二十頁目:清書係の矜持
肺が焼けるような熱を帯び、足元の感覚はとうに麻痺していた。
急峻な山道を駆け下り、ようやく辿り着いた見返村の入り口。街灯の乏しいアスファルトの上に膝をつき、僕は激しい呼吸を繰り返す。隣では朱音が、ひび割れたスマートフォンを握りしめたまま、周囲を油断なく警戒していた。
「……ハァ、ハァ……っ。朱音、さん……バス停、あそこです」
僕は震える指で、村の唯一の交通手段であるバス停留所を指さした。
暗がりに佇む錆びついた看板。そこへ転がり込むようにして、僕たちは時刻表に目を走らせる。
「……嘘、でしょ」
朱音の絶望的な声が漏れた。
一日の運行本数はわずか四本。そして、最終便の時刻は"十七時三十分"。
現在の時刻は二十時を回っている。
次のバスが来るのは、明日の早朝だ。
「……終わった。完全に退路を断たれたじゃん。あいつら、絶対まだ追いかけてくるよ! ランクルさえ、ランクルさえ生きてれば……!」
「……嘆いても、始まりません。朱音さん、落ち着いて。まだ、民家に助けを求めるという手が――」
「そうだ、そうだよね! 村中全員が狂ってるわけじゃないはずだし――!」
朱音は縋るように、バス停のすぐ近くにある民家へと駆け寄った。
石垣の上に建つ、至って普通の農家だ。窓からは夕食時を過ぎたばかりの、穏やかな生活の明かりが漏れている。
朱音が門扉を押し開け、玄関の呼び鈴に手を伸ばした。
ピンポーン。
静かな夜の村に、乾いた電子音が響き渡る。
その、直後だった。
――ふっ。
まるで誰かが吹き消したかのように、その家の窓から漏れていた暖かな明かりが、一瞬で消え失せた。
「……え?」
朱音が呆然と立ち尽くす。
拒絶。それも、居留守といった生易しいものではない。明確な"敵意"に近い沈黙。
だが、異変はそれだけでは終わらなかった。
隣の家。その向かいの家。さらに奥の路地の家々。
ドミノ倒しのように、あるいは光の葬列が闇に呑み込まれていくように、次々と村中の建物の明かりが消灯していく。
わずか数十秒のうちに、見返村は完全な暗黒に包まれた。
残されたのは、心許ない一本の街灯と、僕たちの荒い息遣いだけ。
「……なに、これ。どういうこと? みんな、寝ちゃったの? そんなわけないよね……」
朱音の声が震えている。
僕は冷や汗が背筋を伝うのを感じながら、急速に冷えていく周囲の空気を分析しようと試みた。
この異常な連動。村全体が、一つの意志を持って僕たちを"消した"のだ。
「……マズいかもしれません。朱音さん、僕たちはもう、都市伝説の渦中にいる」
「……どういうこと? さっくー、説明してよ」
「さっき展望台で僕らを襲った、あの袋を被った連中。彼らがもし、この村における"神隠し"の実行犯なのだとしたら――そして、この村そのものが、それを黙認し、加担しているのだとしたら、どうなりますか?」
朱音は息を呑み、暗闇に沈んだ家々を凝視した。
「……は? あの稿坂とかいうおっさん一人じゃなくて、村全体が人攫いに関わってるってこと? そんなの、なんのために……」
「……"帰還者"たちの話、覚えていますか? 失踪者が数年後に無事に帰ってくる。でも、その間の空白期間については、海外にいたとか記憶喪失だったとか、曖昧な理由で片付けられている。……もし、その間、彼らがどこにも行っていなかったとしたら?」
僕は村の通りですれ違った、穏やかすぎる若者たちの顔を思い出した。
「監禁するにしたって、数年間も隠し通すのは無理があります。でも……この村の住人として、ここで生きることを強要されていたのだとしたら? 神隠しとは、異界に連れ去られることではなく、この村のシステムに取り込まれることだとしたら、筋は通ります」
「……そんな、バカな。じゃあ、あの若者たちはみんな……。でも、なんでそんな面倒なことをする必要があるのよ」
「それは、わかりません。ですが、この村が何かを隠し、何かを守ろうとしているのは確かです。……僕たちは、その"裏地"に触れてしまった」
絶望的な沈黙が二人を包み込もうとした、その時だった。
――震動。
静寂を裂いて、僕のズボンのポケットでスマートフォンが激しく震えた。
液晶画面に浮かび上がったのは、登録していない番号。けれど、僕はそれが誰からのものか、直感的に理解していた。
「……はい、白河です」
『やあ、朔。どうだい、絶筆は回収できたかい?』
耳元に届いたのは、鈴を転がすような、けれど底知れぬ深淵を感じさせる女の声、墨千夜のものだ。
まだ少し眠気を残したような気だるげな響き。しかし、そこには夜明けとともに閉店する、あの超常の書店の主に相応しい神秘性と威厳が戻っていた。
「……墨千夜さん。助けてください、今、大変なことになっていて」
僕は堰を切ったように、見返村で起きた出来事をまくし立てた。
展望台での襲撃。袋を被った男たち。村全体の消灯。そして、"神隠し"の裏に、何かがあること――。
一通り話を聞き終えた墨千夜は、ふっと短く笑った。
『……ふむ、朔。君は一体、何をしているんだい?』
「何って、仕事ですよ! 依頼された通り、行方不明になった落合さんの行方を追って――」
『違うよ、朔』
冷ややかな言葉が、僕の思考を凍りつかせる。
『それは君の仕事ではない。行方の捜索なら、警察や探偵にでも任せておくといい。……君は、何者だい?』
「……僕は」
『君は"清書係"だろう。……ならば、君にできることは、なんだい?』
問いかけが、脳髄に深く突き刺さる。
清書係。
僕は、探偵ではない。ヒーローでもない。
ただの、死者の声をなぞる器。
事件の真相を暴くことが僕の使命ではない。僕の指先がなすべきことは、その場所で失われた想いを、この世に繋ぎ止めること。
(……そうだ。僕にできるのは、なぞること。"ここにいなくなった"誰かの痕跡を、文字として再現すること)
あの展望台にあった、真っ黒に塗り潰された記帳本。
あれは単なるいたずら書きではない。あれこそが、落合香奈がこの世に残した最後の一行、すなわち――"絶筆"なのだ。
真実をなぞらない限り、彼女の物語は終わらない。そして、僕がここに来た意味も果たされない。
「……墨千夜さん。わかりました。清書係として、僕がなすべきことをします」
『くふふ……。いい返事だ、朔。……幸運を。君がその空白を埋める時、物語の裏地は剥がれ落ちるだろう』
通話が切れる。
僕は顔を上げ、戸惑いの表情を浮かべる朱音に向き直った。
「……すみません、朱音さん。僕は戻ります」
「何言ってんの、さっくー! 正気!? 戻るって、どこに? バスも来ない、逃げ場もないこの状況で!」
「……展望台です。あの記帳本のところへ戻ります」
「あそこにはあいつらがいるんだよ!? 殺されるかもしれないんだよ!」
「……わかっています。でも、あそこにある"塗り潰し"を清書しなきゃいけないんです。一か八か、やってみます。あれをなぞれば、落合さんに何が起きたのか、彼女がどこへ行ったのか……その声が聞こえるはずなんです」
僕は朱音の手を強く握った。
「朱音さんは、ここで待っていてください。もし、夜明けまでに僕が戻らなかったら……その時は、警察を呼んでください。……あかねチャンネルのリスナーに、すべてを晒してください」
「……さっくー」
朱音はしばらく唇を噛んで僕を睨みつけていたが、やがて、乱暴に自分の頭をかきむしった。
「……ったく。あんた、本当にお人好しっていうか、バカだね! ……いいよ、わかった。でも、一人で行かせるわけないでしょ! カメラ回すのは私の仕事。あんたが奇跡を起こす瞬間、バズらせてあげるから!」
朱音はひび割れたスマホを構え直し、不敵な笑みを浮かべた。
「行きましょう、さっくー。神隠しの正体、暴いてやろうじゃない!」
僕たちは再び、闇に閉ざされた山道へと足を踏み出した。




