第一章 雨の日、ロストガール
第一章 雨の日、ロストガール
――Lost Girl Online_system――
――シルフィンさんがログインしました。――
ラージヒル〈お、シルフィンさん。どもっす〉
シルフィン〈どもども。あれ? 今日ラージ君だけ?〉
ラージヒル〈そうなんすよ。もう30分くらい待ちぼうけで。誰も来なかったら1人でミッション行こうと思ってたくらいっす〉
シルフィン〈イース君もいないなんて珍しいね。ここ最近、夜はいつもいたのに〉
ラージヒル〈ですよねー〉
シルフィン〈で、どうする? このまま他の人達来るまで待つ? それとも私達だけで行っちゃう? ぶっちゃけ、私も今日は長い間いれないし〉
ラージヒル〈あ、そうなんすか。じゃあ2人で出発しましょうか。俺も明日小テストあるし、さっさと切り上げるかな……〉
シルフィン〈おいおい学生、ゲームなんてしてる暇ないじゃねえか〉
ラージヒル〈大丈夫っすよ。別に明日のテスト一つで成績決まる訳じゃないっすし〉
シルフィン〈同じような事言って、前期は単位落としてなかったかー?〉
ラージヒル〈…………〉
シルフィン〈無視すんなコラ〉
ラージヒル〈すんません〉
――Lost Girl Online_system――
――ベルさんがログインしました。――
ベル〈……何、話してるの?〉
ラージヒル〈お、ベルさん。どもっす〉
シルフィン〈どもども〉
シルフィン〈いやね。このアホ学生がテスト勉強ほっぽって遊び呆けようとしてたからお姉さんがガツンと言ってやろうかと思ってたのよ〉
ベル〈……それは、いけないね。ね。ラージヒルさん〉
ラージヒル〈ちょっとー! ベルさんまでそんな事言うんすかー!〉
ベル〈今日、人、少ないね。3人で、行くの?〉
シルフィン〈そうそう。ちょうど、それ話してたトコ。私もラージ君も明日用事あるから、さっさと行って、さっさと解散しよって〉
ベル〈そっか。じゃ、ボクも、そうする〉
シルフィン〈クラスどうする?〉
ラージヒル〈いつも通りで良いんじゃないっすか? ここにいるメンバーで、アサルター、ガンナー、サイキッカーで、オールラウンダー以外揃ってるし〉
シルフィン〈それもそうだねー。じゃあ今から行こっか。部屋建て私がやっても良い?〉
ラージヒル〈オーケー〉
ベル〈ボクも、それで、良いよ〉
シルフィン〈れっつごー〉
(12月17日 午前5時8分~午前5時10分 高架下)
霧崎鷹は口許から白い息を吐き出しつつ、目の前の男を挑発するように見やった。
「観念した方がええで、おっさん。俺に狙われたんが運の尽きや」
周囲に人の姿はない。
元々人通りの少ない場所ではあるのだが、今の時刻は午前五時を少し過ぎたところだ。
そもそも起きている人間自体が少ない。
街灯の明かり一つ届かない高架下にて、霧崎の鋭い視線が瞬き、男を射抜く。
黒いステンカラーコートの袖から大ぶりの『鉤爪』を覗かせ、一歩ずつ男に歩み寄っていく。布と金属が擦れ合う異質な音が、静寂の中を滑り抜ける。
「……なぜだ?」と絞り出すような声がした。「なぜ俺が狙われなければいけない……」
「今さら分かりきった事抜かすなや」霧崎はぶっきらぼうに吐き捨てた。「この前の開発工事現場での事故……あれ、事故やなくて、お前らが仕組んだ『テロ』やろ?」
霧崎に突きつけられた内容に、心当たりがあったらしい。
男の喉元から生唾を飲み込む音が聞こえた。
しかし男は尚も抵抗するように、「違う……!」と首を振った。「俺がやったのは現場指揮だけだ……作戦そのものを立ち上げたのは――」
「ンな事俺かて知っとるわ。重要なのはそこやない。お前が、あれに関わった人間かどうか。それだけや」
男の肩が小動物のように震えた。
霧崎は構わず続ける。「俺の仕事は、少しでもテロに組した奴を探し出して殺す事や。大元の作戦立ち上げた奴やろうと、現場指揮してた奴やろうと関係ない」
そもそも、と霧崎は一拍置いてから告げる。
「一番上でふんぞり返っとる奴なんて簡単に見つかる訳ないやろ。だから『枝』の方から切るんや。お前みたいな中間管理職から始まって、そんで現場の実行部隊共……全てを丸裸にして親玉が出てくれば、そいつを叩く。たとえ出てこんかったとしても、しばらくはおとなしくさせられるやろ。そのあとの対策は、俺の上の連中に任せる。それで万事オーケーや」
男は悟ったらしい。
もはや自分が逃がしてもらえる確率など万に一つもないと。
「くそッ!」と毒づきながらズボンのベルトに手を伸ばす。しかし、その動きは霧崎から見れば赤子同然。曲がりなりにも裏の世界で生きているプロとして、及第点にすら達していない挙動だった。
その証拠に――。男がベルトに挟んでいた四五口径の拳銃を抜き放つと同時に、いつの間にか肉薄していた霧崎の鉤爪が銀の軌跡を描く。
「もう終わりにしてええやろ? こっちは朝弱いねん。さっさと寝かせてくれや」
金属が地面に叩きつけられる甲高い音と、熟した果実が落下した時のような湿っぽい音が同時に響いた。直後、苦痛に顔を歪めた男の口腔から絶叫がほとばしる。
手首の辺りから裁断された腕の傷口上部を、無事な方の手で締めつけて止血を図る。
「ぐ……えああ……ひぐっ……」言葉にならない呻きを洩らす男。その表情に、もはや霧崎に対する敵対心はない。あるのは、ただ純粋な恐怖だけ。
歪な断面から、ぼとぼとと滴る液体。その様は、さながら消費期限の迫った食肉から滲み出す色素交じりの水分のようだった。
「とりあえず」
男の頭上から死神の声がした。
「先にあの世に行っとけや。あとで他の連中も連れてきたるから」
(12月17日 午前6時47分~午前6時48分 地下鉄駅ホーム)
頭の中に何かが蠢いている。
それは疲れ切った自分の脳みそに直接甘い毒を打ち込んで、ゆっくりと細胞を溶かしながら、確実に宿主の判断力を削ぎ落としていくのだ。
文谷良助は、錆びた金属製レールを見下ろしつつ、漠然とそんな事を考えていた。
――ああ。
――苦しい。
――息苦しい。
くたびれたスーツの質感が肌に馴染まない。
首を絞めつけるワイシャツの襟とネクタイが煩わしい。
光沢を失った革靴の表面は、死人のような相貌をおぼろげに映す。
そして飾り気のないコートは、周囲の景色と自分を混ぜ合わせ、同化させる。
虚しかった。この囚人服を毎日着ている自分自身が許せなかったし、逃げ出すための一欠片の勇気さえ振り絞れない自分が情けなかった。
電車の到着を告げるアナウンスが響き、次いで空気の攪拌される音が轟く。
「ああ、今日こそ行けそうだ」周りに聞かれるのも構わず、良助は呟いた。
凝固した大気がこちらに押し寄せてくる。薄っぺらいコートの襟と裾がはためく。整髪料で不格好に固めた髪がなびく。剃刀負けした口周りの皮膚が、冷たい風に当てられてヒリヒリと痛む。
自らを苛む空気の奔流を押しのけて、良助は一歩を踏み出した。
列など気にも留めず、立ち塞がる肉壁の隙間に自身の体躯を捻じ込む。耳許で罵声を浴びせられたが、取り合わなかった。
擦り切れた靴底で、点字ブロックを踏み越える。
向かう。
まだ列車の到着していないプラットホームの外側へと。
宙空に投げ出すように。
その足を――
(12月17日 午前6時48分~午前6時54分 路地裏)
鉛色に染まった雲間から一滴の雫が落ちた。
それを皮切りにして次々と降り注ぐ大粒の雨。足許のアスファルトはあっという間に濃く染まり、雨天の日独特の匂いが鼻腔を突く。
――傘を忘れてしまったな。
上空を見やりながら、久郷は内心で溢した。身につけたサングラスで黒透明になった視界に水滴がこびりつき、見える景色が蜃気楼のように歪む。
ワインレッドのジャケットと簡素なジーンズが濡れるのも構わずに、久郷は迷いなく路地裏の奥へと歩を進めていく。所々に皹の入ったコンクリートの地面には、大小様々な水溜まりができていた。使い古した革靴で踏み締める度に、劣化した生地の隙間から水が染み込んでくる。
幅一メートルにも満たない細い道を辿っていき、突き当たりの角を曲がる。
視界の先にこれ以上の道はなかった。
行き止まりである。
しかし、何もなかった訳ではない。
そこにあったのは簡易的なテントだった。
塗装の剥げた物干し竿を骨組みにして、ぼろきれのようなブルーシートが屋根代わりに掛けられている。頼りない屋根の下には、綿の飛び出たソファが一つ置いてある。
「待っとったで。あんたが久郷か」
ぼろぼろのソファには一人の男が腰掛けていた。
派手に染めた金髪にシルバーフレームの眼鏡。紺色のマウンテンパーカーのファスナーは一番上まで閉められている。細身のスキニージーンズによって脚のラインが協調されており、彼が不健康なほどに痩せ型な事を窺わせる。
男の言葉に返事をする前に、久郷は確認を取った。「西條勉で間違いないな?」
「いかにも」と男――西條は肯定の意を示し、「傘持ってきてないんか?」と尋ねた。「風邪引くで。こっち来たらどうや?」
「構わない。ここで話そう」
「……ずいぶんと慎重やな? 信用できへんか? 初めて会う『仲介者』は」
「気を悪くしたのならすまない。なにぶん、こういう性格でな」
「いやいや、別に気にしてへん。他県から雇った連中なんて、たいていそんなもんやしな。こっちの連中がフレンドリー過ぎるだけやからな」
時間かけて仲良くなっていこうやと言うと、西條は足許にあったサイフォン式コーヒーメーカーを手に取った。
「まあでも、これくらいご馳走させてくれや。俺も同じもん飲むなら安心やろ?」
少しだけ考え、久郷は頷いた。「いただこう」
西條は、ソファの端の木版部分にメーカーを乗せ、近くに置いてあった鉛蓄電池にコンセントを刺した。次いで機器の蓋を空け、フィルターをセットすると、ペットボトルの水とレギュラーコーヒー粉末を入れ、電源をつけた。
「普段、珈琲は飲むか?」と西條が問いかけてくる。彼の目線は、琥珀色の液体が垂れ落ちてくるサイフォンの容器内部に釘付けとなっていた。
「飲むには飲むが」久郷は簡潔に答えた。「わざわざ機械を使って淹れる事はないな。たいていは缶コーヒーか、インスタントだ」
「もったいないと思うで、それ」西條の視線は変わらない。「良いか。珈琲ってのは単に『飲む』だけのもんやない。豆の香り、淹れる過程、飲む時間、そして味を楽しむもんなんや。さすがに豆から挽けとまでは言わんけどな。缶やインスタントやったら絶対に味わえないもんがある」
「なるほど。では、機会があれば俺も試してみよう」
「おう、後悔はさせへんで」
しばらくの間、雨音と、それに溶けるように混じる珈琲の滴る音だけが周囲を包み込む。都会のど真ん中にいるはずだが、不思議と他の騒音は聞こえないような気がした。
――確かに、悪くない趣味かもしれないな。
やがてメーカーの上部容器の中の水がなくなったのか、機器からゴボゴボという音が聞こえてくる。それを確認すると、西條は下部容器を取り出して、二つのカップに注いでいく。
「ほら、飲んでみい」カップの内、片方を差し出してくる。
立ち上る湯気と共に周囲を満たす香りが、脳の奥にまで届いてくるような錯覚がした。
カップを受け取る。容器の側面は想像していたほど熱くはなく、特に冷ます事もなく飲めそうだ。
僅かな量を口に含む。直後に舌を通り抜ける芳醇な苦み。市販の缶コーヒーとは違う。味覚を突く刺激は、あとに不快感を残す事なく、静かに、かつ存在感を示しながら神経の奥深くへ浸透していく。
「美味いな」と久郷は一言口にした。残りの珈琲も全て飲み干し、カップを西條に返す。「体も温まった。……すまないな、上手く味を表現できない」
「構わん構わん」西條は少年のように笑いながら、「分かってくれる奴がおる。それだけで満足や」と言った。彼の持つカップの中には、まだ液体が残っている。
「では」
「ああ、そうやな」
そこで。この場を流れる空気が変わった。
都会の喧騒すら掻き消すほどの雨音の中、西條は囁くように、それでありながらこの場の景色の全てを震わせるように、単純な言葉を告げた。
「『仕事』の話を始めよか」
(12月17日 午前6時50分~午前7時3分 嘉島荘、203号室)
結局、あれから一睡もできていなかった。
右肩。左手の甲。右ふくらはぎ。そして左太腿。
昨晩、『釘』を突き立てられた箇所がじくじくと痛む。
万年金欠の貧乏学生がまともな救急箱を用意しているはずはなく、傷口を覆っているのは包帯などという上等なものではない。安物の絆創膏を敷き詰めて張りつけているだけだ。もちろん、ありったけの消毒液と酒で創傷部を殺菌してはいるが。
厚みなど全く感じられない煎餅布団に寝転がっていた東雲は、絆創膏の上から傷をさすり、「何だったんだ、一体……」と呻いた。
すでに何度も思い返した昨晩の出来事を、再び脳内に構築していく。
***
全ての始まりは、一二月一七日の深夜一時を少し回ったところだった。
大学も二学期の後半。クリスマス直前には二週間ほどの冬休みが始まる。当然、履修している講義の内、レポート課題のある科目はこの時期に合わせて宿題を課す。提出期限はたいてい年明けから一〇日程度を目安としていたが、東雲としては期限ギリギリまで取り組むつもりなど最初からなかった。
だから、ある程度の点数を稼げるくらいまで仕上げたものをさっさと提出して終わりにする腹積もりであった。
要するに、大学から自身の住む格安ボロアパートに帰ってから、一歩たりとも外に出ず、レポート作成に勤しんでいたのである。
合計三つある課題の内、二つを書き上げ、そして最後の一つも規定文字数の半分ほどを埋めた時点で、ノートPCのモニター右下に表示されているデジタル時計が、深夜一時過ぎを告げていた事に気がつく。
「おっと、そろそろだった」
書きかけの文書を上書き保存してから、ワープロソフトを閉じる。
そのまま立ち上がり、台所に向かっていく。電気ケトルに水を入れ、電源を入れる。水切り台に立てかけてあったマグカップを手に取り、インスタントコーヒーの粉を投入しようとした時に、ようやく容器の中が空になっていた事に気づいた。
「しまった……今日の朝使い切っちまったんだった……」
小さく舌打ちすると、東雲はスマホを使ってもう一度時刻を確認する。
「今から行っても間に合うよな……」
普段利用しているオンラインゲーム。いつもパーティを組む面子はたいてい、この時間にログインしているので、なるべく遅れたくはなかった。とはいえ時間が時間。さすがに眠気が酷いため、最低限のカフェインは取っておきたい。
畳の床に投げ出されていたグレーのダッフルコートに袖を通す。部屋の鍵を持ってドアから外に出ていく。短い廊下を抜け、錆びた金属の階段を下りる。部屋の中にいる時は分からなかったが、どうやら小雨が降っているらしい。車も人も通らない道路にポツポツと水滴が当たり、小さな染みを作っている。
一瞬、傘を取りに戻ろうかと考えたが、すぐ近くのコンビニに買いにいくだけなので、そのまま行く事にした。帰りに雨足が強まっていれば、安いビニール傘でも買えば良いと考えながら――。
おそらくは。
ここが自分に与えられた最初で最後の機会だったのかもしれない。
ここで考え直して、家に一度引き返していれば。
あるいは、わざわざコンビニにまで詰め替えを買いにいく事などせず、アパート前の自販機に売ってある缶コーヒーで我慢していれば。
これから起こる惨劇の当事者になる事はなかったのかもしれない。
***
普段良く知っている道。
普段良く知っている景色。
なのに。
今眼前に広がっている光景には、自分の知っている『当たり前』が一つとしてない。
降りしきる雨の匂いに混じって、生理的嫌悪を催すような鉄臭さが鼻の奥を刺す。
ペンキの入ったバケツの中身をぶちまけたかのように、黒いアスファルトの上には鉄臭さの元凶が飛び散っている。雨に溶かされても溶かされても、その深紅の液体が薄まる様子は一向にない。
赤い水溜まりの中央には、横たわる影が一つ。
そして。
そのすぐ側に佇む影が一つ。
倒れ伏したシルエットは男性のもののようで、ダウンジャケットを着た大柄な体躯が、物言わぬ肉塊と化している。その四肢、胴体、首、頭には、びっしりと『何か』が突き立てられている。
目を凝らしてみると、それが『釘』である事が確認できる。
長さ一〇センチほどの金属製の棒。その使われ方は、本来の用途とは程遠い。
「な……」
どさりと、手にしていたビニール袋が落ちる。インスタントコーヒーの容器やエナジードリンクの缶、スナック菓子の袋などが散らばる。
東雲は動けずにいた。広がる光景に、頭の処理が追いついていない。真っ白になった脳内には、いくら待てども言葉一つ浮かんでこなかった。
「……そう」
死体の傍らで佇むもう一つの影が、立ちすくむ東雲を意識に捉えた。
少女だった。
黒を基調としたセーラー服の上からベージュのカーディガンを羽織り、制服と同色の髪は肩の辺りで切りそろえられている。僅かに目許が隠れる程度に前髪は伸びていて、その表情を窺い知る事はできそうにない。
ローファーの底で粘り気のある水溜まりを踏みしめながら、こちらに向かってくる少女。
次に彼女の取った行動はシンプルだった。
右腕を軽く掲げ、そのしなやかな指先を東雲に突きつける。
その直後、彼の四肢は激烈な痛みによって支配された。
倒れ伏す直前、東雲が見た景色は、吹いた風で前髪が掻き上げられた少女の相貌。
そこに張りつけられていた表情は、氷のように冷たく、こちらを蔑むような質のものだった。
***
痛みはかなりマシにはなっていたが、それでも完全に引く様子はない。
「くそっ……痛ってえ……! 何で俺がこんな目に……」
悪態を突きながら、東雲は布団から起き上がる。
あの晩、意識を失ってから数十分後に東雲の意識は戻った。痛みを我慢して確認したスマートフォンの画面に映し出されていたデジタル時計は、午前二時を指していた。
周囲を見回しても少女の姿はおろか、男の死体すら見当たらず、血まみれだった路面も綺麗さっぱりその痕跡を消していた。四肢に残った鈍痛だけが、あの出来事が現実のものであった事を思い知らせてくる。
結局、昨夜は傷の処置をしたのち、ゲームにログインする事なく布団に潜り込んだ。
もちろん眠気など完璧に吹き飛んでいて、空が白むまで意識を手放す事はなかったのだが。
「…………」
四畳一間の空間に、一つだけ備えつけられた小さな窓を見やる。夜明け前に少しの間だけ雨足は弱まっていたが、今はまた強くなっている。自動車のエンジン音と合わさって、滴がアスファルトを叩く音が聞こえてくる。
――大学……行かないとな。
たとえ何が起きていたとしても、こうして朝はやってくる。どんな非日常が自分を襲ったとしても、そのあとに姿を見せるのは何でもない日常なのだ。
意識を切り替え、仕度を始める。普段着用しているジーンズやコートは穴だらけで着れたものではない。カーキ色のカーゴパンツとグレーのパーカーを着込み、その上から安物のブルゾンを羽織った。
ノートPCに差しっぱなしにしていたUSBメモリを抜き取り、布製のケースにしまい、そしてケースごとリュックサックに押し込んだ。
「……今日はさっさと帰って、ロストガールオンラインにログインしとこう……」
とにもかくにも、自分の良く知る『当たり前』の中に潜り込みたかった。
モニターの先にいる顔も名前も知らない誰かと――自分の抱える事情など全く知らない人達と繋がりたかった。
(12月17日 午前6時50分~午前7時53分 地下鉄駅ホーム)
高速でホームに飛び込んできた電車が、徐々に速度を落とし、所定の位置に扉部分を正確に合わせて停車する。一拍遅れて扉が開き、大勢の人間がホームへと降り立つ。そして入れ替わるようにして再び大勢の人々が社内に乗り込んでいく。
いつもの光景。
変わらぬ日常。
退屈な繰り返し。
何も事件など起きぬまま、いつも通りに出発していく電車。
すっかり人の掃けてしまった地下ホームにて、ぽつりと取り残された影が二つあった。
「……何してんのよ、おっさん」
良助は何が起きたか分からなかった。なぜ、未だ自分の意識が残っているのか。なぜ、自分の革靴は白線を少し過ぎたところで留まっているのか。
なぜ。
自分の右腕が、痛いほどに力強く握り締められているのか。
「こっち向きなよ」後ろから声がした。いや、正確には先ほどからずっと聞こえていた。ただ、それが自分に向けられているものだと理解するのに時間がかかっていたのだ。
糸の切れた人形のようにぎこちない動きで振り返る良助。
目に入ってきたのは、どこかの学校の制服だった。
黒を基調としたセーラー服を着た高校生くらいの少女だ。艶のある長い黒髪をポニーテールに結わえ、素材の良さを活かすようなナチュラルメイクを施した顔が、こちらを睨みつけていた。
少女は良助の右腕を掴んでいた手を離すと、首に巻いていたマフラーを巻き直す。
「どうしてくれるのよ」少女は不機嫌さ丸出しな声で毒づいた。「おっさんのせいで電車、乗り遅れちゃったじゃない。これ逃したら学校遅刻確実なのに……」
「乗れば良かったじゃないか」
気づけば、そんな事を口にしていた。
「乗る暇くらい、あっただろう」
「私が止めとかないと、おっさんが何するか分からなかった」
「……何かって、何だよ」
「自殺」きっぱりと少女は断じた。「たとえ到着するタイミングで飛び込めなくても、出発するタイミングで、電車とホームの隙間に飛び降りれば十分死ねるでしょ」
「思いつきもしなかったよ」本当だった。「君が僕の邪魔をしたせいで、頭が真っ白になってた」
「そう。でも、念には念を、ってね」
言って、少女は鞄の中からスマートフォンを取り出すと、何やら操作を始めた。指の動きからして文字を打ち込んでいるようだ。メッセージアプリか何かを使っているのだろうか。
一通りやる事が済んだのか、少女は端末を鞄にしまい直し、「何か奢ってよ」と言った。「おっさんの自殺未遂止めたせいで学校行けなくなったんだから、責任取ってよね。あと、命救ってあげた事のお礼も兼ねて」
――救ったんじゃない。邪魔したんだ、君は。
今の今まで気が付かなったが、良助の両脚は小刻みに震えていた。事態が過ぎ去り、自分の内心を客観的に見れるようになっていく過程で、さらに気づく。
震えの正体が『恐怖』から来るものである事。
そして、死ねなかった事に対して、落胆している以上に『安堵』している自分がいる事――。
「…………」
おそらく、もう一度同じ事をしろと言われてもできないだろう。
脳の奥と両脚に刻み込まれた恐怖が、勇み足を竦ませてしまう。
「ほら、おっさん何してるの。早く行こうよ」数歩前に進んでいた少女が促す。
「君の、せいで……」
「ん?」
「君のせいで、僕も間に合わなくなった。この電車を逃したら、遅刻確実だったんだ」
「どうせ死ぬつもりだったんでしょ? 遅刻も何も関係ないじゃない。上司の叱責も、同僚の冷たい目も、仕事の進行度も何もかも。全部投げ出して逃げ出す気だったんなら、ちょうど良かったじゃない。朝っぱらから女子高生連れて歩いて、警察に捕まったとしても関係なし。だって、おっさんにはもう失うものなんてないでしょ?」
(12月17日 午前8時42分~午前9時1分 狐根山高等学校、校内)
「せんぱーい! おはようございまーす! さあさあ! 今日こそ私と共に美術室へ行きましょう! そしてせんぱいの腕を存分にひろぶへえッ!」
盛大に校則違反をしながら突撃してきた土倉梢の顔面を、教科書類の詰まった鞄で受け止め、そのまま無視して教室へ向かう。
「ちょ、待ってくださいってば! ああ、分かりましたよ! 照れてるんですよね!? そうでしょう! こんな可愛い後輩がお出迎えしてくれてるから! でも安心してください! 今の私が欲しいのはせんぱい自身じゃなくて、せんぱいが絵を描く姿! あ……でも、もちろんそのあとせんぱいが望むならぎゃふんっ!」
鼻血を垂らしながら再度詰め寄ってくる梢を、同じく鞄でガード。彼女の鼻から流れる血が、さらに勢いを増す。
「何度も言ってるだろが! 俺は美術部員でも何でもない! 頼むから付きまとわないでくれ!」
砂木真人は、梢に負けず劣らず大きな声で叫ぶ。そして直後に自分の失態を悟った。
二人のやり取りを聞きつけたのか、多数の生徒がこちらを取り囲み始めている。
――しまった……!
――くそ、土倉め……俺の学校生活を滅茶苦茶にしやがって……!
なおも張りつこうとする梢を押しのけて、砂木は強引に自分の教室に入っていく。食い下がろうとする梢を、クラス委員長の眼鏡少女が襟元を掴んで連行していく。
「今日も朝からモテとるのう? 砂木くん?」
自分の席に座るなり、一つ前の席にいた少女が声をかけてくる。
黒を基調としたセーラー服の上から学校指定のジャージを羽織った彼女の名前は、武田香織。砂木と同じクラスの不良少女である。くせ毛混じりの黒髪のボブカットの下に覗く顔の造形は、決して悪くないのだが、いかんせん常に人をおちょくるような表情が浮かんでいるのはいただけない。正直、梢と同じくらい苦手な人種だった。
「モテてるんじゃない。向こうが勝手に付きまとってきてるだけだって」
「おーおー、言うねえ。今の言葉、クラスの非リア充共に伝えてやったら、どんな反応が返ってくるかねえ?」ニヤニヤと笑いながら周囲の男子生徒達を見回す香織。
「やめてくれ……」観念するように溜息を吐く。「俺が悪かった」
しかし白旗を挙げたところで、この女が引っ込むはずもない。
「で、実際のところどうなの?」身を乗り出し、詰め寄ってくる不良少女。「あの土倉って娘、入学初日からあんな感じじゃない。向こうは最初から砂木の事知ってたみたいだけど?」
「俺はあいつの事なんて知らなかった」
「んにゃ、じゃあストーカーみたいなもん?」
砂木は後輩少女の顔を思い浮かべつつ、「ま、今のあいつの様子から言ったら間違ってはいないけど」と前置きしてから、「展覧会だよ」と言った。
「展覧会?」
「そう。全国の中学校美術部の合同展覧会。そこに展示されてた俺の作品を見たんだ、土倉は。当然、作品には描いた奴の名前も所属中学も書かれてる。あいつはそれを見て俺の事を知った。さらに卒業生の進路も調べた上で、この高校に入学してきたんだよ」
「やっぱストーカーじゃないの」
言い返せなかった。
完全に同意である。
「つうか、砂木、あんた美術部だったの?」続けて尋ねてくる香織。顔には相変わらず人を食ったような笑みが浮かんでいたが、その声色は少しだけ真剣なものになっているような気がした。おそらく、本当に疑問に思って訊いてきたのだろう。
「中学までは、な」その一言を強調するように、砂木は言った。「もう絵は描いてない。武田もご存知の通り、俺、帰宅部だしな」
「それこそ本気で絵描きたかったら、こんな公立じゃなくて私立行くだろうしねえ」
「そういう事」
言葉を交わしていると、不意に教室のスピーカーから低音質なチャイムが鳴り響いた。
今まで廊下にいた生徒達が雪崩のように教室の出入り口に殺到する。その中には、先ほど梢を連行したクラス委員長の姿もあった。
一拍遅れて、五〇代前半ほどの担任教師が入ってくる。今日の一限目は、砂木や香織の属する二年一組の担任が受け持つ日本史Bだった。
「最後に一個訊いても良い?」机の中から教科書とノートを取り出しながら、香織が言った。「何で絵描くのやめちゃった訳?」
「さあ、何でだろうな?」
片手で教材を出しながら、砂木はとぼけたように口にした。
「良くある事だろ? 急に『やる気』がなくなったんだよ。詳しい理由なんてないさ」
(12月17日 午前9時23分~午前9時49分 街外れの廃ビル)
澱んだ空気が立ち込めているここは、自分にとって居心地が良い。
表面を嘘で塗り固めた仮面を四六時中つけて、『これが本当の自分です』などとのたまう連中がいない。それだけで霧崎にとっては桃源郷のような場所だった。
――気に食わん奴やけど、ここを用意してくれた事だけは感謝せんとな……。
嘘どころか、どれが虚構で、どれが真実なのか判別ができないほど様々な仮面を持ち、それらを巧みに使い分けて、この世を渡り歩く腐れ縁の男、西條勉の顔を思い浮かべながら、霧崎は廃ビル(に見せかけた私有ビル)の中に入る。
割れたガラスが散乱し、壁は趣味の悪い落書きだらけ。天井の隅には蜘蛛の巣が張り巡らされ、辺りからは埃っぽい臭いが漂ってくる。その全てはビルの持ち主である西條が企画し、施した装飾である。実際に不衛生な場所という訳ではない。ただ、霧崎の毛嫌いする人種が近づかないように一役買っているのみである。
廃墟という仮面を被ったエントランスを抜け、錆びれたドアを開けて外に出る。すぐ目の前には吹き抜けの螺旋階段があった。外壁に沿うように取り付けられた階段を昇っていく。
五階まで上がったところでドアを開け、再び建物内へ。薄暗い廊下を進み、一番奥まで来ると、鉄製の分厚い扉が見えた。ステンカラーコートの内ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に突き刺す。
そこで違和感を覚えた。
――開いてやがる。
舌打ちすると、鍵を抜き、そのままノブに手をかける。
扉を引くと、そのまま思い鉄塊が動いた。
「おい、コラ!」と大声を張り上げながら、霧崎は室内に乗り込んでいく。もちろん、靴と濡れたコートは脱いだ上で。「綾華! テメエ、また俺に無断で……!」
三メートルほどの廊下を進み、リビングに出る。ソファに投げ出されていたカーキ色のモッズコートを見て、再び舌を打った。九割がた確信と化していた疑念が、これにより完全なものとなった。
スライド式のドアを開けて自分の部屋へ。アイアンフレームのロフトベッドと、その下の空間にはラウンドデスク。木製天板の上にはデスクトップPCと、その周辺機器。部屋の中央には長方形型の電気こたつがあり、その周辺には大量の書籍が散乱していた。
そう、散乱している。
ロフトベッド横にある大きな本棚に収められていた本は、軒並み抜き取られ、総量の約三分の一が床に散らばっているのだ。
そして、主犯は霧崎のすぐ足許にいた。
こたつ布団に膝の位置くらいまで脚を潜り込ませ、仰向けに寝転がっている女が。
茶髪のショートボブに濃緑色のセーターを着た坂島綾華は、霧崎の姿に気づくと、「おっかえりー、ちゃんと殺れたー?」とあくび混じりに尋ねてきた。
霧崎はこめかみを引きつらせつつ――
「……鍵、先週変えたばっかなはずなんやけどな……?」
「買収した。つとむっちを」
「あの野郎、次会ったら絶対シバく」
顔なじみの『仲介者』の馬鹿面を思い浮かべ、霧崎は内心で誓う。
「第一、大学はどうしたんや。今日も授業あるんやろ」
「自主休講」あっさりとサボりを宣言した。「雨だし、めんどくさいし」
霧崎は頭を抱えた。これで成績は問題ないのだから、たまったものではない。こんな奴でも問題なく過ごせるところなのか、大学は。続けて脳裏に浮かび上がった銀髪パンクファッションの『運び屋』の事も併せて、霧崎は嘆息した。
「ねえねえ、喉乾いた。お茶持ってきてー」ごろんと、体勢を変える綾華。
「そのくらい自分で持ってこいや不良大学生」
「だって人んちの冷蔵庫勝手に開けるとか失礼じゃない」
「勝手に人んちに上がり込んどいて今さらどの口が言っとるんやボケエ!」
***
「で、結局、標的は殺せた訳ね。良かった良かった」こたつでぬくぬくとくつろぎながら冷たい緑茶を煽る綾華。「末端一人につき一〇万円だったよね?」
「プラスアルファ『何かしらの役職があった場合は五万上乗せ』やな。さっき殺してきた奴は、この前のテロの現場指揮を担当してたみたいや。だから、とりあえず一五万やな」
散らばっていた本の最後の一冊を棚にしまい終えると、霧崎はデスクトップPCのロックを解除して、表計算ソフトを立ち上げた。始末した標的の名前が記載されていたセルを塗り潰したり、他にも何やら数字を書き換えたり、様々な作業を行っていく。
「マメだねえ」
「ズボラ女とは違うんや」
「はて、誰の事だろ?」
「お前以外に誰がおるんや」吐き捨てると、机の上に置いていた自分の分の緑茶に口をつける。横目で綾華を見やると、「おら、それ飲んだらさっさと帰れ」と顎をしゃくった。「こちとら昨日の夜から出ずっぱりやねん。寝かせろ」
「やだ」
「ああ!?」
霧崎が激高すると、綾華はのんびりした様子で伸びをして、鞄からタブレット端末を取り出した。上体を反らしたせいで、ニット素材の下にある双丘がすごい事になっていたが、見なかった事にした。
綾華はタブレットの画面をこちらに見せつけるように突き出すと、「見て」と笑った。
「上手くいったら、私達、一生遊んで暮らせるだけのお金が手に入るかも」
(12月17日 午後12時15分~午後12時21分 浅湖経済大学、キャンパス内)
二限目の終わりを告げるチャイムが鳴る。焼野原みたいな頭に、怠惰な生活習慣の権化のような体型をした教授が、「では、今年の授業はこれで終わりです。皆さん、忘れないでくださいねえ。レポートの提出は一月一一日までですよ。忘れていたと泣きついても情けはかけませんからねえ。それでは良いお年を」と言って、プレゼンテーションソフトを閉じて、教卓のスイッチ一つでスクリーンを格納する。彼が研究室に戻る準備をしていると、何人かの学生が近づいていっては何やら質問をしている。おおかた、レポート課題の内容について、何を書けば良いのか訊いているのだろう。
――馬鹿な連中。そんなもん、話聞いとけば全部分かるのに。
胸の内で半ば呆れながら、東雲は手許のレジュメとペンケースを鞄に押し込んだ。
その時、「なあ東雲」と不意に声がかかる。振り返ると、見知った顔がこちらを覗き込んでいた。「今日のレジュメ、見せてくんない? 後半、半分寝ちまってたからさ」
「朝丘さん……」うんざりした表情で、東雲は男の名前を呼んだ。「またですか」
「悪い悪い、あとで昼メシ奢るからよ」
「俺もそろそろ心配になってくるんですが……」一度しまったレジュメを取り出しつつ、「この講義、この前も落としたんでしょう?」と指摘した。「これ、一年の必修科目ですよ。何で二年の朝丘さんが、一年の俺と一緒に受けてんですか」
「そりゃあ、去年の二学期から落とし続けてるからだよ」悪びれもせず、とんでもない事をさらりと言いのける上級生。「だって難しいだもん、あの人の話」
「見た目あんなんですけど、話はかなり分かりやすいでしょう。難しい内容を、馬鹿でも分かるように噛み砕いて教えてくれる人じゃないですか」
「じゃあ、それを理解できない俺は何なんだ? ミジンコか何かか?」
「もうミジンコと自分を同列に扱う事自体がミジンコへの冒涜のような気がします」
「言ってくれるな一回生」
「その一回生と取得単位数たいして変わらない人が何言ってんだか……」
今日の分のレジュメを朝丘に渡すと、東雲は席を立った。
「それじゃあ、ちゃっちゃと食堂行きましょう。早くしないと席埋まってしまうので」
「人に散々暴言浴びせといて、もらうもんはもらっていくんだな……」
「万年金欠なもので」
「もっとバイトしようぜ。遊ぶ金だって欲しいだろ、大学生なら」
「あいにく、学費、食費、水道光熱費以外に使う金はないので」趣味がオンラインゲームですとは、さすがに人前で言えない。どちらにしろ、使う金銭は同年代と比べても圧倒的に少ない方ではあろうが。「だいたい、朝丘さんだって似たようなものでしょう。一回投資すれば、あとはそんなに金使う事もない趣味じゃないですか」
「まあ、そうだけど……」朝丘は言い淀みつつ、頭を掻く。
「レジュメは、また夜にでも返してくれたら良いんで。行きましょう」
朝丘大司は東雲と同じ、嘉島荘の住人である。東雲は二○三号室。朝丘は一○一号室に住んでいる。元々、知り合いではあったのだが、同じアパート住みであると気づいたのはつい最近だ(もちろん朝丘も気づいていなかった)。
それからというもの、頻繁に東雲の部屋に来てはレジュメやノート、科目ごとの連絡事項について訊いてくる。ただ働きというのも癪に合わないので、今回のように交換条件で要求を呑むようにしている。
朝丘は受け取ったレジュメは乱暴に鞄に押し込む。
――ファイルに入れろよ! 人のものだろうが!
皺だらけになって、四次元ポケットもびっくりなゴチャゴチャした異空間に吸い込まれていくレジュメを見送りながら、東雲は頭を抱える。返却されたら、同じものを自分で作り直そうと心に誓う。
立ち上がった駄目上級生と共に講義室を出ようとした時、ポケットの中のスマートフォンが振動した。取り出して画面を見る。通知欄には新着メールのお知らせが表示されていた。
――誰だ……?
顔をしかめる東雲。差出人は不明だった。
知り合いとの連絡はもっぱらメッセージアプリで行っているので、メールでの連絡など、契約している携帯ショップやゲームの運営くらいからしか来ない。
スマホのロックを解除し、メールを開く。
同時に。
東雲晴雨の日常は、無情にも終わりを告げる事となる。
(12月17日 午後12時30分~午後1時11分 狐根山高等学校、校内)
昼休みである。
退屈極まりない授業から解放され、一時の幸福を噛み締める時間。
つまり。
「おっひるごは――――――――ん!!!」
教室中どころか、隣の教室まで響き渡りそうな大声量で叫んだ少女がいた。
黒絹のように艶やかな長髪をサイドテールにした少女――土倉梢は、上機嫌な様子で弁当箱を取り出す。男子から見ても相当な大きさのあるそれを持って、教室の隅にいる生徒の元へ歩み寄っていく。
「桔奈ちゃん! 一緒に食べよ!」
梢の視線の先には黒セーラー服を着た生徒が一人。
色素の薄い髪の毛は、茶髪を通り越して真っ白。緩くウェーブしたミディアムヘアを揺らめかせ、宝石のように綺麗なブラウンの瞳が梢の方を向いた。
感情の起伏が乏しい相貌は、しかし無機質な印象を与えてくるという事はない。
常にきょとんとした感じの顔立ちは、むしろ小動物的愛らしさを全力で伝えてくる。
「うん、良いよ」白坂桔奈は短い言葉で肯定の意を示すと、自分の弁当箱を取り出して、机の上に置く。梢のものと比べたら三分の一くらいのサイズしかない。
梢は、桔奈の前の机を椅子ごと反転させると、桔奈の机にぴったりとくっつける。椅子に座って自身の弁当箱を開ける。
二段重ねの弁当箱の一段目は、茶碗二杯分以上の白米がぎっしりと詰まっていた。二段目には大量のおかずが所狭しと押し込められている。卵焼き、鶏肉の照り焼き、白身魚のフライ、プチトマト×五、その他にも種々様々な白米の脇役達が自己主張している。
「……相変わらずの量ね……というか、それだけ食べて良く太らないわね……」
呆れるような声が隣から聞こえた。
梢はニコニコと笑って返す。「自身作だよー! 彩美ちゃんも食べるー?」
「いや……私は遠慮しとく……」
そう言う鋼岬彩美の手には、コンビニで買ったと思われる菓子パンが握られている。
セーラー服の上から羽織ったベージュのカーディガン。制服と同色の髪は肩の辺りで切りそろえられており、彼女の表情を窺い知る事はできない。
「でも彩美ちゃん、いつもパンばっかり食べてるよね? 体に悪いよー? せっかくの美人さんなんだから、ちゃんと栄養取って健康なままでいないと」
「私のどこをどう見たらそんな感想が浮かんでくるのよ……」
彩美は本気で疑問に思っているようだったが、その評価が梢の主観的なものでない事は、すぐに示された。梢の対面にいる桔奈によって。
「鋼岬さんは、綺麗だと思うよ? たぶん、皆そう思ってる」
「ばっ……あんたまで……!」彩美の頬は真っ赤に染まっている。どうやら、かなり効いているようだ。彼女は頭をバリバリと乱暴に掻いて、「調子狂うわね……」と呻くように呟いた。
「そんなところも可愛いよねー」
「ねー」普段、無表情な桔奈の表情もこの時ばかりは僅かに緩んだ。
彩美の方は照れ隠しなのか、勢い良く菓子パンを咀嚼していっている。
「そういえばさ」と梢は話題を変える。桔奈の方を見つつ、「今日、望実ちゃん来てないよね?」と不在のクラスメイトの事を尋ねた。
「戸賀さんなら、朝、欠席するって、ボクの方に、連絡、してきた、よ」
ふりかけのかかった白米をもぐもぐと頬張る桔奈は、それを飲み込んでから――
「何か……駅で死にかけのおじさんを捕まえたからって。先生には、体調不良って伝えたみたいだけど」
「死にかけのおじさん?」梢は分かりやすく首を傾げた。「望実ちゃん、たまに良く分からない事言うよねー」
「あんたも大概だけどね」という呟きが隣から聞こえてきたが、それが自分の事を指しているとは微塵も思わない梢であった。
***
「それでね! せんぱいの絵って本当にすごいの! 観る人の心全てを見透してるみたいな色遣いと構図! すうっと頭の奥に入ってくるような感じがすっごく心地良くて……」
マシンガンのごとく炸裂する言葉の弾丸を涼しい顔で受け止め続ける桔奈。ほぼ毎日同じ話を繰り返し聞かされているにも関わらず、その表情に一切の曇りは見られない。
すでに昼休みも残り数分となっている。運動部の男子向けセットのような弁当の中身は、全て小柄な少女の胃の中に納まってしまっていた。
隣の席に彩美の姿はない。彼女だけでなく、彼女の持ち物も含めて、全てない。
五分ほど前に真剣な面持ちでスマホを弄っていたと思ったら、突如として立ち上がり、「用事できたから帰る」とだけ言い残して、そのままいなくなってしまった。
「土倉さんは、砂木先輩の事が本当に好きなんだね」
独特な口調で言う桔奈に、梢は大きく頷いて、「うん! 好き! 大好きだよ! せんぱいの絵、大好き!」と肯定なのか良く分からない答えを返した。「せんぱいにもう一度絵を描いてもらうのが私の夢なの! だって……」
続きを口にしようとした時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。梢は急いで机を元の位置に戻すと、「それじゃ、また帰りにね!」と手を振りつつ、自分の席に戻っていく。
(12月17日 午後1時51分~午後1時56分 郊外)
東雲は走っていた。
息が切れても関係なく。昨晩の傷が痛みだしても関係なく。普段ろくに使っていない両脚の筋肉が悲鳴をあげても関係なく、ただひたすらに走り続ける。
***
差出人不明のメール。
本文にはこう記されていた。
『東雲晴雨。
そちらの素性はすでに把握している。
個人情報全てだ。
このメールに目を通したら、すぐに指定する場所に向かえ。
期限は12月17日の午後2時15分。
浅湖経済大学からであれば十分間に合う距離のはずだ。
電車の遅延等、特段の事情がない限り、遅刻は認めない。
こちらの命令に従わなかった場合、今から24時間以内にお前を抹殺する。
先述の特例に沿い、連絡する場合、このアドレスに返信する形で連絡すること。』
本文の最後には目的地までのルートが示された地図が添付されていた。
疑問に思ういとまもなく、東雲はすぐに合点がいった。いってしまった。
――あの女だ……!
顔からどっと汗が噴き出す。
――「次に会う時まで、その痛みを忘れない事ね」
一瞬前まで忘れていたはずの言葉が、鮮明に脳裏に浮かび上がってくる。マシになっていたはずの傷口が再び蠢きだすような感覚に襲われる。
「どした? 東雲。すげえ汗だぞ?」
朝丘が問いかけてくるが、もはや彼の言葉は耳に入っていなかった。
東雲は踵を返すと、すぐさま駆け出した。
「ちょ、おい東雲! どこ行くんだよ!? 昼メシは!? あと三限目の小テストの内容、お前に訊こうと思ってたのに……! ああもう……また麓洞さんに頭下げねえといけねえじゃねえか……」
――行かなければ。
使命感とも強迫観念ともつかない思いに駆られて、正門を潜り抜け、駅を目指す。
***
地図に示されていた場所は、郊外にある建設途中の工場だった。
電車を三つほど乗り継ぎ、人の気配の少なくなった郊外を駆ける。
今の時刻は午後一時五三分。指定された時間まではまだ少しあるが、速度を緩める気にはなれなかった。
メールの差出人――おそらくは昨晩の少女――は、名乗ってすらいない東雲のフルネームと、所属している大学名を本文に記載していた。
あの晩、買い物に出かけた時、学生証は持っていなかった。
だから、自分が気を失っている際に少女が盗み見た可能性もない。どういう方法を使ったかは分からないが、あの正体不明の少女は東雲の事を余さず知っている。それならば、その命令に逆らうなという方が無理な話だった。
いくつかの通りを越えたところで目的の工場が見えてきた。
最後の力を振り絞るようにして全力疾走し、重厚そうな鉄扉の前まで辿り着くと同時に、汚い地面に倒れ込んだ。体と服を濡らすものの正体が、自分の汗なのか、未だに振り続ける雨のものなのかは定かではない。
「はあ……はあっ、はあッ……!」
酸素を切望するように小刻みに呼吸を繰り返しながら、東雲は這うようにして鉄扉を横にスライドさせる。ゴゴンッ、と鈍い音を立てながら扉が開く。
「おつかれさま。新入りでは君が一番乗りだよ、東雲晴雨くん」
扉の先に誰かがいた。
落ち着いた雰囲気の青年だった。おそらく東雲よりも一、二歳ほど年上だろう。紺色で裾の短いダッフルコートを着た青年は、必死な表情の東雲とは対照的にニコニコと笑っている。
「はあ、はあッ……あ、あんたは……?」
東雲の問いに、青年は表情を崩さず答えた。
「はじめまして。僕は笹井肇。君が今日から所属する事になる『消耗品部隊』の隊長を務めている。これからよろしく頼むよ」
(12月17日 午前6時56分~午前7時13分 路地裏)
「『試験管代理人』?」久郷は目の前の男の発した言葉を復唱した。当然、心当たりのない単語だった。「何だ、それは」
不敵な笑みを浮かべる西條は、手の中のカップをもてあそびながら、「ちゃんと順を追って話すから安心しい」と言ってから説明を始める。「簡単に言えば『才能を持った子供』が欲しい夫婦のための制度なんやけどな。その下らん欲望を叶えるための方法が、こんな感じなんや」
西條は角砂糖の詰まった瓶を取り出すと、その中から三つを掴み取った。それを路上に置く。湿ったアスファルトに接するために、砂糖の塊は僅かに溶けてしまうが、形を大きく崩してしまうほどではなかった。
「両端の砂糖がどっかの夫婦、んで真ん中にいるのが、その子供や」指差しながら角砂糖の演じる役割を告げる。「この夫婦がめっちゃ貧乏で、多額の借金を負っていたとする。それで、ある時、借金を返しきれなくなってしまうんや」
「ふむ」
「そこで、この哀れな家族の元に『死神』が訪れる」
「死神?」
「正確な正体はさすがに分からんけどな。で、死神が来るとこうなる」そう言って西條は両端の角砂糖を靴底で踏み潰した。「両親は殺され」と言いながら、真ん中の立方体をつまみ取る。「子供は連れ去らわれる」
さらに、つまんだ角砂糖の一部をもう片方の手の指で崩し取った。
「連れ去らわれた子供はDNAを採取され」子供役の角砂糖を投げ捨て、そのまま踏み潰す。「この子も両親の元へ」
『試験管代理人』。
そして、今の西條の説明。
ここまでの話から、久郷は西條が何を言わんとしているか、ある程度察しがついた。
「クローンか」
「その通りや」砂糖の欠片を持っていない方の手で、西條は久郷を指差す。「採取されたDNAと共に、オリジナルの個人情報はカタログ化されて、頭のいかれた夫婦共に配布される」
そして、と言葉を区切ってから、再び瓶から角砂糖を取る。個数はまた三つ。両親役を両端に。子供役を中央に置く。
次いで、子供役の砂糖の表面に、先ほど削り取った欠片を押しつける。
――これが、殺された子供のクローンか。
「そのDNAが持つ『才能』を求める夫婦が、そいつを大枚はたいて買う。伸ばすための『素地』はあるんやから、あとは楽チンやな。そのクローンの『才能』を開花させるために最適な教育・洗脳をすれば良い」
試験管の中で生まれた複製人間。
本来、オリジナルが持った才能を用いて歩むはずだった人生を代わりに歩む代理人。
「なるほどな、言い得て妙だ」
「やろ?」
「それで、その代理人が、今回の仕事の話と何の関係がある」
「そうやな、こっからが本題や」西條は口角を吊り上げると、「『自然回帰』っちゅう自然保護団体の事は知っとるやんな?」と問うた。
「もちろんだ」今度の単語は、久郷も良く認知していた。「日本を中心に活動する過激な自然保護団体だな。団体名の通り、『人間はあるべき自然に回帰する』をスローガンに、各地で大規模なデモや、テロまがいの事まで行っている」
「まがいっちゅうか、テロそのものやけどな。この前、ここらで一番でかい繁華街で起きた爆発騒ぎは、連中の仕業や。『穢れた文明と、それに毒された咎人』なら爆発物で吹き飛ばしても問題なしって事なんやろな。ほんま頭どうかしとるで、あいつら」
西條は半ば呆れたように言い捨てると、久郷の方を見据えて――
「まだ噂でしかないんやけどな。この団体、どうやら用心棒を雇ったみたいなんや」
彼の表情に再び得体の知れぬ笑みが張りついた。
「その用心棒集団の中の一人が、どうも臭い」
「というと?」
「銀髪のガキがいる」
「……!」
久郷の表情が僅かに変わったのを見て、西條は畳みかけるように続きを口にする。
「そいつが妙な力を使うみたいや。体の至るところから、光るカーボンファイバーみたいなもんを生み出して振り回す。とても信じられんけど、用心棒共に狩られた敵対勢力の無線を傍受したら、そんな感じの会話が聞こえたんや」
「なるほどな……」顎に手を当て、考え込む仕草を見せる久郷。
西條は、そんな久郷を見やり、「……ぶっちゃけ、どこまでが嘘で、どこまでが本当かは分からん。やけど、『試験管代理人』みたいな非人道的な実験が行われとる可能性があって、人間離れした力を振るう奴が存在する可能性もある。……久郷さん、あんたとしてはどうなんや?」と尋ねた。
「端的に言おう」久郷は言った。「信用に値する。少なくとも俺はそう考える」
久郷の返答を聞き、西條は目を丸くしていた。
どうやら、ここまであっさりと信じるとは思っていなかったようだ。
「報酬を支払おう。いくらだ?」
手にしていたアタッシュケースのダイヤル錠に手をかける久郷。
そう。
今回の『仕事』はこれだけだ。
『仲介者』と『殺し屋』。
前者は様々なコネクションを利用して依頼を引き受け、それを後者に斡旋する事を生業としている。後者は、斡旋された依頼を達成する事で、大元の依頼主から支払われる報酬を、前者を通して間接的に受け取る。
これが一般的な構図。
だが今回は違う。
久郷が求めたのは殺しのターゲットではなく情報。
警察関係者や政府関係者、さらには暴力団や犯罪組織……そういった多くの組織とコネクションを築く『仲介者』は必然的に情報にも精通している。久郷は、そのネットワークを頼って、この街に来たのだ。
アタッシュケースのダイヤル錠を解除し、そこに詰まっていた札束を取り出したところで、「ちょい待ち、ちょい待ち!」と西條から制止の声がかかった。「さすがに今回はいらんて。嘘か本当かも分からん上、嘘の可能性の方がよっぽど高い曖昧な情報やぞ。こんな噂程度の話で大金もらってたら、こっちが申し訳なくて敵わんわ」
「しかし、こちらとしては、それだけの価値がある情報だと認識している」久郷の方も引き下がる様子はない。「これは公正な取引だ」
「じゃあ、こういうのはどや?」
なおも支払いを慣行しようとする久郷に、西條は一つの案を出した。
「俺は久郷さんに情報を提供した。あんたはその見返りとして、俺から一つ『仕事』を頼まれる。それでチャラや。悪くない条件ちゃうか?」
「ふむ……」久郷は少し考え、「分かった。それで良いだろう」と返答した。
「よしゃ」と西條は頷く。「実は、俺の子飼いの殺し屋に頼もうと思てた仕事なんやけど……」と言いつつ、手許のスマートフォンを操作する。
直後に久郷の携帯電話が鳴った。
受信したメールの差出人は当然西條。
「これ、引き受けてくれんか? 標的はさっきの話ん中でも出てきた――」
「『自然回帰』――か」平坦な声色で文面の一部を読み上げる久郷。「組織の中でも重要なポジションにいる四人の構成員の殺害……」
メールに添付されていた顔写真は標的のもののようだ。
写真の下部には、氏名(姓のみだが)も記載されている。
四十沢。
唐松。
宇津井。
椎葉。
性別の内訳としては四十沢、宇津井が男性。唐松、椎葉が女性だ。
「全員とは言わん。そのリストの中から最低二人殺してくれ。……ああ、でも気いつけや。その内の一人、四十沢は……」
「顔つきを見れば分かる」久郷は遮るように言った。「この中で、奴だけは武闘派だろう。団体専属の戦闘部隊員かもしくは……」
「そや。こいつはさっき言っとった用心棒集団のリーダーや」
「ふむ、ならばこの男を優先的に狙うとしよう」
先刻の西條の話と併せて考えると、この四十沢という男を辿っていけば、久郷の探しもの――いや、探し人も見つかるかもしれない。
アタッシュケースに札束をしまうと、久郷は踵を返した。
「標的を始末したら、こちらから連絡する」
「おう。待っとるで」
細い路地を抜け、立ち去っていく久郷。
サングラスの奥の瞳に怜悧な光を滲ませ、彼はこの街の奥深くへと潜り込んでゆく。
(12月17日 午後12時34分~午後1時17分 某所)
間取りから見て、どこかのマンションの一室のようだった。
そこにいるのは五人の男女。男が三人。女が二人。女達は高スペックそうなデスクトップPCと向かい合っており、片割れが時々呻き声を洩らしている。
男三人の内、チンピラ風の二人は部屋中央に置かれたソファにもたれかかっており、一人が日本刀の手入れ、もう一人がスマートフォンをいじっている。
そして最後の一人。
軍人のように鍛え上げられた体躯に、厳つい顔つきの男が、目覚めた直後の自分を威圧するような視線で捉えていた。
***
四十沢は眼前の男を見据えている。
いかにも体育会系といった髪型と顔立ちの男の体は、あちこちが打撲痕と擦過傷まみれで、両手足をロープでがっちりと固定されていた。
「岩佐樹。お前にはいくつか訊きたい事がある」低い声で四十沢は言った。その手には、男の身分証らしきカードと、付箋だらけの手帳があった。「『自然回帰』について知っている事……洗いざらい話してもらうぞ」
そう言った直後だった。
四十沢は岩佐に具体的な質問を投げかける前に行動に出た。
彼の首根っこを持って無理矢理立ち上がらせ、そのままノーガードの腹部に鋼のような拳を突き込む。「ごぼああッ!?」と疑問符混じりの悲鳴と共に、胃の内容物を撒き散らす岩佐。
四十沢の手が止まる事はない。続けて二回、同じ個所に打撃を叩き込む。
殴られた衝撃で内臓の筋肉が正常に動かなくなったのだろう。酸素を取り込む役割すら果たせなくなった肺に、何とか元の機能を取り戻してもらおうと、岩佐は幾度となくえずく。しかし彼の目論見は外れ、喉の奥から血の塊が吐き出されるだけに留まった。
「上の要望でな。浅はかにも『自然回帰』の内情に首を突っ込もうとした雑誌記者に可能な限りの苦しみを与えろ、という次第だ」
そのまま岩佐の体をフローリングの床に叩きつけた。自身の吐き出した血液と内容物にまみれ、死にかけの蛙のような呻きを洩らす岩佐に、四十沢はそっと耳打ちした。
「良いか、素直に言う事を聞け。そうすれば一からやり直すチャンスをやる」
***
「本当に良かったんですか? 四十沢さん。上からは『殺せ』って言われてんでしょ?」
中央のソファで日本刀の手入れをしていた遠藤が尋ねた。
「問題ない。しょせんは力ある者に屈する事しかできない現代人の典型のような男だ。見逃したところで報復に来る事もないだろう」
胡坐をかいた四十沢は、膝の上に載せたノートPCを操作している。どうやら誰かとメールでやり取りしているらしい。
「これだけの恐怖を植え付けられたあとだ。整形手術でもして新しい名前を与えれば、もう我々の脅威にはなりえない」
「そういうもんですかねえ」遠藤は納得していない様子だったが、「ま、俺らのボスはあんただ。『自然回帰』のキチガイ共が何言ってようが、従うのは四十沢さんだけだ」と言って自身の作業に戻った。
送信欄をクリックすると、四十沢はPCをシャットダウンし、そのまま閉じた。
その時だった。
「あ! 駄目です駄目です四十沢さん! パソコン、毎回シャットダウンするの良くないです!」モニターの向こうから顔を覗かせ、指摘する声が飛んできた。「電源着けたり消したり繰り返してるとHDDに負担がすごいかかるんです!」
「言っても、四十沢さんがPC使う事なんてほとんどないし、別にそこまで神経質になる必要もないんじゃないの?」今度は隣から気だるそうな声。
最初に声をあげた女の名は雀森。癖の強い黒髪のセミロングに、ブラウンカラーのウェリントン型眼鏡をかけた二〇代前半ほどの女性。
彼女の得意分野は『クラッキング』。
驚異的なスキルをもってして政府機関、警察機関など様々な組織のサーバーに不正に侵入し、四十沢達の求める情報を持ってくる。生粋のハッカーである雀森は、クラッキングが半ば趣味と化しており、暇さえあればPCの前で犯罪行為に手を染めている。先ほど、岩佐記者を尋問している際に発せられていた呻き声も雀森のものである。
そして。
雀森の隣にいる少女。
輝くような銀髪をニット製のキャスケット帽の中にまとめ入れ、鍔の下に覗く瞳は、鮮血のような赤。幼さを残しながらも、どこか達観したような顔つき。グレーのパーカーの上から黒のジャケットを羽織り、下は細身のジーンズを穿いている。
絹花。
四十沢達は彼女をそう呼んでいる。本名は知らない。いや、そもそも本名があるのかどうかも定かではない。彼女には自身の存在を証明するための戸籍もないのだから。
では、なぜ、そんな身元不明の少女を仲間として迎えたのか。
答えは簡単である。
「絹花、今日はご苦労だった。お前の『力』があったおかげでスムーズに仕事ができた」
「そうは言いますけど、ぶっちゃけ、四十沢さん達だけでも十分だったんじゃないですか? 警備会社の連中くらいじゃ、勝負にもならないじゃないですか」
四十沢の傍らで伸びている記者は、自身の行動が外部に洩れたと悟った直後に、警備会社を通してボディガードを雇っていた。それまでの仕事の中で、そこそこの金を稼いでいたらしく、警護は二四時間体制で行われ、なかなか隙はできなかった。
しかし四十沢の雇い主達が、警備が緩むまで悠長に待ってくれるはずもなく、こうして正面突破で岩佐を確保する事になったのだ。
少人数で多数を相手どらなければならない場合、絹花の持つ『力』は相当役に立つ。安全かつ確実に任務を遂行できるからだ。
「いや、お前はいなくてはならない存在だ」四十沢は断定するように言った。「絹花がいるから、俺達は損害なく仕事を達成できる。これからも期待しているぞ」
「そ、そうですか……そういうもの……なんですか……」
いまいち、どういった反応を返して良いのか分からず、戸惑うような表情を見せる絹花。そんな彼女に対して、ソファでスマホを弄っていた男――井筒屋が助け舟を出した。
「こういう時は素直に『ありがとう』とでも言っときゃ良いのさ。珍しく四十沢の旦那がベタ褒めしてるんだからさ」
言われ、絹花は改めて四十沢の方に向いた。
「あ、ありがとう……ございます。がんばり、ます……」
四十沢は口許に微笑を浮かべて頷くと、部屋全体を見渡し――
「今日の仕事はこれで全部だ。あとは各自、好きなように過ごして――」
「あ」
「「「?」」」
四十沢の言葉を遮るように間抜けな声があがる。
声の主以外の全員の視線が一点に集まる。
PCモニターを凝視しつつ、ぽっかりと口を開けていたのは雀森。
やがて平静な状態を取り戻した彼女が、モニターの一部を指差して言う。
「大変です! 『自然回帰』の拠点の一つの場所、洩れてます! しかも――」
どうやら、仕事上がりにはまだまだ程遠いらしい。
(12月17日 午後4時15分~午後4時39分 廃工場)
自らを笹井と名乗った青年に、工場へと招き入れられてから二時間ほどが経った。この場には東雲以外にも多くの人間が集まってきていた。
黒いセーラー服の上からジャージを羽織った、くせ毛混じりのボブカットの少女。
長い黒髪をツインテールに結わえ、ブレザー式の制服を着た少女。
若侍のように髪を後ろで縛った長身の男性。
その他にも年齢を問わず様々な男女が、重厚な鉄扉を開けては工場に集ってくる。
そんな人々を見ている内に、東雲はある事に気づいた。
――冷静な奴と、そうじゃない奴がいる……?
そう。
ちょうど先刻の東雲と笹井のように、ここに来た人間の反応は二分しているのだ。
先ほどの三人などは極めて落ち着いた表情をしていた。まだ中高生らしき少女二人も、それなりに歳を重ねていると思しき侍ヘアーの男も。どちらも変わらず――。
「これで全員集まったかな」笹井という青年が、すぐ近くでうそぶいた。
東雲は彼を一瞥すると、「なあ、そろそろ教えてくれても良いんじゃないですか?」と言った。「俺達は何のために、ここに呼び出されたんですか?」
東雲が辿り着いた時、彼は今と同じ事を笹井に尋ねていた。
しかし、その際に彼は薄く笑って、「全員が来たら教えてあげるから、少し待っていてほしい」と言ったきりだった。
「大丈夫、忘れてないよ」笹井は感情の読めない表情で笑う。次いで、近くにいた侍ヘアーの男を呼び止める。「鮫島さん。皆を連れて先に行っといて。僕はあとから合流するから」
鮫島と呼ばれた男は一つ頷くと、『冷静な方の組』を引き連れて工場内に入っていく。
それを見送ってから、笹井はもう一つの組全体を見渡して――
「先に言っておきます。間違っても、逃げようとはしない方が良い。あなた方の体内には、すでにGPS発信機が埋め込まれています。ここ最近で、あなた方はみな『不可解で凄惨な現場』に出会ったはずです」
最後の一文で、その場がざわつき始めた。
その反応から、全員、心当たりがある事が見て取れた。当然、東雲も。
――だから……あの女は俺の居場所が分かったのか……!
発信機とやらを仕込まれたタイミングも、わざわざ説明されるまでもない。
釘を刺し込まれ、痛みで気絶していた間で間違いないだろう。
一通り場が静まるのを見計らってから、笹井は続けた。
「僕らは通称『消耗品部隊』。そして、あなた方が本日より所属する部隊となります。もっと簡単に言えば、あなた方に危害を加えた者達の奴隷です」
「ど、れ……い……?」どこかから信じられないという囁きが洩れた。
「今は信じられないでしょう。でも、嫌でも信じるようになりますよ。それまで生きていられたらの話ですが」さらりと告げると、笹井は踵を返した。「着いてきてください。あなた方を非日常に引きずり込んだ方々が待っていますよ」
***
鉄錆と廃油の臭いが混じり合った空気が充満する廃工場の奥。壁際には、すでに動かなくなっていそうなフォークリフトが一台打ち捨てられており、その座席でくつろぐ形で、『あの女』はいた。
セーラー服の上から羽織ったベージュのカーディガン。制服と同色の髪は肩の辺りで切りそろえられており、その表情を窺い知る事はできそうにない。
昨晩と全く同じ格好の少女。いや、昨日の土砂降りのせいで服はずぶ濡れだったはずなので、全く同じという訳でもないだろう。制服だからデザインが同じなだけだ。
「連れてきたよ、アイアンメイデン」
軽い調子で笹井が少女に呼びかけた。少女は、「そう」と興味なさげに返すと、フォークリフトの座席から腰を上げた。「頼まれてたやつ、そっちにあるから」とフォークリフトの傍らに無造作に置かれていた段ボールを指差した。
「助かるよ」
笹井は薄汚れた箱の前でしゃがみ込むと、ばりばりとガムテープを剥がし始める。
中から何かを取り出すと、それを両手で一つずつ持って、こちらへ見せつけた。
「これ、何だと思います?」
にこやかな表情で問いかける笹井に対し、東雲を含む他の者達はただただ困惑の表情を浮かべるだけだった。
それが何か分からなかったからではない。むしろ形そのものは誰でも知っているものでしかない。デパートのおもちゃ売り場にでも行けば、同じようなデザインのものはいくらでも販売されているだろう。――だから、困惑した。
「拳……銃……のおもちゃ……? エアガンが何かか……?」
どこからともなく、そんな声が洩れ聞こえた。それを聞いた少女は忌々しそうに溜息を吐き、「笹井、もったいぶらずに、さっさと進めて」と笹井の脇腹を小突いた。
「大丈夫、ちゃんと教えるさ」笹井は調子を崩さないまま続けた。「残念ですが、これはおもちゃじゃない。本物です。モデルとしては自衛隊の使っている九ミリ拳銃と同じ。日本人の体格でも使いやすいように設計されたものです」
「……それが本物だという証拠は?」
東雲がくぐもった声を向けると、笹井はあっけらかんとした様子で――
「今ここで撃っても良い」
安全装置を外し、引き金に指をかけ……その銃口を天井へ突きつけ――
「耳、塞いでおいた方が良いかもしれないですよ?」
発砲した。
乾いた破裂音がしたと思ったら、それとほぼタイミングを同じくして、頭上で甲高い金属音が鳴り渡った。一瞬の静寂ののち、東雲の鼻腔を火薬のような臭いが突いた。いや、『ような』ではない。正真正銘、火薬の発する臭いなのだ、これは。
もはや理解が追いついている者は少数派だろう。何人かの女性はすでに泣き出している。男性陣の中にも、怯えた表情でうろたえている者も多い。
東雲は……自分自身は、どうなっているか分からない。涙こそ流してはいないが、傍から見れば大多数の人間と同じような表情をしているかもしれない。自分で自分が分からなくなっている。そんなどうしようもない感覚に支配され始めていた。
「今から、これを配ります」
場の空気を無視して、笹井は言い放った。
しかし、その相貌は先刻までの飄々としたものではなかった。一切の気の緩みを見せない……傍らにいる少女が覗かせている表情と、全く同じ質のものだ。
「一人一つずつ渡していきます。決して手放さないでください。――死ぬまで、手放さないでください。それは『牙』です。僕らのように力のない者が、この世界で生きていくためのものなのです」
半ば押し付けるようにして、無骨な鉄の塊を手渡していく笹井。やがて、順番は東雲にも回ってくる。東雲は無言で右手を差し出し、笹井を見据えた。
「……良い目だよ。ほら、受け取りな」
笹井は真剣さの中に少しだけ柔らかな感情を滲ませ、拳銃を東雲の手のひらに置いた。
氷のような冷たさと、岩のような荒々しさが皮膚を伝わり、一種の緊張感を煽ってくる。東雲のこめかみを一筋の汗が伝った。
――人を殺す道具……これが……。
僅かに目線を滑らせ、あの少女を視界に捉える。高校生ほどの年端も行かぬ少女。触れれば折れてしまいそうな華奢な身体。
『これ』で撃てば、簡単に死ぬのではないか――?
そんな悪辣な疑問が脳内に湧き上がる。鍛え抜かれた軍人の肉体すら容易く射抜き、死へ至らしめる武器。これをもってすれば、あの夜の復習を果たす事もできるのではないかと。
「……やめとけ、ガキ。何もできずに殺されんのがオチだぞ」
突如、肩を叩かれる感触と共に、東雲の心を読んだかのような声が降り注いだ。振り向けば、侍ヘアーの男が眉間に険しい表情でこちらを覗き込んでいた。確か、笹井が鮫島と呼んでいた男だ。
「俺みてえな『ただの人間』でも分かっちまうほどに殺気がダダ洩れだ。素人が出しゃばって良い場面じゃねえ。その度胸は、もっとあとまで取っときな」と言って踵を返し、もう一つの集団の中へ戻っていく。
「…………」
少しの間、鮫島含む『うろたえていない方の一団』を眺めていた東雲。しかし、すぐに笹井の、「今から銃の使い方を説明します。一度しか言いませんので、良く聞いておいてください」という指示によって現実に引き戻される。
彼の方に注目しようと体をひねる。すると足許でコツン、という軽いものを蹴っ飛ばすような音がした。ふと下を見やれば、そこには廃工場には似つかわしくないほどに綺麗なままの『釘』が転がっていた。
少女は、東雲の事を見てすらいなかった。
(12月17日 午後4時32分~午後4時46分 街外れの廃ビル前)
「こんな日にまで『配達』かい? やれやれ……人使いが荒いね。しかも君を運べだなんて……僕らはタクシーやバスじゃないんだけどな?」
「やかましいわ。俺かて死ぬほど不本意なんや。テメエらに依頼するんは」
苦虫を一〇〇匹噛み潰したところで簡単には浮かべられないであろう表情で、霧崎は吐き捨てた。
霧崎の住む(偽装)廃ビルの出口からすぐのところに一台のオートバイが停まっていた。跨がっているのは、銀髪にパンクファッションという珍妙な格好をした青年だ。そして、バイクのサイドカーにはセーラー服の少女が猫鍋のようにちょこんと収まっている。こちらも青年と同じく銀色の髪。小動物的な印象を与えてくる彼女は、若干眠たそうな目でスマートフォンを弄っている。
麓洞梗弥。
白坂桔奈。
綾華と同じく腐れ縁の二人。表向きは単なる大学生と女子高生。しかし、その実態は霧崎と変わらぬ『裏世界の住人』である。
彼らの本業は『運び屋』。依頼人から託された『配達物』を指定の場所まで運ぶ事が仕事だ。その内訳は違法薬物から汚れた金に始まり、指名手配犯、死体などバリエーションは様々。決して表に出す事が許されないものを秘密裏に処理する、裏の世界のさらに裏方……というのは建前で、その実態は単なる便利屋だったりする。
現にこうして依頼人(綾華)から、タクシーの代わりに使われている始末である。
「場所はここで良かったんだっけ?」濡れた指でスマートフォンの画面を操作しつつ、梗弥が確認を取る。「ずいぶんと危ない事に首を突っ込もうとしてるみたいだけど?」
「一攫千金狙おう思たら、こんくらい承知の上やろ。協力した分の分け前は約束するっつう話や」
「ま、綾華なら約束は守るだろうから、そこは心配してないけどね。問題は君さ」
梗弥は霧崎を指し示して――
「あそこは……本当に不味いよ。今まで相手にしてきた『チンピラ崩れ』とは訳が違う。奴らが囲んでる用心棒集団には、人間じゃない奴がいるって話だ」
「人間じゃない奴やと?」霧崎は露骨に眉をひそめて、「何や、お前からそんなおもろい冗談が出てくるとは思わんかったで」と口の端を歪めた。しかし彼の目は微塵も笑っていない。「大学生なって遊び過ぎたか? ヌルい学生生活は脳みそイカれるほど楽しいみたいやなあ? 綾華といいお前といい、俺の周りはどいつもこいつも――」
「嘘じゃないよ」
「あん?」
「嘘じゃない」もう一度きっぱりと言い放つ声。サイドカーに収まっていた白坂桔奈が身を乗り出しながら、先刻までとは一八〇度異なる質の表情で、霧崎を射抜いていた。
「桔奈。テメエがガキやろうが俺は容赦せえへんぞ。そこまで言うんやったらな。証拠はあるんか、証拠は? あるんやったら見せてみい?」
「あるよ」
「何?」
サイドカーから下りて近寄ってくる桔奈。彼女の手には、お世辞にもデザインが良いとは言えないノート型のゲーミングPCが抱えられていた。
「これ、見て」
PCを開くと同時に折り畳み傘も開き、機材が濡れないように気を遣いながら、桔奈は高解像度ディスプレイに映った動画を見せつけてきた。
***
数分後。
霧崎、梗弥、桔奈を乗せたオートバイは、大雨の降りしきる高速道路を駆け抜けていた。一〇〇キロを優に超える速度で、自動車やトラックを追い抜いていく。
「……梗弥、悪かったな」バイクの後部に跨っていた霧崎は、沈んだ声で謝罪した。「俺の認識不足やった。まさか……あんなんが現実にいたなんてな……」
「気にする事はないさ」対して、梗弥はあっけらかんとした様子で答えた。「西條から依頼を受けた時、僕も同じ感想を持った。『そんな事あるはずがない』ってね」
桔奈が見せた動画の中では、一匹の化け物が暴れていた。体を覆う青白い光を自在に動かし、銃火器で武装した屈強な男達を薙ぎ倒していく少女の姿。
「この子の正体を突き止めて、その情報を『配達』してほしいって言われた時、ボクも西條さんを疑ったよ。でも、彼女は現実に存在してた。ボク達の理解の外にある力を使って……――」
桔奈に続けて、梗弥が言う。
「この動画を撮影してた最中、僕らはずっと震えが止まらなかった。戦う力を持たない僕達が彼女に見つかった時――どうなってしまうかなんて火を見るより明らかだったからね」
「…………」
動画に映っていた男達の実力は、ざっと見た限りでも霧崎には遥かに及ばない。それでも、そこそこ戦える程度の腕を持つ男達数十人が、一人の少女を相手に為す術もなく肉塊に変えられていく様は、十分過ぎるほどの恐怖感を呼び起こした。
白兵戦などとは縁もない梗弥と桔奈にとっては、圧倒的な脅威に映ったはずだ。
「この動画の存在を知ってるのは、依頼主だった西條と僕に桔奈。そして霧崎、君だけだ。もちろん、あとで綾華にも共有するつもりではあるけど、今のところは僕ら四人だけ。西條に関しても、動画そのものは絶対に他人には売らないって言ってたよ。感づいた人が交渉してきても、この辺りは適当にはぐらかすだろうね」
「懸命やな。あぶねえ情報を持っとくんは、少ない人数の方がええ」
動画の存在が広まれば、必ず情報の出所を潰しにかかる者が現れる。自身の身を守るためと考えれば、西條の判断は理に適っている。
「霧崎……もう一度訊くが、本当に行くのかい?」
梗弥が念を押すように尋ねてきた。
「綾華の得た情報は、一人で集めてきたとは思えないくらい正確だ。でも肝心な部分が抜けていた。それが、あの少女の存在だ。不確定要素なんてものじゃない。出会ってしまえば……その先にあるのは明確な『死』だけだぞ」
「愚問やな」
しかし霧崎の声色に迷いはない。
「ここで逃げ出すようなら、最初から殺し屋なんてやってへん。漫画みてえな超能力使うトンデモ人間がいようが俺のやる事は変わらんわ。……標的を迅速に、かつ確実に殺す。邪魔してくる連中も例外やない。あの動画に映っとったガキも、俺の仕事に横やり入れてくるんなら一緒や。この鉤爪でズタズタに引き裂いたる」
(12月17日 午後4時58分~午後5時19分 廃工場)
未だに肩が痺れていた。
リアルタイムで電流を流されているかのようにビリビリと小刻みに揺れている。
両手で構えた拳銃の銃口からは、独特な匂いを放つ硝煙が立ち昇っていた。
一〇メートルほど先にある錆びたドラム缶には、直径一センチにも満たない穴が穿たれていた。
「この感覚を覚えておくんだ」耳許で笹井が囁いた。「今日この日を無事に生き延びたいなら、一瞬たりとも忘れたら駄目だ。良いね?」
「あ、ああ……分かっ……た……」
震える唇からは途切れ途切れの返事しか出てこなかった。
明確な意思を持って、笹井の言葉に答えたのかも定かではない。
頭の中は疑問符で埋め尽くされていた。
画面の中でしか見た事のないような武器を携えている自分。
そして、それを使ったという事実。
これらが現実のものだと理解する事を脳が拒んでいるようだった。
「時間を取らせたね、アイアンメイデン。さあ、出発しよう」
笹井が呼びかけると、少女は小さく頷き、どこかに電話をかけ始めた。東雲からはまともに聞き取れないほど小さな声で二、三言話すと、通話を切って端末をしまう。
それから、しばらくしない内に奥の扉が開き、二人の男が入ってくる。
「笹井、お前はいつもチンタラやり過ぎなんだよ。どうせ、ほとんどの連中は初出勤でくたばるんだ。やるだけ無駄なんだよ、無駄無駄無駄」
現れるなり毒づいたのは茶髪に赤いライダースジャケットを羽織った青年。およそ一般人とは思えぬほどの凶悪な相貌からは、全ての人間を拒絶するような雰囲気が漂っている。
「よせ、ペンデュラム。笹井の方針にはお前も賛成しているはずだ。意味のない問答で時間を浪費するのが惜しい」
もう一人はシックなスーツで全身を覆った筋骨隆々の男性。茶髪の青年と違い、口調は幾分か丁寧だが、そこに感情らしい感情は一切籠っていないようにも思える。
「助け舟ありがとうございます、ガロットさん。僕じゃペンデュラムさんに口答えしようものなら、バラバラにされていましたからね」
「へッ、相変わらずムカつく奴だぜ。俺ら相手に余裕かましやがって」
一通り言葉を交わしたあと、男二人は、セーラー服の少女の近くに移動した。
「改めて紹介します」と笹井は、異質な雰囲気を放つ三人を見やった。「アイアンメイデン、ペンデュラムさん、ガロットさん。簡単に言えば僕らの上司に当たる方々ですね。ここにいる人達は皆、最近、彼らの内誰かには会った事があるはずです」
反射的に東雲は周囲を見回した。そして、すぐさま気づく。東雲と『同じグループ』にいた者達が先刻までとは比べものにならないレベルで怯えている。
彼らにとっての目の前の男二人が、東雲にとってのセーラー服の少女なのだと、一瞬で思い当たった。
「全く……いつもいつも無駄に人数連れてきて……。ペンデュラム、あんたよね?」
心底呆れたといった様子で、少女が茶髪の青年を睨みつける。
「テメエが言えた立場かよ、アイアンメイデン。いつも偉そうに説教垂れてるくせに、一匹連れてきちまってんじゃねえか。ほら、そこのオス猿。明らかに足引きずってる。テメエが引っ張ってきた何よりの証拠だ」
茶髪の青年は、東雲に向かって顎をしゃくった。
少女は露骨に不機嫌そうな表情を浮かべる。
場の空気が一気に冷えていくような感覚に襲われる。東雲だけではなく、場慣れしていそうな笹井さえも、「おっと、少し不味いかな……?」と不穏な言葉を呟いている。
「やめろ、二人共」青年と少女の間に割り込む声。この場の中で、最も年長者と思われるスーツの大男だった。「捨て駒の一つや二つ増えたところで結果は変わらない。こちらはこちらで与えられた仕事をこなす。それだけのはずだ」
「……ちッ、あんたも笹井と同じくらいムカつくぜ」
「……申し訳ありません。少し取り乱しました」
「分かれば……良い」大男は無表情なまま首を縦に振ると、「笹井、車を出せ」と指示を出した。「今日こそあの忌々しい自然保護団体……『自然回帰』を壊滅させる」




