4.辻、そして
翌朝、教会の鐘の音を間近に感じて、ジョンストンは目を覚ました。カーテンを引いて鎧窓を開けてみると、空の明るさからしてまだ早い刻限であることが分かった。ジョンストンは目やにをほじくりながら廊下へ出て、水場で顔を洗い、口を漱いだ。
身支度を整えてしまうと、あとはもうやることが無かった。手持ち無沙汰なままに、食堂から厨房をのぞいていると、おかみと目が合った。おかみはすぐにぷいと目をそらし、テーブルの一つに無言で食事を並べていった。まだ朝食には早い刻限のはずだったが、ジョンストンの腹の虫はうるさく騒いでいる。ジョンストンはありがたく頂戴することにした。
ゆで卵の殻を剥き、塩をつけてかじってみると、山吹色の黄身の中心がとろけた。
「うまい」
厨房の奥からおかみが胡乱な目を向けてくる。
「そりゃ、さっき裏で採ってきたばかりの卵ですからねぇ。お兄さん、どちらから?」
カーター・タウンから来たことを告げると、おかみは言った。
「うちで使っているのはカーター・タウンの粗塩ですよ。パンの小麦粉も、カーター・タウン産」
「へえ」
そう言われてみると、卵もパンも急に美味しく感じられた。よく考えてみれば、普段食べているものとそう変わらないはずなのだが、旅先の食事はまた格別だった。ジョンストンは、昨夜の食事を存分に楽しめなかったことを、今さらながら後悔した。
食事の終わるころ、宿の正面扉が細く開き、マイラがひょっこりと顔を出した。彼女の顔を認めたとき、ジョンストンは食後の茶にむせて吐き出した。こちらへずんずんと近づいてくるマイラへ、彼は咳きこみながら朝の挨拶を口にした。
「ゲホッ……や、やあ。マイラ。随分と早いね」
「駅馬車で帰るんでしょ? 遅れたらいけないと思って」
マイラは前掛けのポケットから封筒を取り出した。
「はい、これ」
ジョンストンは無言で封筒を受け取る。そのまま尻のポケットに突っ込もうとしたのを、マイラが手ぶりで制止した。
「ちゃんと中身を確かめて」
「あ、ああ……」
ジョンストンは封筒の中身を半ば取り出して、金を勘定した。
「――確かに、約束の金額だ」
マイラはほぅっとため息をついて、小声で言う。
「あたし、こういう取引ははじめてだったの。緊張しちゃった」
ジョンストンは、マイラの言う「取引」が何のことだか判断がつかなかった。迷った末に結局、当たり障りのない世間話を口にする。
「羊を飼ってるって言ってたね」
「ええ。うちは牧場よ。昨日見たでしょ」
「行商に出ているって話だけど、普段は何をしてるんだい?」
マイラはその質問を、何を商っているのかを問いかけているのだと解釈したようだった。
「毛織物や羊毛細工を売ってるわ。これから気温が下がってくるから、かき入れ時ね」
「いつも一人でカーター・タウンまで来ているのか。危ないんじゃないのか」
そう訊ねたとき、マイラの顔に微妙な影が差したのに、ジョンストンは気付いた。なにかまずい質問だっただろうか。マイラは一瞬目をそらしてから答えた。
「平気よ。行きも帰りも行商仲間と一緒だし……それにあたし、村にいるのがあんまり好きじゃないの」
「ふぅん」
ジョンストンは相槌をうったきり、それ以上踏み込んで質問を重ねることもできず、何といえばいいのか分からなくなった。それきり会話は途切れた。
気まずい沈黙を破ったのはマイラの側だった。
「ねえ。ジョンストンって、いくつ?」
「おれ? 二十三だけど」
マイラは意外そうに目を見開いた。
「日焼けしてるからかな、若く見えるね」
「そうかな」
ジョンストンは自分の手の甲を見た。朝から夕方まで畑仕事に精を出している彼の肌は、小麦色に焼けていた。
「あたしはもうすぐ十九よ」
訊いてもいないのにマイラはぼそりと言った。
(ルシールと同じ年ごろか)
ジョンストンは胸中で勘定した。自然と彼女の胸に目がいってしまうのを理性で無理やり押しとどめる。ルシールよりは年長かと思っていたが、違ったようだ。
「麦わら、ありがとうね。硬い藁だと羊が嫌がって食べないのよ。質の良い藁だって、父さんも母さんも喜んでた」
「うちは毎年麦打ちをやってるよ。良かったら来年も買い取ってくれ」
マイラはカラカラと声を立てて笑った。
「きっとそうするわ」
* * *
それからというもの、マイラは行商のついでに、タルコット家の畑へ顔を出すようになった。売れ残りの毛織物を大風呂敷に包んで背負った彼女の姿は、雀の列に混じった鸚鵡のように人目を引いた。彼女の存在は、すぐに父ベンや母エヴァ、兄ヘンリーの知るところとなった。もちろん、ルシールにも。ルシールは気丈に振舞っていたが、だんだんとその表情から明るさが失われ、口数も減っていった。
当然のことながら、ベンもエヴァも良い顔をしなかった。
「あんた、ルシールちゃんを泣かせてはいけないよ」
エヴァは苦々しげな顔でジョンストンを責めた。
ヘンリーだけは、ジョンストンの良き理解者だった。
「そりゃあ、好きになる女を選ぶ自由くらいは、欲しいよなぁ」
そう言ってジョンストンの肩を叩いていたヘンリーだったが、その年の冬に結婚し、ずっと前から定められていた相手を嫁に迎えてからは、彼女の手前、おおっぴらにジョンストンの肩を持つことはなくなっていった。
兄嫁クロエがタルコット家にやって来てからは、家庭におけるジョンストンの居場所はいっそう狭まった。どうしたって兄夫婦に気を遣わなくてはならない。ジョンストンははじめてマイラの気持ちが分かったような気がした。マイラも兄嫁の手前、肩身の狭い思いをしているのだろう。しかも、フィオナは乳飲み子を抱えていた。マイラが「村にいたくない」というのも道理だ。
一年で一番冷え込む時分に、ベンはとうとうジョンストンに、マイラとは今後一切あってはならぬと釘を刺した。頭を抱えたジョンストンはそのことを告げに、マイラの商いの場となっている街西部へ赴いた。
マイラの露店はすぐに見つかった。彼女は尻の下にクッションを敷き、分厚いウールのストールにくるまって座っていた。敷布の上には、帽子やマフラーといった防寒具がずらりと並んでいる。客はいない。これほど寒い日に、マイラの扱うような防寒具を持ち合わせていない者はいなかった。彼女の言う「かき入れ時」はとうに過ぎ去ったのだろう。それでも彼女は週に二度の行商を欠かさなかった。
(――まさか、おれに会いに来てくれているのか?)
都合の良い期待がジョンストンの胸を去来する。
マイラは地面の一点をじっと見つめて、訪れることのない客を待っていた。いや、彼女が待っているのはもっと別のものであるように見えた。ただ時間が過ぎるのを待っているのか。寒空の下、ジョンストンと会える時間が来るのを、ただひたすら。その姿は、冬が去るのを待つ枝先の固い花芽のようだった。
ジョンストンは長い間マイラに近付くことができずに、辻から彼女の姿を眺めていた。そろそろ寒さに耳先が痛くなってくるころ、マイラはようやくジョンストンに気が付いた。彼女は大きく伸びをしながら立ち上がった。
「どうしたの」
マイラが声をかけてくるが、ジョンストンは一歩も動けなかった。いつもと様子が違うことに気付いたのか、マイラのほうからジョンストンのいる辻へと近寄ってきた。
うつむき加減のジョンストンの顔を、マイラが大きく首を傾げて覗き込む。
おれ、婚約者がいるんだ。だから、もう会わないほうがいいと思う。
ジョンストンには、自分の口から出た言葉が、他人が語る台詞であるかのように白々しく聞こえていた。口に出してしまってからよくよく振り返ってみると、随分と自分勝手な言葉のように思われた。言い直そうと口を開き、やはり他に言いようが思い浮かばず、唇を結ぶ。
マイラの右手から、小銭袋が音を立てて滑り落ちた。数秒ののち、マイラは「あ、落としちゃった」と呟いて巾着袋を拾い上げようと屈む。その手は赤くかじかみ、震えていた。
ジョンストンはその手を握りしめてやりたいという衝動に駆られた。いつか、スタインウッドの宿で突き動かされた、情欲にまみれた衝動とはまったく別のところから湧き上がってくる心の動きだった。そして彼はその衝動に耐えてみせた。激しく揺れ動く波がおさまってくると、心の赴くままに行動してしまえばよかったという口惜しさが胸の内に広がる。
マイラは「わかったわ」とだけ言ってとぼとぼと露店へ戻り、クッションに腰かけた。それきり、ジョンストンの方を見もせず、先刻とまったく同じように地面のある一点をじっと見つめていた。ジョンストンは、胸の中身がごっそりとその場に抜け落ちたような喪失感に、視界が暗くなったような気さえしていた。足が勝手に後ろを向いて、勝手に家の方面へと歩を進めていった。
どうやって家路をたどったのかよく分からなかったが、ともかく家に入り、居間の扉を開けると、ルシールが来ているところだった。エヴァが「おかえり」と言う。ルシールが手招く。
「寒かったでしょ。一緒に暖炉にあたりましょ」
それからしばらくジョンストンは、ルシールとエヴァとともに優雅に午後の茶のひとときを過ごしたのだが、後になってみても、そのときの会話がさっぱり思い出せなかった。




