9話
「卓也」
「悪い……お前を困らせたかったわけじゃないんだ」
「わかっている。それに、そうやって卓也が言ってくれるのは嬉しい」
「当たり前だろ……」
身に着けている浴衣の袖で目元をゴシゴシと拭うと、卓也の目は赤くなっている。そんな卓也に藍は苦笑した。嬉しいというのは本心だ。そんな風に藍を想ってくれる卓也に、藍は懐にしまっていた眼鏡を取り出す。
「卓也、これをお前に預けておく」
「お前の眼鏡?」
「ここでは必要ないからな。渡しておいてほしいんだ。俺の家族に」
卓也の手に乗せられた藍の眼鏡。どこにでもありそうないたって普通の眼鏡。だが藍が掛けた場合は違う。逆に藍以外が掛けても度数が入っていないので、伊達眼鏡としか扱われないはずだ。レンズとテンプルを支える蝶番の傍には、藍の名前がローマ字で刻まれていた。渡せばすぐに藍のものだとわかる。
「お前の姉貴、会いたくない……殴られる……」
「別に姉さんじゃなくてもいいけど」
「……そう願う」
心からといった言葉に藍は笑う。卓也とのやり取りが直接見られないのは残念だけれど。
「まだもう少しって言いたいんだけど……時間ないんだよな」
「結構メンタル限界だろ? 卓也も、姫川も」
「……うん」
菖蒲が早く決めてほしいといったのは、さっさと追い出したいからではない。これ以上は持たないからだ。栄養が全般的に足りていない。果実だけではもう限界だから。
立ち上がった卓也は、深呼吸を繰り返した。そうして顔を上げる。
「菖蒲さんに伝えてくる」
「あぁ、行ってこい」
「……あとでな」
最後に笑みを浮かべて卓也は去っていく。そうと決まればおそらくすぐに動くだろう。藍も見送りに行くつもりだった。これが最後となる。わかっているからこそ、無事にそこまでたどり着くのを見守りたい。
決断を聞いた菖蒲の行動は予想通り早かった。すぐに護衛隊を組み、卓也たちの見送りに赴く。菖蒲は姫という立場なので、流石に同行はしなかったが、翡翠と菖蒲の傍づきだという桂が同行してくれた。
「道しるべと我々は呼んでいますが、そこまでもおそらく「なりそこない」たちが邪魔をしてくることでしょう」
「我々が道を開きますので、皆様はお下がりください」
翡翠が先頭に立ち、同じように鬼数人が前方を守る。その次に藍たち、後尾に桂を中心とした数人という形で國を出た。門の外の光景を再び見るが、あまり好ましいとは言えない。それよりも、ここへ来たと気づいた時以上に、黒い靄がかかっているように見えていた。
「これ、気味悪いな。有希、しっかり掴まってろよ」
「うん」
卓也は有希の手を掴み、周囲を見渡しながら歩いていた。制服の上から羽衣は羽織っているので、当然周囲の様子も花畑ではない光景となっているのだ。有希も変わらず顔色は悪いが、しっかりと足を動かしていた。
「なんていうか、これが当たり前になっちゃうのは怖い気がするね」
一方で加奈は浴衣の上から羽衣を羽織っていた。足元はローファーという身に着けているものと全く合っていないのだが、履きなれた靴の方がいいと割り切っているらしい。同じようにして、藍も狩衣を纏っているものの、足元はスニーカーだ。隣り合って歩いている藍と加奈。その視線は前を歩く卓也と有希に向けられている。
「折宮もまだ間に合う。向こう側にいけばいい」
「またそんなことを言う。言ったでしょ、決めたって。蒸し返さないでよね」
「……」
そう加奈は言うけれど、ここに残るのは藍が戻れないことが原因だ。できることなら帰ってもらいたいというのが藍の心情でもある。加奈からすれば、藍を一人残して戻る方があり得ない。帰っても後悔するし、クラスメイトたちも同じように後悔の念に苛まれる。せめて一人でも残れば、藍を一人にせずに済ませることができるならばそれを選ぶ。藍のために、ではなく加奈のために。
自分の自己嫌悪を緩和するため、後悔したままでいたくないから残る。自分勝手だからこそ決めたと。それでもこれが最後のタイミングだ。直前になって迷うことはある。そう思って告げたのだが、却って加奈からは呆れられてしまった。
「……久遠くんが割り切れないのもわかってる。あと半年もすれば受験生だし、目指していた大学だってあった。でもそれは久遠くんも同じよね?」
高校二年の文化祭を終えて、大学受験を目指すものたちは本格的な準備を始める頃だ。加奈も藍も受験組。というよりもクラスメイトの全員が受験を目指している。志望校も既に決まっているのがほとんど。こんなことに巻き込まれる前は、当たり前に来るものとして考えていた未来。それが突然なくなってしまった。来るものだと思っていた未来が来ない。あるはずの道が突然失われてしまう恐怖は、きっと当事者でなければわからないだろう。
「だが――」
「それにね……こんなことになって、もし久遠くんを残して帰ってしまったら、私は受験どころじゃなくなる。その時に後悔しても遅い」
「……」
「だから私は今を後悔しない生き方を選ぶの」
後悔しない生き方を選ぶと言いながら、加奈の視線の矛先は有希に向けられていた。未練がないとは言い切れなくても、一度そうだと決めたことを止めたりはしない。完全に迷いがなくなったわけではないのだろう。藍は諦めただけだ。冷静に見えるようでいて、ただ考えたくないだけ。合ったはずの未来を描こうものなら、今置かれた理不尽さに怒りを覚えてしまう。それをしたところで無意味だとしても。
「折宮はすごいな、そう考えられるのが」
「……これでも一応長女だったし、いつ人生最大の分かれ道が現れるかわからないじゃない? だから決めてるだけ。迷ったら今が一番だと思える選択をしようって」
「そうか……そうだな」
既に変わらないことをいつまでも振り返ったところで意味はない。そんなことわかっていた。仕方ないという諦めだけではなく、今ある道を最大限後悔しないように生きる。藍は改めて卓也と有希を見る。二人が歩く先には歪んだ空間が見えた。おそらくはそれが鬼たちのいう道しるべ。そして、卓也たちとの永遠の別れとなるかもしれない道だ。
「偉そうなこと言ってるけど、私だって一人ならどうしたかわかんないよ。久遠くんがいるし、一人じゃないからっていうのもあるんだから」
「わかっている」
話をしている間に先頭の翡翠が足を止めた。道中の「なりそこない」たちは翡翠たちに葬られて即座に消えていたので、慌てて逃げる必要もなかったのが救いだった。
「この先が現世に続くとされている道です。今はこうして見えていますが、それもおそらく残りわずかでしょう」
「翡翠?」
「ここに、狭間の者たちが無理やり通ろうとした痕跡があります」
良く見れば歪んだ空間の先がひび割れていた。妖気を持つ者がここへ無理やり押し入ろうとしてできた痕跡らしい。
「現世にはいけません。傷ついた身体でどこへ向かったかはわかりませんが、何かから逃げていたのでしょう。ここではないどこかへ向かおうとしていたのかもしれませんね」
「妖はここを通れない……」
「はい。ですが傷ついた状態ではいつまでこれが維持されているかわかりません。これが現れるのは気まぐれですので」
狭間の世界にはこうした不可解なことが頻繁に起こる。事象を解明しようとはしない。ここに道しるべがあるということは、数日前から鬼の方で把握していたという。運がいいというよりは、用意されていたと言われた方が納得がいく。
「藍様、今は素知らぬふりをしていてください。それが事実かどうかも含めて」
「翡翠……わかった」
言葉にせずとも藍が何を考えていたのかは翡翠にわかったらしい。この鬼という種族の特徴なのかはわからないが、菖蒲といい油断のならない相手だ。
「それでは卓也殿、有希殿」
「あ、あぁ……」
「はい……」
手をつないだまま、卓也と有希が道しるべの中に足を踏み入れた。身体が揺れたのか、有希が卓也にしがみつく。
「有希ちゃん! これもってって!」
「加奈ちゃん⁉」
そこへ加奈が丸い筒のようになった紙を有希へ投げた。しっかりと受け取った有希は加奈を見て涙を浮かべる。
「加奈ちゃん……」
「元気でね、有希ちゃん。久遠くんのことは私に任せてってみんなに伝えて」
「うん……うん」
「ごめんね」
謝る加奈に有希は勢いよく首を横に振った。
「久遠君!」
「姫川?」
「元気で……無理しないで……それと、ほんとうにありがとうっ」
ちらりと翡翠を見て、震える身体を有希は奮い立たせるようにして声をあげた。有希の姿が見えなくなる。と同時に卓也の姿も薄くなっていった。別れは済ませた。藍は二人に向けて、笑みを浮かべたまま手を挙げる。
「じゃあな、卓也、妃川」




