調理室
男爵令嬢の来訪という怒涛の1日を終えた次の日の朝、日の出とともに目が覚めた。軽く上着を羽織、バルコニーに出るとなんとも幻想的な景色が広がっていた。眼前に広がる広大な庭は手入れが行き届いており、華やかな花々が咲き誇っている。色とりどりの花がグラデーションをなすように敷き詰められ、豪華な絨毯のようだ。まだ使用人も目覚めたばかりの時間だからか、人っ子ひとりいない景色を独り占めしていた。
(かつての私は外に出ることを嫌っていたから、こんなにも雄大な庭を認識すらしていなかったのだわ。なんてもったいなかったのかしら。)
ささやかな風になびく植物を眺めて過ごした。人工的とはいえ、自然の果てしない豊かさが私を温かく受け入れてくれている気がする。今までの出来事に思いを馳せながら、朝日を浴びた。
寝起きで喉が乾いていることに気がついた。ユリアに紅茶を頼みたいと考えたものの、まだ早朝に呼び出すのも忍びないと思いやめた。以前だったら主人が望むときに職務を果たすことが使用人の本分だと思っていたが、それがただの人の上に立つものの傲慢な思い込みだったことがわかったからだ。けれど、喉の乾きに気付いてしまった以上、じっとしていることもできなかった。
(自分でいれてみようかしら。)
我ながら良いことを考えたと思う。一度思い起こすと実践あるのみだ。飲み物を自分でいれたことはなかったけれど、ユリアや今までのメイドたちの仕草をなんとなく思い出せば余裕だろう。静かに部屋を出て調理室へ向かう。まだ日も昇ったばかりだし、誰もいないだろう。こっそり紅茶を入れて飲んだ後、戻しておけば良いだろう。
調理室の扉の前までくると、なぜかバタバタと騒がしい足音がした。
(朝からいったいなんの騒ぎですの?)
薄く扉を開けて中の様子を伺う。なぜ騒いでいるのか理解して愕然とした。綺麗に盛り付けられた色とりどりの皿、見覚えのある料理の品々がワゴンにのせられていた。つまり、彼らは今、私たち公爵家の者のための料理をしているのだ。
(私たちの朝食の用意をしていらっしゃるのね。)
こんなに朝早くから準備されているだなんて思わなかった。いつも食事室の自分の席に座れば即座に料理が運ばれてくるものだから、てっきりほいほい作れるものだと思っていた。いつも果物のように簡単に要求していた自分の物の知らなさを改めて実感した。いや、新鮮な果物だって簡単に提供できるわけではないのかもしれない。毎度私のわがままに対応できるように最善を尽くしていた料理人たちに敬服の念を覚えた。
「おい、嬢ちゃんなにしてんだ?」
扉の前で立ち尽くす私に背後から誰かが声をかけてきた。振り返ると大きな体のコック姿の男が立っていた。おそらく料理人のひとりなのだろう。私の顔を見て驚いていた。
「おい、公爵様の娘さんじゃないか。こんな汚ならしいところになんのようだい?」
男はコック帽を脱いで、私の目線に合わせて屈み込んで問いかけてきた。目が覚める前の幼い私の所業を知っているだろうに、優しい対応をしてくれた。
(私は、ユリアのように優しい人たちに囲まれていたのね。)
「…喉が乾きましたの。それで…」
経緯を答えようとして口ごもる。誰もいないと思って調理室に来ました、なんて正直に言うことはできなかった。こんな朝早くから準備しなくては間に合わないのか、と彼らを馬鹿にしているともとらえられかねないからだ。
「ああ、ユリアさんを起こすのが申し訳なかったのか。嬢ちゃん良い子だな。」
料理人の男が私に微笑む。ただ少しユリアを呼び出すのを躊躇って、自分でことを済ませようとしただけで褒められるなんて、嬉しさと少しの申し訳なさがあった。
「よし、嬢ちゃんなにが飲みたい?こっそり用意してやるよ。」
「あ、ありがとう。」
料理人の男が帽子を被り直して扉を開ける。扉越しに私に振り返ると、
「それとも、たまには見学していくかい?」
と悪巧みを思い付いたようにニヤリと笑った。まだまだ使用人について知らないことばかりの私は、実情を知る良い機会だと思い、勇気を出して提案に頷いた。料理人の男は|こちらの返事を聞くと手を差し出してきた。私は迷わずその手を取るのだった。
私は料理人の男の―提案にありがたく乗り、調理室の端に置かれた席に座っていた。調理室をせわしなく歩く料理人たちはこちらに挨拶をする以外で話しかけてくることはない。まるで薄いガラス越しに彼らの様子を見ているようだ。食材を切るもの、煮込むもの、炒めるもの、盛り付けるもの、全体の流れを指揮するもの、それぞれが己に課せられた役割を全うしている。
見惚れている私に先程の料理人の男が近づいてくる。手には茶色いお茶のようなものが入ったグラスを持っている。
「お待たせ、嬢ちゃん。これで良いか?」
ニカッと笑ってグラスを渡してくれた。嗅いでみると特に香りはなかった。普段飲んでいるものは果物や茶葉の香りがグラスを鼻まで近づけなくても香ってくるものばかりだから、色のついた水にしか見えなかった。
(なぜ、わざわざ水に色を付けるのかしら。遊び心というものかしら。)
「ありがとうございます。…ところで、これはなんですの?」
「麦茶だ。嬢ちゃんには縁のない飲みもんかも知れねぇが、今は人手が足りなくてな、これで勘弁してくれや。」
「麦茶…ということは麦から作られたお茶ですの?」
「ああ、ご明察。麦を炒めて湯水で溶かした後、氷で冷やしたもんだ。麦は生じゃあ食えねぇからな。ま、飲んでみなよ。」
「ではありがたくいただきますわ。」
一口飲んでみると、薄味のお茶らしきものだった。麦を煮出したといったが、味自体を楽しむものではないのだろうか。喉は潤ったがなんだか物足りなかった。
「こいつは水分補給がメインの飲みもんだからな、嬢ちゃんには味気なかったか?」
「いえ、勉強になりましたわ。」
「はっはっはっ。いってくれるやねぇの。」
「本心です。まだまだ私は学ぶことの多い身ですので。」
「ほう、そうなのかい?」
「ええ、皆さんの職務内容も殆ど知りませんでしたので。お恥ずかしい限りです。」
「恥ずかしいものか。無知を知ることは簡単じゃあないぜ。おまけに大人になればなるほど難しくなる。その姿勢を忘れないこったな。」
「そう…ですのね。」
(かつての私は知らないことを学ぶなんてわざわざしなかったわ。それなのに大人になるともっと難しくなるのね。知らなかったわ。)
「じゃ、嬢ちゃんに俺らの仕事を教えちゃる。ほれ、あいつを見てみろ。」
指差された方を見ると、ひとりの青年が料理を火で炒めていた。一見すると普通の料理風景にしか見えなかったが、次の瞬間青年の持つ丸い金属に持ち手のついた調理器具から大きな炎が昇った。
「きゃぁ!!な、なんですの!あぶないではありませんか?!」
「はっはっはっ。思った通りの反応だ。おもしれぇ嬢ちゃんだな。」
「や、やめさせなくて、よろしいのですか?」
「なぁに、あれはフランベって言ってな、酒で火をつけて肉とか魚の匂いを取る技だ。派手だろう?ここの料理人なら誰でもできるさ。がっはっはっ。」
青年を見ると平然と炎の猛る調理器具を動かしている。料理人からしたら料理中に炎が出るのは当たり前のことなのか。
「そ、そんな危険なこともしなければなりませんのね。」
「そうだなぁ、次はあいつを見てみろ。」
言われた方を見るとふくよかなご婦人がいた。ご高齢の貴族の人でしか見ない体型をしていたので、満足な食事ができないだろう使用人なのになぁ、となんだか不思議だった。
(自重が増える原因は有り余る食欲だけではないのね。私も気を付けねばならないわ。)
身が引き締まる思いだった。すると、ご婦人は野菜の入った籠を左手に抱える。右手で野菜を掴み取ると、ご婦人が空の皿の上で腕をばさっとふって野菜を手放した。驚くのも束の間、次の瞬間には皿の上に綺麗に野菜が盛り付けられていた。ご婦人が野菜を掴み、ばっと腕を振る。どんどん野菜が盛り付けられていく。よく見れば、皿ごとに寸分違わぬ盛り付けだ。
「なんですの今の?!まるで魔法ではありませんか?」
「だろ、あいつは俺らの中でも魔法使いって呼ばれてんだぜ。」
「そうなのね。素晴らしい技術だわ。」
「あったりめぇだ。これくらいの腕がなきゃ、嬢ちゃんたち公爵家の方々のメンツが立たねぇだろうよ。」
「面子…?とはなんですの?」
(おそらく市井の民の間で使われる用語ね。)
「メンツっていうのはな…うーん、なんてぇのか。……むぅ、どっかの国の言葉らしいんだが、俺らの間じゃプライドみたいな意味で使ってんだ。」
「へぇ、そんな言葉もあるのですね。」
まだまだ知らないことが沢山あるようだ。私ですら知らない異国の言葉を使用人が知っているだなんて。
(侮れないですわね。)
しばらく料理人の男の紹介のもと調理室を観察して楽しんだが、グラスが空になり、そろそろ部屋に戻る時間か、と思った。ユリアが朝食の準備のため起こしにくるだろう。料理人の男に礼を言ってグラスを返し、扉へ向かう。料理人の男はグラス片手に私の後ろをついてきた。見送りにきてくれたのだろう。ふいに足が止まる。
(そうだ、まだこの料理人の男の名前を知らないわね。)
脳裏にあの男爵令嬢の顔が浮かぶ。
『どうせさっきのメイドの名前も聞いたこと無いんでしょ?』
また来ると言ったあの女に、一泡ふかせてやりたい。私は変われるのだ、と証拠を集めて見せてやりたい。そう思った。振り返り料理人の男に尋ねる。
「あなた、名前はなんというの?」
「俺か?俺はなぁ、ユーゴってんだ。」
「そう、ユーゴ今日は世話になったわね。ありがとう。」
「なぁんてこたぁねぇよ。嬢ちゃん。これからのメシもたーんと食えよ。」
「ええ、これからもよろしく。貴方たちの献身、忘れないわ。」
ユーゴが手を左右に振りながら私を見送ってきた。別れ際に手を振る文化でもあるのかと思い、私もおもむろに手を振り返した。ユーゴはニカッと笑っていた。
(悪くない気分ね。)
そこそこの収穫を得て、部屋へ戻った。廊下で私を起こしに来ていたユリアと鉢合わせし、何をしていたのか聞かれたときは大変誤魔化すのに骨が折れた。調理室で学んだことを話すのはいいけれど、なぜ調理室にいったのか経緯を話すと、ユリアが落ち込む気がしたからだ。食い下がるユリアをいなして私は朝の支度を始めるのだった。
食事室へ行けば、彼らが作った美味しい料理が待っているのだ。




