第拾壱之幕
授業が終わり、賑やかな教室の間を縫うようにして一人で帰路につく。葵ちゃんが私の事を心配してくれて、一緒に帰ろうか? と聞いてくれたけれど、今回ばかりは断った。本当は心細くて一緒に帰りたかったけど、もしもの事を考えると、一緒には帰れなかった。
空の闇が増すたびに、私の心も不安の色に染まっていく。
なるべく人気の少ない道を選んで、急いで家まで帰る。
「小娘。気の弱りは禁物じゃ。状況が状況なだけに強くは言えんが、お主が弱ればそれだけ力が不安定になる」
肩に乗っているヤタが言聞かすように言ってくる。
「うん……分かってる」
意識をしっかり正常に保たないと、不安に押しつぶされちゃいけない。穏やかに、焦らないで、誰も傷付けないようにしなくちゃ、暴発させないようにしなくちゃ、大丈夫……大丈夫……。
「どうした小娘。息が上がっておるぞ、一度止まって息を整えて……」
「分かってるよ!」
焦りと不安からつい声を荒げてしまった。その感情のせいで力が暴発したからなのか、近くの街頭の照明がパリン! と割れた。幸いなことに街頭の近くに人は居なかったけど、もしも人が居たら……と思うと、余計に不安になってしまう。
「……」
「兎に角、早く帰るぞ」
すごく怖くなって、私は思わず走り始めた。このままだと本当に誰かに危害を加えてしまいそうだから。
走る。全速力で、自分の中の恐怖感から逃げるように、足がもつれそうになっても、転びそうになっても、喉が熱く痛くなっても、それでも走り続ける。
目の端を通り過ぎていく家々の灯り。井戸端会議をしている買い物帰りのおばちゃんたちが、話を止めて私の方を見てくる。それは私が走っているから? それとも、もしかして私の身体が光っているというの?
やめて、私を見ないで。
出来る限り何も見ないで、考えないで、走ることだけに専念する。
息を切らせて、なんとか家に帰ってくるとお母さんが奥から出てきた。
「飛凛、あなた……」
「はぁ……はぁ……、お母さん、その……」
「いや、詳しい話は後だよ」
私が学校であった事を話そうとすると、お祖母ちゃんも奥から出て来て、私の言葉を遮った。お祖母ちゃんは普段着用の着物じゃなくて、私達が禍祓いをする時と同じ、巫女装束に似た白衣と緋袴を着ていた。
「飛凛、手を洗って綺麗にしてからすぐに私の部屋まで来ておくれ」
「うん、わかった……」
時間があまりないから手洗いうがいだけを済ませて、簡単に身を清めてからお祖母ちゃんの部屋に入る。
「お祖母ちゃん、入るよ」
中に入ると、部屋の中に四本の細い棒が立てられていた。棒と棒の間には注連縄が走っていて、その注連縄には紙垂っていう白い紙で出来たギザギザの紙が付けられていた。それと、部屋の四隅には盛り塩が置かれていた。
「ねぇお祖母ちゃん」
「分かっているよ、力を抑えられないんじゃないのかい?」
私が目を見開いて驚いていると、お祖母ちゃんは「やっぱり」って言いたげな表情を浮かべて一つため息をつくと直ぐに真剣な顔に戻った。
「早くその中にお座り」
そう言われ、私は部屋の中央に作られた簡易の神域の中央に正座する。
「いいかい? 私が大祓詞を詠みあげている間、飛凛は力を安定させようと集中する事。いいね?」
「うん、わかった」
そう答えると、お祖母ちゃんは部屋に置いてある大麻を持って私の前に立ち、大祓詞を詠みあげ始めた。私はそれに合わせて目を閉じ、手を顔の前で合わせ、軽く顎を引いて頭を下げた。
「高天原に神留まり坐す 皇が親神漏岐神漏美の命以て八百万神等を 神集へに集い給ひ――――」
静かな部屋の中に、お祖母ちゃんの詞が粛々と流れていく。緩く軽やかなのに、その詞にはどこか重みのようなものがあって、丁度頭の真上から入って来て、お腹の少し下あたりに溜まっていく。そんな感覚がした。
体の中に詞が溜まっていくと、心の中の不安や焦りの様な黒い気持ちも消えて行って、ここ最近見ている、あの夢の中に居るみたいなのに全くと言っていいほど嫌な気持ちは無くて、あの時聞いている暖かい声は、もしかしたらお祖母ちゃんの声だったのかも知れない。と思った。
数分間にも渡る長い詞が詠みあげられた後、お祖母ちゃんは私の頭の近くで大麻を左、右、左と振るう。
「ふぅー。はい、これでとりあえず力は安定する筈だよ。自分の感覚的にはどうだい?」
試しに深呼吸して力を使ってみようとする。意識を落ち着けて、頭の中で波紋が一つもない鏡の様な水面を思い浮かべるようにして。身体に少しずつ力を張り巡らせていく。ゆっくりと、だけど着実に力が溜まっていく感覚と共に、身体が仄かにそして優しく光り始めた。
「どうやら大丈夫みたいだね」
何故かお祖母ちゃんは少し意外そうな顔をしたけれど、直ぐに柔和な顔になったお祖母ちゃんの声を聴いて私もほっと一安心し、力を解く。
「うん、特に暴発しそうもないし、私的にも凄く、なんなら前よりも落ち着いた感じがするよ」
「そうかい。なら良かった」
力が何とか安定したとは言っても、まだ今後どうなるかは分からない。それに、最近よく見るあの夢、いつも良く分からない世界に飲み込まれて、そして聞こえてくる誰かの声。何もかもが得体のしれない存在で、夢の中で見てきた何かがもたらす見えない恐怖が私の事を襲う。
そんな私の気配を感じ取ってなのか、お祖母ちゃんが私に質問を投げかけてきた。
「しかし、最近何かあったりしたのかい?」
「んと……最近よく変な夢を見るんだよね」
「変な夢?」
お祖母ちゃんの顔が少し険しくなった気がした。
「うん。しかも、朝見るとかじゃ無くてお昼前後によく見るんだけど、誰かが私に何か語り掛けているの。いつも誰が何を言っているのかはっきりとは分からないんだけど」
ふん……。吐息交じりに声を漏らし、腕を組みながら右手で口元を触りながらお祖母ちゃんは何か考え始めた。ブツブツと私に聞こえるか聞こえないかの微妙な声の大きさで何かをずっと呟いている。
「あの……何か重大な事だったりするの?」
「いや。大丈夫だよ、ただ暫くの間は力の使用を控えた方が良いね。ちょっとの間の休みだと思って、ゆっくりしておきな。その間の禍祓は私と日華の方でやっておくから」
そう言われて凄く申し訳ない気持ちになる。原因不明な上に解決もしていないし、しかもその穴埋めをして貰うなんて、ほんとに情けない。
「いいの?」
「下手に使って暴走するよりはマシだろう? ヤタ様と一緒に居れば何かあっても直ぐに問題が起こるってことも無いだろうし、ちょっとの間だけ普通の女の子を楽しんでおくことだね」
「……」
あのカラスがずっと居るってのが少し嫌だけど、それはいつもと変わり無いと言えば変わり無いし、それにこんな状況だから嫌だとも言えなかった。それに、普通の女の子を楽しんで、なんて言われても今まで普通の女の子と同じ様な生活を送ったことが無いから良く分からないってものある。物心つく頃にはもう禍の事が見えていたし、こんな家系で、こんな力を持っていることが当たり前だったから、昔こそ疑問に思っても今更使うな、なんて言われても少し難しそうだ。
「兎に角、私が良いと言うまでは出来る限り力を使わない事。何かあった時はヤタ様を待ったり、ヤタ様の指示に従う事。いいね?」
「う……。うん、分かった」
「まぁ兎に角部屋に戻って、今日はゆっくりしておきな」
お祖母ちゃんに念押しされたし、お言葉に甘えて今日はゆっくりする事にしよう。そう思って、私は襖を開けてお祖母ちゃんの部屋を後にした。
飛凛の去った部屋の隣で、園陽が着替えている。
「……ヤタ様?」
「なんじゃ」
部屋の梁に止まっていたヤタが飛び降りて来て、音もなく畳に着地した。
「ちょっと、不思議じゃないですか?」
「飛凛の力の事か」
着替え終えた園陽が奥の部屋から出て来て、先ほどまで飛凛を祓う為に使っていた道具を片付けていく。
「ええ。禍祓いをして穢れが溜まる事は珍しくありませんし、体調や禍の影響で力が不安定になる事も珍しい事ではありませんが……」
「それでも何かがおかしい。と?」
険しい表情で考え込んでいる園陽の事を至って冷静な目で見ているヤタ。まるでそれは、一生懸命に頑張る子供と、それを見守る親の様にも見える。
「最初、あの子の力が不安定になったとき、単純に禍祓いの影響だと思ったんです。私達だって力が不安定になる事もありますから。でも、さっき穢れを落としているときに、違う何かを感じたんです。私達の力に近いけれど、少し違う何かの力を。それに、あの子が見たという夢の話。だから……」
「……うむ、お主の考えている事は正しい筈じゃ」
園陽の不安を確かにするかのようにヤタが答えた。それを聞いて園陽は一瞬より不安そうな顔を浮かべたものの、その後すぐに腹を括ったかのような、だが少し悲しそうな顔に変わった。
「じゃあ、もしかして」
「じゃろうな。どうなるかは分からんが、そう遠くないのかも知れん」
「あまり、考えたくないものですね」
「じゃが、こればかりは儂でもどうする事も出来ん。それに、そうなるからこそ、儂らが支えねばならんよ」
1人と一匹の決意とも、迷いとも、怒りとも悲しみとも、何とも言い表し憎い複雑な感情がその部屋の中に満ちていた。
自分の部屋のベッドにバフンと倒れこむ。
「はぁーー」
顔を枕に埋めて深いため息をつく。
「どうすればいいんだろうね」
何となく、1人で呟いてみる。
結局、力はまだ解決していないっぽいし、お祖母ちゃんに聞かれたから「変な夢を見てる」って、それとなく原因っぽい話題を振ってみたのに特に何も聞かれなかったし、それどころか逆にお祖母ちゃんが悩み始めたから、寧ろ不安を増長させただけの気もする。
それに、ゆっくりしていいよとは言われても、やっぱり申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「はぁ……」
「思い悩んでいても何も解決せんぞ、小娘」
落ち込んでいるときに一番聞きたくない奴の声が耳に入ってしまった。
「何? 本当にプライバシーって言葉知らないの?」
枕から顔を上げると、部屋の微妙に開いていた扉の隙間でヤタが羽根を羽ばたかせていて、そのまま部屋に入ってくると、私の勉強机の上にとまった。
「プライバシー。本人だけの、知られたくは無い事。私生活。そのような意味ではなかったか?」
「分かってるんなら、それ侵害しないでくれる?」
「それは出来ぬな。特に、今はの」
このカラス……よくもいけしゃあしゃあと言ってくれること。でも、このカラスに助けられたことは確かだし、今だって助けられて守られていることは確かだ。
「お主はまだまだ年端もいかぬ小娘じゃ。あまり難しい事を考えずとも良い」
「……そうやってこういう時に態々子供扱いするの止めてくれない? 今だって自分が情けないんだから」
ヤタはそんな私の言葉を聞いて、目を細めて何処を見るでもなくボンヤリと何処かを眺めながら私に言って来た。
「お主の事を守ってくれる誰かが居るのはの、お主がまだ未熟な証拠なのじゃ。それはお主だけでなく、日華も園陽も同じなのじゃ」
「なによそれ」
「人はの、いつだって誰かに守られておる。そして誰かを守っておる。お主が日華や園陽に守られておるように、お主もこの街に住まう民の事を守って居る。皆、己の事が全て己で出来るようなら他の者に守られたりはせんよ。人は皆未熟じゃ。故に、お主が未熟な子供であることは当然の事なのじゃ。己の事を大人じゃと言い張る者の方がよほど子供じゃよ」
「……」
「それにの、お主が力を使えぬようになっていることも、別段珍しい話ではないんじゃよ」
「ほんと?」
「うむ。日華も、園陽も似たような事を経験しておるし、その度に誰かに自分の代わりをして貰って居った。じゃから、お主が不出来なわけでは無いのじゃ。落ち込まずともよい」
「そっか……」
たまにはこのカラスも良い事言うじゃない。ちょっと見直したかも。
「まぁ、儂から言わせれば人なぞ皆小童も同然よ」
そう言ってヤタは厭味ったらしくカッカッカッと笑っている。前言撤回、やっぱこのカラス最悪だわ。さっきの私の想いを返して欲しいぐらいだわ。ほんと、最後の一言で全部ぶち壊しね。
「兎に角、今は大人しくしておくことじゃ。時には耐え忍ぶこととて重要じゃからの」
言いたい事が言えて満足したのか、「じゃあの」と言ってヤタは開けっ放しだった戸の隙間を抜けてどこかへ飛んで行った。ったく、あのジジイカラスめ……。
「でも、悩んでいても仕方がない。か」
確かにヤタの言う事にも頷けた。私は突っ走って危なっかしい事ばかりやってしまっているのに、それなのに未熟である事を認めたくなくて、でこんな事態になって自分の未熟さが表れた時に落ち込んでいる。未熟な事は嫌だけれど、今本当に嫌なのは未熟な事を認めきれないで落ち込んでしまっている自分が嫌なんだ。
「うん、うん! 落ち込んでいても仕方ない! くよくよしてないで、今の私に出来る事をして行こ!」
悪い気分は余計に私の事を悪い方へ導いてしまうから。考えも、私達のこの力も、良い方へ向かうには前向きな気分でないとね。
まだお母さんとお祖母ちゃんに迷惑をかけてしまっていることに申し訳なさはあったけれど、今日はもう早く寝ることにした。