もう使わないマスク
優勝してから数日が経った。イベントに参加して、変わったことを見つけた。
プライドが高くなっていた。
学校とかじゃうまくいかないけど、配信なら、と思っていた。
実際にうまくいった。それだけで、後は何もなかった。配信はあれからしていない。馬鹿馬鹿しく感じる。ツイートも面倒でしていない。活動のために整えていたリズムは、ここ数日で一気に乱れた。
ただ寝っ転がって、巡回する思考を眺めた。
最初は不安、怒り、プライドが回っていた。数日経って、暗い気持ちにはならなくなった。琴線が静止したのだ。無音の空洞だけが胸に残った。
◇
洗面所から廊下に出ると、リビングから寝間着の母が出てきた。目が合わずともお互いの存在を察知する。
「......おやすみ」
「うん。おやすみ」
形式的に言葉を交わす。喋らないと不和が認められそうで怖い。
視線を合わせないまま、すれ違う。自室のドアノブを握ると、足を止められた。
「あの、龍生さ」
久々に名前を呼ばれた。振り向いて扉に背を向ける。懐かしい焦りを感じて、無難な返答を考える。
「......なに?」
「こないだの、ごめんね。勝手なこと言って」
激昂を演じた日のことだと察する。記憶と共に感情も蘇って、喉が詰まる。
「............いや、こちらこそごめん。なんか、言い過ぎた」
「今はさ、休んでええから」
「うん」
「また学校行こうって思ったら、全然言うてな。いつでもええから」
「......おぉ」
「じゃ、おやすみ~」
寝室に消えていく背中を見送る。振り返ることなくドアが閉まる。
しばらく立ち尽くした。
学校。戻る想像すらしたことがなかった。
今から戻って、どうなるんだろう。目を離した間に世界史Bでは数百年が経った。仮に追いついて受験をしても、たぶんFランが関の山だろう。
数カ月前、TikTokで見た学歴煽りを思い出す。今になって棘が生えて胸を突き刺す。自分がTikTokで流れてくるようになりたかった。
壁に手をつきながら自室まで戻る。
減っていない使い捨てマスク、開いたままの三脚、めっきり触らなくなったスマホが散乱している。自分はもう、ただの17歳だった。
今から日常に戻るのか。学校に復帰して、受験勉強をして、就職もするのか。
いつもより部屋が狭く感じた。いっそ堕落し尽くすかと思うが、それにも気力がいることは知っている。ぴんと張っていた何かが弛緩するのを感じた。
飲み残したお茶をシンクに流す。蛇口をひねり、ボトルに水道水を詰める。
自室に帰る。
「入るな」と書いた紙を取り出す。
「ごめんなさい」と書き足し、ドアに貼る。
部屋に戻って、適当に腰を下ろす。
明るさが落ち着かなくて電気を消す。月明かりが部屋を照らした。仄かな光を頼りにして、棚の奥から瓶を取り出す。
埃を軽く払って開封する。適当に三粒を口に含み、水で流し込む。苦味が喉を逆撫でする。
三粒出して飲む、を繰り返す。
荒く呼吸をする度、食道がヒリヒリと痛む。それでも飲み続ける。空洞が埋まっていく。
瓶の中身が減ってきた時、突如として吐気を感じた。近くのゴミ箱まで這って、出した。サラサラとした吐瀉物が舌を滑り落ちて、口から溢れる。
もう飲めなさそうだった。鈍い頭痛に耐えながら、どうにかベッドに乗る。身体がたゆたう。何も考えないよう、目を瞑った。
◇
目を開けると、知っている天井だった。
部屋に日光が差し込んでいる。起きようとすると、枕に吸い寄せられるように倒れる。天井が渦を描くように歪む。スマホを取ろうと脇に目をやると、睡眠薬とボトルが見える。それで昨日のことを思い出した。
生きてしまった。
ほふく前進でドアまで向かう。曲線を描く手でドアノブを下ろす。腕を伸ばし、貼り紙を取る。
母は外出しているらしい。紙はたぶん見られてしまった。何に対する謝罪だと思われたのだろう。心当たりなら幾つもある。
しばらくベッドで横たわっていると、少しは歩けるようになってきた。
睡眠薬の瓶ごとゴミ箱に放り込み、証拠を隠滅する。飲み残しの水も流し入れる。ティッシュを覆うように捨て、吐瀉物に蓋をした。
自分事でも惨事の現場は居心地が悪い。自室を出て、静かなリビングのソファーで横になる。
時間が穏やかに流れる。
机に転がってたリモコンを取って、テレビを点けてみる。よく知らないタレントがどうでもいいグルメを食べている。凪のような映像が快い。
晴れている外を眺める。ベランダからの景色は何にも遮られず、遠くの山まで見える。うちは程々に高層階だった。
そして、ベランダの柵は足をかければ越えられる。それを知った上で、昨夜はベランダに立たなかった。
脳裏に過っても無視して、睡眠薬を飲んだ。それも大して飲まなかった。吐き気を催したとき、丁度いい引き際だと思った。意志が足りなかったのだ。
自分が最もくだらない人間に思える。それでも、行動を起こしたことは事実だ。
歪んでいると分かっていても自負が滲み出てくる。ソファーから立ち上がり、窓を開ける。澄んだ空気が吹き込む。遠くで車の走行音が聞こえる。こんなに落ち着いた自分は久しぶりだった。
◇
廊下からの足音で目を覚ます。窓の外はオレンジがかっている。
母が帰ってきたらしい。僅かな眩暈に耐えつつ起き上がる。涎を吹いて、クッションにもたれた。
「......あ、おかえり」
「ただいま~。ねぇ、これ」
「ん?」
薄い紙袋を手渡される。
手触りから小物が入っていると分かる。袋の隅が視界に入ると、そのまま引き寄せられた。Yarnのロゴだった。
「これ、龍生の?」
「......俺の」
「そう」
自室に戻る。袋の指示に従って開封し、中身を取り出す。
五千円分のAmazonギフトカードだった。イベントの報酬だ。
りゅうに充てられた紙切れも同封されていた。
軽薄な祝辞が数行ほど並ぶ。普遍的な内容で、裏に定型文が透ける。読了したそばから内容を忘れた。久々に見た名前はすでに懐かしく感じた。イベントが終わったんだなと思う。
机に転がる賞品を見ると、ひどく貧相に感じた。
千円ほどの効力もなさそうだった。この為に頑張ったと思うと、可笑しかった。息が漏れて、雪崩れるように笑った。カード上に弧を描く矢印がせせら笑う。
◇
ベッドに寝転んでAmazonを開く。
検索欄にカーソルを置いてもキーが進まない。物欲なんてずいぶん前に失せていた。欲しかった物を思い出そうと、記憶を辿る。
1位になった瞬間、同情で溢れたコメント欄、暗いリビング、保健室、好きに生きたらいい......。
イベント前まで遡ると、ひとつ思い当たった。
手元の単語を組み合わせて検索すると、それらしき商品があった。二千円ほどで数百件のレビューがついている。概要欄と上位レビューを読んで確信する。そうだ、確かそんな香りだった。
ギフトカードを残高にチャージする。商品ページに戻って、注文ボタンを押す。
明後日、Wingの香水が届くことになった。
変化をもたらす可能性があるなら、今はそれでよかった。
夕焼けが自室を照らす。散乱した部屋も、閉じた教科書もそのままだ。でも、前より外は綺麗に見える。
マスクを置いて、出てみようか。