか。疲れているのでしょう?」
「これだけの視線を受けてできるわけがないだろうに」
「なら視線がなければいいのですね。では私の部屋に参りましょう」
「おい、菖蒲⁉」
そうと決まればと再び立ちあがった菖蒲。奥で同じように手縫いをしていた桂へと声を掛ける。
「桂、後はよろしくお願いします」
「承知しました」
「姫様、行ってしまうのですか?」
桂への声かけに菖蒲が出ていくとわかったのか、幼い鬼たちが菖蒲の傍に駆け寄ってきた。先ほどまで菖蒲と共に手縫いをしていた子だ。菖蒲は腰を折り、視線を合わせるようにするとその子たちの頭を撫でた。
「この方は私の大切な方なのです。お疲れのようですので、休ませて差し上げたいと思います。わかってもらえますか?」
「……はい」
「ありがとうございます。明日はまた一緒に手縫いをいたしましょう。元気な顔をみせてくださいね」
「はい、姫様! 藍さまもおつかれさまでございました。次は一緒にお話ししてください」
菖蒲、そして隣にいる藍に向けても声をかけてきた幼い鬼の子。まさか名を呼ばれるとは思わず、藍は驚いて目を瞬いた。
「うふふ、そうですね。今度は藍も交えて、みんなで楽しみましょう。いいですか、藍?」
「……わかった」
この状況では頷かざるを得ない。藍が頷けば途端に騒ぎ出す鬼の子たち。その様子が兄の子どもたちを連想させ、少しだけ懐かしさを覚えた。




