十三頁目:残照と出張
深夜の書店の奥。そこは、表の棚に並ぶ無数の絶筆たちが発する静かな圧から切り離された、唯一息をつける場所だった。
使い込まれた木製の丸テーブルを囲むように、僕と、朱音、そして依頼人の台東さんは座った。カウンターでは、先ほどまで目ぼけ眼を擦っていた墨千夜が、いつの間にか背筋を伸ばし、琥珀色の瞳に知的な、けれどどこか冷ややかな光を宿してこちらを眺めている。
台東さんは震える手で、トレンチコートのポケットから一枚の写真を取り出した。
写真の中で、明るい茶髪を肩で切り揃えた少女が、屈託のない笑顔でピースサインを作っている。背景はどこにでもある大学のキャンパスだ。
「……一週間ほど前、私の友人がいなくなりました。名前は落合 香奈。同じ大学の、二回生で――」
台東さんはその写真をテーブルの中央に置くと、すがるような目で僕を見た。
「彼女は一週間前、"見返村"という所に向かったのを最後に、行方が知れなくなったんです。……警察には届けました。でも、本人が自分の意志で行った可能性が高いからって、積極的な捜査はしてくれなくて」
「見返村……?」
聞き慣れない名前に、僕は隣の朱音を見た。
彼女は既に、僕に貸し出しているのとは別の、自分用のスマートフォンを高速で操作していた。
「見っけ! ここだね。えーっと、装幀市から電車を三回乗り継いで、さらに終点からバスで一時間半。……うわぁ、山。マジの山。地図アプリのストリートビューすら途切れてるじゃん。まさに陸の孤島だね、これ」
朱音が画面を見せてくる。そこには、等高線が複雑に入り乱れた、緑一色の地図が映し出されていた。
「落合さんは、どうしてそんな辺鄙な場所へ? 失礼ですが、何か悩み事でもあったんでしょうか」
僕が尋ねると、台東さんは悲しげに首を横に振った。
「いえ……。変わったところは無かったはずなんです。ただ、最近はバイトを増やしていたみたいで、少し疲れているようには見えました。私もゼミの活動が忙しくて、彼女とは少し疎遠になってしまっていたから、詳しい事情までは……」
彼女の声は、後悔で微かに震えていた。
親友の異変に気づけなかった自分への、静かな断罪。その痛みは、叔父を救えなかった僕の胸にも、鈍い共鳴を呼び起こす。
「でも、本当にその村に向かったんですか? 何か確証があるとか」
「……以前、香奈が言っていたんです。見返村には、すごく見晴らしの良い展望台があるって。一度行ってみたい、と。……それに、最後の目撃証言が、その村へ向かう唯一の路線バスのバス停付近だったんです」
台東さんは、スマートフォンでバス停の地図を示した。
確かに、そこから先は"見返村"へと向かう道しかない。
「なるほど。状況はわかりました」
僕は一度、深く息を吐いた。
「ですが、台東さん。ここは曲がりなりにも本屋ですよ? それも、かなり偏った専門書しか扱っていない。……友人の捜索なら、やはり警察に食い下がるか、あるいは私立探偵に頼むのが筋ではないでしょうか。僕たちがそこへ行って、何ができるわけでも――」
「――何言ってんのさ、さっくー! 配信のネ……げふんげふん、困っているリスナーさんが目の前にいるんだよ! 見過ごせるわけないでしょ!」
朱音がテーブルを叩いて立ち上がった。
今、絶対に"配信のネタ"って言おうとしたな、この人。
「さっくーは、"あの"あかねチャンネルの準レギュラーでしょ! 正義の味方として、バシッと解決してあげなよ!」
「"どの"ですか。それに、正義の味方なんて、一言も名乗った覚えはありませんよ。……大体、朱音さんの無茶な調査には、もうこりごりなんです」
僕は呆れた顔で、朱音を指差した。
「一昨日だってそうじゃないですか。『街に潜む影! 特殊詐欺グループの悪事を暴く!』とか言って、無茶な凸したせいで、怖いお兄さんたちに囲まれかけたのはどこの誰ですか?」
「っ、そ、それはさぁ……。結果的に警察が来て、お兄さんたち逮捕されたし、よくない?」
「よくないですよ! なんで僕が、こんな短いスパンで何度も怪しい奴らに囲まれないといけないんですか! あの日下さんの時だけで、一生分のスリルは使い果たしたんです!」
「でも、同接五万超えたよ?」
「視聴者より僕の命を優先してください!」
僕と朱音の押し問答が続く中、それまでずっと静観していた墨千夜が、不意に、鈴を転がすような声で口を開いた。
「ふむ……。いいじゃないか、朔。行ってあげたらいい」
「墨千夜さん……?」
驚いて振り返る。彼女はカウンターに頬杖をつき、楽しげに目を細めていた。
「一冊の絶筆……台東さんは、そう言ったね。その村に、死者の声で充たされた一冊があるのなら。……たまには、"出張買取"というのも悪くない」
「し、出張買取……!? これ、本屋の仕事なんですか?」
「そうだよ、朔。この店の商品には、待っているだけでは集まらないものもある。誰にも届かなかった死の間際の叫びを、適切な価格……いや、適切な"価値"で引き取り、この棚に収めるのも私たちの仕事だ」
墨千夜は立ち上がり、ゆっくりと僕に近づいた。
「神隠しの村、見返村。……名前からして不穏だね。古来より、異界との境界にある場所には、決して"振り返ってはならない"という禁忌がつきまとう。……そこに、どんな"声"が埋もれているのか、私は興味がある」
墨千夜の言葉には、抗いがたい力があった。
彼女の琥珀色の瞳に見つめられると、僕の意志など、水たまりに落ちたインクのように霧散してしまう。
「……僕が行かなきゃ、ダメなんですか。墨千夜さんが行けば、もっと手っ取り早く解決しそうですけど」
「無理。私はこの店から離れると、役立たずも良いところだ。朔、君は私の"清書係"だ。店主の代わりに現場へ赴き、真実をなぞってくる。これは業務とは呼べないかい?」
彼女は、僕の胸元を白い指先で軽く突いた。
「……わかりましたよ。行けばいいんでしょ、行けば」
僕は大きく溜め息をつき、降参の印として両手を上げた。
朱音が「よっしゃあ!」とガッツポーズを作り、台東さんは何度も深々と頭を下げた。
「ありがとうございます……! 本当に、ありがとうございます……!」
「……礼を言うのは、無事に帰ってこられた後にしておいてください。……朱音さん、車出せますよね? バスを待ってたら日が暮れます」
「オフコース! ランクル300の性能、山道で試したかったんだよね! フル装備で行くよ!」
朱音の目が、獲物を狙う鷹のように爛々と輝く。
見返村。
神隠しの伝承。
叔父の絶筆を書き終えたばかりの僕の指先に、再び、鈍い熱が宿り始めていた。
行く先にあるのは、行方不明者の手がかりか。あるいは、僕ら自身が落ちていく、底のない深淵か。
「……じゃあ、出発は明朝ね! さっくー、準備運動しときなよ!」
「勘弁してください……」
朱音の明るい声が、夜の帳が降りた書店に響く。
僕はカウンターに並ぶ、無数の絶筆たちを眺めた。
これから僕たちが向かう場所には、一体どんな、悍ましくも悲しい物語が待っているのだろうか。
ほんの少しだけ、期待してしまう自分もいるのだった。




