無の世界
辺り一帯を闇が支配する不気味な空間を、一人の男が移動していた。その男はハンニバル。
イヴァムの側近の一人であり、忠義心が強く義理堅い男だ。今宵ハンニバルは、自身の正体を知り嗅ぎつけて来た聖典教会員の人間と戦闘し、喰らい尽くしている最中であった。
強風に煽られて黒のロングコートが音を立ててなびき、満たされていないハンニバルの心の渇きを代弁する。
「ば、化け物………!」
闇の奥から一人の男の声が反響する。先程の戦闘で喰らい損ねた最後の一人であった。男は地面に尻餅をつき、手を震わせながら剣をハンニバルへと向けている。
「笑止。その程度では我の渇きは満たされぬ………弱者は大地へ還るが必定。」
ハンニバルは男の抵抗を一蹴すると能力を解放した。
「や、やめろっ………!」
「堕ちよ。」
次の瞬間、断末魔の叫び声と共に男の身体闇へと溶けた。僅か五秒ほどの間に起こった衝撃だった。男の姿が跡形もなく消えた後、ハンニバルはばつが悪そうな表情を作っては、コートを翻してその場を立ち去る。
するとどこからともなく、淑やかな拍手が聞こえ始める。
ハンニバルにはそれが誰の拍手であるのか分かっていた。瞳を閉じてその人物へ向けてコンタクトを取る。
「何用か、盟主。」
ハンニバルの呼びかけに応じるように、暗闇からイヴァムが姿を現す。
「狩りの最中に失礼するよ。どうしても君に頼みたい事があってね。」
「狩りなどと………。して、要件は?」
「西の烙印の件だ。人材は用意していたんだけど、逃げられてしまってね。」
「我に代役を果たせと?」
「不満かな?」
イヴァムのやや挑発を帯びた態度に苛立ちを覚えることもなく、ハンニバルは堅い物腰を崩さない。
「不満か、一理ある。大願成就の瞬間をこの眼で見届けられぬ事だ。………だが感謝する盟主よ。ようやく渇き飢えた我が器を満たすことが叶う………!」
笑いを堪えるかのように顔を手で覆い、低く喉を鳴らす。狂気に染まりきった闇の渦中で歓喜に溺れる声色が、より一層周囲の闇を色濃く染め上げた――――――――
「怪しい、ですか?」
早朝の訓練を終えてウル、セリス、ジンの三人と食事を摂っていたラドは、ジンの唐突な発言に思わず聞き返した。
「ああ、これまでに戦ってきたイヴァムの刺客は北、南、そして東の計三箇所だ。」
発言の意図を理解したのか、ウルがその問いに反応する。
「つまり、次は西区で戦う可能性が高いってこと?」
「そう考えるのが自然だろうね。」
何となく分かってはいたが、ラドはあえてジンに理由を尋ねる。
「根拠は?」
「イヴァムの企みの意図は読めないけど、西区が済めば東西南北の全てで戦闘したことになる。何かこう………しっくりこないかな?」
「だいたいは理解出来ます。完璧主義者のイヴァムなら、余程の理由がない限り一つだけ残すなんて事はありえませんからね。」
「ええと、それって………。」
相変わらずセリスは会話の流れについていけていない様子であった。頭を抱えつつも、ジンがセリスにかいつまんで流れを説明する。
「おお、ようするに西区を張っておけばいいんだね!」
「うーん………ちょっと違うけど、概ね間違ってはいないかな。どうだろうかラド、ウル。今後は西区を中心に行動するというのは?」
「僕は特に異論ありません。」
「私も。」
「ありがとう。それじゃあ僕とセリスは大司祭様に報告してから、早速西区の様子を探って来るよ。二人は仕事を頑張って。」
「お願いします。ジンさん、セリスさんもお気をつけて。」
「えへへ、ありがと。それじゃあね二人とも!」
セリスは笑顔でラドとウルに手を振った後、先行していたジンに小走りで追いついては、肩を並べて食堂から姿を消した。
「相変わらず仲良いね、セリスとジンは。」
二人の姿をじっと見つめていたウルがぽつりと漏らす。
「そうだね、お互いがお互いの良さを引き出し合ってる気がするよ。」
「少し………羨ましいかな。」
「羨ましい?」
「ううん、何でもない。私先に行くね、ラド。」
ウルはラドから顔を背けると、トレーを持って早々と立ち去った。やけに忙しない一連の行動に、ラドは首を傾げつつも食事を済ませて食堂を後にした。
仕事場である配給部門へ入室すると、ノークが熱心に新聞を読み耽っていた。何やら興味を引く話題が掲載されているらしく、食い入るように見つけている。
「おはようございます。気になる記事でもありましたか?」
「おお、ラドおはようさん。いやなに、一昨日西区で発生したチョコレート事件が載ってたもんだからな。」
チョコレートと随分柔らかい表現を用いてはいるが、ノークの真剣な眼差しが事件の重大さを物語っていた。ラドはその内容を予測しつつノークに問う。
「チョコレート、ですか。」
「おう。殺害された聖典教会の人間が、溶けたチョコレートみたいにドロドロの状態で発見されたんだと。おそらく能力者の仕業なんじゃないかって話だが、いくら能力でも人間を溶かすなんて可能なのか?」
確かに能力といえど、かつてそれほどまでに凶悪なものは聞いた事がなかったが、ラドは一つだけ心当たりがあった。能力の力を極限まで増幅させる禁忌の魔書物………ウンブラの書ならそれが可能なのではないかと。
「分かりませんが、存在していたとしても不思議ではありませんね。世間の能力対する定義自体が曖昧ですし。」
「そーだな、まあとにもかくにもお前も気を付けろよ。ただでさえ危ない事に首を突っ込んでんだから。」
「ご心配ありがとうございます。さあ、今日も一日頑張りましょう!」
ノークなりの激励を受けたラドは、気合十分に労務に臨んだ。そして効率良く仕事を片付け平常通りに終わらせた後、自身も西区へと赴いた。
夕方の時間の交通量は一日を通して一番のはずなのだが、どういう訳か今日は人が疎らで、心なしか過ぎ行く人の表情も暗い。
例のチョコレート事件が、この西区の住民に少なからず影響を及ぼしているものだと推測したラドは、早期解決に向けて行動を開始する。完全に日が暮れるまでの間、事故現場の近隣住民に話を伺ったり、周辺の地形を隈なく調べてみたりしたが、結局これといった手掛かりは得られなかった。
何の収穫もないまま途方に暮れていると、背後からラドの良く知る人物に声をかけられた。
「ラド、もう仕事は済んだのかい?」
「おおラド君お疲れ様ー。」
「ジンさん、セリスさん。まだ調べておられたんですね。」
「休憩を挟みながらだけどね。そっちは何か得られたかい?」
ラドが首を横に振ると、ジンは口元に手を当てていつもの考える仕草を取り、靴の踵を軽く上下させた。
「そうか………不自然だな。これだけ目立つ街中で事を起こしていると言うのに、目撃情報が全くない。」
「一体どうしてなんだろうね?これも能力の力なのかな?」
「ウンブラの書で増幅された………ね。悔しいけど、ここまで完璧に情報を遮断されてるんじゃ、これ以上調べようがない。大人しく向こうから現れてくれるのを待つしかなさそうだ。」
今日一日西区を捜し回って悟ったのだろう、ジンは諦めたように肩をすくめた。セリスも、もう疲れたと言わんばかりに大きく伸びをしている。
ジンですらお手上げの状態。今回の敵は相当な力量を保持していることを予感させた。
「引き上げようかー。」
「そうですね。ジンさん―――――」
「静かに!」
ジンの突然の一喝に、ラドとセリスは肩を跳ね上げる。その後、ジンは腰に提げていた二対の短剣を取り出して戦闘態勢を整える。全身から伝わる緊迫感が、敵が近い事を報せてくれた。セリスも空間から水彩剣を取り出して構え、忍び足で周囲を索敵する。
通行人が不審がってこちらを見ているかと思いきや、気が付けば辺り一面が空を含めて真っ黒い暗黒空間に飲み込まれていた。
「これは一体………!?」
「どうやらこれが完全犯罪の正体のようだね。目視出来る範囲は全て真っ暗闇。この辺一帯は敵の能力の支配下と言う訳か………!」
「つ、つまり!?」
「僕達のいるここは、セントラルホームであって違う場所だって事!!」
ちゃんとした説明をしている余裕もないぐらい、ジンも焦っていた。今までに感じたことのない苛烈な瘴気が三人に襲い掛かり、精神をすり減らしてくる。無音と暗闇に支配されたもう一つのセントラルホームは、まるで死後の世界を見せているようだった。
「我が能力による余興は楽しんでもらえたか?」
奥から一人の長身の男性が、こちらに向かってゆっくりと歩み寄って来る。墨色の短髪、全身真っ黒のロングコートに身をやつし、少しこけた頬が厳格そうな顔つきをより印象深いものにしている。
「貴方がこの空間を?」
「いかにも。名乗ろう、我はハンニバル。能力は終焉。盟主の命により汝らの遊戯相手を務めさせてもらう。」
「随分と畏まった話し方をする男だ。………感情は素直みたいけどね。」
ハンニバルから漏れる獰猛かつ狂気に満ちた感情に気圧されながらも、ジンは精一杯の強がりを言い放って反撃するが、ハンニバルは特に意に介した様子を見せない。
「凄いピリピリする………!」
「気概を汲んでもらえたか?重畳。我が渇きを満たすよう、丁々発止の死合を望む。」
「………やるしかないですね。」
今までの敵とは違う何かを持つハンニバルに恐怖心を覚えつつも、徹底して応戦する構えを見せる。ジンとセリスも、ラドの闘志に感化されたのか、恐れを断ち切って悠然と獲物を構え直した。
「行きます!!」
夜よりも暗い闇の中で、過去最大級の死闘の火蓋が切って落とされた。




