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月下のアトリエ ~わらしべの対価~  作者: 志茂塚 ゆり


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5.人形

 風の噂によると、マイラはカーター・タウンへの行商をやめたわけではないようだった。隣村から美人の売り子が来ているという話は、ジョンストンの耳にも入ってくる。交友関係が広いとは言えないジョンストンが知っているくらいだから、ルシールの耳にも入っているのだろう。ジョンストンは、街西部へは頑として近寄らなかった。そんなジョンストンの態度が、次第にルシールを落ち着かせていった。ルシールは再びよく笑うようになった。

 ルシールが明るさを取り戻すにつれて、ジョンストンもよく笑うようになった。しかしその笑いは風船のように空虚な張りぼての笑みで、その中には何物も詰まってはいない。ジョンストンは心の中身を、あの冬空の下の露店の辻へ、そっくりそのまま落としてきてしまったような気がしていた。


 春が訪れ、毛織物の需要が減ると、美人の売り子の噂はぱたりとやんだ。今ごろマイラは次の冬に向けて羊毛細工をせっせと作りためているのだろうかと、ジョンストンはぼんやりと考えた。

 春はあっという間にあたり一面に広がり、すぐに初夏の陽気となった。麦畑は青々と波打ち、薫風にゆらめいて見えた。間もなく刈り取りの季節だ。

 夏にはルシールが二十歳の誕生日を迎える。葡萄の収穫で忙しい秋が訪れる前に婚儀を済ませようと、教会へ日取りの相談に行った矢先のこと。

 ルシールの母親が突然倒れた。

 一命はとりとめたものの、右半身に麻痺が残り、ルシールは母親の介護に追われるようになった。両家の間で結婚の約束そのものが揺らぐことはなかったが、スカーレット家の生活が落ち着くまではと、婚儀は延期となった。


 麦畑が黄金色に染まると、よく晴れた日を見定め、一家総出で収穫作業に入った。のぎで手を傷つけぬよう厚手の手袋を嵌めて、鎌で株元を刈り取っていく。汗ばむ陽気だったが、暑いからといって腕まくりをしては、たちまち芒が肌を刺す。腰を屈めた姿勢の続く、重労働だった。

 隣り合って作業するヘンリーが、ジョンストンに話しかけてくる。


「おい。いつかの金髪美女は、なんで町に来なくなっちまったんだ」

「知らないよ」


 ジョンストンは答えるのも面倒だった。


「ま、ルシールちゃんも可愛いけどよ。あの子はとびきりの上玉だったからな。気が移っちまうのも分かるよ」


 クロエは悪阻でまともに起き上がることができず、家で休んでいた。妻の目が無いのでヘンリーは気が大きくなっていたのだろう。好き放題に言い散らかしていた。


「ルシールちゃんにバレなきゃいいんだろうけどさ、お前にそんな器用な真似ができるわけもないだろうし。考えてみれば、あの子も可哀想だったよな」

「黙れよ、兄貴」


 ジョンストンは語気を強めた。ヘンリーは肩をすくめ、既婚者の余裕でジョンストンの反駁を無視した。


「まあ、今回はお前が迂闊うかつだったぜ。ルシールちゃんがいるってこと、ちゃんと最初から話しておけば、お互いに傷つかずに済んだんだ」


 ヘンリーの言葉は正論だった。ジョンストンは、今度は返事をしなかった。


(そんな話をするひまもなく一気に燃え広がってしまったものに、一体どうやって始末をつければいいっていうんだ)


 それまでジョンストンは、恋愛というものは、何かしら惹かれる理由やきっかけがあって発展していくものだと思っていた。たとえばルシールが、ジョンストンの優しさが好きだと言ったように。

 しかし、今ジョンストンの虚ろな心を焦がしている暗い熱には、理由が無かった。色欲か? 征服欲か? 手に入らないから焦がれているだけなのか? 許されない立場だから燃え上がるのか? ジョンストンには分からなかったし、分かりたいとも思わなかった。

 ジョンストンはただただ、あの冬の露店に置き去りにしてきてしまった心の空白を持て余していた。ルシールとおしゃべりに興じてみたり、ひとりで酒を飲んでみたりと、空白を埋めようともがけばもがくほど、かえって穴は深くなっていくように感じた。ジョンストンは、自分の心のうちにぽっかりと空いた穴の暗さに立ちすくんでいた。ジョンストンは空気人形として生きていた。うわべにはいつもどおりの自分を貼り付けてそつなく日常生活を送り、ルシールと仲睦まじく暮らしている。しかしぺろりと皮を剥がしてみれば、中はうつろだ。うわべのジョンストンと、置いてきぼりになったジョンストンの中身との距離は、広がるいっぽうだった。

 ジョンストンは自動人形オートマトンとなって、麦を刈り取り束ねる動作を繰り返した。もはやヘンリーの言葉は耳に入っていなかった。




 麦畑では、刈り取った麦の畝間を利用して野菜を育てていた。夏はそれらのための草取りや間引き、収穫作業に明け暮れた。野菜の世話をしているあいだ、刈り取った麦は積み藁の状態で乾燥させる。

 介護生活が落ち着いてきたのか、ルシールがジョンストンへ顔を見せる回数が徐々に増えてきた。彼女の誕生日には、ジョンストンは家族を引き連れて町北部のスカーレット家まで花を持って出向いた。ルシールは頬を染めてジョンストンに言う。


「お母さんも、そろそろ結婚式の支度を再開したらどうかって言ってるわ」


 クロエの腹がだんだんと膨らんできた。赤ん坊が生まれてからの婚儀は、ヘンリーたちにとって負担となる。スカーレット家で葡萄の収穫とワインの仕込みが終わるのを待って、秋のうちに婚礼を挙げることに決まった。ジョンストンは熱心に結婚式の準備を進めるような素振りを見せながら、その実何も考えていなかった。手や体を動かしているうちは気分が紛れた。ルシールと結婚してしまえば、そこから彼の人生が自動的に始まり、その胸の空白を埋められるような気さえしていた。




 夏はあっという間に過ぎ去った。

 再び麦打ちの季節がめぐってくるころ、タルコット家の畑に、スタインウッドから客人がやってきた。ジョンストンとヘンリーが瓜を収穫しているところだった。

ジョンストンはその男の顔を見たことがなかった。ジョンストンと同年配のようだ。はじめに来客に応じたのはヘンリーだった。畑のへりでヘンリーは男と二、三言葉を交わすと、大きな手ぶりでジョンストンを呼んだ。


「お前に用だってさ」

「おれ?」


 心当たりが無いので戸惑っていると、男のほうもじっとジョンストンを見つめている。近寄ってみると、どこかで見たことがある顔にも思えてくる。

 ヘンリーが農作業に戻ってしまうと、男はソフト帽を脱いでジョンストンに挨拶をした。


「どうも。スタインウッドのロナルド・シンプトンです」


 そして声をひそめて続ける。


「マイラの兄です」


 ジョンストンははっと顔を上げた。涼やかな目元に、すっと通った鼻筋。角ばった輪郭のためにすぐには分からなかったが、確かにマイラと似ている。

 ジョンストンは身構えた。今さら、マイラの兄が何の用だというのか。ロナルドは話を続けた。


「妹が、ここへはどうしても来たくないわけがあるってんで、かわりに来ました。お願いです。今年も藁を譲ってもらえませんか」


 ジョンストンは躊躇した。離れた畑中からヘンリーが弟を気遣うように時々目線を送ってくる。


「妹さんから、どういうわけなのかは訊いていますか」

「まあ、だいたいは」


 ならば来ないでほしかった。ジョンストンの目に抗議の色が宿るのを、ロナルドは見逃さなかったようで、早口で弁明を始める。


「もちろん無理にとはいいません。ただ、普通の麦わらじゃァ羊が嫌がって食べないんですがね、お宅の麦わらだとよく食べてくれるんですよ。それで去年の冬はずいぶん助かりました。そう大した額は出せないが、何なら去年より高く買い取ります」

「どうしたんだ、ジョンストン」


 ヘンリーが大股で戻ってくる。ジョンストンは困って兄に事の次第を話すと、ヘンリーは頭を掻いて首をひねった。


「うぅん……親父は相当がんこだからなぁ。結婚も間近なのに、波風を立てちゃいけないよ」

「そこをなんとか、お願いできませんか」


 交渉はいつの間にかヘンリーとロナルドの間で行われていた。ロナルドはさらに首をひねる。


「そうだなぁ。もうすぐ赤ん坊が生まれるし、結婚式の準備だってある。何かと物入りな時期だから、現金で買い取ってくれるってのは、こっちも助かるんだよなァ」

「ああ、成程」


 ロナルドの目に閃くような光が走った。


「つまり、ご家族は、うちと取引するのに都合が悪いってだけで、藁を売ること自体はオッケーってことですね」

「まあ、そうなるかな」


 ヘンリーは頷く。ロナルドは人差し指を立てて言った。


「それなら、こういうのはどうでしょう。『俺は、お宅の麦わらの評判を聞きつけてやって来ただけの第三者で、マイラとは一切関係がありません』ってのは。ご迷惑はかけません」

「うぅん……それならまぁ、いけるかな」


 ヘンリーはひねった首をまっすぐに戻して頷くと、ジョンストンに向かって念を押した。


「親父には俺から話すよ。いいな?」


 ジョンストンは漠然とした不安から眉を寄せた。目の前の男はマイラの兄だと言う。断ち切ったと思っていたマイラとの縁は、まだ完全には切れていなかった。この糸をたどっていけば、再びマイラに会えるのかもしれない。

 ジョンストンはマイラから距離をおくことで、空気人形としての彼を保っていた。家族やルシールの望む平穏は、マイラから離れた場所にあるのだ。マイラと再会してしまったら自分がどんな行動に出るのか、ジョンストンにはまったく分からなかった。いっぽうで、ごっそりと抜け落ちてしまった自分の中身がそこにあるのは分かっている。人形としてではない、ジョンストンとして生きるのに不可欠な落し物が――

 ジョンストンが黙っているので、ヘンリーは勝手にロナルドと話を進めていった。あらかたの交渉を済ませてしまうと、ロナルドは農道を街のほうへ戻っていった。ヘンリーはジョンストンの肩に手を置いた。


「気まずいか? 大丈夫、悪いようにはならないさ。むこうのお母さんへの見舞金、結婚式の貸衣装、教会への寄進、それに赤ん坊の服やらお襁褓むつやら。出費がかさんでるんだ。良い話だったじゃないか、親父だって断らないさ」

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