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第二章 ひしめく群像、ブロークントイ



 第二章 ひしめく群像、ブロークントイ



  (12月17日 午後4時51分~午後5時39分 ネットカフェ店内)


 端的に言えば、文谷良助は『ただの人間』である。

 小学校、中学校、高校を卒業し、特に何の目的意識もなく大学に進んで就職活動を行い、一握りの優秀な者達とは異なり、大多数の学生と同じく、まともな待遇も給料も福利厚生もない中小企業に内定。そして一年足らずで精神を病み、自殺未遂。

 社会の歯車になるしかない、いくらでも替えの利く駒。それが良助という人間を構成する全てであり、それ以上でもそれ以下でもない――はずだった。

 本来であれば、今朝の時点で良助の肉体は電車(鉄の塊)によって挽き肉となっていた。通勤、通学のために地下鉄を利用している人間達に『迷惑』をかけた事で、SNSで晒し者となり、顔も名前も知らない大勢に罵倒され、やがてその存在は忘れ去られていく。

 もう一度言う。そのはずだったのだ。

 蓋を開けてみれば、そんな未来は一つたりとも訪れず、こうして生きている。ただ、いつもの日常を過ごしている……という訳ではない。平日にも関わらず、会社には行っていない。有給休暇を取っていた訳でもない(そもそも良助の職場に、そのような制度は事実上ない)。

 スーツ姿のくたびれた男が、平日のネットカフェにいる。

 それも、隣にかなり美人な少女を連れて……。

「これ、文谷さんも食べる? おいしいよ」

 良助の傍らにいた黒いセーラー服姿の少女が、箸でつまんだ肉の切れ端を差し出してくる。彼女の手には豚バラ炙り焼き丼のどんぶりが乗っかっており、華奢な体躯のすぐ近くには、同じデザインの器が五つほど重なっていた。

「食べるも何も、全部僕の金で払うものだろう……? というか、どれだけ食べる気なんだ!? 成長期の運動部男子でも、そんな量は食べないぞ!?」

「文谷さん、うるさい。ここ、個室だけど周りに丸聞こえよん? 援交疑われて警察のお世話になりたくなかったら少し静かにしたら?」

「ぐッ……」

 そう脅されれば閉口するしかない。

 歯ぎしりしつつ、良助はテーブルの上のグラスから薄い珈琲を流し込んだ。

 良助と少女のいる一・五畳ほどの個室の内装は、二人掛けのソファと、テーブルの上に置かれた二台のPCのみ。

 密室で、互いの体が密着しそうな距離で女子と二人きりなどというシチュエーションは、自身の人生を振り返ってみてもただの一度もなく、当時の自分が聞いたら喜びで卒倒しそうなものだが……残念ながら、今の良助にそんな事を喜ぶ余裕はない。

 個室に入るなり、少女が鞄から出したスタンガンを向けて、「何か変な気起こしたら、これで意識ブチ剥ぐから」と言ってきた事も理由の一つだが、最も良助の気分を沈ませているのは……――

「…………」

「……………………」

「……」

「…………」

「……あ、文谷さん、そこのグラス取って」

「あ、ああ……」

「ありがと」

「………………」

「……」

「…………………………」

「…………」

「……………………」

「………………………………………………」

「……」

 そう、とにかく会話がないのである。全くないという訳でもないが、声をかけてくるのは完全に少女の気分次第。一連のやり取りが終われば、また沈黙が続く。少女の横の空のどんぶりだけが積み重なっていく。

 ――この子は一体……さっきから何をしているんだ……?

 テーブルの左側、つまり少女側のスペースには彼女の私物と思わしきノートPCがある。機器のプラグからは種々様々なケーブルが伸びていて、その先のネットカフェのPCと繋がっている。カフェのPCとノートPC、それから同じく机に置かれたスマートフォンの画面を人差し指で時々撫でながら、彼女は時折何かをブツブツと呟いている。

 容姿としては、スクールカースト上位にいそうなほどに華やか。現代っ子らしく、スマートフォンの機能すら、まともに使いこなせなさそうな印象さえある。しかし、そんな第一印象を消し去るには十分すぎるほどに、三種類の電子機器の画面には、良助には全く理解できないレベルのものが多数映っていた。

 画面一つあたりには、一〇個ほどのウィンドウが開かれており、リアルタイムで消えたり現れたり。そこに映されているものも文字の羅列であったり、風景の写真や動画であったり。どんな作業がそこで行われているのか、良助には想像もつかない。

「……やっぱり、いないか。はあ……」と少女が落胆するような吐息を洩らした。「岩佐(いわさ)の野郎、案の定消されたか……?」

「なあ、君」

「ん? 何、どうしたの?」

「どうしたもこうしたもない。いい加減教えてくれよ。君が僕をここに連れてきた理由と……今、君が何をしているのか。もう、かれこれ六時間はこの調子じゃないか」

「え、嘘? もう、そんなに経ってた?」本当に驚いたと思えるような表情を浮かべると、少女は画面の内一つを覗き込む。「ああ、本当だ。もうこんな時間か。……うん、そろそろ潮時かね」

 少女はおもむろに鞄から一冊の雑誌を取り出すと、その表紙を良助に見せる。

「某掲示板レベルの胡散臭いオカルト情報を扱ってる雑誌、『ノイギーア』。当然、知らないわよね?」

「……いや、知ってるよ。熱心な読者って訳じゃないけど、二、三か月に一回買うくらいには」

「……マジで?」少女が猜疑心に満ち溢れた瞳を向けてくる。「文谷さん、どういう趣味してんのよ。うちの雑誌、マイナーもマイナーなんだけど……」

「人の趣味くらい好きにさせてくれよ……というか、うちの……?」

「そ。こう見えて雑誌記者やってんのよ。まあ、ただのアルバイトだけど」

「……バイトとは言え、高校生が雑誌記者なんてやってる事は置いておくとして、自分の雑誌を読んでる人間に対して『どういう趣味』はないだろう……」

「いやいや、事実だし。この上なく低俗な、ゴシップネタだらけの週刊誌以下の雑誌だもん。うちは」

 良助は疲れたように溜息を吐いた。

「……で、僕の質問と、君が記者やってる雑誌と……一体何の関係があるんだ?」

「そうね、先に言っとくと、文谷さんと雑誌には何の関係もないわ。今のところはね」

 少女は雑誌を開くと、見開きになったページを見せつけてくる。

「今話題の自然保護団体、『自然回帰』。この連中に関しての今週の記事、読んでたりする?」

「読んだよ。たまに買う内の一回が、ちょうど今週号だったからね」

 何が書かれていたか。

 曖昧な記憶から、記事の内容を引っ張り出す。

 ――確か……『自然回帰』に対する陰謀論……みたいな事が書かれてたはず……。

 いわく、

 ――『「自然回帰」は単なる頭のおかしい集団ではない』。

 ――『その正体は現代日本に現れた本物のテロリストである』。

 ――『連中はその理念とは正反対に、最新のシステムと武装を持っている』。

 ――『また、人体実験まがいの事まで行っているのではないかとの声もある』。

 ――『その実験によって生み出されたミュータントは、「自然回帰」の忠実なしもべとなり、組織に盾突く者を秘密裏に排除していると考えられる』。

 ――『先日の繁華街で起きた大規模爆発も、テロリストとしての行動を本格的に開始した「自然回帰」によるものではないかと考えている者も多い』。

 要点だけをかいつまみながら、雑誌の内容を思い出す。

 そう、こんな事が書かれていたはずだ。

 明確な証拠もなければ、名前のある『関係者』とやらへの取材も何もしていない。

 ほぼ一〇〇パーセント憶測による信憑性皆無の記事。

 少女が尋ねる。「文谷さん、これ、どこまで信じてる?」

「『自然回帰』が頭のおかしい連中って事以外は全く」

「そうね、私も同じ意見だわ」

 少女は何の感慨もなく吐き捨てると、雑誌を畳む。

「その記事を書いた記者、岩佐樹はね、私の上司にあたる奴なの」

「……!」

「その記事を書いてから、『怪しい連中につけられている気がする』って、ずっと言ってた。自分の金で護衛まで雇って、それでも取材を続けてたんだけど……ほんの数日前に連絡すら取れなくなった」

「まさか……その岩佐って人が『自然回帰』に消されたと……?」

「馬鹿馬鹿しいわよね? でも、ここまでの状況証拠からそうとしか考えられない。岩佐自身はただの人間のクズだから、あいつの生死に関しては割とどうでも良いの。ただ、今回の件……雑誌記者として見逃す訳にはいかないでしょ?」

「首を突っ込むつもりなのか……!? 今さっき、僕と同じ意見だって言ってたじゃないか……! 『自然回帰』の陰謀論なんか信じていないって……」

「もちろん信じてない。だからこそ、取材、調査するのよ。この足で探して、この目で見る……そうやって初めて『分からない事』に対する答えを得られる。だから、まずは行動に移す。それだけよ」

「……君も記事の中の『自然回帰』と同じくらい、どうかしてるよ……」

「で、ここからが本題」

 少女は良助の皮肉など無視して、話題を変える。

「この件について調査するにしても、人手が足りなかったの。岩佐の奴はいなくなっちゃったし、編集部の他の連中は完全に怖気づいてる。だから……」

 話を聞きながら、良助の背名を冷たい汗が伝った。

「ちょっと待ってくれ……! まさか……!?」

「そう、そのまさか」少女が底意地の悪い笑みを浮かべる。「文谷さん、私の調査に付き合いなさい。多少、命懸けになるかもしれないけど問題ないわよね。だって文谷さん、私が助けてなきゃ一度死んでるんだもの。今さら命懸けるくらい何て事ないでしょ?」



  ――Lost Girl Online_system――

  ――ラージヒルさんがログインしました。――


ラージヒル〈お、アヤカさんにベルさん、あとイポティスさんも。どうもっす〉

アヤカ〈こんばんはー〉

ベル〈こんばんは〉

ラージヒル〈イポティスさんからは返事なし……離席中っすか?〉

アヤカ〈どうもそうみたいなんだけど……一向に戻ってこないのよね〉

アヤカ〈私がインした時にはもういたんだけど、そこから話しかけても全然反応なくて〉

ベル〈ログイン、だけ、して、あとは、ずっと、放置、してる、みたい〉

ラージヒル〈まあ、そういう事もあるか……〉

ラージヒル〈どうします? このまま三人でミッション行きます?〉

アヤカ〈来たばっかりのところ悪いんだけど、私このあと用事あってね〉

アヤカ〈もう落ちようと思ってたところ〉

ラージヒル〈あら〉

ベル〈ごめん、ね。ラージヒルさん。ボクも、このあと、お仕事、あるから……〉

ラージヒル〈あらら〉

アヤカ〈ま、そんな訳で。また深夜にでもインするからさ〉

アヤカ〈その時は多少人数も揃ってるだろうし〉

ベル〈うん、その時、また遊ぼ〉

ラージヒル〈了解っす。そんじゃあ、俺は一人でレベリングでしときますかね……〉

アヤカ〈頑張ってねー。それじゃお疲れー〉

ベル〈お疲れ様〉


  ――Lost Girl Online_system――

  ――アヤカさんがログアウトしました。――

  ――ベルさんがログアウトしました。――



  (12月17日 午後5時20分~午後5時23分 国道)


「結局、イポティスさん戻ってこなかったな……」

 サイドカーにすっぽりと収まっているセーラー服の少女、白坂桔奈が落胆した様子でひとりごちる。ぴったりと揃えられた脚の上に乗っているのは、彼女が所有しているノート型ゲーミングPCである。降りしきる雨に濡れないよう、その機体には薄手で透明なビニールシートが被せられている。

 横目でその様子を見やりながら、霧崎鷹は呆れたように言った。「桔奈……こんなところでもやっとるんか、それ……。てか電波どっから取ってんねん?」

「別に……特別な事してないよ? スマホのテザリング機能使って、電波相乗りさせてしまえば良いだけだし」

 霧崎の顔色がみるみる内に悪くなる。

「おい梗弥。お前ら一か月の携帯料金なんぼ払っとるんや……?」

「企業秘密で」と麓洞梗弥は煙に巻いた。「でもまあ、桔奈のためなら安いものさ。僕としては一向に構わない」

「甘やかしてっと、あとで痛い目見んで。このバカップルが」

「ははは、それで結構結構。僕の全ては桔奈のためにある。霧崎、他人の君から見ても、『そう見える』のなら、願ったり叶ったりさ」

「もうええ……頭痛なってきた……」

「おや、それは大変だな。現場に着く前に頭痛薬でも買っていくかい?」

「お前らと離れたらすぐ治まるやろうから別に構わん。おら、速度上げろや」


  (12月17日 午後5時45分~午後5時56分 某所)


「情報が出てこないんです」と雀森は言った。

 いつものほほんとした調子を崩さない彼女が、ここまで狼狽しているのは久々だった。

 それだけで事態はただごとではないのだと四十沢は確信する。

「『自然回帰』のネットワークへのハッキングは、プロとしては粗末なものだったのだろう? にも関わらず、敵勢力の情報が出てこないという事は……」

「そもそも、情報が存在してないんです……! 構成員の名簿も、顔写真も、どんな組織、人物と取引があるのかも……! 組織で動いているのなら、必ずどこかしらにあるはずの情報が……ない……! こんな事って……!」

「落ち着け、雀森」と四十沢は彼女をたしなめる。「状況を整理しろ。現時点で判明している事だけで構わない。こちらに共有してくれ」

「……分かり、ました」

 雀森は自身のPCに映っている画像を、部屋の中にある大きめのモニターにも映す。

 それを見ながら、四十沢や絹花、遠藤、井筒屋に対して説明を始める。

「現時点で確実な事は、『自然回帰』のネットワークサーバーに不正アクセスして、拠点の一つを暴いた連中は、一個の組織だという事です」

 雀森は声に熱を込めて――

「一人一人の技術は大したレベルではありません。その腕の未熟さを『数』で補っている……という感じでした。逆探知に成功したのは、それが理由だからでしょう」

「情報の出てこない黒幕連中はともかく」と絹花が話題を変える。「少なくとも、雀森が辿った先にいた『素人』達については居場所も分かるんでしょ? そいつら捕まえて情報吐かせれば……」

「無理ですね」しかし雀森は首を横に振った。「捕まえるまでもなく分かります。その連中はただの『捨て駒』に過ぎない。これだけ目立つ方法で攻撃してきた事と、私が手を尽くしても大元の情報が出てこない事……これらの要素を加味すれば、奴らが守られる立場にない駒でしかない事は簡単に分かります。そして、おそらく『姿の見えない黒幕』は、私達が連中を叩くために兵を割く事を狙っている……」

「なるほど。こちら側に無駄なひと手間をかけさせる腹積もりか」

 四十沢は顎に手をやり、少し思案してから――

「なら、乗る訳には行くまい。動かせる兵は全て防衛に回す。待機している者達にも召集をかけろ。暴かれた拠点――第一三支部は、『自然回帰』の心臓部だ。絶対に破壊される訳にはいかない」

「つっても」と遠藤が疑問を呈す。「『自然回帰』所属の兵なんて、それこそロクな訓練も受けてない素人ですよ? 敵さんの戦闘員がどんな連中かは知りませんけど、素人共だけで相手になりますかね?」

「もちろん、彼らだけで勝てるとは思っていない」四十沢はすぐに断じた。「だから俺達も出る。俺、絹花、遠藤、井筒屋で重要施設を防衛、侵入者を迎撃する。雀森はバックアップを頼む」

「そうこなくっちゃな」遠藤がニヤリと笑った。

 彼の隣にいた井筒屋も、「その言葉を待ってましたよ」と嬉しそうな様子だ。

「荒事は私達の専門だしね」そう言った絹花の体が青白く発光する。同時にキャスケット帽の隙間から覗く銀髪が生き物のように揺らめき始める。「盾突く奴に容赦はなし。悪人だろうと善人だろうと、区別なく排除……でしょ? 四十沢さん」

「その通りだ」と四十沢は、その場にいる全員を見やった。「この世界は弱肉強食。仲間以外は全て『養分』でしかない。『自然回帰』も、それに敵対する者達も同じだ。俺達が余すところなく喰い尽くす。行くぞ、『食事』の時間だ」


  (12月17日 午後6時43分~午後7時1分 自然回帰、第一三支部、二八階)


 周囲全ての景色が慌ただしい。

 ここ、第一三支部は『自然回帰』の心臓部……端的に言えば、全国の支部に対する命令権を持つ場所。全国に点在する一一四の支部を統括し、デモやテロの立案、実行に移す際の指示を行う。『表』向けの活動を主とする本部とは異なり、『裏』での活動を実質的に担当している。

 当然、『自然回帰』の掲げる目標と近い位置にあるのは本部ではなく第一三支部であり、そこに蓄積されているデータも、配備されている人員も、こちらの方が圧倒的に多く重要である。

 以上の理由から、平時からそれなりに忙しいところではあるのだが……今日はそれに輪をかけて目まぐるしく人が動き回っている。

 理由は明快。

 この支部の存在が敵対勢力にばれてしまったからだ。

 組織が雇っている用心棒達の内の一人、雀森とかいうハッカーが掴んだ情報であり、おそらく、その情報に間違いはない。

 彼らの活躍のおかげで、『自然回帰』は何度も窮地を救ってもらっている。

 上層部の信頼も、かなり厚い。

 ――あ、唐松さん……。

 いつもは部下相手にふんぞり返っているだけの妙齢の女性も、今日ばかりは肉体労働に勤しんでいた。大量の書類が入った段ボールを抱え、額から汗を流しながら、オフィスの端から端まで行ったり来たりを繰り返している。

 同じく普段は寡黙な中間管理職である宇津井という中年男性も、声を張り上げながら、何十人もの構成員に対して指示を飛ばしている。

 緊急事態に直面した際、どういった手順で、どういった行動をすれば良いのか。その全てを分かっていなければ、まずできないであろう手際の良さだった。

 この場に姿は見えないが、この第一三支部の支部長である椎葉も似たような状況にあるだろう。

 皆、必死なのだ。

 この第一三支部が陥落すれば、『自然回帰』は一気に窮地に立たされてしまう。

 そして……

 ――おそらく、その運命は避けられない……。

 一度、拠点の場所が割れてしまえば、完全に守り通す事などできるはずもない。

 そう、これはすでに負け戦。撤退戦なのだ。

 いかに被害を少なくして負けるか。

 それが最重要事項。

 だから、支部に詰めている人員は死に物狂いで動いている。

 第一三支部の持つ機能と、そのデータを他の支部に移すために――。

 今日、自分がここに呼ばれたのも、そのためだ。

 組織のトップの一人娘である自分の役目は、自分にしかアクセスできないデータの保護であった。幹部ですらアクセス権限のないデータは、決して多くはない。しかし、そのごく少数のデータこそが重要なのだ。

 具体的な中身については、自分にも知らされていない。

 だが、それが明るみに出てしまえば組織そのものが根元から崩壊してしまう……と両親からは常日頃より聞かされてきた。

 だから、それを族に明け渡す訳にはいかない。

 たとえ中身をすぐに見る事はできずとも、永遠に解析されない保証はない。

 ――本当……面倒な事してくれるよね……。

 ――予定、全部駄目になっちゃった……。

 もうすぐこの支部を攻めてくるであろう族達に対して、ふつふつと怒りが沸き上がる。

 とはいえ、自分に彼らを退ける力はない。護身用として超小型の拳銃を隠し持ってはいるが、いざプロと相対するような事があれば、ひとたまりもないだろう。

「…………」手持ち無沙汰なのを誤魔化すために、ポケットの中の拳銃を弄ぶ。

 宇津井からの呼び出しがないという事は、まだ自分の出る幕ではないという事。

 彼の扱っているデータも、自分にアクセス権があるデータも、どちらも組織の存続を左右するもの。どちらがより大切なものなのかは判断しかねるが、いずれにせよ、宇津井達側の用が済めば自分も呼ばれるはずだ。慌てずに待っていれば良い。

 やがて、「お嬢! 準備ができました! こちらへ!」という声が響いてきた。もちろん、それはこの場の責任者、宇津井のものである。

 ゆっくりと立ち上がり、人混みを掻き分けて宇津井の元へ向かう。

 普段なら自分が通る度に頭を下げてくる末端構成員達も、この時ばかりは事情が違った。自分の事など見えていないかのように血なまこだ。

 別にその事に対して怒りを覚えたりはしない。

 今は緊急事態なのだから。

「さあ、メインコンピュータールームへ行きましょう。私に着いてきてください」

 メインコンピューターのある部屋への行き方は当然自分の頭の中にも入っていたが、それを口には出さなかった。あくまでも、この場で必要なのは『宇津井の指示に従って、適切な手順で全ての工程を完了させる事』だからだ。

 中年の男に向かって頷き、彼の背中に追従する。

 人のごった返すオフィスを抜け、幾分か静かな廊下を抜け……エレベーターで最上階である四〇階に向かう。

 そこに構成員達の織りなす喧騒はなかった。無機質な輝きを放つ壁、床、天井が視界全てを覆い、相対する者に否応なく威圧感を与えてくる。

 一〇メートルほど先には、鋼鉄製のぶ厚い扉が佇んでおり、その両隣に武装した屈強な警備員が二人いる。彼らは自分と宇津井の姿を確認すると、きびきびとした動きで敬礼した。ここに関しては、多少は普段通りの空気が流れている。

 宇津井はスーツのジャケットの胸ポケットから、一枚のカードキーを抜き取る。それを扉に備えつけられたカードリーダーに通し、さらに網膜認証の機械に自身の双眸をかざす。それに留まらず、何十桁ものパスワードを機器に打ち込んでいく。

 そこまでして、ようやく厳重なロックが解除される。扉の内部から重厚な音が連続し、備え付きの小さなモニターに施錠が完全に解除された旨が表示される。

「行きましょう、お嬢」

 宇津井と共に開いた扉を潜る。

 先ほどの解除音とは比較にならないほどの爆音が階下から聞こえてきたのは、それとほぼ時を同じくしてだった――。


  (12月17日 午後6時49分~午後7時21分 自然回帰、第一三支部付近)


 廃工場から一時間半ほどかけて連れてこられたのは、繁華街のド真ん中。高層ビルが立ち並ぶそこは、東雲も良く遊びに来るところだ。大型書店やCDショップ、電気屋などなどが軒を連ね、学生、社会人問わず、日夜多くの人で溢れ返っている。

「……ここで何をするつもりなんだ、あの連中は……? ていうか体中いてえ……」

 体の節々が尋常でないほど痛い。

 ガロットと呼ばれていたスーツの大男が笹井に、「車を出せ」と言って、彼が持ってきたのは一台のバスと、一台のバンだった。バンには笹井とアイアンメイデンと呼ばれたあの少女、そしてガロットとペンデュラムという青年が乗り込んだ。

 バスの方には残った者達がまとめて詰め込まれた。運転席には侍ヘアーの鮫島、その付近の比較的広いスペースにはセーラー服の上からジャージを羽織った少女と、ブレザー制服を着たツインテールの少女が乗った。

 あとは完全にすし詰め状態である。五〇人近い人間が、通勤ラッシュ時の山手線も真っ青の人口密度の中で九〇分前後も揺られる事となった。まさに地獄。真冬とは思えぬ熱気のさなかに長時間いたせいで、全身汗だくだ。ずっと身動きできなかったせいか、関節が異様に痛む。気分は最悪だった。

 東雲達がいたのはビル群の一角。一際高い建物の真下であった。広めの駐車場には多くの自動車が停まっており、このビルの中に多くの人間がいる事を窺わせる。

 少し遅れてバンが到着した。バスの付近に停車したバンから笹井達が下りてくる。

「時間がない、始めましょう」と笹井が少女達に提言する。例の三人も特に異論はないようで、一つ頷くと、ゆっくりと建物の入口へと歩を進めていく。

 彼女らを横目に見やりつつ、バンの後部から巨大な鉄筒を取り出した笹井。

 彼はそれを担いで、東雲達の一団へと歩み寄ってくる。

「笹井……さん、それって……?」

 東雲は疑問と恐れが半々といった様子で、鉄筒を指差した。

「見ての通りだよ」対して、笹井の表情は涼しいものだった。「――対戦車擲弾(たいせんしゃてきだん)。俗に言うRPGって奴だね」

 そう言って。

 そのおぞましい兵器を肩に担いで。

 目先のビルの入り口に照準を定めて。

 笹井は一切の躊躇なくRPGの引き金を引いた。


        ***


 一瞬にして東雲の視界が紅蓮の炎に包まれる。

 雨による鎮火など微塵も期待できないほどの轟々と燃え盛るオレンジ色。

 平和な繁華街に、どうしようもない災厄が撒き散らされてしまった事を示すには明白過ぎるほど、その景色は分かりやすかった。

「な……なに……何を、して……!」たった数文字の言葉を絞り出すだけでも、かなりの神経を擦り減らした。目まぐるしく動く事態を脳が処理できない。

 しかし、時間は待ってはくれなかった。

「進め! 標的は『自然回帰』第一三支部! 作戦内容は『徹底的な殲滅』! 構成員一人たりとも逃がすな! 殺せ! 殺し尽くせ!」語気を荒げた笹井が指示を飛ばす。

 次の瞬間、それを合図として一斉に飛び出す一団。それは当然、侍ヘアーの鮫島やジャージの少女、ツインテールの少女などの『慣れている方の集団』だった。

 東雲達は当然その場から一歩も動けない。

「早く行け! 死にたいのか!?」背中を強く叩かれる。後ろにいたのはやはり笹井だった。「彼らに続け! 銃を構えろ! 思考を止めるな! 足を止めるな! 死ぬその時まで生き続けたいのなら!」

 どこか人を喰ったような、先刻までの口調と一八〇度違う。

 短く簡潔で、意味の明白な言葉をマシンガンのように叩きつけてくる。

「――ッ!」東雲含む幾人かの人間が走り出す。

「良い判断だ。少し寿命が延びたよ、君達は」

 笹井がほんの少しだけ寂しそうに笑った。

 その真意を東雲はすぐには理解できなかった。

 しかし、直後に否が応でも知る事になってしまった。

 ぱちゅん、という水風船を割った時のような湿っぽい破裂音が耳許で響いた。

「え……?」間抜けな声を洩らしつつ、音の出どころを振り返る。

 血液。

 肉片。

 眼球。

 脳漿。

 宙を舞う大小様々の破片の正体をすぐに看過できたのはなぜだろうか。

 その答えを得る前に、頭部を失った人間だったモノ達が、糸の切れた人形のように四肢から力が抜け落ち、次いでバランスを崩す。

 どちゃり、どちゃり、と濡れたアスファルトの上に積み重なっていく屍の数々。

 喉の奥からせりあがってきた吐き気と絶叫を、すんでのところで堪えられたのは、頭の片隅に僅かに残っていた理性が仕事をしてくれたからだろう。

 余計な動作によって余計な時間を取られる事なく、東雲は周囲を見渡せた。

 そして見つける。

 上空。

 強く叩きつける雨にも負ける事なく自律的に浮遊する物体が数機。あれは……

「ドローンか……!」

 すぐさま答えを口にする。

「しかも、正面に取り付けられているのは……」

「ご名答。射撃機構を組み込んだ『おもちゃの無人機』。一機あたりの装弾数こそ少ないけど、機体そのものの数はべらぼうに多い。なんせ、ベースになっているのは一機数万円程度の市販のドローンだ。連中の資金力を鑑みれば、一〇〇〇機調達したとしても使う金は雀の涙程度。改造するための追加料金を考慮したとしてもね。『人』と同じくらい安価な大量殺戮兵器だよ」

 自動小銃で弾幕を張りつつ、確実にドローンを撃墜していく笹井。命が散る様を目の当たりにし、自分自身すらも命の危機が迫っているにも関わらず、この落ち着きようだ。

 ――やっぱり……この人は……!

 全速力で火に包まれた駐車場を駆け抜けていく東雲は、傍らを並走する笹井に一つの質問を飛ばした。

「笹井さん……あんたも同じなのか……? あの意味の分かんねえ三人と……」

 しかし返ってきた答えは予想とは反対だった。

「違うよ。全然違う。僕は君達と同じ側にいる、ただの人間だ。東雲君や他の人達みたいに、自分の意思に反して連れてこられた哀れな被害者だよ」

「……じゃあ、何であの三人と対等に話せて……」

「あれが対等に見えたかい?」笹井は苦笑した。「あんなのは、単なる媚売りだよ。相手の逆鱗に触れないように小賢しく立ち回って、周りの人間よりも少しだけ長生きして……そうして手に入れた地位に過ぎないよ」

「…………」

「さ、入口だ。余計な事は考えるな。突入するよ」

 粉々に割れて、鉄の枠組みだけがかろうじて残っている自動ドアの残骸を潜る。

 瞬間、焼けた鉄の臭気に混じって、むせかえるほど濃厚な血の臭いが鼻腔を突く。

「う……!」思わず鼻を押さえる。

 転がる死体、死体、死体。

 スーツ姿の武装した男女が血塗れになって事切れている。

 首を何かで絞められたような跡の残る死体。

 胴体を真っ二つに破断されて内臓の飛び出た死体。

 銃創や刃物でズタズタにされた跡の残る死体。

 そして――全身に大量の『釘』が刺し込まれた状態で動かなくなった死体――。

 昨夜の傷が疼く。鉄製の工具を突き込まれた痛みがフラッシュバックした。

 あまりの光景に精神の均衡を崩した者が続出する。

 先ほどのドローンの攻撃で生き残った者達の多くが、その場にうずくまり、嗚咽を洩らしたり、胃の内容物を吐き出したりした。

「……東雲君、行くよ。先に突入した皆を追う」

「この人達はどうするんですか?」

「この場に置いていく。彼らはリタイアだ、もう動けない。運が良ければ、作戦終了まで生き残る事もできるだろう」

 ――『こんな危険な場所に置いていくなんてできない』。

 そんな気の利いた台詞が吐ければ、どれほど気が楽になっただろうか。

 あいにく、今の東雲に反論する余裕なんてものはなかった。

 笹井の判断こそが絶対的に正しいものだと思い込む他なかった。

 東雲は力なく首を縦に振った。


  (12月17日 午後7時27分~午後7時34分 自然回帰、第一三支部、六階)


『力』に目覚めたのは二年前だった。

 すぐに得体の知れない連中に、どこかの施設に拉致された。

 半ば強制的に事情を説明され、今の生活が始まった。

 飯島喜一(いいじまきいち)の名を捨て、『ペンデュラム』という新たな名を携えて、裏世界の邪魔者を排除する存在として生まれ変わったのだ。

 自らと同様の存在である『アイアンメイデン』や『ガロット』など、気にくわない同僚も多かったが、この生活にはおおむね満足していた。

 何せ、自身の内側から無尽蔵に湧き出す殺人欲を余す事なく振るえるのだ。罪に問われる事なく、人間の胴体を真っ二つにできる。噴き出した生臭い血液を頭から被る度、『生きている』という感覚を存分に享受できた。

 面倒な消耗品部隊の管理は笹井に任せておけば良い。

 自分はただ本能に任せて生きれば良い。

 ――最高。

 自分の人生はこの二文字だけで表現できた。


        ***


 その形状は『振り子刃』。

 肉厚の刃は片端が扇型に広がっており、もう片端には柄の代わりに一〇メートル近い鎖が取り付けられている。鎖鎌をさらに凶悪にしたような武器を振り回すのは、茶髪に赤のライダースジャケットを着た青年――ペンデュラムだった。

 細身な腕で、一〇〇キロを超える鋼鉄の塊を振るう。重さと遠心力で尋常でない破壊力を有した刃が、次々に『自然回帰』の兵隊の胴体を破断していく。

「おら雑魚共オッ! そんな豆鉄砲が利くかよ!」

 散乱した肉塊を踏み潰し、自動小銃を構えた兵隊の集団に、目にも留まらぬ素早さで突っ込む。トリガーを引く暇すら与えない。一瞬の内に挽き肉にする。

「……お?」

 舞い踊る肉片と血しぶきの向こうで、こちらの顔面めがけて拳銃の銃口を突き付けている者がいた。集団の比較的後方にいた兵隊が運良く斬撃を躱したのだろうか。

 ペンデュラムの両腕は、先ほどの攻撃で大きく振り抜かれている。完全に体勢を戻すためには、あと〇・五秒は必要だろう。さすがにこれだけあれば銃弾の方が速い。

 ――ハッ! 関係ねえよ!

 だが、ペンデュラムの表情は変わらず凶悪な笑みを浮かべたままだった。自分自身に振りかかる死への恐怖など微塵も感じさせない。まっすぐと突き付けられた奈落への入り口すらも日常の一部であるかのように――。

 兵隊が雄叫びをあげたのと、噴水のような血しぶきが舞ったのは同時だった。

 兵隊の右肩から反対側の腰にかけての部位が袈裟斬りに両断されていた。

 恐怖と覚悟がごちゃ混ぜになったような顔のまま固定された兵士の上半身が、ゆっくりと切断面を滑り、床へと落ちる。湿っぽい音。それに続き、残った下半身も崩れ落ちた。

「無駄な努力、ごくろーさん」

 ペンデュラムはほくそ笑んだ。生ごみを見るような目で分断された死体を見下ろす。次いでブーツの爪先で肉の塊を蹴り飛ばした。

 彼の周囲にはいくつもの振り子刃が浮いている。両手に携えたものが二振り。そして彼を取り巻くように浮遊するものが一〇を軽く超えるほど。その中の一つには、先ほど浴びたばかりの新鮮な血液がべったりと付着していた。

 そして、それはペンデュラムが顎をしゃくると同時に意思を持つように動いた。中空を斜めに切りつけるように振り抜かれる。凝固する前の体液が、刃の表面から削ぎ落とされる。飛び散ったそれは無遠慮に床を汚した。

 周囲を見回す。

 目に見える範囲に『生きた的』はいなくなっていた。無傷のアイアンメイデンとガロット、及び名前も知らない消耗品部隊の面々だけが立っている。

「この階は制圧したようだ」と無機質な声色でガロットが告げる。

 彼の手には、鋼鉄製の万力付きの首輪のようなものが携えられていた。その周りには想像を絶する苦しみと共に絶命したかのような表情を浮かべた絞殺死体が折り重なっている。

「……しかし、妙だな」

「あん? 何がだよ、ガロット」

 ガロットの怪訝な声に、ペンデュラムは思わず訊き返していた。

 大男は死体の山を見回し、「我々が駆り出された理由が見つからない」と言った。「多少の訓練はされているとはいえ、ここにいる兵隊共はプロには程遠い」

「そういや……」

 すぐにペンデュラムも納得する。

 いくらここが敵対組織の重要拠点とは言っても、あまりにも骨がなさすぎる。この程度の戦力であれば、ペンデュラム達が出撃せずとも、消耗品部隊のみで十分に対処できるはずだ。事実、新入り以外の部隊員には未だ損害は出ていない。

「くせえな……」ペンデュラムは不服そうに舌打ちする。「笹井の野郎はどこだ? あいつなら、何か知ってんじゃねえのか?」

「それはないわ。『上』から共有される情報量は、私達の方が圧倒的に多い。いくら笹井でも、私達が分からない事までは知らないはずよ」

 割って入ってきたアイアンメイデンを見やりながら、ペンデュラムは再び舌を打った。

「ちッ、……まあ良い。いずれにせよ、連中が一山いくらの雑魚ばっかりなら願ったり叶ったりだ。遠慮なく時間いっぱいまで楽しませてもらうまぽちょ」


  (12月17日 午後7時34分~午後7時37分 自然回帰、第一三支部、六階)


 先行していた連中に追いついた時、最初に目に映った光景に東雲は息を飲んだ。

「な……!?」

 ペンデュラムと名乗っていた青年の軽口が唐突に途切れる。

 何かが爆ぜた。

 東雲にはそれしか理解できなかった。

 茶髪の青年の顔面が一瞬膨張し、そのまま弾け飛んだ。

 目も鼻も口も、それらを覆う皮膚すらもなくなり、ぽっかりと大きな穴だけが残る顔。

 刹那にして単なるタンパク質の塊と化したペンデュラムが、ゆっくりと仰向けに倒れていく。そして、自らが作り出した真紅の水たまりの中へとダイブした。

「――うっし、まず一人」

「ナイスだ、お姫様。このまま攻め込もうぜ。能力者さえ潰しちまえば、あとはこっちのもんだ」

「まだ二対一だ。気を抜くな。俺達真人間ではすぐに殺されるぞ」

 天井からいくつもの声がした。確認できただけでも女が一人、そして男が二人。

 思わず上を見る。そこには、ペンデュラムの相貌に空けられたものよりも何倍も大きな穴が穿たれていた。不思議な事に、一切の瓦礫が見当たらなかった。東雲のいる階にも、見える範囲の上階を見渡しても。精密な工具を用いて形作られたかのように綺麗な真円の淵には、やはり三人の男女しか立っていない。

「ペン……デュラム……?」

 アイアンメイデンと呼ばれている少女とガロットも、今の状況が飲み込めていないようだった。目を丸くしつつ、動かない死体を見下ろしている。

「馬鹿野郎! 早く逃げろ!」

 東雲の隣にいた笹井がとっさに怒号を上げたが遅かった。

「ぎっ……ぎゃ、いぎああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!?」

 鼓膜をつんざくような悲鳴が床を転げまわる。

 ガロットだった。先刻までの無感情な冷徹さなど欠片も見受けられないありさまだった。苦痛に情けなく顔を歪め、涙を流しながら喚き散らしている。

 東雲とアイアンメイデン、そして笹井以外の兵隊の顔から血の気が引いた。

 達磨。

 今のガロットの様子を簡潔に表すのに、これほど的確な言葉はなかっただろう。

 ちぎれた四肢をそこらに投げ出し、頭部と胴体だけになった巨漢。言葉にならない悲鳴の中から時折、「助けて、助けて」という懇願が混じる。しかし、どうする事もできない。今この場に結合手術ができるほどの設備などないし、そもそもガロットはこの短時間で血を流し過ぎていた。ダムから水が放出されるようにして、四つの傷口からみるみる内に血が流出していく。

「……あ、」

 そして、彼は辞世の句すら詠む間もなく絶命した。

 失血死ではない。天井から降り注いだ無数の銃弾によって、とどめを刺されたのだ。

「……これで一対一だな」

 東雲のいる階はともかくとして、上の階からも下の階からも未だに戦闘音や悲鳴は響いている。オフィス事態に音楽スタジオのような防音設備などないので、当然この場もそれなりにうるさい。

 しかし、その一言はやけにしっかりと聞こえた気がした。

 声量が大きい訳でも小さい訳でもない。

 活舌が良い訳でも悪い訳でもない。

 感情が籠もり過ぎている訳でも籠もっていない訳でもない。

 なのに。

 その、ただ単なる普通の声が――否応なしに、その場にいる全員の恐怖心を突く。

 大穴から三人が飛び降りてくる。キャスケット帽を被った小柄な女性と日本刀を携えたチンピラ風の男。そして迷彩服の上から防弾ジャケットを着込んだ大柄な男性が。

「やるぞ」

 大柄な男性が自動小銃の銃口を。

 日本刀男が刃の切っ先を。

 そしてキャスケット帽の女性が閃光のような輝きを放つ右手を。

 それぞれ一切の躊躇なくアイアンメイデンの方へと向ける。

「……ッ、彩美!」笹井が何者かの名を呼んだ。「伏せろ!」

 次の瞬間だった。

 東雲の耳許で銃声。それが日本刀男に向けられたものだとコンマ一秒遅れて気づく。日本刀男は涼しい顔で後退し、銃弾を回避。しかし笹井はそこで止まらない。発砲と同時に一団めがけて駆け出し、自動小銃の連射で弾幕を張って牽制。刹那の内に少女のもとまで辿り着き、そのまま小さな体躯を蹴り飛ばす。

 少女を逃がした直後、日本刀男が反撃に転じる。

 最小限の挙動で放たれた横薙ぎの一閃を、笹井は自動小銃を犠牲にする形でガード。次いで男のバランスを崩すため、壊れた小銃ごと体当たりをかまし、押し込む。迷彩服の男が同士討ちを避けるために銃撃を控えたところを狙って、近くのデスクの陰に転がり込んだ。

「部隊員に通達! 相手の一人はアイアンメイデン達と同じ能力保有者だ! そいつとは戦うな! 全員で他の連中をやれ!」

 その指示を受けて、周囲を取り囲んでいた消耗品部隊の面々が動く。

 全員が銃火器の銃口を謎の一団へ突き付けていた。

「撃て!」

 エコーをかけたように連続する乾いた音。車のヘッドライトよりも眩いマズルフラッシュ。硬い床に落ちる空薬莢の音。その全てが三人の人間の肉を食い破らんと迫る。

 だが。

「させないってーの!」

 キャスケット帽の女が不敵な笑みと共に両腕を広げた。すると先ほどまで彼女の右腕で瞬いていた閃光が爆発的に膨張し、そのまま三人の周囲をすっぽりと覆い尽くす。

 結果は火を見るより明らかだった。

 放たれた凶弾は一発たりとも一団へ届く事はなかった。

 カーテンのように張られた光のベールによって阻まれ、そのまま推進力を失い落下。

 銅色のサークルの中央では無傷のままの敵勢力が佇んでいる――はずだった。

 一瞬の光景。

 しかし東雲はしっかりとこの目で見ていた。光のカーテンが消えると同時に、三人の頭上からおびただしい量の『釘』が降り注ぐのを――。

「――――――っっ!!!」敵兵三人の表情が僅かに焦りに変わる。

 男二人はサイドステップで右に避け、キャスケット帽の女は手のひらから放出させた閃光によって、釘をまとめて消し飛ばした。

 とはいえ、避けられる事など織り込み済みだったのだろう。分断された勢力へとアイアンメイデンの少女、笹井、そして侍ヘアーの鮫島が飛びかかる。

 鮫島は手にした槍斧(ハルバード)を振るいながら、男二人をさらに後退させていく。笹井もベルトから引き抜いたダガーナイフで、鮫島の隙をカバーする。

 そして。

 アイアンメイデンの少女の怒涛の連撃。

 何もない空間からフェードインするかのように形を成していく釘が、休む暇なく射出されていく。キャスケット帽の女は、それらを意に介した様子もなく消し飛ばしていくが、壁際に押し込むようにして放たれる釘の連射により、少しずつ後ずさりさせられていく。

「へっ……! あんま調子乗ってると痛い目見るぞ、小娘!」

 キャスケット帽の女が動く。

 前方位からの釘の射撃を凌ぎ切った瞬間、一気にアイアンメイデンの少女へと肉薄する。少女が面食らったと同時に強烈なボディブローが炸裂した。たたらを踏みつつ、苦しげに腹部を押さえる少女。キャスケット帽の女は両手に閃光を纏わせながら、追撃の準備に入る。

「同じ化け物のよしみだ。できる限り苦しまないように殺ってやるさ」

「くッ……!」

 キャスケット帽の女が莫大なエネルギーを内包する腕を振り上げた時だった。

 オフィスの一面。

 前面ガラス張りとなっている部分に突如として亀裂が入った。

 それはすぐさま放射状に広がり、〇コンマ一秒すらもたずに爆ぜる。

 無理矢理こじ開けられた入口から無遠慮に乱入してきたのは。


 ――一台のサイドカー付き大型バイクだった。


  (12月17日 午後7時37分~午後7時39分 自然回帰、第一三支部、六階)


「少し遅れてもうたか」霧崎はぶっきらぼうに呟いた。

 眼下に広がるのは血の海と死体の山。その中心で対峙する二人の女。

「おいコラ、くそッたれ共。主役差し置いて、何勝手にドンパチ始めとんねん!」

 梗弥の駆る大型バイクの後部座席を足場にし、一気に跳躍。ステンカラーコートの両袖から大振りの鉤爪を飛び出させ、そのまま二人の女へ向けて急降下する。

 ――……なるほど、あいつやな……!

 セーラー服の少女の方は気に留めない。

 視界に収め、狙いを定めるのはただ一人。

 ――超能力女! テメエや!

 大車輪のように体と鉤爪を回転させ、破壊力を増しつつ突撃する。

 獲るのは首。落として決める。短期決戦だ。

 しかし。

 ――ッ! 嘘やろ!?

 滅茶苦茶に攪拌される視界の中で、鍛え上げた動体視力により、霧崎はその光景を確かに捉えた。

 キャスケット帽の女の怜悧な瞳が、まっすぐと自分の方を向いていた。彼女は今まさに殺しかけていたセーラー服の少女を無視し、閃光を張りつかせた両腕を霧崎へ向ける。

 思考する暇など与えられなかった。

 その小さな手のひらから怒涛のエネルギー放射。霧崎の視野が真っ白に染まる。

 考える前に体が動いていた。反射的に上体を反らし、間一髪のところで殺人光線を躱す。鼻の先僅か一ミリのところをレーザーのような軌跡が通過した。

「誰だか知らないけどさ」キャスケット帽の女が不機嫌そうに言った。「私の戦いを邪魔した罪……どれだけ重いか理解はしてるよな?」

「知るか、ボケ」これも反射的に口にしていた。

 霧崎は崩れた体勢のまま女へと迫る。女は再び両手をかざし、そこを起点として光が増幅していく。今度こそ霧崎を仕留めるつもりなのだろう。

 ――二度も同じ手を食う訳が……

「ないやろが!」

「!」女が目を見開く。彼女が何に驚いたか――答えは簡単だった。

 下から上へ。

 無駄のない最小限の動作で振り上げられた霧崎の両爪先が、女の両腕を肘の辺りから蹴り抜いていた。マグナム拳銃を発砲した直後のごとく真上に放り出された両腕から、あらぬ方向へと光線が吐き出される。

「これはッ……不味ッ……!?」

「おら! 死ねや!」凶悪な笑みを湛えながら再度回転斬りを繰り出す。その凶刃の行き先は当初の目標とは僅かにずれ、女の左肩めがけて直進していたが、問題ない。このまま袈裟斬りにしてしまえば良いだけだ。

 肉が裂ける感触が鉤爪を伝わり、霧崎の脳を刺激した。

 しかし彼の表情に『してやった』という歓喜の色はない。

 ――浅い……厄介なチカラやな……!

 女は苦痛に唇を噛み締めて左肩を押さえていたが、致命傷ではない。おそらく傷の深さは一センチもないだろう。彼女の傷口付近では紫電のように光が瞬いている。

 ――あの光……どんなカラクリや……? 攻撃だけやなくて、防御にも使えるんか。

 女と距離を取りながら着地する。

 霧崎のすぐそばには、先に着地していた大型バイクがあり、梗弥が苦い顔をしていた。

「霧崎、それ……」と梗弥が霧崎の右腕を指差す。

「ああ、オシャカになってもうたわ」

 霧崎は淡々とした口調で右腕を振る。正確には、そこに接続されている自らの得物を。

 溶けていた。

 元々のシルエットも分からなくなってしまうほどに溶解したそれは、さながら出来損ないの飴細工のようだった。

「……戦えるのか?」と梗弥が訊く。

「問題ない」霧崎は使い物にならなくなった鉤爪を取り外すと、それを無造作に打ち捨てた。その代わりとでもいうように、コートの内側から刃渡り一〇センチほどのナイフを抜き放つ。「これで十分や」と構える。「梗弥、桔奈。お前らの仕事はここまでや。あとは俺一人でやる。さっさと逃げえ」

「それならお言葉に甘えて」梗弥はあっさりと答えた。その言葉の裏には霧崎への信頼が込められているようだった。「でも、ま、気が向いたら迎えにきてあげるよ」

「なら、今度はお前らが安全に来れるよう『道』を整備しといたる」

「任せたよ」

 梗弥は大型バイクのアクセルをかけると、そのままオフィスの調度品を蹴散らしながら、先ほど突入してきた入口へ向けて突っ込んでいく。

 とはいえ、ここはビルの六階。

 外へ飛び出せば足場を失った二輪車は重力に歯向かえず、そのまま落下するだろう。

 だが梗弥と桔奈の表情に恐怖の色はない。

 そもそも、一度六階のビルにバイクで突入しているのだ。

 トンズラする時も同じ事をすれば良い。

 宙に飛び出たバイクが空を滑走する。数秒の遊覧飛行ののち、重力に引きずり込まれていく。しかし、二人を迎え入れたのは数十メートル下のアスファルトではなかった。

 バイクは、『自然回帰』第一三支部のビルのすぐ真向かいに建っていた別のビルの屋上へ軽やかに降り立っていた。屋上には、先ほど霧崎が始末した狙撃手の遺体が三つほど転がっていた。

 梗弥と桔奈は離脱した。

 これで周囲に味方はいない。

 四面楚歌。

 そのうえ、相対するのは、この世のものではない特異な力を持った化け物が二人。

「上等や」それでも、霧崎は怖気づきはしなかった。「ここ最近は骨のない雑魚共ばっかりやったからなあ。レベル一のモンスターばっか倒しててもこっちのレベルは上がらんし、何より面白くないんや」

 左腕に装着された鉤爪をキャスケット帽の女へ。

 右手に携えたナイフをセーラー服の少女へ。

 挑むように突きつけながら、霧崎は宣言した。

「久々の大物や。せっかくやから、ついでに楽しませてもらうで!」


  (12月17日 午後7時25分~午後7時41分 自然回帰、第一三支部付近)


「よし、開いた。……にしてもツメが甘いわね。闇の組織さんも。非常口にアナログ錠だなんて、『どうぞ侵入してください』って言ってるようなものよねー」

 自作と思われるピッキングセット(様々な形状をした大量の針金)を用いて、いとも簡単に非常口のロックを解除してしまった望実。彼女はそのままドアを開けて侵入する……というような事はせず、少しだけドアを開けてできた隙間からスマートフォンのカメラレンズを差し込んだ。しばらくの間画面と睨めっこし、安全性を確認すると、そこで初めて建物内に足を踏み入れた。

「ほら、文谷さんも。早く来ないと置いてくよ?」

「ちょっと待ってくれ……! ここ、どう見ても単なるオフィスビルだろ!? 見つかったら絶対怒られるって……!」

「怒られるだけで済んだら良いけどね。っていうか、文谷さん、まだそんな事言ってんの?」望実は半ば呆れた様子で、「文谷さんも見たでしょ? さっき変な一団がここにロケラン撃ち込んだの」と言った。「それから五分近く経つけど、一向に警察が来る様子もない。これだけ野次馬が群がっているのにも関わらず……さ」

「それは……!」

 ――というか、何でこの子はこんなに冷静なんだ……?

 ――さっきの見たんだろ? ロケットランチャーだぞ? しかも日本でだぞ……?

 すでに思考を放棄したくて仕方がなかった。このまま野次馬の中に紛れて帰路に着きたかった。だが、そんな事はアルバイト記者の少女が許さない。

「本当にこのまま帰れると思ってる?」と良助の心を見透かすように、望実は問いかけた。「あれ、見てみ」

「……?」望実が指し示した方向を見る。そこは、このビルのちょうど真向かいに位置する五、六階建てほどのビルの屋上だった。

 屋上にいた人間を視界に入れた瞬間、良助は息を飲んだ。

「分かったでしょ? ここから少しでも飛び出したら脳みそブチ撒ける事になるわよ」

 スナイパーライフルというのだろうか、スコープ付きの大型の銃を構えた男が三人ほど待機していたのだ。良助達がいるのはビルの側壁で、植木によって死角となっており、狙撃手からは見えていないのだろう。だが、間抜けにも彼らの前に姿を現していればと考えると、背筋に悪寒が突き抜けた。

「僕らが今無事って事は、さっきまではいなかったはず……。いつの間に……?」

「さっき、スカした顔の奴がランチャーぶっ放してから、すぐにこのビルから出てきたのよ。真正面から戦わずにあの場所に陣取ったって事は、撤退してきた連中を狙い撃ちにするつもりなんじゃない?」

「最初からあの場所で待機しておく事はできなかったのかな……? そうすれば、あの変な人達や僕達の侵入を許す事もなかったのに……」

「お、なかなか良いとこ突くじゃん、文谷さん」

 望実は小悪魔的に笑って――

「あの物騒な集団が正面から。そして私達が横の非常口から。やろうと思えば結構色んなところから侵入はできる。相手の侵入ルート全てに狙撃手を配置しとけば万全だけど」

「だけど?」

「それをしなかった。いや、できなかった。つまり、連中の人員はそんなに多くはないって事。絶対数がその程度しかいないのか、この場に集める事ができたのがこの程度だったのかは分からないけどね。いずれにせよ、『自然回帰』側はあえて『後手』に回る事を選んだって感じかね? ま、全部私の推測だから、本当のところは分かんないけど」

「……推測の割にはずいぶんと自信ありげだね」

「重要なのはそこじゃないからね」と望実は前置きしてから、「要するに私達が『潜入取材』するのに、これほど良い条件はないって事」と言った。

 やがて良助は大きく溜息を吐いた。「……覚悟、決めるしかないのかな……?」

「今さら言う事じゃないでしょ?」

 諦観の念を抱きつつ、良助は望実に続いて不法侵入を果たした。


        ***


 ところで。

 このあとすぐに三人の狙撃手はこの場を退場する事になるのだが。

 当然、良助がそれを知る由はない。


        ***


 一階は比較的静かだった。誰かがいる気配も今のところない。

 壁のところどころに弾痕があったり、天井の蛍光灯が割れて火花を散らしたりしていたが、あれだけの武装した人間が一斉に雪崩れ込んだ割には綺麗なものだった。

 しかし。

 他の階はどうやらそうではないらしい。

 上階からは絶えず銃撃音や誰かの悲鳴が聞こえてくる。生きた心地がしなかった。

 良助は恐怖から目を背けるように、正面を歩く望実に尋ねた。

「……なあ、一つ訊いて良いかな?」

「私が答えられる範囲なら」

「ここが『自然回帰』の本拠地だとして、君はその情報をどこから得たんだ?」

「本拠地じゃなくて、数ある支部の内の一つだろうけどね」望実は一部を訂正してから、良助を見やる事もなく答える。「ネットカフェにいる時にも少し話したでしょ、岩佐樹の事」

「ああ、君と同じ記者の……」

「そ。あいつが追っていたのが『自然回帰』って事も話したわよね? 岩佐の奴、失踪する数日前に私の家のポストにUSBメモリを放り込んでたの。その中にあった情報の一つがここ。『自然回帰』の第一三支部についてだったって訳」

「……この惨状を見ると、どうやら信憑性はあるみたいだね。彼の書いた記事の方は、三流ゴシップ以下の出来に見えるのに……」

「あいつが書く記事が信用できないのは事実よん。『記事そのものの事実関係に意味はない』って言ってたから。『必要なのは読者を惹きつける記事を書く事であって、リアルを知らせる事じゃない』。――まあ、当たり前といえば当たり前ね」

 でも、と望実は言葉を区切り――

「あいつの情報収集力に関しては本物。だからメモリの中身は信用できる。私の役目は、あいつが残した情報の『真偽』を確かめる事」

「その岩佐って人への弔いのつもりかい? けど、彼は記事の真偽に興味はないんだろ? 今さら君が真実を暴いたところで……」

「ううん、私の動機に岩佐は関係ない。言ったでしょ、あいつ自身は人間のクズだって。『自然回帰』の連中に捕まって殺されてバラバラされてようが知ったこっちゃないのよん」

 望実は御馳走を目にした子供のように舌なめずりし、「私が知りたいから」と言った。

「この世界には嘘みたいな真実がたくさん散らばってる。それこそ星の数くらい。私はね、それを知りたいの。一つでも多く。パンピーとして生まれた自分が、本来なら一生知りえなかったはずの『裏側』。そこに少しでも足を踏み入れたい……踏み入れ続けたい。それこそが私の原動力。私の全てよ」

「…………」

「……? 何よ? 黙ってないで何か言ったら? 別に軽蔑してくれても良いからさ。頭のおかしい子供だって」少しムッとした表情で良助を睨みつける望実。

 確かに普通に考えれば彼女の言う通りだろう。安全な日本に住んでおきながら、わざわざ好き好んで危険な場所に足を踏み入れたがる者などそうそういない。

 だが、良助の思いは違った。

「立派だよ、君は」無意識に、そんな言葉が口を突いて出ていた。「僕はさ、二四年も生きてきて夢中になれるものの一つも見つけられなかった。何も考えず、何も得る事なく人生に失敗しただけだった。だから……君が輝いて見える。……自分がのめり込める事を見つけられた君を羨ましくすら思うよ」

 良助は自嘲気味に笑った。

 紛れもない本心だった。

「……そんな事言われたの、初めてかもしれない」

 望実は僅かに照れているようだった。頬が先ほどまでよりも赤くなっている。

 彼女はそれを隠すようにそっぽを向くと、か細い呟いた。

「いつか……文谷さんにも見つかると良いね、夢中になれるものが」

「そう……だね。いつか……」良助の返事は歯切れの悪いものだった。

 一度死を選択した身。

 そんな自分にもう一度人生を楽しむ権利などあるのか。

 その答えすらも、今の自分には見つけられない。


  (12月17日 午後7時57分~午後7時58分 自然回帰、第一三支部、六階)


 幅の狭い廊下に剣戟音が木霊する。

 笹井と鮫島の二人は、手を休める事なく刺客の男達を攻め立てていく。笹井達の後ろでは同じ消耗品部隊の少女が二人――セーラー服の上からジャージを羽織った武田香織と、ブレザーにツインテールの五十嵐御守(いがらしみもり)が拳銃で後方支援に徹している。

 ――何とか彩美とこの連中を引き剥がせたけど……果たして彼女一人で勝てるかどうか……。おそらく能力者としての格付けは敵のお嬢さんの方が上だ。

 思考しながらも踏み込む。

 ダガーナイフで敵の日本刀の側面を弾く。拳銃で迷彩服の大男を牽制し、鮫島が攻め込む隙を作ると、合図もなしで呼応するように鮫島が前に出た。

 鮫島のハルバードの先端が日本刀男に突き込まれた時、彼を守るようにどこからともなく投げ込まれたスモークグレネードが起爆した。狭い空間が白一色に塗り潰される。

「くそッ……さっきから鬱陶しい……!」と鮫島が歯ぎしりする。

「鮫島さん、無理に攻めなくて良い。いったんさがろう」

「良いのか? 早くしないとアイアンメイデンの奴、殺されちまうんじゃ……」

「彼女だって、そこまで愚かじゃないよ。力量の差を感じたのなら防御に徹するはずだ。敵方のジョーカーが抑えられている内に僕らは任務を遂行する」

「けどよ、真人間とはいえ、こいつらも相当だぜ……。俺達四人を相手に二人だけで凌いでやがる……!」

 笹井は首を横に振った。「いや、二人じゃない。たぶん向こうも四人だよ」

「何?」

「直接戦闘担当はあの二人で間違いないだろうけどね。このスモークグレネードといい、それを繰り出すタイミングといい……相手には確実にあと二人はサポート要員がいるはずだ。一人は後衛のどこかに配置されていて、もう一人は安全なところで指示だけ飛ばしている……ってところかな?」

 それを聞き、鮫島が僅かにたじろぐ。

 笹井は構わず続ける。「向こうの目的は殲滅じゃない。撤退戦……時間稼ぎだ。必要以上に踏み込んでくる事はない。こっちも慎重にいけば殺される事はないはずだ」

 言い終えると、笹井はさらに後方に後ずさった。

「笹井? どうした?」

「鮫島さん、ここは任せる。近くにいる他の部隊員も使ってくれて構わない。どうにかして連中をここに釘付けにしてほしい。僕は東雲君を連れて『目標』を狙う」


  (12月17日 午後8時1分~午後8時13分 自然回帰、第一三支部、最上階)


 椎葉は狼狽していた。

「何が……どうなっている……!?」

 第一三支部を狙った敵対勢力による強襲。それは事前に分かっていた。組織子飼いの用心棒集団のハッカーが情報を入手したからだ。もちろん、それを受けて支部長である椎葉は迅速に行動していた。警備兵に多大な犠牲は出ていたが、支部にある重要なデータを他支部に移す作業自体は順調に進んでいたはずだ。

 なのに。

「唐松! 唐松! 聞こえているなら応答しろ! そちらの状況はどうなっている!?」

 ヒステリックに叫ぶ妙齢の女性。

 だが、それに応じる声は一向に現れない。

 モニタールームにある無数のディスプレイ。普段であれば、監視カメラが捉えた各階の映像が四六時中映し出されている。しかし、今、液晶画面のほとんどは何も映していない。完全にブラックアウトしているか砂嵐となっているかのどちらかだ。

 監視カメラからの映像が途絶えている理由は誰でも分かる。機器が破壊されているからだ。では、それを誰がやっている?

 椎葉は舌打ちしつつ、まだ『生きている』画面へと目を向けた。

「四十沢!」マイクに向けて怒鳴るように用心棒集団リーダーの名を呼ぶ。「お前の仲間の雀森に伝えろ! 各階の監視カメラが破壊されていっている! それだけでなく、定時連絡も……! 一つ二つじゃない、次々にだ! 今すぐ原因を調べさせろ! このままでは……!」

「断る」

「何だと!?」椎葉の眉間に皺が寄る。

 スピーカーの向こうから戦闘音に混じって、四十沢の冷静な声が飛んでくる。

「今のこちらにそんな余裕はない。敵勢力は精鋭揃いだ。能力者もいる。雀森もサポートで手一杯。余計な事に意識を割けば、すぐにでも押し切られる」

「余計な事だと!?」椎葉に苛立ちが募る。彼女はそれを隠そうともせずに、感情のままにぶちまけた。「お前達の役目は『自然回帰』を……私達を守る事だろうがあ! それが契約だ! だったら無理を通せ! 私達のために死ね! 命を投げ打てッ!」

「『私達を守る』……か。勘違いも甚だしいぞ」四十沢の声に僅かに嘲りの感情が見えた。「我々の仕事は『自然回帰』という組織を守る事であって、所属する構成員については知った事ではない。そもそも、必要なデータの運び出しについては襲撃前に大部分が済んでいたのだろう? あとは物理的に移送しなければならないもののみ。それでさえ、最初の爆発に乗じて、物資を積んだ車が運び出している」

「だ、だが……私達は『自然回帰』の……!」

「しょせんは数多くいる幹部の一人に過ぎない。宇津井も唐松も……そして椎葉、お前もだ。いくらでも代わりはいる」四十沢は容赦なく現実を突きつける。「『自然回帰』を存続させるための最低限の目的は達成した。あとは物資が無事に到着するよう時間を稼ぐだけだ。命を投げ打つ必要があるのは俺達だけではない。組織のために死ね、椎葉」

 四十沢は椎葉の反論を聞く間もなく通信を切った。

 何度呼びかけても応答はない。画面の向こうで侵入者と戦い続けている。

 当然、その目に椎葉の姿は映っていない。

「クソ! クソ! クソが! クソが! クソがあああああああああああああッ!!!」

 怒りに任せて操作盤を幾度となく滅茶苦茶に殴りつける。皮の薄い拳から血が滲むが、そんな事はお構いなしに膿のような感情を絞り出し続けた。

「はあ、はあ……!」息を荒げつつモニターの群れに目をやる。

 こうしている間にも、何も映さない画面は増えていく。

 決して明るくないモニタールームから次々と光源が消えていき、薄暗くなっていく。

 それはまるで今の椎葉の心情と連動しているかのようだった。

 姿の見えない襲撃者。

 このビルのどこかにいる事は確かなはずなのに、それは実体のない霧のように掴みどころがなく、明確に捉える事ができない。

 募る。

 怒りよりも不安が。

 怒りよりも恐怖が。

 一人、また一人と連絡途絶になっていく幹部達。

 では。

 自分の番はいつ来る?

「あ。あああああああああああああ! ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ! 来るな、来るな! 来るなああああああああああああああ!! 消えろ消えろ消えろ! 消えろおおおおおおおおおおおおッッ!!!」

 血塗れになった手で、血に濡れた操作盤を操作する。

 まだ破壊されていない監視カメラを探し出すようにして、画面を次々に切り替える。

「どこだどこだどこだどこだどこだ……!」

 ギョロギョロと深海魚のように眼球を全方向に動かしながら、映像の隅々まで目を通していく。

 その時だった。

 椎葉のすぐ目の前にあったモニターが良く見知った景色を表示した。

 幅一メートルほどの狭い廊下。

 その奥には鉄製の扉。

 今日は良く通っている場所だった。

 当然ながら、現場を忙しなく歩き回っているだけでは、高層ビルの中全体を俯瞰し、構成員全員に指示を飛ばす事などできない。

 だから。

 今日はずっと『ここ』にいた。

 監視カメラから送られてくる情報や、構成員からの報告を『ここ』で聞き、その都度最適な指揮を取り続けてきた。

 そう。

 モニターに映っていたのは。

「『モニタールーム(ここ)』の……前……!」椎葉の顔面が死人のように蒼白になる。

 さながら極寒のさなかにいるかのように、椎葉の指先が、四肢が、体躯が震える。

 ガタガタと。

 ガタガタガタガタ! と。

「……あ、あ。あ」

 映り込んでいた。

 探していたものが。

 君臨していた。

 今の自分が絶対に邂逅してはいけなかったものが。

 モニタールームに続く廊下をゆっくりと歩く影があった。

 そいつは、軍人のように筋肉質な体つきをしていた。

 そいつは、ワインレッドのジャケットとジーンズを身に纏っていた。

 そいつは、左手に無骨な輝きを放つコルト・ガバメントを握っていた。

 一歩、一歩確実に。しかし、その足取りはどこまでも淡々としていて、この状況すら流れ作業の一環でしかないような印象を与えてくる。

 そして。

 辿り着く。

 扉の前で立ち止まった男は、何かを確認するかのように周囲を見回す。

 やがてサングラス越しの眼光が、とある一点を向いた。

 鉄製の扉を隔てながら、しかし椎葉と男は目が合っていた。

 ノイズ混じりの画面に無機質な表情が映っていた。

 男が左手のガバメント拳銃の銃口をこちらに向ける。

「――あ」

 次の瞬間、一瞬の銃声と共に椎葉の視界はブラックアウトした。

 永遠に。


  (12月17日 午後8時9分~午後8時10分 自然回帰、第一三支部、六階)


 東雲にとって絶対的な恐怖の象徴であった黒セーラー服の少女。それが徐々に崩されていく。キャスケット帽の女と、乱入してきた鉤爪使いの男。さらなる『未知』の存在が畏怖の感情を上書きしていく。

 そして東雲にも分かる事がある。

 あの二人は絶対にこちら側ではない事が。

 曲がりなりにも同じ陣営で戦っているセーラー服の少女とは違う。真っ向から対立し、殺し殺されるの関係でしかない。少女がやられれば、次は間違いなく東雲の番だ。

 ――俺には……何ができる……!?

 必死に思考を巡らせる。

 ――遅かれ早かれ、あの女は負ける……! 笹井さん達も今は周りにいない……!

 ――この状況をどうにかできるのは……俺だけ……

 握りしめた拳銃が否応なしに存在感を増してくる。

 ――けど……こんなものが……役に立つのか……?

 最初に本物の銃を見た時。最初に本物の銃を撃った時。その際、東雲は確かに感じていたはずだ、本物の凶器が持つ圧倒的な威圧感を。しかし、今はそれも揺らいでいる。

「考えたって仕方ない……!」東雲は迷いを振り切るように、決意を声に出した。「こいつで……あの女を援護するんだ……!」

 笹井から教わった通りに拳銃を構えようとする。

「――待て、早まるな。道はそれだけじゃない」と手首を何者かに掴まれる。いつの間にか戻ってきていた笹井だった。「その勇気は別の場面のために取っておくんだ」

「でも……どうにかしないとあの女が……」

「大丈夫。彼女は強いよ。彼女と一番長く一緒にいる僕が保証する。さあ東雲君、ついてきてくれ。この戦いを終わらせよう。それが彼女を助ける近道にもなるはずだ」


  (12月17日 午後8時35分~午後8時40分 自然回帰、第一三支部、三〇階)


 そこに何の感慨も湧く事はなかった。

 自身が幼い時から、そこそこ良くしてくれていた宇津井の死体が転がっていても、『ついに死んだのか』という淡白な感想しか出てこない。そう思ってしまうのは、自分がただ単に非情だからなのか。それとも自分が人間じゃないから、人の死を特別なものと思えないからなのか――どちらにせよ、自分がこの惨憺たる現実を冷静に受け止めている事だけは確かだ。

 メインコンピュータールームを出たすぐのところ――つまり、厳重なロック機構を持つ鉄扉の前には、生きた人間は自分以外にはいなくなっていた。

 自分にしかアクセス権限のないデータを持ち出すために、宇津井と共に部屋に入り、彼が必要な準備を済ませたのちに出て行ってもらい、そのまましばらく一人で作業に勤しんでいた。

 中身を確認する事もできないデータをUSBメモリに移し、元のデータは完全に削除した。そうして部屋から出てきたころには、手遅れとなっていた。宇津井も、警備の男性二人も、揃って血の海に沈んでいる。全員、頭を撃ち抜かれて絶命していた。

 ――警備の人達は巻き添え。殺した人の本来の目的は宇津井さんかな……?

 宇津井の目玉の片方と、首の肉が切り取ったようにしてなくなっていた。

 おそらく『証拠』とするためだろう。

 襲撃者がここに来るタイミングがもう少し遅ければ、自分も死んでいたはずだ。

 ――ここも、いつまで持つか分からない……。

 ――早く逃げないと

「――いけないだろうが、少し時間をもらえるか?」

 思考に滑り込むようだった。

 あまりにも自然に、そして滑らかに。

 背後から野太い声の質問と、冷たい金属の感触が突きつけられた。

「凄いですね。どこに隠れていて、どのタイミングで回り込んだんですか?」

「ただの技術だ。答えるまでもない」

「そうですか。でも、あなたは私に何かを答えさせるんですね」

「それについては申し訳ないと思っている」

「本当ですかー?」

「本当だ」

「……それで、訊きたい事って何ですか?」

「ああ……変な訊き方かもしれないが、それでもこう尋ねるとする。君は人間か?」

「……へえ」

 自分の表情が明確に変わった事に気づく。

 怒りからでも、不快感からでもない。

 嬉しかったのだ。

『それ』を知っていて、なおかつ『それ』について答えても構わない者に出会えた事に。

「……私個人としては、人間じゃないと思ってます。理由は……答えるまでもありませんよね?」

「ああ、そうだな」

 皮肉のつもりだったが、男は気にもしていないようだ。

「それで、したかったのはそんな話だけですか? 私が誰だか知っているのなら、あなたの標的には私も含まれているんでしょう?」

 自信ありげに尋ねたが、返ってきた答えは予想と反していた。

「いや、君については依頼内容に含まれていない。したがって、抵抗しない限りは殺害に値しない。そこの二人は応戦してきたので殺した。それだけだ」

「ずいぶんと優しい殺し屋さんですね」

「仕事に忠実と言ってほしい」

 まだ、後頭部に押し付けられた銃口が離れる気配はない。

「最後にもう一つだけ構わないか?」

「この際何なりと」

「君は今、幸せか?」

 訊かれ、思わず笑みが洩れた。

 何を馬鹿な事を言っているんだと。

 そんな事は決まっている。

「幸せですよ! 今年に入ってからは特に! 人生でここまで楽しいと思った事はないくらいに! 私は今、毎日が充実してます!」

「そうか、それは何よりだ」男の声色が柔らかくなった。「引き留めて済まなかった。早く逃げると良い。……君の日常を壊して悪かった」

「ふふっ……気にしなくて良いですよ。遅かれ早かれ、こうなっていたでしょうから、宇津井さん達は。その証拠に殺し屋さん以外の人達も攻めてきてる」

 ――たとえば、あの人達みたいに。

 目を細めて、こちらに銃を突き付けている青年二人を見据える。

 紺色のダッフルコートを着た青年と、グレーのパーカーの上からブルゾンを羽織った青年。共に大学生くらいだろうか。少なくとも、こちらよりは年上に見える。

 コートの青年は不敵な笑みを浮かべつつ、こちらへ向かって吐き捨てた。

「『自然回帰』のトップの娘さんですね? 申し訳ないですが、ここで討ち取らせてもらいますよ……!」

 口調から、青年達が僅かに息を切らせているのが分かる。

 ここまで階段で昇ってきたのだろうか。

 ――なら、エレベーターは使えそうにないかな……?

 ――ここから階段で逃げなきゃ駄目かあ。……面倒くさい……。

 前方と後方から銃を向けられているにも関わらず、心には不思議と余裕があった。

 自分を狙う襲撃者達を注視する。ここからでは良く聞こえないが、青年達が何かを話し合っているらしい事が分かる。コートの青年がほとんど一方的に話しているところを見るに、立場が上なのは彼で間違いなさそうだ(立ち居振る舞いである程度予想はついていたが)。

 ――さて、と。

 ――どうしよっか。

「……君、もしここから生きて逃げたいのであれば、こちらの言う事を聞いてくれ」

 不意に背後から囁くように話しかけられた。

「君を引き留めたのは俺だ。最低限の責任は取る」

「……律儀ですね」小馬鹿にするように言った。「別に殺し屋さんにとって、私の生死なんて関係ないでしょうに。ひょっとして私の事好きになっちゃいましたー?」

「違う」冗談の通じない男のようだ。「……この世界には望まれぬ産まれ方をし、苦悩し続ける者が多くいる。君以外にもだ。俺は、そういった人間を何度も見てきた。これは俺の身勝手な願いだが、もし彼らが幸せに生きたいと願うならば……俺は、それを誰にも邪魔させたくない。それだけだ」

「ふうん……」

 ――本当に、自分勝手な願いですね。

 その言葉を喉の奥に押し込み、相槌を打つのみに留めた。

 少なくとも、今この場において、男の思想は自分にとってプラスに働いているからだ。

 ――ま、利用できるものは何でも利用させてもらうかな。

 ――この場所から無事に逃げ遂せたいのは本心だしね。

「それで、どうすれば良いの?」


  (12月17日 午後8時38分~午後8時42分 自然回帰、第一三支部、三〇階)


「……僕が男の方を引き付ける。東雲君は、その間に標的を確保してくれ」

「……確保、ですか? あの標的って殺さなきゃいけないって、さっき……」

「僕があの女の子を『殺せ』と言ったら、東雲君は殺せるかい?」

 首を横に振った。

「だろう? だから確保で良い。初陣でそこまで求めはしないよ」

「……分かり、ました」

『自然回帰』のトップの娘であるとされる少女と、その後ろで彼女に銃を構えているワインレッドのジャケットの男。東雲でも一目見ただけで分かってしまう。危険なのは、あの男の方だと。

 ――二人の前に転がってる死体と、この状況から見て……あの男が『自然回帰』側の人間じゃない事は分かる。

 そして、お互いが少女を狙っているのならば、激突が避けられない事も。

 東雲に男の相手をできるとはとうてい思えない。

 だからこその役割分担。

 適材適所とは言えないが、これがベターな選択肢だろう。

 四人の間にピリピリとした空気が流れる。東雲以外は澄ました顔をしていた。

 ――とにかく……笹井さんが動くのを待っ……――!

 思考が途中で寸断される。笹井が自分を突き飛ばしたのだと一瞬遅れて気づく。

「……あ」間抜けな声が洩れる。

 ブレる視界の中で、こちらへ向かって踏み込んでくる男を捉えていた。

 彼が持つ銃の先から煙が洩れ出ていた。

 銃撃され、笹井に助けられたのだとようやく理解した。

 とはいえ、男は初撃を避けられた程度でうろたえる人間ではなかったようだ。勢いに任せて、両腕でエルボーを繰り出す。片方が東雲に。片方が笹井に。それぞれ襲い掛かる。顔面に強烈な衝撃が加わり、そのまま床に叩きつけられた。折れてこそはいなかったが、鼻腔から血が噴き出したのが分かった。

「ぐっ……!」

 無理矢理中身を掻き回されたかのような感覚の残る頭を押さえ、起き上がろうとした時、東雲の視界の端を何かが横切った。

 ――標的!? まさか、男の目的はあの子じゃない!?

 男の一撃を受け止めていた笹井も、自分の読みが外れた事に驚いているようだった。

「このままじゃ不味い! 東雲君! あの子を追え! 今すぐに!」

「は、はい!」

 踵を返すと、笹井を置いて駆け出した。

 少女を追う形で突き当たりの扉を潜り、階下へ続く階段を駆け下りる。

 ちょうど一階ぶんほど進んだ時、上の階から無数の銃声が響き渡った。


  (12月17日 午後8時34分~午後8時45分 地下街)


「お、砂木じゃん。何してんの? こんなところで」

「げ……朝丘先輩……」

 地下街にある小さな画材店。

 小学生のころから足しげく通っていたこの店は、砂木真人のお気に入りの場所でもあった。新しい紙と古い紙、そしてインクや絵具の匂いが漂い、ひと時の安らぎを与えてくれる……はずだった。

 それが、なぜこんな状況になっている?

 砂木の頭は、疑問符と隠せない不快感でいっぱいになっていた。

 目の前にいるのは、自分と同じ嘉島荘の住人である大学生、朝丘大司(たいし)。留年寸前のくせして日々バイトに明け暮れるアホだ。

「朝丘先輩こそ、何でこんなところいるんですか? ここには先輩の欲しがるものなんて何もありませんよ」

「いやいや、実はそうでもねえのよ」

 いわく、朝丘の働いている店(よく分からない名前の居酒屋)の店主がクリスマスに向けての集客のため色々考えた結果、店を聖夜仕様にリフォームする事にしたらしい。

「もちろん、クリスマスが終わったら元に戻さなきゃいけねえから、すぐに後片付けできるようにはするけどな」朝丘は商品を物色しつつ、「で、俺は看板に色々書き込むための絵具を探しにきたって訳だ。こういうところなら、デカいチューブに入った奴とかが安く買えるんじゃねえかと思ってな」

「……だからって、わざわざここに来なくても……」

「ん、何か言った?」

「いえ、何も……」

「じゃ、今度は俺の番だぜ。お前こそ、ここで何してたんだ? ――絵、描くのやめたんじゃなかったか?」

「…………」

 ――ほらな、これを訊かれるのが嫌だったんだ。

 左手で右手を強く押さえつける。

 砂木は不快感を隠す様子もなく、朝丘をねめつけた。

「別に……ただ店の雰囲気が好きなだけです。深い意味はありません」

「そっか。何か余計な事訊いてみたいで悪かったな!」

 対して、朝丘は特に気にしていないようだった。機嫌の悪さをこれ見よがしに醸し出す砂木を前にしても、全く意に介していない。

 ――何だよ……。

 ――これじゃあ、まるで俺が子供みたいじゃないか。

 内心でぼやく砂木を横目に、朝丘は手許の小さな買い物カゴに次々と巨大な絵具チューブを放り込んでいく。

「あ、そうだ」不意に朝丘がこちらを振り返る。「お前、このあと暇? 時間あるんなら、うちの店来ねえ? 高校生の一人暮らしなんてマジで金ねえだろ。奢るぜ」

「……そんな事言って、知り合い連れていって自分が店で酒飲むための口実にする気なんでしょう」

「あら、バレた?」

「ちなみに俺が一人暮らし始めてから、同じような会話すでに一〇回くらいしてるんですけど、やっぱり覚えてないですよね。あんた、酔い潰れるまで飲むので」

「おう! 何にも覚えてないぜ!」

「誇らしそうに言わないでください……」

 がっくりとうなだれながら、砂木は大きく溜息を吐いた。過去、一人暮らしをしようとしていた自分に嘉島荘を紹介してくれた事については感謝してるが、やはりこの男は苦手だ。土倉(つちくら)(こずえ)とはまた別の接しにくさがある。

「で、どうすんの? 潰れた俺の介護するだけで、飯が腹いっぱい食える訳だけど」

「……御馳走になります」

 とはいえ。

 しょせんは高校生の一人暮らし、金がないのも事実。

 背に腹は代えられないのだった。


  (12月17日 午後8時52分~午後9時2分 自然回帰、第一三支部、六階)


 ――こいつ、本当に無能力者かよ……!

 ――どんな訓練したら、こうなるんだっつーの……!

 絹花の表情には僅かながら焦燥が混じっていた。

 自分の『力』をもってしても、決して倒れぬ難敵。

 そんな奴がこの世にいるとは思いもしていなかった。

「どらあああッ!」獣のような雄叫びと共に鉤爪を振るう乱入者の男。

 もう片方の手に持ったダガーナイフも併用し、こちらの判断力を削ぎ落とすように間髪入れず連撃を繰り出してくる。

 ――これは、あんまり踏み込まない方が良いかな……?

 ――肩の傷の借りは返してやりたいけど、ここでリタイアしちゃったら、四十沢さん達にも迷惑がかかるし……。

 鉤爪男の攻撃を躱し、放射状に光線を飛ばしながら後退する。

 ――それに……。

 背後を突くように飛んでくる釘の連射を見やる事もなく、軽く腕を振って相殺する。

 ――こいつも実力は大した事ないけど、ハエみたいにブンブン飛び回って鬱陶しい。

 黒いセーラー服姿の釘使いの少女。先ほど始末した二人と同じく、能力者としての序列は絹花より格段に低い。事実、絹花の意識のほとんどは相対する鉤爪使いの男に注がれている。釘使いの少女に至っては、片手間で対応しているだけだ。絹花も、そして鉤爪使いの男も――。

 ――私達に敵わないと見るや否や『嫌がらせ』に切り替えたのは良い判断だけど……。

「そろそろ黙ってもらおうかね!」

 軸足を一八〇度回転させ、こちらの背後を取っていた釘使いの少女の方を振り向く。驚いた表情の少女へ向かって腕を突き出し、そのまま熱線を照射。少女の方はすぐさま自分の前面に大量の釘を出現させて防御姿勢を取る。しかし、絹花の『能力』の前では、そんなものなど大した意味を為さない。ガードごと少女の矮躯を吹き飛ばす。

 焼け爛れた制服の欠片が宙を舞い、ズタボロになった少女が散乱したデスクの群れに叩き落とされる。僅かに指先が震えたのち、意識を失ったのか、ぐったりとうなだれる。

 と、同時に背後からの急襲。

 鉤爪使いの男が振り抜いたナイフの軌跡が絹花の首を落とさんと迫る。

 ――さすがに、あんた相手に油断はしないよ。

 もちろん、男の行動は読んだうえでの『背中を見せる』という行為だった。

 絹花は腰を落としつつ斬撃をやり過ごし、鞭のようにしならせた光の束を男に向けて叩きつける。「ちいッ!」と男は飛び退ったが、光の先端がナイフの刀身を捉えた。ドロドロに溶けていく金属を見て、絹花は口の端を吊り上げた。

「これは勝負あったかね? 自慢の武器もあと一つ。それとも、まだ隠し持ってたりするか? ま、どちらにせよ地道に一つずつ潰していくだけだけど」さらに追い打ちをかけるように絹花は告げる。「どうする? 続ける? このまま退いてくれれば私としてはありがたいんだけど。殺し合いが本来の役目じゃないし」

「……そうやな、今回は退かせてもらうわ」

「およ? ずいぶんと素直じゃん」

 少し拍子抜けした。もっと食い下がってくるかと思っていた。

 男は使いものにならなくなったナイフを放り捨て、「さすがに、化け物相手に準備不足やったわ」と言った。「このまま遊んどったら収入ゼロのまま『定時』になってまいそうやしな」

「そ。なら良かった」

 絹花と鉤爪使いの男は向き合ったまま、一歩ずつ後ろに下がり距離を取っていく。

「ここに残ってる構成員なら好きにしちゃって良いよ。私達の目的はだいたい果たせたからさ。組織さえ無事なら他はどうでも良いからね」

「なら、お言葉に甘えて」

 男の背中がオフィスの出口のドアにぶつかった。

 絹花に対する警戒は保ったまま、後ろ手にノブを回し、扉を開く。

「ああ、そうそう。あんた、さっき言ってたわよね。『最近は骨のない雑魚』ばっかでつまらなかったって。私も同じだった。同じ『化け物』のカテゴリにいても、この差だしね」と気絶している釘使いの少女を指し示す。「でも、あんたとの勝負は結構楽しかったよ。傷負わされたのも久々だったし」

「安心せえ。次会った時は『楽しい』と思う間もなく殺ったる」

「はは、それこそ『楽しみ』に待っとくよ」

 男がオフィスを出ていく。

 しばらくすると、絹花が開けた天井の大穴から声がかかった。

「絹花。緊急事態だ。一緒に来てくれ」仲間の井筒屋だった。「今日最後の仕事だ。宇津井と共に行動していた令嬢が今、賊の襲撃を受けているらしい」

「宇津井は死んだの? お嬢様は一人?」

「雀森によると、宇津井も椎葉も唐松も死んだみたいだ。ここに詰めていた幹部連中は軒並みアウト。あの賊がやったのか、それとも他の連中がやったのかは分からないがな」

「あーらら」

 ――あの鉤爪野郎、残念だったね。

 ――私と遊んでなきゃ、もっと稼げただろうに。

「四十沢さんと遠藤さんは?」

「まだ戦闘中だ。雀森もサポートで手一杯。俺もすぐに戻らないと不味い。動けるのは絹花、お前だけだ。頼めるか?」

「了解。すぐに行ってくる。場所は?」

「今は一二階。令嬢の方は通常の階段と非常階段、それと各階のオフィスを行き来しながら相手を攪乱しているらしい」

「お、なかなかやりおるね、お嬢」

「だが、いつまでもつかは分からない。使い捨ての幹部連中はともかく令嬢の方は代わりが利かない。守ってやってくれ」

 絹花は軽くジャンプし、大穴の縁に着地する。「頼んだぞ」という井筒屋に、「任せといて」と返すと、上階へ向かう階段目指して駆け出した。


  (12月17日 午後9時13分~午後9時46分 自然回帰、第一三支部、一二階)


「くそッ……逃げ足が速い……! いや、向こうに地の利があるだけか……!?」

 東雲の目線の先を走る少女。体力もさる事ながら、動きに無駄がない。

 ――俺の方が先に息が切れかけてる……!

 ――このまま追いかけっこしてるだけじゃ、確実に取り逃がしちまう……!

 壊れたデスクや調度品が散乱するオフィスを駆け抜け、非常階段の出入口を潜る少女。

 東雲もそのあとに続く。

 ――埒が明かない! 次にこいつが広いところに出たら……撃つ……!

 拳銃を持つ指に力をかける。

 あの少女を取り逃がせば――作戦が失敗すればどうなるのか。分からないからこそ怖い。その恐怖心が凶器を人に向ける事への恐怖心を薄れさせた。

 下る。下る。下る。三階ぶんほど降りた時、少女が非常階段から飛び出した。

 ――チャンス! ここで決める!

 室内に飛び込んだと同時に拳銃を構える。

 銃声。

 莫大な運動エネルギーに負けた体躯が後方に投げ出される。

「が……はあッ……!?」しかし、撃たれたのは少女ではない。東雲の方だった。

 右肩に凄まじい熱を感じた。それはみるみる内に激しい痛みへと変わり、東雲の意識全てを支配する。「ぐああああああああああああああああああああッッ!?」

 ――あいつも……銃を……! くそお……!

 少女の手には、おもちゃのような超小型の拳銃があった。その銃口から硝煙があがっている。そこから放たれた銃弾によって肩の肉を弾き飛ばされたのは明白だった。

「逃がす……訳には……!」拳銃を左手に持ち替え、震える手で構える。照準の正確さなど知った事ではない。無我夢中で引き金を引いた。

 まともな力で握られていなかったせいか、その瞬間拳銃はあらぬ方向に飛んでいき、一瞬遅れてか細い悲鳴が聞こえた。

 東雲の意識はそこを最後に途切れる。


        ***


「……君、…………東雲君……!」

 どこかで自分を呼ぶ声がする。

 ぼやけた輪郭を新たに書き直すようにして意識を再構成し、東雲は重たい瞼を開く。

「笹井、さん……? それに皆さんも……」

 笹井や鮫島などの消耗品部隊の面々が東雲を取り囲み、少し離れたところでは沈んだ顔の少女がこちらを見ていた。

「気がついたか」と笹井が安堵するように言った。

「そうだ……俺……あの女を取り逃がして……」

「予想はしてたけど……そうか……」

「あの……俺……殺されるんですか? 作戦、失敗して……」

「それは……」

「さっき上から連絡があったわ」と割り込んできたのは少女だった。良く見ると顔中痣だらけになっており、なぜか笹井のものと思われる紺色のコートを着込んでいる。「相手側にも能力者がいた事……今回は想定外の事態が重なった事もあって、作戦失敗のお咎めはなし。その代わり『次』はない……そう言ってたわ」

 少女の言葉を受け、その場にいた全員が安心したように大きく息を吐き出した。やはり失敗すれば、碌な事にはならないらしい。

「とにかく」と笹井が切り出した。

 彼の方も無傷ではなく、顔は大きく腫れ上がり、片足を引き摺っているように見える。少女にコートを貸し、シャツ一枚のため、襟や袖から覗く包帯がさらに痛々しさを感じさせる。あのワインレッドの男と激戦を繰り広げた事を窺わせた。

「もうすぐ警察も来るだろう。早くここから脱出しよう」

 笹井の指示で鮫島が東雲に肩を貸し、動ける面々が先行しながら退路を確保していく。

「これからの事は、これから考えれば良い」笹井は軽い調子で告げた。「既存の消耗品部隊員は一人も欠けなかったし、新入りも一人増えた。まずはそれで良しとしよう」


  (12月17日 午後9時45分~午後9時49分 自然回帰、第一三支部付近)


 四十沢、絹花、遠藤、井筒屋、雀森の五人は、『自然回帰』第一三支部から少し離れたところの路肩に停めたバンの中にいた。

「結局、令嬢は見つからなかったのか?」運転席に座った四十沢が尋ねる。「雀森」

「申し訳ないですけど、全然見つかりません」とバン後方にいた雀森が答える。本来、後部座席があるはずの場所は雀森所有の機材によって埋め尽くされており、彼女専用のオペレーター室のような有様となっている。「お嬢様が支部から出ていく時の映像だけはありましたが、それ以降のものは見つかりません……」

 井筒屋が手を組みつつ、「裏側の人間の性が悪い方に出てしまったな」と言う。「街中の監視カメラの死角を縫うように歩かれたんじゃ、見つけようがない」

「ううう……面目ない……」と今にも泣きそうな声なのは、負のオーラを全身に纏わせた絹花だった。彼女は脱いだキャスケット帽を両手でいじくり回しながら、「私が間に合っていれば、こんな事にはあ……!」とさらにしょぼくれる。心なしか、彼女の銀髪も輝きが鈍くなっているように見える。

 結局、絹花は間に合わなかった。見つけられたのは肩を撃たれて気絶した青年だけ。雀森いわく、令嬢を追っていたのはこの青年のみだったので、彼が返り討ちに遭っていたという事は、令嬢は無事に逃げ切れたという事なのだろうが……。

「俺達が迎えに来れなかったせいで、お嬢様を保護できなかったのが痛てえな」遠藤が言う。「……つうかよ、そもそも何でお嬢様はあんな場所にいたんだ? 襲われる事が分かってんなら、わざわざこんな場所に来る必要ねえじゃねえか」

「それは私も思いました。組織側は全然情報も寄越しませんし……時間的にハッキングもできませんでしたし」

 雀森の言葉に絹花と井筒屋も同意するように頷く。

「その事については椎葉や宇津井に訊いた」四十沢が低い声で言う。「当然、口を開きはしなかったがな。俺達『よそ者』には教えたくなかったのだろう」

「ムカつきますね」むくれた顔で雀森が不満を洩らす。「こんなカルト組織に快く協力してくれるのなんて私達くらいですよ! それなのに恩を仇で返すような真似……! 許せないです……!」

「ま、そんなクソ野郎共だから一人残らず死んだんだ」晴れやかな表情で遠藤は吐き捨てる。「せいせいするぜ。多少なりとも媚売っときゃあ、助けてやったかもしれねえのによ」

「だが」と四十沢は二人の言葉を流して続ける。「奴らにとって重大な何かがあるのは間違いない。戦地に令嬢を送り込んでまで遂行しておきたかった事が」

「なるほど。それなら……」

「ああ」

 何かに気がついたらしい井筒屋に、四十沢は相槌を返し――

「今、『自然回帰』側も躍起になって令嬢を探している。だから、俺達で先に令嬢を見つけ、それをネタに組織を強請(ゆす)る。そろそろ『自然回帰』とも手を切ろうと考えていたころだ。ちょうど良い。後腐れなく全てを終わらせてしまおうか」

 賛成! と次々に声が上がった。

「しかし、それなら絹花の失敗はむしろ都合が良かったかもな」遠藤がニヤリと笑う。「連中の手にお嬢様を渡しちまってたら、まだしばらくイカレ組織と組んでなきゃいけなかったんだからな。良くやった! お姫様! お前は俺達にとって勝利の女神だぜ!」

 遠藤が絹花をからかっている横で、雀森が四十沢に言う。

「とりあえず、なぜ令嬢があの場にいたのかくらいは調べておいた方が良いかもしれませんね。一晩、時間をもらっても良いですか?」

「頼む」

 そう言って四十沢はバンを発進させる。一つ後ろの席では、おちょくられまくった心折れた絹花が、「絹花さんは鬱です。精神ズタボロです。しばらく動けません。だから今晩はシルフィンさんとして冒険します……」などとブツブツと呟いていたが無視した。


  (12月17日 午後9時45分~午後9時52分 コンビニ付近)


「いつまで吐いてんですか、文谷さん。さすがの私も、これ以上は介抱したくないんですけど?」

「う、おえ……、これが普通の反応だろう……! むしろ君は何で平気なんだ……!?」

 望実から手渡されたペットボトルの水を口に含み、口内をゆすいで吐き出す。次いで体が失った水分を取り戻すようにして、残りを飲み干した。「はあ……少しだけマシになったよ……」と言って、コンビニエンスストアの外壁に寄りかかる。

『自然回帰』の支部にて『潜入取材』を終えてからの望実は、幼児のように生き生きとしていた。あの目を覆いたくなるような惨状を真正面から見たにも関わらず、だ。

「あんな事があって良いのか……!? 日本で……あんな殺し合いが……!」

 あの場で見た光景が脳裏に焼き付いて離れない。

 治まったと思った吐き気が再び込み上げてくる。

「……これ以上吐いても、もう水買ってきてあげませんからね?」

「勝ってきてあげるもなにも、全部僕の金だろう……!」えずきながらも、良助は反論する。「君が今呑気に食べてるやつも……」

「だって文谷さん何も役に立ってなかったじゃん」

 望実は悪びれもせず、良助の財布の中身で買ったエクレアにかぶりつく。

「素人でも男手あれば多少は楽になるかなーと思ったけど、てんで駄目。私一人で忍び込んだ方が一〇〇倍効率良かった」

「ぐッ……」反論できない。事実、死体を見かけるたびに慌てていたのは良助だけだった。

「まあ、でも……」

 望実はエクレアを食べ終えると、指についたチョコレートを舐め取り、スマートフォンを取り出して操作し始めた。

「それなりの収穫はあったから満足してるけどね」

 写真フォルダを開いて、スワイプして写真を切り替えていく。

「全く……世間は思ったより狭いね。すぐそこにいたんじゃん、スクープは」

 望実が凝視する三枚の写真。

 そこに映っていたのは、黒いセーラー服の少女達。

 つまり、戸賀望実と同じ高校に通う者達。

 キャスケット帽の女、鉤爪を携えた男と対峙する鋼岬彩美。

 その鉤爪男と銀髪の男性が乗るバイクのサイドカーに収まっている白坂桔奈。

 そして――


  (12月17日 午後11時21分~午後11時32分 繁華街、某所)


「うぼおえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!」

 排水溝に土石流のごとく流れていく吐瀉物。もはやゲロだけでなく、もっと大切なものまで汚物に混ざって流れ出ているのではないかと勘繰りたくなる。

 見習うところも尊敬するところもない駄目大学生を横目に見つつ、砂木は呆れたように朝丘の背中をさすっていた。

「何をしてるんだ、俺は……」

 一七歳の高校生とは思えないほど疲れ切った表情で、砂木は夜空へぼやく。雨足は弱まっていたが、まだぽつぽつと小雨が降っている。

 朝丘のバイト先からの帰り道。宣言通り酔い潰れた朝丘を店長から押し付けられ、人通りの少なくなった道を野郎二人で歩き旅。こんな悲しい事があって良いのか。

「はあ……」ともはや何度目かも分からない溜息を吐く。「少しは治まってきたか……? 終電に間に合えば良いんだけど……」

 いざとなればここに置いていけば良いかなどと外道な事を考えつつ、スマートフォンをいじる。SNSアプリを開いてタイムラインを何気なく眺めていると、トレンドに気になる言葉があった。

「……? ここ……?」訝しげにトレンドワードをタップすると、この近くのオフィスビルが立ち並ぶ区画の写真がずらりと並んでいた。

 投稿には『ビルをテロリストが襲った!』『社畜の復讐や』『「自然回帰」の仕業じゃね?』『死体転がってる』『日本オワタ』『この前も似たような事なかった?』など様々なコメントが並んでいた。添付されている写真を見ると、確かにところどころ窓ガラスの割れたビルが確認できる。死体かどうかはともかく、倒れている人間の姿もあった。

「怖……、つうか、この辺にまだ野次馬たくさんいるんならやばくないか? 早く電車乗らないと一気にそいつらで込むかも……」

 事件そのものではなく、それによる二次被害の方を懸念する砂木。未だに排水溝に向かって気持ちの悪い呻き声を落とし続ける朝丘の尻を蹴り飛ばし、「ほら! 朝丘先輩! さっさと帰りますよ! 早くしないとすし詰め状態の電車で帰る事になりますよ!?」

「うぼよろろろ……ごめえーん、もうちょい……もうちょい頑張ったら全部出るから……だから、それまで」

「さっきも同じ事聞きましたから。もう面倒くさいです。良いから全部出せ。俺、明日も学校あるんだよ、このクソ大学生」

 途中で最低限の丁寧語すら放り投げ、思い切り朝丘の背中をどつき始める。

 その最中だった。

「……せん、ぱい……?」横合いから声が聞こえた。

 それは自分の良く知っている声。

 毎日のように学校で聞かされる声。

 望んでもいないのに幾度となく向かってくる声。

 だが、その声色だけはいつもとどこか違う。今にも消え入りそうな、か細く儚い囁きのよう。それは少しずつ砂木へと近づいてくる。

 学校指定の黒いセーラー服に身を包み、黒絹のように艶やかな髪をサイドテールに結わえた少女。今にも崩れ落ちてしまいそうな頼りない足取りで、しかし何かに導かれるようにこちらへ向かってくる。

「お前……こんなところで何して……というか、その腕……!」

 少女の左二の腕、正確にはその部分の制服が赤く染まっている。決して広い範囲ではないが、苦痛に歪んだ顔を見れば、どれだけ我慢しているかは明らかだ。

「せん、ぱ……」彼女の足から力が抜けた。糸の切れた人形のように、カクンと膝が折れ、そのまま地面にくず折れそうになる。

「――土倉!」

 その名を呼ぶ。朝丘を放置して駆け出し、倒れかかる梢の体を受け止める。

「おい、しっかりしろ! どうしたんだよ、この傷!? 誰にやられたんだ!?」

「せんぱい……お願い、します……」かすれる声で梢は懇願してきた。「匿って、ください……誰の目も届かないところに……まだ、死ぬ訳にはいかないん……です……」



  ――Lost Girl Online_system――

  ――クリスマスイベント開催間近!――

  ――特別ミッションをクリアして限定武器をゲットしよう!――

  ――イースレインさんがログインしました。――


イースレイン〈こんばんはー〉

アヤカ〈お、イースくんいらっしゃい〉

リッパーT〈よう、イースレイン。久しぶりやな〉

ラージヒル〈イvmンbrwmp:オkAWエ;イn〉

ブルーメ〈やっほー!〉

ベル〈……久しぶり、じゃなくて、単にTが、インしてなかった、だけ〉

シルフィン〈どもども。でも、イース君昨日来てなかったよね?〉

シルフィン〈最近はいつもいたから、ちょっと心配してたよ〉

イースレイン〈あはは……ちょっと私用がありまして……〉

ラージヒル〈jしqhdbhebcu〉

イポティス〈おっすー。これで8人。久々に全員揃ったな〉

ラージヒル〈絵rtyqwudjv;ptp 祖dpr;位h〉

アヤカ〈最近はインするタイミング、バラバラだったもんねー〉

アヤカ〈Tの奴に至っては一週間くらいいなかったし〉

リッパーT〈年中暇なお前と一緒にすんなや。こっちは毎日忙しいねん〉

ラージヒル〈おdmfnibにおえfhweopfn〉

イースレイン〈……ところで、ラージヒルさんはどうしたんですか……?〉

イースレイン〈さっきから、まともな言葉喋ってないんですけど……〉

ブルーメ〈あ、それ私から説明するね!〉

ブルーメ〈ラージヒルさん、今酔い潰れちゃってて、リアルの方でもまともに話せなくなっちゃってるの。さっきからキーボード無茶苦茶に叩いてるだけだったり〉

ラージヒル〈ヴぉptみふおおんぷお@あ、が4おぽ5いhw@〉

イースレイン〈酔い潰れてって……ていうか、ブルーメさんとラージヒルさんってリアルで知り合いだったんですか?〉

イポティス〈ノーノー。さっき知り合ったばっかだって〉

イースレイン〈さっき?〉

ブルーメ〈私の知り合いの友達だったんです! ラージヒルさん!〉

ブルーメ〈それで今、ラージヒルさんの家に三人で集まってる感じです!〉

ラージヒル〈「:えgtph」うぃうえpせtごえいsんt48pwm〉

イースレイン〈なるほど、それで……。しかし凄い偶然ですね……〉

シルフィン〈本当びっくり。世間って案外狭いよねー〉

シルフィン〈もしかしたら、私達の中の誰かもリアルでは繋がりがあったりするかも?〉

リッパーT〈さすがにそうそう起きんやろ、そんな偶然は〉

シルフィン〈まあ、普通に考えたらそうだけどさ〉

イースレイン〈もし、そうなら面白いですよね〉

イポティス〈ゲームとは関係ないけど、私も今日つくづく痛感したね〉

イポティス〈どこで誰が誰と繋がってるかなんて、結構分からないものよ〉

ラージヒル〈あもいぺjばmvと@yぱmp「mぼput4up単価ho〉

イポティス〈しかしウルセエなこいつ……〉

ベル〈ブルーメさん、今、ラージヒルさんと、一緒に、いるんでしょ?〉

ベル〈だまらせて〉

ブルーメ〈はーい!〉

ラージヒル〈ういsてゃえmhhhっほppうぃbysぽよおよあいいpヴぉや3pybぽいうygfdxq127いおl@0-おwjbqにyhん53yhwぽいえj〉


  ――Lost Girl Online_system――

  ――ラージヒルさんがログアウトしました。――


イースレイン〈あ〉

シルフィン〈全員揃うのは、また少し先になりそうだねー……〉


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