雨の日の数時間 その6
その日はまた雨だった。
行く宛てもない。足が動かせるわけでもない。ただ大人しくするしかなかった。
狼はというと、起きて様子を見て、何もないと分かると身体を丸めて待機してるだけだ。何かを探すわけでも、彼女に何かしようとするわけでもない。とんでもなく大人しい狼だった。
その日、修道服の女性―――シスターに、足の様子を見てもらっていた。
「……ダメね。完全に治るのは年単位になりそうよ。随分無茶して動かさなかった?」
彼女は何も言わずに首を横に振った。この時は記憶はかなり曖昧であまり覚えておらず、そもそも何で逃げてたのかも忘れてしまっていた。
シスターは治癒魔法を当てながら、少しだけ彼女の瞳を見つめる。
「そっか……貴女がそういうのであれば、信じるわ」
まるで子供を安心させるような優しい笑顔で、シスターはそう言った。
その顔は今でもルミナは覚えてる。とても輝かしくて、まぶしくて……
この時の彼女にとっては非常に嫌な顔だったことを。
シスターが彼女の足に再度包帯を巻くと、階段を下りて姿を消していく。彼女の近くにはパンと、何やら変な液体と何かが浮かんでいた皿があった。
液体には手をつけず、パンを2つにちぎって、その1つを狼のいる方向へ投げ捨てる。
……まただ。
彼女は何も言わずに、パンを投げた左手を見る。腕は包帯で巻かれていて、5つの指が先端から出ているだけ。
その先端は、どこか汚れているように見えた。この汚れが、彼女の生きてる証、今まで生きるために、平気で汚した指だ。
その指が、左手が、何故ああいうことをするのか、彼女には理解できなかった。
足は動かせない。彼女は顔だけを狼の方へと向けやった。狼はのそりと立ち上がると、チビチビとパンをかじり始める。それだけ見ると、彼女は柔らかい床で、身体を横にする。
今まで感じたことのない感覚。それは全然嫌ではなく、何故か不思議と安心できるような感じだ。
何もかもが、味わったことのない、今までのことは全部夢と思わせるような、空間。
本当はもうとっくに死んでいるんだろう。そうでなかったら、今までのことは全部嘘になる。
……何、これ? どういう気持ち? 私は、何? 夢? 現実? あの行動は? 意味は?
ベルの音。人が上がってくる足音。
気づいたときには、シスターの両手が、彼女の両手をしっかり包んでいた。
「……不安?」
優しい声が、彼女の耳に入ってくる。何も言わず、シスターの手の中で両手を握りしめる。声が出ない。自分の中でも気持ちが付かない『何か』に、押しつぶされそうになる。
その潰されそうな中で、シスターの両手がそっと彼女を、優しく護ってくれていた。
「ねぇ。我慢してないで泣いていいんだよ。貴女の声……聴かせて?」
……うるさい。何も分かってないくせに、分かったような口で言わないで。
その言葉は、今まで出したことのない感情と、自分の声で消えていった。
これが、幸せってやつなのかな―――
「……ねぇ、エトくん」
「はい……?」
ふと、ルミナはエトルに呼びかける。呼ばれたエトルは返事をして、ルミナを待つ。
「さっき、エトくんは幸せって言ってたよね? ……それってさ、大切なものが出来たから?」
「大切な……もの?」
そう言われるとどうも困る。自分にとっての大切なもの? それは一体何だろう。そんな風に思い悩むエトル。
彼のその表情を見てから、ルミナは教会に目を向ける。今の時間帯、教会は昼間以上に静かだ。そんな教会に、意味もなく手をかざす。石橋の街灯のおかげで、手の指が良く見える。その手は少し汚れているように見えた。
「……大切なものが出来たから、幸せって言えるのかもね」
「……ルミナ、さん?」
まるで、何かを悟ったかのような口ぶりにエトルは不安そうにルミナを見た。ルミナは視線を変えずに、少し穏やかな表情でエトルに告げる。
思い返したかのような、シスターのような顔のように。
「もしかしたら、ある日突然なくなっちゃうのかもしれない。けどね、そんな大切なものがあるから幸せなんだと思う。……ずっと、大切にしてあげて?」
そう言ってルミナは笑顔でエトルに言った。
言われたエトルはというと、何処か戸惑っていた。きっと、『大切なもの』と言われてピンとくるものがないんだろう。それはそれで、冒険者らしいと、ルミナは思った。
あの日の幸せだった私には持っていない、冒険者としての日々が、今までも、これからも続くように。……祈るなんて、ガラじゃないけど。
ルミナは、柵から降りるとエトルの前で両手を胸に当て、目を瞑ってお祈りをした。
「……あの、ルミナさん。言っちゃ変だと思いますけど……」
どうも言いづらそうにエトルは後ろ手で頭を掻く。言われてルミナは目を開くと、きょとんとした様子でエトルを見る。
「……今日、どうしたんですか? 何だかいつものルミナさんじゃない気がして……」
……確かにそれもそうだ。エトルに言われてルミナは納得した。確かにこんなのいつもの自分じゃない。
何やってるんだろ、私。本当に今日は変な1日だ。……相棒もきっと呆れてるだろう。「変な物でも食べたんじゃない?」と言わんばかりの表情が目に浮かぶ。
「(うるさいなぁ。分かってますよーだ)」
そう心の中で不貞腐れると、エトルに向かって走る。驚いてエトルはその場で身体を硬直させる。そしてすれ違いざまにエトルのポーチから銅貨をいくつか盗む。
「これでどう? いつものルミナさんになりましたー! 返してほしかったら追いかけてみなさーい!!」
「あ……あぁもうルミナさーん!! 盗むのはダメですってばー!!」
いつものように、2人の追いかけっこが始まる。ただ、ルミナはいつも以上に楽しそうな声を上げていた。
特に意味なんてない。ただエトルから逃げるだけ。満足するまで、この足で。
「(……足、かぁ)」
笑顔のまま、追いかけてくる足跡から逃げながら、今日はこれで振り返るのは最後にしようと、ルミナはあの日を思い出す。
その日は雨だったが、夜になったら止んでいた。
彼女は、彼女自身のサイズに合わせられた修道服を着ていた。シスター曰く「今はこれしかないから、これで我慢して」と言われて渡されたものだ。
外に出たくても出ることなんてできない。足で立とうとすると、激痛が容赦なく襲い掛かってきて、まともに立てもしない。
……今までのことはきっと悪夢だった。だからこれからずっとここにいたって、誰も困らない。でも私はどうしたいのか分からない。
ただ分かってることと言えば。この外はどうなっているんだろうという考えだけ。
動けたら、いいのにね。誰もいない部屋で、彼女は息を吐きだした。
その息を聞いてか聞かずか、突然部屋から何かが起き上がる音が聞こえた。思わずそちらの方向を振り返る。そういえば1匹いた。狼だ。
狼は彼女の近くまでやってくると、何も言わずに立ったままで背を見せる。それが一体何なのか、分からない。
すると突然、狼が小さく吠えた。聞いたこともない声に彼女の両肩がビクリと跳ね上がる。理解できてなくて怒っているのだろうか。というより、こっちが逆に、「何がしたいの?」と聞きたくなる。でも狼に人の言葉が通じるわけがない。
また狼が小さく吠えた。今度はその場で旋回してから、彼女に背を向けた。何故か言いたいことが分かった。乗れ、ってことだろう。
確かに小さくて華奢な彼女を、背丈は同じぐらいの狼に乗ることはなんてことはないかもしれない。しかし本当にそんなこと出来るのかどうかが、疑わしい。最悪重みで狼が潰れるかもしれない。
そんなことを考えてる彼女に、煩わしくなってきたのか、今度は2連続で吠えた。このまま放っておけば、今度は3連続で吠えられるかもしれない。こうなったらもうヤケだ。彼女は、自分の足が地面に触れないように気を付けながら狼の上にまたがる。
またがり終えると、狼はなんともなさそうな足取りで下に降りる。階段を降り、大部屋へと向かう。その部屋は教壇に長椅子が複数、中央には赤いカーペットのある、月光が差し込む質素な木の部屋だった。何となく見たことはあるなと思いながら、彼女は狼にまたがったまま周囲を見渡した。
やがて狼は扉の前に立つ。流石に自力では開けられないんだろうと知った彼女は、扉を開けた。
すると。風がゆっくりと彼女と狼を撫でるように吹き抜ける。その先は―――
「……」
「ルミナさん……やっと追いついた……」
街の大通りで、片手を天へかざして佇むルミナを見つけたエトルは、ルミナの元へと駆け寄る。ルミナは空を見上げたまま、そこで立ち止まっていた。
「……ね。君さ」
空を見上げたまま、ルミナは近づいてきた彼に向かって話しかける。
あの日、幸運で出会えた大切なものに向かって話しかけたかのように。
彼は、彼女に声をかけられたあと、同じように星空を見上げた。
「今日の空、なんだか奇麗だと思わない?」
「……確かに。雨が止んだ後だから……かもしれませんね」
ルミナは、あの日と重ね合わせて夜空を見上げていた。
あの日出会った幸運と初めて教会の外に出て、見上げた星空のような輝きが、今のルミナの瞳に映っていたのだった。
これにて「雨の日の数時間」はおしまい。
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