3.衝動
広場から北側へ伸びる通りに入ってすぐのところに、ジャレッドから教わった宿「アップルホテル」はあった。寂れた村にあってどこか浮ついた雰囲気の漂う木骨造りのこの宿には、今はマリーゴールドやコスモス、そして撫子の花々が咲いていた。ジョンストンは鉢に咲く花々に目をやり、その手入れの良さに舌を巻いた。農家の息子であるジョンストンは、花にはさほど詳しくなかったが、園芸には通じていた。葉の色つやを見れば、どういう手入れがなされているのか、大体のことがわかる。
草花への手入れが行き届いているということは、この宿の待遇はそれなりのものなのではないか。ジョンストンは期待を胸に、彫刻入りの重厚な木の扉を開いた。室内は薄暗く、入ってすぐ正面にカウンターがあったが、そこに人影は無かった。ジョンストンは戸惑いながら、カウンターに据えられたベルを鳴らしてみた。
リイィィーーーーン…………
ベルの音はロビー中に響いた。間もなくカウンターの奥で物音がして、おかみと思しき女性が姿を現す。
「……何か御用ですか」
彼女は白髪交じりの髪を掻き上げてジョンストンに訊ねる。欠伸を噛み殺すその姿に、客を歓迎する雰囲気は皆無だった。
「今晩、ここに泊めてもらいたいんですが」
気を呑まれたジョンストンはしどろもどろに用を伝える。おかみはジョンストンの頭のてっぺんからつま先までを眺め、首を横に振った。
「あいにく、本日は満室でして」
「え」
ジョンストンは呆気にとられた。宿は静まり返り、満室という雰囲気には到底見えない。
「平日の昼間ですよ。ひと部屋くらい――」
「申し訳ありませんが、お部屋の用意がございません。どうぞお引き取り下さい」
おかみは頑として譲らなかった。その貫禄に気圧され、ジョンストンは宿を後にした。彼はすごすごと広場へ戻り、他に行く当てもなく、駅馬車の長椅子に先刻と寸分たがわぬ姿勢で腰かけた。
どれくらいそうしていただろうか。途方に暮れているうちに眠ってしまったらしい。空が暮れなずむ頃、街道から広場へと近づいてくる蹄の音で、ジョンストンは目を覚ました。駅馬車が広場を回って来て、彼の目の前で止まった。
馬車からばらばらと降りてきた村人のうちのひとり、一対の脚が目に入る。ジョンストンはおもむろに面を上げた。
「……ジョンストン?」
マイラ・シンプトンだった。ジョンストンは慌てて姿勢を正す。その様子が面白かったのか、マイラはカラカラと笑って訊ねる。
「こんなところで寝たら風邪ひくわよ」
「ああ」
ジョンストンは憮然として腕を組んだ。マイラは笑いをひっこめて「どうしたの」と訊ねた。
「どうしたもこうしたも……」
ジョンストンは、チャーター便をカーター・タウンへ帰したこと、駅馬車を逃してしまったこと、宿で満室と告げられたことをぽつぽつと語った。無論、ぐずぐずと帰途につかなかった理由が、マイラに会えるのを期待したところにある点は除いて。
マイラは困ったようにかすかに眉を寄せた。
「義姉さんが引き留めたのね、ごめんなさい。あのホテルは一見さんお断りなの。村の人間からの紹介がなければ泊まれないのよ」
「なんだよそれ。ホテルの意味あるのか」
「さあね。こんな村、わざわざ泊まりに来るひとなんてそうそういないから、どっちにしたって同じなんじゃない?」
マイラは唇を親指でぐにぐにと弄び、ちょっと考える素振りを見せた。
「……あたしん家に泊まっていけば? って言いたいところなんだけど。甥っ子が今、何かと手のかかる時期で。あんまりゆっくりさせてあげられないかも」
「邪魔をするつもりはないよ。それより、宿に君から口添えしてもらえないかな」
マイラは唇から手を離してにっこりと笑った。
「お安い御用よ。じゃ、行きましょうか」
マイラがジョンストンを紹介すると、アップルホテルのおかみはあっさりと彼を客室に通した。二人は部屋の入り口から中を覗き込む。家具は古かったが、よく磨かれて艶が出ている。ベッドのシーツは清潔そうで、皺なくピンと張られていた。
「悪くないな」
「そうね。初めて見たけど、良い部屋じゃない」
ジョンストンが部屋に足を踏み入れようとしたとき、マイラは一歩廊下側へと後ずさった。彼女の、当惑の色の滲んだ青い目を見た次の瞬間、ジョンストンの体幹の内で熱い炎がごうと音を立てて燃え上がった。それは初めて感じる赤黒い熱情だった。彼は強い衝動に突き動かされ、彼女の腕を掴もうとしていた。そしてその一瞬あとに、自分が何をしようとしているのか気が付くと、我に返ったジョンストンは自らの腕の軌道を無理やりにそらした。
空を切ったジョンストンの腕を、マイラが訝しげに見る。
「――すまない。羽虫が飛んでいたものだから、つい」
ジョンストンの苦し紛れの言い訳は、しかしマイラには通用しなかった。マイラは一歩下がったままじっとジョンストンを見据えた。その空色の目にとらえられると、ジョンストンは何も言えず、他に視線を移すこともできず、ただの肉の塊になったかのように動くこともできなかった。
マイラがわずかに首を傾げた。柔らかそうな蜂蜜色の髪が肩からさらりと滑り落ちる。マイラとジョンストンは言葉こそ交わさなかったが、二人の間には、雄弁な瞳による熱い交感があった。マイラはジョンストンから目を逸らさず、彼が、なにか未知の音楽の序奏のはじめの一音を発するのを待っているように見えた。ジョンストンは、生唾を飲み込んで頷いてみせると、もう一度、今度はゆっくりとマイラの腕を取り、引いてみた。マイラは促されるままに部屋へと入った。
押さえを失った部屋の扉が派手な音を立てて閉まる。断頭台の刃が落とされるような音だった。
* * *
カーテンの隙間から客室に侵入してくる光は、黄色みを増していた。マイラは手櫛で髪を整えながらジョンストンに問いかける。
「藁の代金は来週にでも振り込もうかと思ってたけど、あとでここへ現金を持ってきたほうがいいかしら」
「いや、いい。日が暮れてから大金を持ち歩くのは危ないよ」
「そう? じゃあ、明日の朝に持ってくるわ」
そう言って彼女は立ち上がり、さよならも言わずに部屋を出て行った。
マイラが去ってしまうと、ジョンストンはぐしゃぐしゃになったシーツの海に飛び込んだ。今さらになって、心臓が、まるでそこだけ違う生き物であるかのようにぎゅっと縮んでいる。先刻のように強烈な衝動が自分の中に眠っていたとは、今の今までジョンストンは知らずにいた。ルシールに対しては、一度も抱いたことのない種類の激情だった。マイラが彼の欲心に応じてくれたことへの静かな喜びと、自分を抑えられなかったことへの不甲斐なさが、寄せては返す波のように交互にジョンストンの身を浸していった。
やがておかみが夕食の用意が整ったことを知らせに来た。ジョンストンはのろのろと食堂へ向かった。
「アップルホテル」の食事は、部屋同様になかなかどうして悪くないものだった。食堂のテーブル中央には、この村の名物、新鮮な豚の血をくず肉や野菜とともに腸詰めにしたブラッド・ソーセージが鎮座している。芋をつぶして丸めた餅に、野菜のスープが添えられていた。旅の自由を満喫していた数時間前のジョンストンであればあっという間に平らげたであろうメニューだったが、今の呆けた彼には、今ひとつ味の輪郭がはっきりと感じられなかった。
「うちは連れ込み宿じゃありませんよ」
部屋に戻るとき、ジョンストンにだけ聞こえるようにおかみがぼそりと呟いた。