8話
部屋へ戻ってきた藍は、そのまま畳の上に横になった。背中に当たる硬い感触、目の前にあるのはむき出しになっている木、それを組むようにして家屋が作られている。ここは藍が住んでいた世界ではない。どこを見ても、何を聞いても、それがわかる。こちらの常識が通じない世界なのだと。
「はぁ……」
身体を起こし、両手を後ろ手について藍は俯いた。頭の中には菖蒲から言われた言葉が思い浮ぶ。直接的に言われたわけではないけれども、あれは一種のプロポーズの言葉だ。そこに感情はなくとも、伴侶候補と言われればそうとしか受け取れない。菖蒲にとっては一族のために、血を繋ぐために必要であるから、それを選んだまで。だが藍にとってはそうじゃない。
「俺にどうしろっていうんだ……」
「藍、いるか?」
襖から顔を出したのは卓也だ。おそらく加奈が戻ったので、入れ替わりで藍のところに来たのだろう。いつもならば返事をするところだが、生憎とそんな気分ではない。
卓也は周囲を確認してから藍の隣に胡坐をかいて座った。それでも藍はそのまま動かない。その様子を訝しんだのか、卓也が顔を覗き込んでくる。
「どうしたんだ藍? 何か言われたのか?」
「まぁ……色々と」
「加奈がもう吹っ切れたみたいにしてたけど、それに関してとか?」
「……」
加奈の件も関わらないとは言い切れないものの、これの当事者は藍である。とはいえ、どこまで卓也に説明すればいいのか。状況が状況だからこそ、言いにくい。説明するためには、藍が残ることを伝えなければならないのだから。どう答えようかと藍がいいあぐねていると、先に卓也が口を開いた。
「なぁ藍……俺はやっぱり現世に帰りたいって思ってる。できれば、四人で」
その言葉に藍は顔を上げる。卓也は真剣な様子で藍を見ていた。もしかすると加奈から何か言われたのだろうか。
「何か聞いたか?」
「聞いたっていうか。加奈からここに残ろうと思うって言われたんだ」
「……そうか」
加奈は思い立ったら即行動するのか、既に伝えてしまったらしい。とすれば有希の反応が気になるところだ。
「姫川は……」
「なんか、有希も仕方ないって受け入れてるみたいでさ。不思議だろ? いつもならどうしてって聞くのにさ」
有希と加奈が親しいのは、それほど多く関わっていない藍とて知っている。有希と恋人である卓也が不思議に思うのであれば、有希の反応はイレギュラーなのだろう。それを卓也は納得しきれていないというところか。
「どう思う?」
「お前にわからないのに、俺がわかると思うか?」
「……加奈となんか話、したんだろ? それが原因だって思うのが普通じゃないか?」
わざわざ藍と二人だけで話をしたいと言って連れ出された。その後、加奈が残ると言い出した。確かに藍が原因だと思われて当然だ。わかっていて卓也も話を切り出した。藍から話を聞くために。
「藍……お前も残るってことだよな、この世界に。どうしてなんだ? なんで一緒に帰ろうって言わないんだよ」
「……」
「藍!」
声を荒げた卓也は、そのまま藍の首元を掴む。身長差がある卓也から見下ろされるのはあまりない。そんな感想を抱きつつ、怒っている卓也を見て藍は笑みを浮かべた。
「何笑ってんだよっ」
「悪い……お前は変わらないなって思って」
「たった数日で変わるお前たちがおかしいんだ」
お前たちというのは藍と加奈のことか。加奈はともかくとして、藍は変わっていない。ただ振り回されているだけ。今ある結果も、そうしなければならなかっただけである。
「変わったつもりはない、俺は」
「ならなんでなんだよ……この世界に義理があるわけじゃないだろ! お前が帰るなら、加奈だって帰るはずだ。なぁ藍、助けてもらったってのはあるかもしれない。けど、俺たちの世界はここじゃない! そうだろ?」
「……そうだな」
「なら――」
「でも、俺は帰れない」
ここは藍たちの生きる世界ではない。それでも、帰ることはできない。もう黙っていることはできないと、藍は腹を括った。
「菖蒲の話、覚えているか?」
「……あぁ」
不満気に卓也は頷く。藍は自分の首元を掴んでいた卓也の手を離させると、包帯が巻かれた右腕を卓也へ見せる。そしてその包帯を解き始めた。解かれた包帯の先にあったのは、傷一つない右腕、右手だ。これには卓也も驚きに目を見開いた。
「鬼たちが呼ぶ「なりそこない」という連中。そいつらに触れれば普通の人間は溶かされる。俺が無事だったのは霊力があったからだといっていたが、それでも怪我を負っていた。お前も見ただろ?」
「見た、けど」
「でも……俺の腕にはその痕は残っていない」
まるであの痛みが嘘だったかのように。夢でも見ていたと言われても、納得してしまうかもしれない。それほどに綺麗になっていた。
「人間では治らない怪我だった。それを治すため、俺は……菖蒲から妖力を貰ったんだ」
「え?」
「帰る手段がどういうものかは知らない。だが今の俺は現世に戻る資格がない。だから……お前たちとは一緒に居られない。ごめん……」
卓也が藍の腕に触れる。冷たい手が藍の腕をなぞった。呆然とした様子の卓也に、藍はもう一度伝える。
「ごめん、卓也」
「……っんで、お前が」
「でも、俺はお前たちじゃなくて良かったって思ってる。残されるのが俺なら、まだ何とかなるから」
「そういう問題じゃない!」
ガシっと強く腕を掴まれた。卓也の肩が震えているのがわかる。高校二年にしては小柄である卓也だが、それでも指に込められた力は強く、掴まれた腕は痛みを感じていた。振り払わなかったのは、それが卓也が精いっぱい伝えてくれている怒りだからだ。
「俺はお前と帰りたい……っ」
「ごめん」
「また学校でばかやって、昼飯を食べて体育館でバスケやって、そんで試験前にはお前にヤマを教えてもらって」
「卓也」
「……なんでだよ……」
卓也はそのまま顔を伏せ、涙声のままに藍にしがみついた。