決別
ウルが目を覚ますと、いつの間にか馬車の外に投げ出されていた。空には雲がかかり、霧雨にも似た雨を絶えず降らし続けている。
上半身だけを起こして周囲を確認するも、人の気配がまるで感じられない。イヴァムの放った閃光の後、何があったというのだろうか。その際、ウルは自身のある変化に気付く。身体を動かした時に揺れた髪の毛が、漆黒色ではなく、白銀へと変貌していた。驚いて咄嗟にその数本を手で触れると、微かに淡い光を放っていた。
「おめでとう、どうやら君は選ばれし者のようだ。」
ゆっくりとした拍手を行いながら、悪魔の男イヴァムが、どこからともなく姿を現す。
「選ばれし者?」
「そうさ。つい今しがた知ったばかりだけど、この書物は能力者となるに相応しい素質を秘めている人間の強い意志に呼応し、力を分け与える。つまり君は書の力によって能力者となったんだ。」
「能力者………。」
ここでウルは、髪以外の自身の変化に気付いた。怒りと憎しみをぶつけたい相手が目の前にいるというのに、どうしてもその感情が心の底から湧き上がらない。また、先程まで流し続けていたはずの涙もぴたりと止んでおり、特別悲しいといった感情もどこかへと消え失せていた。
「どうして………。」
「書の力で半強制的に能力者となったんだ。様々な綻びが生じるのも無理はない。」
イヴァムはウンブラの書を読みながら不思議な呪文を唱えると、自身の傍の空間を切り裂いて亀裂を発生させた。
「ウンブラの書にその才を見出された事を感謝すると良い。僕は君の覚醒が運命だと信じる事にしたよ。君はこれから先、僕にどんな未来を魅せてくれるんだろうね。実に楽しみだ。」
イヴァムは謎めいた言葉を残して、亀裂の中へと姿を消した。ウルはその場所までよろめきながらも近寄るが、既に亀裂は完全に消失しており、手で何度空を裂こうとも再び亀裂が発生することは叶わなかった。
無心に近い自身の感情に流されるまま、呆然と立ち尽くす。
「お父さん。」
不意にマークバーンの名前を口にする。姿が見えない父親の安否を確認するべく、ウルは右往左往と動き回り、瓦礫と化した馬車の下敷きになっていたマークバーンを発見した。破片で指が切れ出血しようとも、構うことなく瓦礫を退かして救出し、その憔悴した身体を抱き起こす。
「お父さん、お父さん。」
呼びかけるも返事はない。それもそのはず、マークバーンは既に息を引き取っていた。安らかな死に顔を浮かべている。ウルがその事に気付いたのは、約十分後のことであった。
「おかしいな。悲しいはずなのに、涙が出ないや………。」
ウルは天を仰ぐ。降り続ける霧雨が頬を伝い、雫となって流れ落ちる。それはまるで、泣くことの出来なくなってしまったウルの哀の心を代弁しているようだった。
心に穴が開いたような感覚に放心し、しばらくの間父の亡骸を膝に置きながら雨に打たれる。そして、力尽きたかのように水溜りへと倒れ込み、意識を失った――――――――
次にウルが目を覚ました時は、全くの異なる場所であった。不可思議な床に、壁に掛けてある意味ありげな紙。木で造られた風変わりな修練場のような部屋。そんな空間の隅で、やけに重量感のあるブランケットをかけられている。よく見ると、服は真新しい寝間着らしきものに着替えさせられていた。
一体どういうことなのかを理解出来ずにいると、奥にあるこれもまた不可思議な扉から、一人の老人が厳かに部屋へと入って来る。
長い髪を束ねず後ろの方に流して額を露出しており、滝のように流れる顎髭が特徴的な老人だった。ウルが視線を向けると、老人は後ろ手を組みながらゆっくりと歩み寄って来る。
「おお、目が覚めたかね。身体の具合はどうかな?」
「大丈夫………です。あの、おじいさんは?」
「儂の名前はゲン。この古道場を営んでおる者じゃ。お前さんは?」
「ウルリリカ。ウルリリカ・エーテルハートです。」
「そうか。ウルや、何か食べたくはないか?」
ゲンと名乗った老人に敵意は感じられなかった。状況の整理も出来ていないので、ひとまずは素直に従うことにする。
「少しだけ。」
「ちょっと待ってなさい。」
そう短く告げてゲンは部屋を後にするが、数分後に食事を木製のトレーに乗せて戻って来た。
「はい、しっかり食べなさい。」
「ありがとう………ございます。」
上半身を起こして傍に置かれたトレーの中を覗くと、見たことのない食事だった。大量の白い小豆のような物が皿一杯に盛ってある。
「ん?どうしたんかの?」
「これは?」
「初めてじゃったか。これは米を使用したお粥と言う食べ物だよ。疲弊した身体には、これが一番なんじゃ。」
「お粥………。」
まじまじと表面を見つめた後、スプーンを手に取ってその米を掬い上げると、湯気と一緒に漂ってくる香りが胃袋を刺激する。息を吹かし少し冷ましてから口の中に放り込むと、薄めの優しい味わいが疲れていた心にまで染み渡った。
「………美味しい。」
思わずこぼしたウルの言葉に、ゲンは嬉しそうににっこりと笑顔を見せる。
「それは良かった。しっかり食べなさい。」
ウルは無言で頷いた後、一気に食べ尽くす。喉につっかえている色々なモノを流す為に。綺麗に平らげてお腹が膨れ、考える余裕の出来たウルはゲンに尋ねる。
「ご馳走様でした。………あの、ゲンおじいさん。私はどうしてここに?」
その質問にゲンは急に険しい表情を作り、ウルの心身を案じてか、話すべきかと少し考えている様子であったが、やがて意を決して事の詳細を語る。
昨日の昼頃、ゲンがセントラルホームへ買出しに行く為に、最寄の街道を利用した時だった。やけに血生臭い悪臭が鼻に付き、何事かと思いその臭いのする方へと向かった。
到着すると辺り一面は血の海になっており、複数の死体が無造作に打ち捨てられていた。その光景はまさに地獄絵図そのものであり、耐性のない一般市民であれば腰を抜かしてうろたえていたであろう。可能性はゼロに等しかったが、ゲンは生存者がいないかどうかを一人一人丁寧に調べた。
亡くなっていた者は手厚く葬り、自らが作成した小さな墓石に花を添えて祈りを捧げる。そんな作業を繰り返すこと一時間。もう諦めかけていたが、奇跡的にも生存者を発見した。美しい白銀の髪を持つ不思議な雰囲気の少女………それがウルであった。
ゲンはひとまず傷だらけの少女を連れて帰り、妻に頼んで着替えさせている間に医者を呼んだ。そして治療を施してもらい、居間で寝かせ今に至る。
ゲンは子供にも理解出来るよう、なるべく簡単な言葉でそれらを伝えると、ウルの小さな頭を優しく撫でた。
「辛かったろうな………もう大丈夫じゃよ。」
「ゲンおじいさん。私ね、泣きたいんです。泣きたいのに、能力者になった代わりに泣けなくなってしまったんです。」
辛い話を聞かされても、撫でられても表情一つ変えないウルの姿を見て既に理解しているのか、ゲンは分かっているよと言わんばかりに頷きながら、頭を撫で続けた。
そんなやり取りをした後、ゲンが信用に足る人間だと判断したウルは事情を話した。時折相槌を打ちながら真摯に耳を傾けて聞いてくれ、話終えた際には微かに瞳を潤ませていた。
「なるほど、ウンブラの書か。確かに儂も名前だけは聞いたことがある。使い方次第で救世主にも破壊者にもなれるとされる禁忌の魔書物………。」
「あの時私がもっと頑張ってれば、あの人に取られなかったはずなのに。」
「自分を責めるでない、ウルや。これは誰の所為でもない。遅かれ早かれ、いずれは誰かの手に渡っていたであろう。」
庇ってくれるゲンの気持ちは嬉しく思ったが、責任を強く感じていたウルは、ある一つの決心をした。
「ゲンおじいさん、ありがとう。でもこうなった以上、私が何とかして書物を取り返さないといけないと思う。そうしないと、いつか皆が不幸になってしまう。」
僅か十歳の少女が選んだ茨の道。ゲンはウルの志に甚く感服した。父を失い、愛する家族と離れ離れになっても尚、挫折することなく現実と向き合い突き進もうとするその心に。亡くなった父親に、この勇姿を見せてあげたいと思うぐらい立派だと。
「強いの、ウルは。」
ウルは静かに首を横に振る。決断出来たのはマークバーンやラド、家族がいたからこそだと思っているからだ。しかし、ウルは一つだけ心残りがあった。それはラドとの約束である。
『なるべく早く戻って来て』と出立前に言われたが、その約束はもう果たせそうになかった。
「あい分かった。ウルが覚悟を決めたのであれば、儂も可能な限りその手助けをしよう。」
「ありがとう。しばらくここでお世話になってもいいですか?」
ゲンは口元を緩ませてゆっくりと頷き、手を差し伸べてくる。ウルはその手を握り返して、表情の代わりに手で気持ちを伝えた。
「今日はゆっくりと身体を休めなさい。明日からは能力を扱う練習をしよう。」
「ゲンおじいさん、能力について詳しいんですか?」
「ははは、こう見えて儂も能力者なんじゃよ。長く生きている分、他の誰よりも能力の事は熟知しておるよ。」
最初に顔を合わせた際、古道場を営んでいると言っていたのを思い出したウルは、手の平に拳を乗せて納得したとポーズを取る。
「どんな能力なんですか?」
「ふふふ、それは明日のお楽しみだ。」
「………分かりました。それじゃあ今日はお休みなさい。」
「はい、お休み。」
ゲンがトレーを持って静かに不可思議な扉の向こうへ消えると、部屋にはたちまち静寂が訪れる。窓から見える木々の揺れが妙に心をざわつかせた。少しだけ不安を覚えたウルは、もう会う事のない大切な人のことを考えながら深い眠りについた。




