001 何事にも終わりがある
生まれて初めて小説(?)を書きます。第一部は孤児院編で、既に書き終わっていますので毎日更新します。読んで頂けたら嬉しいです。
その男は落ちていた。「落ちた」ではない。もう十分くらい盛大に落ち続けていた。男は坂東勇人という。この名前のお陰で子供のころには「お前、坂東武者か薩摩隼人かどっちや」とよく揶揄われたものだった。
六十五歳になった今日、勇人は目出度く二度目の定年を迎え、元部下だった部長や課長、年若い同僚たちの、取って付けたような拍手に送られて会社を出た。
これからは悠々自適のセカンドライフを送るんだ、と半年前まではそう思っていた。だがその夢は脆くも破綻した。
妻に七年越しの浮気がばれた。七年目ではない。七年越しである。当然のなりゆきで夫婦喧嘩から別居、調停と進み、遂に熟年離婚。財産分与、慰謝料、おまけに年金分割・・・結局手元に残ったのはわずかの基礎年金のみ。家も取られ、この年になって一Kのアパート暮らし。
定年になった今日、会社のロッカーや倉庫の隅に長年溜め込んでいた大量の私物を持ち出し夕暮れの街を一人暮らしのアパートへと向かっていた。本当はもっと早く片付けるべきだったし、勇人もそう思っていたのだが、何をする気にもならず、結局今日になって大荷物を抱えて帰宅することになった。
途中アパート近くの街灯の下で背中のバックパックを降ろし、引いていたキャリーバッグから手を放し、左手のビジネスバッグを下に置いて一休みしたその時である。突然足元に直径2メートル程の穴が開き、勇人は為すすべもなくその穴に転落した。
身体がフワッと浮くような無重力感があり、真っ暗な中で見上げると二メートル位あった穴が一メートルになり、五〇センチになり、豆粒くらいの光になり、米粒、ゴマ粒、芥子粒と加速度的に小さくなってフッと消えてしまった。
それから現在に至る。最初は慌てた。危うく持病の狭心症の発作に見舞われるところだった。しかし幸いなことに六十五歳の勇人には十分もアタフタとするだけの体力はなく、ゼイゼイ言いながらその場にへたり込んでしまった。
考えてみると色々とおかしなことがある。
(そもそも、十分も落ち続ける穴て、どんな深さやねん。地球突き抜けとるんちゃうか。)
勇人はスマホを取り出すとエ〇セルを立ち上げ数字を打ち込み始めた。
(重力の加速度は九・八メートル毎秒毎秒やから、キロに直すと〇・〇〇九八や、と。落下する距離は初めの一秒はそのままで、一秒毎に〇・〇〇九八キロずつ増えて行くからその距離をこの列に入れて、初めからの積算の距離をこの列に入れて、今まで十分落ちたと仮定して、六百秒後の積算距離は・・・一七、八百キロか。意外と少ないなぁ。
地球を突き抜ける時間は、地球の直径を一万二千キロとして・・・なんやて、三十分無いやないかい。ワイの命はあと三十分か・・・待てや、地球の真ん中まで行ったら加速度の方向が変わるさかい六千キロまでにかかる時間を二倍する方が正しいんか。それで計算すると・・・それでも四十分はないんか。
待て待て、ここは冷静にと。そもそも地球の真ん中言うたらマグマドロトロやんか。そんなとこで無事なはずないわ。ほならワイの寿命は長うてあと二十分か。いやいや空気抵抗ちゅうもんがあるから、計算通りの加速度にはならへん、もう少し長生きできるやろ・・・て、ここ空気在るんか?)
奇妙な空間だった。真っ暗なのに足元の荷物や自分の身体は見える。落ちているはずなのに、座ったり立ったり出来る。そのくせ前に歩いても後ろに行っても、歩いている感覚はあるのに置いた荷物から離れられない。置いた荷物には触れられるが持ち上げることも動かすこともできない。
そういえば落ちているのだから下から風が吹いてくるはずなのに無風だ。空気があるかどうかは不明だが、息苦しくはない。現状は分かったが、この場所は勇人の頭で理解できる範疇になかった。
余りにもできることがないので、勇人は暇を持て余し始めた。とは言え自分をほぼ丸裸に剥いた鬼妻 (元)や、ゴミ屑のように捨てた不倫相手のことを考えても腹が立つだけなのでこれからどうなるのか考察してみることにした。
その一、既に死んでいて、天国か地獄へ行く途中である
(天国とか地獄とか在るんかどうか知らんけど、一度行ったらそう帰ってこれるもんでもないし、無いとまでは断言でけへん。在ったらワイは間違いなく地獄行きやなぁ。リストラ担当やらされて、自死者まで出してしもうて、あれ寝覚めが悪かったなあ。
あ、ワイんとこ先祖代々門徒やった。「なんまいだ」言うたら悪人も成仏できる言う、ありがたーい教えやなかったやろか。極楽浄土言うとこは多分酒もネットもないやろし、暇持て余しそうやけど、地獄で針の山登るよりはなんぼかましや。厭離穢土欣求浄土)
勇人は「なんまいだぁ、なんまいだぁ」と二回ほど唱えてみたものの、にわか信者にご利益があるはずもないと思い直し、念仏は止めて次を考えることにした。
その二、天変地異で不思議の穴が発生し、地球の反対側に向かって落ちている途中である
(普通の穴やったら前に思たとおり途中で消し炭やろけど、状況から考えて普通の穴とも思えへんし、穴に落ちた者を保護する特別な機能を持った穴言う可能性もあるかも。
その場合出口があるのはブラジルあたりか。前に息子やったか娘やったかの地図帳覗いたら、南米の地図に日本列島を地球の真後ろに表示した言う説明書きがあって逆さまの日本が描いてあったけど、あれ確かブラジルの沖合の海ん中やったで。穴から出たんは良えけど海ん中ドボンで土左衛門言うのもゾッとせん話やなぁ。
ワンチャン穴がずれてリオ辺りに出ても足から逆立ちで助清はんや。どこかの総理大臣みたいにマ〇オのコスプレで登場ちゅうわけにはいかへんな。どっちも恰好悪いけど)
思考があさってを向き始めたので、この辺で「その三」に無理やり向かうことにした。
その三、異世界転移の途中である
(ラノベなんかでよくある設定やけど、現実問題、異世界へ行って帰ってきた言う話は聞いたことあらへん。そうは言うても行きはよいよい帰りは恐いちゅう設定も多いし、これもワンチャンあるかも知れん。今は微レ存言うんか。
せやけど実際六十五の生い先短いジジイが全く違う環境に放り込まれるちゅうのも辛いもんがあるなぁ。中世くらいな文化程度やったら下水もないやろし、ボットン便所悪うすればそこら中で遣りっ放し、伝染病が蔓延。生活習慣病の治療どころかケガしたら小便かけられたり、下手したら糞塗りこまれたりして感染症で苦しんだあげくにお陀仏言うのもあり得るわ。
それにそもそも言葉も解らんやろし、それを覚えるまでに寿命が尽きるやろ。自慢やないけど大学出とるのに英語すらまともに喋れんのや)
途中で神かそれに似た者に出会って若返らせて貰い、ついでにチートな能力を貰いたいものだが、こればかりは願ってどうにかなるものでもない。ラノベと現実とは違うのだ。つまり今まで考えたどのケースになっても碌なことにはならないというのが出した結論であり、勇人はあまりの悲惨さに思わず脱力し、座ったまま両手を突いて俯いてしまった。
と、その時遥か下の方に芥子粒のような光が見え、それはゴマ粒から米粒、豆粒と急速に大きくなってきた。いよいよ穴も終わりかと目を凝らして光を見ていると穴の出口が近づき、次第にその先の景色が見えるようになってきた。そこには土が剝き出しになった農地らしき土地が広がっているように見える。
(天国や地獄はなさそうや。ブラジルか異世界やな)
が、ひとつ問題があった。どうも穴の出口から草むらまで四、五メートル距離があるようだ。つまり穴の出口は地面から四、五メートル上にあり、このままでは穴から出ると必然的にその高さから自由落下することになる。出口に近づくにつれて速度は落ちてきているものの、出口の所で速度零にはなりそうもない。したがってその速度プラス四、五メートル落下する分の加速度で地面に落ちることになる。
(このままやったら、両足骨折や。ブラジルやったら現代的な治療が受けられるやろけど異世界やったらどうなるか分らん。なんとかせんと)
これまで浮気が見つかって熟年離婚、ほとんど財産を持って行かれ浮気相手には捨てられ、挙句の果てに訳の分からない穴に落ちるという運に見放されてきた勇人だったが、ここに来てほんの少しつきが回ってきた。穴に落ちる直前に一休みしたときキャリーバッグと背中から降ろしたバックパックを自分の右側に置いた。その後穴は自分と荷物との間を中心に開いた。つまり勇人の身体は穴の中心より左側に寄っていたのである。
勇人は穴の出口で思い切り左手を伸ばして穴の縁を掴んだ。二つの荷物とビジネスバッグはそのまま出口から下に落ちていったが勇人の身体はかろうじて穴の縁にぶら下がった。
(と、止まった。このまま両手で掴まって体制を立て直してから落ちたらチョットはましかも知れん)
勇人は右手でも穴の縁を掴もうとして身体を捻り右手を穴の縁に向かって伸ばした。その途端に紙を引き裂いたような音がして左手で攫んだあたりにひびが入った。それは穴の縁に沿って広がって行き、ついに千切れる寸前にまでなった。千切れると思った瞬間に身体に電撃のようなものが走り、勇人の意識はそこで途切れた。こうして勇人の不思議な穴への落下は終わりを迎えたのである。




