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六章 ロストカラーズ・後編

※流血描写・モラルハラスメント描写があります。

フラッシュバックを起こす可能性のある方は閲覧をおやめください。

「ヨネやんは、本当にまだあどけないんですよ、でもカレーとかは辛口らしくて、ガパオライスとかも普通に食べるみたいですよ。わたしは辛くて無理です。カレーも甘口が好き。なんか、それだけは置いていかれてるみたいで、焦っちゃう」

 ノッコちゃんは「ヨネやん」の話をよくする。あたしは微笑みながら相槌を打つけど、少しの不安が頭をよぎる。

 個室の料亭。そんなのノッコちゃんは恐縮するだけだと思うけど、夫が予約した。夫と駆け引きをしたあの夜から、打って変わって彼の態度は軟化した。自分のためならばどんな投資も惜しまないから。方向性はズレているとしか言えないが。

 案の定、ノッコちゃんは自分には払えないからと、このお店を辞退しようとしたので、パーティーのビンゴで当たったと嘘をついた。どうせ嘘をつくなら、このお店をいっそのこと、こっそりキャンセルしてしまえばよかった。高級店がそのことを告げ口したりはしないだろう。まだ、どこかで夫の顔色をうかがってしまう。「この世界」に染まりきれてないのはあたしのほうだ。

 一通りお食事が終わると、ノッコちゃんはドレスに使う生地を見せてくれた。「タフタ」というらしい。まさしく、ドレスによく使われる生地だ。見せてくれるだけではなく、生地を触らせてくれて、デザインスケッチもしっかりと色が塗ってあるものを見せてくれた。

 デザートを食べながら、雑談を楽しむ。床の間には、お花が生けてあり、桔梗の薄紫が部屋を華やげる。ノッコちゃんはさりげなくあたしを上座に通してくれたのが微笑ましかった。八畳くらいあるだろうか、畳の部屋はふたりには少し広く感じて、掘りごたつのような座卓に座る脚がむずむずした。

「そしたら、ヨネやんがしれっとアサリをわたしのお皿に乗せるんですよ、子どもじゃあるまいし、そんなのバレてるのに。なんか『ガリ』っていうのが嫌らしいけど、イル・クォコのはしっかり砂抜きしてあるんですよね。わたしはアサリが好きだから、もう黙ってることにしました。実はわたし儲けているんですよ、ふふん」

愚痴を言いながらも、ノッコちゃんの顔は本当に楽しそうに、にこにこ笑っていた。彼の話をする時は、いつもに増して身振り手振りが大きくなる。自分でも気づいてなさそうだけど、彼女はきっと彼のことを……。

 ノッコちゃんの顔の奥にある、(ふすま)の引き手をじっと眺めた。その周りを囲む白い和紙がスクリーンになったかのように、記憶が映し出される。淡い黄色のインナーカラーが見えたとき、あの夜の親切な店員さんだと、綻んだ気持ちが、すぐに揺さぶられることになるとは。

 アフタヌーンティーをノッコちゃんとふたりで楽しんだ、あの日「ヨネやん」と思われる彼と少し話をした。彼はパーティの日に、あのお調子者がノッコちゃんを傷つけたことに酷く腹を立てていた。その怒りの矛先があたしに混同するのはよく分かるのだけど、つい、夫の顔が重なってしまった。

 そのせいで、「モラハラ」なんて大人気ないことを指摘してしまった。いいや、言っていることは間違ってなかったのだろうか。あたしたちの関係もきっとそんなに知らないだろうに、ノッコちゃんの行動を制限する──あたしに会わせまいとする姿に、ヒヤリとしたものを感じたのだ。

 あたしは、ついつい、若い人にはあたしと同じ過ちを犯してほしくないと強く考えてしまう。

 ──……知っていますか?

 あの時の彼の言葉が小さな棘のように、あたしの胸を刺激した。ノッコちゃんが高熱を出していたなんて知らなかった。彼の不器用な怒りを受け、それはもっともだとあたしも同調しながら、あの輩の暴走を止める責任を果たせていない我が身を振り返る。ここでも、矛盾だ。

 次にイル・クォコで開かれたパーティーの夜、彼なりにノッコちゃんを守り通したことを思い出す。心配のあまり、余計な口出しをしてはいけない。それに、彼はまだ若い。間違うこともあるだろう。あたしは百ページの本と、続けて十七、八ページの本を思い浮かべる。まだ経験も少なく、書いてあることが拙い頃。それは、あたしも通った道だ。学んだことが少なく、未熟な時は誰にもあることだ。ふたりには、そのページを丁寧に書き綴ってほしいと願いながらも、結婚を失敗したあたしが言えた義理ではないと身が小さくなる。

 白く光っていたように思っていた照明が、オレンジ色に見えてくる。日が沈んだのだろう。その柔らかな灯りに照らされたノッコちゃんの笑顔は本当に穏やかで、あたしの不安をゆっくり溶かしていくようだった。





 息苦しいまでの熱波の中、スーパーの袋を二つ提げて、歩く。ゆらゆらと、街が熱湯に浸かったみたいに揺らぐ。日本でもカゲロウって立つんだな、どこかの砂漠の話のように思っていた。

 入り口を抜けたら野菜を並べてあると聞いたことがある。色とりどりに並ぶ中から、ニンジン、じゃがいも、玉ねぎを選ぶ。レシピを見ながら、ノッコちゃんが好きだと言っていたアサリを手に取る。だんだん楽しくなって、ついついお菓子やら、余計なものを買いそうになるので、ぶんぶんと頭を振って、いけないと思い直す。

 買い物を終え、アパートやプレハブ住宅が建ち並ぶ住宅街を歩いていると、ここ数年感じていなかった、日々の営みを思い出し、気持ちが昂る。ハッハと舌を出しながら散歩してるワンちゃんとすれ違うと、思わず手を振りたくなる。わんこが可愛いのはどこでも変わらないな。

 今日は、ノッコちゃんが第一案となるドレスを縫い上げたので、それを着る約束になっていた。

 ノッコちゃんが、前回の料亭で、その場所を作ると言ってくれたけど、そうすると、夫がまたしゃしゃり出て、勝手に店を予約してしまうだろう、いくら止めても強引にことを終える。まるで「気が利くだろう」といわんがばかりに。そうやって自分の手柄(少なくとも自分ではそう思っている)を主張しないと自分を保てないんだろう。

 お店をこっそりキャンセルするとしても迷惑がかかる。すると、あたしは一つの案が浮かんできた、が、ノッコちゃんの自宅に上がるということ、いくら親しくなった(だったらいいなと思う)、からといって、それでも厚かましいだろうか。言えないでいると、ノッコちゃんが顎に手を当てて、最適な場所を思案し始めた。そのとき、半袖から伸びた腕を見て思う。──細いな、と。

 ちゃんと栄養を摂っているんだろうか。もちろん、体質で太れないひとも沢山いる。でも、ノッコちゃんは……一緒に食事をしていてもよく食べるし「忙しいときは、本当にインスタントが続いて辛い、イル・クォコのまかないがオアシス」と言っていた。でも痩せているからって、食べさせたがるのも押し付けだし、ハラスメントかな……。あたしは断られる前提で、もしよければ、ノッコちゃんの家で料理を作らせてほしいと頼んだ。とはいえ、不審に思われたらどうしよう、と思うと、彼女の顔を見るのが怖かった。おそるおそる、表情を読み取ってみると、目を見開いて驚いていた。だけど、その驚きの中に拒絶のニュアンスは見えないように感じる。

「えっ!そんな悪いですよ、そんな、わざわざ来てもらうのは申し訳ないです、うち、狭くて古いし、別で場所を設けますから……」

遠慮しているのだろうか。手を振って、慌てたそぶりだ。

「嫌でなければ、むしろ作らせてほしいんだよね……あたし、家では料理できないからさ……自分の味が恋しくて」

あたしは、どんどんずるくなっている気がする。こう言ったら、ノッコちゃんは断れないとわかっているだろうに。 





 アプリの地図ではわかりにくいからと、ノッコちゃんが手書きしてくれた地図を見る。レトロな純喫茶を左手にして、ガーデニングが素敵なお家の向かいのアパート……。手書きの文字で、困り顔の絵文字みたいなイラストとともに「ボロいですよ〜」と書いてあるのが可愛らしかった。

 彼女の言葉通り、()()のある二階建てアパートが目に入る。屋根付きの駐輪場を通り抜けるとき、すれ違った小学生が「こんにちは〜」と声をかけてきた。その顔にはちょっと警戒の色が見えて申し訳なくなる。駐輪場の落とした影は濃く、日差しの強さを一層強く感じさせた。地図に書いてある部屋番号に辿り着くと、立ち止まる。 

 ミンミンと鳴く蝉の声を聞きながら、大きく息を吐いた。この中にノッコちゃんが待っていて、あたしのためのドレスを着せてくれる……。そう思うとインターホンを鳴らそうとする指が震えた。その一着を見たとき、あたしは何を思うんだろう……、そんな頭の中の声に、蝉の鳴き声が反響する。この時ばかりはうるさい彼らの声がありがたい、これ以上ごちゃごちゃ考えるとパンクしそう。

 ドアが開くまで、心臓が脈打ちすぎて破裂するかと思った。というか、いくらあたしが来るってわかっていても、いきなりドアを開けるのは危なくて心配になる。ちゃんとスコープを覗いていればいいけど。

 荷物を受け取りながら、ノッコちゃんが我が家を案内してくれる。グレーのスウェットの下に赤いキュロット。ちょうど部屋着とオシャレの中間くらい。着るものにも気を遣わせたろうな。彼女は空いた方の手で顔や髪を何回も触って、いそいそと落ち着かない様子だ。それはそうか、彼女だって緊張しているんだ。


 あたしはさっき買ったものを、冷蔵庫に入れ終える。すると、ノッコちゃんが麦茶を出してくれた。ふたりでダイニングテーブルに座り、喉を鳴らしながら飲み終えると、ノッコちゃんは両手を膝の上に置いて、俯いたかと思うと、意を決したように、勢いよく頭を上げて、こう言った。

「さっそくですが、もうドレスを見ますか?それとも、少し休みますか」

あたしは心臓が大きく跳ね上がるのを感じた。





 ノッコちゃんが戸を開ける様子は、神殿の扉を引くような神聖さを髣髴とさせる。戸の奥の部屋の中に現れた、淡い青で、ふわふわとしたドレスが神様のように綺麗だったから。綿菓子のようなオーバースカートがクーラーの風を受け、微かに揺れていた。カットオフのTシャツが意外性と一緒に、良いアクセントになっていた。

 あたしは、思わず「綺麗」と言葉をこぼした。

 ゆっくり近づくと、青に吸い込まれそうになる。すると、ミニドレスに使われたタフタ生地の玉虫効果で、黄色い光が散りばめられたように見えた。その大胆な色使いに、目の前で金平糖がぱちりと弾けたような楽しさがあった。

「本当に綺麗だね……」

そう言いながらも、本当にこのドレスをあたしが着ていいのだろうかと、性懲りも無くまだ思ってしまう。

 ノッコちゃんは丁寧に説明をしてくれた後、あたしにドレスを着せてくれた。

 あたしの身体にーつひとつ、慎重にパーツを重ねる。それは何かを少しずつ得ていくような感覚だ。今までの少しずつ失なっていく生活とは正反対に思えた。

 トルソーが着ていたそれが、全てあたしへと移った時、これが現実に起きていることなのか、いよいよ信じられなかった。なにかの映画を見ているような気分でぼうっと鏡を見ていると、ノッコちゃんが「サプライズ」と言って、赤いソフトレザーのコルセットを、棚の引き出しから取り出した。デザイン画にも描かれてはいたが、たしかに、実際、彼女が出すまで、無くても何の違和感もなかった。だけど、不思議な事に、それを見てしまった今は、それが無ければこの作品は完成しないだろうと思った。コルセット……苦しいのかな。あたしは、ウェディングドレスを着た時に着けた、ブライダルインナーを思いだす。あれは、結構苦しかった 。でも、同時にノッコちゃんが、あたしを締め付けることはしないだろうという信頼があった。

 あたしが、おずおずと頷くと、丿ッコちゃんは慎重にコルセットをあたしに纏わせた。


 サテンのリボンを鳩目に通す指は、大切なものをラッピングするかのように優しくて、自分の作品に対する深い愛情が伝わった。しゅるしゅるという衣擦れがあたしの耳を心地よく震わせる。

 リボンを通し終わると、ノッコちゃんはあたしから体を離し、鏡を見やすいようにしてくれた。

「苦しくないね……」

鏡に映った自分を見ながら、あたしはこのまま泣いてしまいたかった。ノッコちゃんは、あたしを苦しめるひとじゃないってことが、このコルセットに全て詰まっている気がしたから。だけど、泣いてはいけない。今日はノッコちゃんが第一案のドレスを完成させたお祝いの日でもあるのだから。あたしは、気持ちを落ちつける意味でも、姿見の中のドレスを今一度眺めた。



「Tシャツも着るんだね」

やっと、気を沈めると、あたしは疑問に思ったことを口にした。ドレスとカジュアルなTシャツがミスマッチな気がしたから。すると、ノッコちゃんはもうひとりの、このドレスのモデル、ジリアンがアメリカ出身なことと、カットオフの処理はアメカジ、アメリカンカジュアルの要素から取り入れたことを説明してくれた。

 アメカジ……、あたしは、いつの間にか捨てられていた、あたしの「相棒」を思い出す。夫が家政婦さんに処分させた、あたしの履き鳴らしたデニムジーンズ。

「えっ?じゃあさ、デニムとか履けたりする?……あたしもう何年も履いてないから、履いてみたいんだ……」

着てみたい、と思うと同時に口に出していた。しまった、図々しかったかなと、ノッコちゃんの顔を見ると、目を見開いていた。次第に瞳に光が宿り、綻んだ桜の蕾を見つけたときのような、はしゃいだ表情になる。

 

 ノッコちゃんは嬉々として、あたしの意見を取り入れてくれた。それだけではなく、それを軸にノッコちゃん自身の解釈も膨らませて。

 その光景が、果てしもなく尊くて、手足がじんじんと痺れたようになる。あたしは、もうどんなことを言っても否定されるだけ、そう思っていたから。意味を持たない〝ただの音〟だから、無視されるんだ、と。 

 でも、目の前のこの女性は、あたしの言葉に深く頷いてくれた。そんな、諦念は妄想だと力強く打ち砕いてくれる。

 新しい刺激になったと、わくわくしながらメモにまっすぐ手を伸ばすノッコちゃんを見ていると、あたしの言葉が形になるんだと、心が一気にざわめき立つ。あたしは体を震わせていた。口元を手で押さえて、もう片方の手で自分を固く抱く。ドレスの柔らかな感触が伝わる。さっき泣いてはダメだと誓ったばかりだから、込み上げてくる涙を必死に堪えた。


 ノッコちゃんは、あたしのそんな様子に、当然気づく。すぐに、あたしに向き直り、どうしたのかと心配させてしまった。あたしは、感動しただけだと取り繕いながらも、本当にこのドレスを着ていいのかと、正直な気持ちを伝えた。彼女は、あたしの目を見つめて「薫さんのために縫い上げたと言っても決して過言ではないんですから」と言ってくれた。あたしは、その言葉に溺れてみよう、と思う。

 


 アイスの甘さが舌の上でとろける。冷えた口の中でサクサクと音を立てるクッキーが小気味良かった。食事のあとに、ちょっとしたサプライズのつもりだったけど、ノッコちゃんのサプライズには敵わなかった。

 ドレスを脱いだら、心まで軽くなったようで、あたしは()()()()の気持ちでキッチンに立つ。ノッコちゃんが用意したエプロンに身を包み直すと、久しぶりにお腹の底から笑った気がした。

 まな板の上で、野菜を切る振動、トントンという心地よいリズム。くつくつとお湯が煮える音に、ノッコちゃんの明るい声が重なる。何もかもが、懐かしくて、胸に柔らかなオレンジ色の炎が灯ったようだった。

 久しぶりに作ったカレーも、実は初めて作ったクラムチャウダーも、ノッコちゃんの力を借りて取り返した、あたしのアイデンティティだ。


 あたしは、この後に及んでまだ、ランウェイに立つのを迷うけど、ノッコちゃんは答えを待ってくれる。こんな、焦らすような態度は良くない。そう思うけれど、あたしが何に恐れているのか、自分でもはっきり見えていなかった。





 プレゼンを通らないと、ドレスはランウェイに載らない、と、申し訳なさそうにノッコちゃんは言った。

 でも、あたしは大丈夫だろうと思う。贔屓目を無しにしても、あのドレスが評価されないならば、その見る目は節穴だ。


 ノッコちゃんから「良い報せ」と電話が来た時、だから驚きはなかった。やっぱりかと、静かに頷くだけだった。大丈夫でないとしたら、それはあたしの心構えの方だ。分かっていたことなのに、返事をまだ用意していないのだから。

 電話を耳に当てながら、あたしは、家政婦さんの方をチラと見る。いつもと変わらずに淡々と家事をこなしてくれていた。対して、ノッコちゃんは、歌うように弾む声で「プレゼンを通ったんです、わたしのドレスがランウェイを飾るんです」と喜びを爆発させていた。

 

 夫は、昼前にいきなり帰ってくるなり、家政婦さんに数日分の着替えを用意させた。どうしたのか尋ねても、「ああ」と不機嫌そうに空返事をするだけ。当分家に帰られない時、特有の態度だ。

 ひったくるように荷物を受け取ると、振り返ることもせずに、車に乗り込んだ。これはトラブルだ。何か大きな問題が起きて、その対応に追われているんだろう。ポケットに突っ込んだ夫のスマホがせわしなく震えていた。

  

 ──なんてタイミングがいいんだろう

と、思ってしまう。


 それを憐れんだりもする、なぜあのひとは、自ら嫌われるようなことをするんだろう。あのひとを愛するひとはいるんだろうか。ご両親にあたしを会わせたがらないのは、コンプレックス……もあるんだろう。

 ご立派な親御さんと自分を、比べられるのが嫌なんだろうか。小さい頃から、散々「──親御さんの名に恥じないように……」と言われて育った、らしい。

 あたしはそんなことをしないし、何よりそのストレスを、劣等感からくる苛立ちを、あたしに当てても仕方ないじゃないか──。


 あたしは、心の中で思い切り舌を出しながら、口の端を持ち上げた。そのあたしの顔、きっとピエロみたい。滑稽な笑顔の裏で、涙を一粒流す。

 涙のタトゥーは、誰かを手にかけた印だと、聞いたことがある。あたしの中の色々を、諦めて殺したのは、他でもないあたし自身だ。きっと、あたしはそのことを忘れたくなかった、失ったものがあることを。そうして、印を心の中に密かに刻んだ。隠してたのに、ノッコちゃんはそれを見つけた。初めて会った夜、無くした感情のひとつ「嫌だ、嫌い」を思い出させてくれたんだ。

 そんなこと、考えながら、彼女と会う約束を取り付けた。まだ言っていない、良い報せがあるらしい。

 あたしはそれを、是非直接聞きたい、と提案した。「本当に連れ去ってしまいます」そう言ったノッコちゃんの言葉に期待を寄せながら。



 電車は久しぶりだった。利用していた頃は、人が多くて煩わしかったけど、何故か思い出すのは小学生の頃、初めて乗った時のワクワク感だったので、不思議だった。

 細身のスーツを着てノッコちゃんは立っていた。いつもは、彼女のお気に入りのファッションを着ていたので、コンサバ系のカチッと感が新鮮だった。こちらに気づくと、弾けたように駆け寄ってくる。カラカラと響くパンプスの踵が、楽しい気な笑い声のようだった。まだ、あたしに報せていないニュースというのは、ノッコちゃんのドレスがショーの目玉になるということだった。自分のことのように嬉しくなる。

 あたしは、ひとつの提案をした、ショーが開催される文化ホールに行ってみよう、と。もちろん、悪戯心もあるけれど、それ以上に、ふたりでドレス──Bloomと名付けられた──がランウェイを飾る場所を見てみたかった。そうすれば、あたしの中の曖昧なもの、それらの輪郭が受かびあがってくる気がした。何か答えを見つけられる気がした。

 流れてゆく街並みが、紙芝居みたいだと思った。電車の窓枠が一枚の絵のように景色を切り取り、スライドさせてゆく。物語の中にいるようで、本当に逃避行劇を演じているみたいな気持ちにさせた。

 高田馬場の街をふたりで歩く。歩道も車道もビルに押されて狭いので、気をつけて歩く。

 頭の中にFoggy Mountain Breakdownが流れる。高架線は荒野の中の一本道。その横にそびえ立つビルは切り立った崖だ。あそこを逃げ切れば、きっと追っ手から逃げ切れると、夢想する。……空想の中とはいえ、ノッコちゃんを勝手に逃走犯へと仕立て上げることに、罪悪感があった。

 ノッコちゃんがこちらを向いて、笑顔ではしゃいでいる、

「見てください!製菓の専門学校がある!学んでることは違っても、専門学校を見ると仲間に会ったみたいで嬉しくなるんです」

控えめに指を差しながらも、まるで跳ねるような彼女は、小学生の遠足のようで、あたしは気まずくなる。やっぱりこうやって、彼女は日向の中を歩く方が似合っている。

 

 歩いていくうちに、見覚えのある景色が見えてきて、あたしは首を傾げる。いつもは車道からの景色なので、自信はないけど、文化ホールに近づくたびに確信へと近づいた。

「もしかして、あたしここの文化ホール来たことあるかも」

ここで、地域の子どもたちのイベントが開催されるとき、よく来賓として招待されていた。夫は当然のようにあたしを連れて行くけど、このイベントは嫌いじゃなかった。

 若い子が一生懸命、発表会で成果を発揮する姿は胸を打つ。この生活の中での数少ない癒しだった。

 文化ホールを見ると、いよいよ、間違いなかった。キャラメル色のタイルを貼り付けた建物は、エアーズロックのようにどっしり構えていた。この場所で、あたしは何回、感動の涙を流しただろうか。

 子どもたちの合唱は、ぴったりと揃っていて、いっぱい練習したことがわかった。弁論大会では、鋭い視点で物事を観察、考察していて、その言葉を聞くたびに、視界が広がるようで、うーんと何回も唸らされた。大切なひととの交流をテーマにした弁論もあり、時にはその相手、例えばお婆さまと、和解できないまま、永遠のお別れを迎えてしまった後悔もあり、胸が締め付けられた。

 彼らの言葉は、きっとあたし以外にも、色んな人の心に響いていたと思う。


 あたしは、その思い出を抱きしめるように、文化ホールを優しく(くう)で撫でていると、とあることを思い出す。思わず顔をしかめてしまうほど、苦い記憶だ。……あたし、発表が終わると、非常階段に逃げていた。夫たちが、近況という名の鞘当てを始めるからだ。

 気がつくと、その時の話をノッコちゃんにポツポツと語っていた。ノッコちゃんは、いつもそうするように、あたしの言葉を静かに受け止めてくれる。そんな彼女だからこそ、聞いてもらいたかった。この決意を。

 この場所で若い子たちの真剣な姿にたくさんの力をもらった。あたしがBloomを着て、ランウェイを歩くことで、同じように誰かの心を動かせるかもしれない。少なくとも、ノッコちゃんが縫い上げるドレスにはその力があるんだから。

 ノッコちゃんが選んだのはあたし……。その意味を更にもっともっと、信じてみる。そこには、彼女の想いと確信があるから。だったら、その信頼に応えたい。あたしがBloomを着ることで、そのメッセージは完成するんだ。

 武者震いのように熱い涙が一粒落ちる。ピエロの涙が剥がれ落ちた。あたしは、ついに決心した。

「決めた……あたし、ランウェイ歩く」

 夕日がふたりを染める。紅く染まったあたしの身体は、血潮が燃えたぎっているようだった。その熱さがあたしを突き動かす。

 さっき、「自分のことのように嬉しい」と思ったけど、ノッコちゃんのドレスはもう、あたしにとっても「自分事」になっていた。





 ノッコちゃんのドレス制作は順調に進み、明日は「トワルチェック」というものがあるらしい。

 トワルという、試作品のようなものを実際にモデルが着て、シルエットや服の揺れ方を見るらしい。この頃の夫はノッコちゃんと会うことについて何も言わなくなっていて、すっかり油断していた。それがとんでもないことを隠しているとは知らずに……。


「明日、デザイナーの子と会うの?」

 あたしがリビングでスマホを見ていると、夫がソワソワと尋ねてきた。いつもは興味のなさそうな素ぶりというか、自分からこのことを話題にはしない。興味津々だとバレると彼の中では、弱みを見せるのと同じなんだろうか。あたしには分からない感覚だけど。

「うん、明日はトワルチェックってやつがあるから、学校に行くことになってる」

なんとなく、スマホを下ろす。悪い予感がした。夫と話が噛み合わないときは、いつもこんな空気が流れるから。

「じゃあ、それボクが行くから」

夫が何を言ったか分からなかった。

「えっ、トワルチェックってなんだか分かってる?あたしの寸法に合わせた試作を着るのに、どうしてあなたが行くの?」

「バカにするなよ、ちょっと調べたらさ、父さんが昔、その学院に寄付してたことが分かったんだ、しかも結構な額をね」

ムッとしたあと、夫は急に調子に乗ったように言葉を吐き出す。でも、いよいよその意味が分からなくなってくる。

「学校関係者も息子であるボクがショーに出た方が嬉しいでしょ、だからモデル、交代して」

更に得意になって夫が続ける。あたしは、だんだんと青ざめてくる。

「ちょっと、それなら、それでもっと早く言わないと……、ドレスって急に出来上がるものじゃないんだよ」

「だから、バカにするなって」

夫は語気を強める。心臓がドクドクと音を立てるのを聞きながら、あたしはノッコちゃんの顔を思い浮かべる。彼女が一体、どれだけ丁寧に想いを込めてこのドレスを作っているのか、このひとには分からないんだろう。だからこそ、それを台無しになんてさせたくなかった。それでも、夫は自分本位な言葉を続ける。

「衣装はなんでもいいんだよ、ボクと、この学院が支援関係にあるってアピールできれば。簡単だろ、君の『枠』をボクに交代させるだけなんだから」

「簡単じゃないよ、パターン……型紙ひとつ起こすのだって、生地に合わせて何回も修正する、大変な作業なんだよ、他のことだって、どれだけ準備が進んでいるか……だいたい『そんな意図』があるなら、学院側にちゃんと話はつけてあるの?」

「どうしてそんなこと言うの?何も分からないくせに……だいたいショーなんて話題性がある方がいいに決まってるんだから、名前が売れてるボクの方が、ありがたいだろ。なんだったら、ボクだって寄付するさ、いつまでも父さんの影に隠れてるわけにはいかないからね」

夫の声が、だんだんと遠ざかって聞こえてくるようだ。

 このひとは本当に何も分かっていない、分かろうとしない。

「卒業制作ショー」だっていうのは、何回も伝えたはずだ。学生たちの集大成である、卒業制作の衣装が主役に決まってる。なのに、何故その舞台で話題や注目を自分に集めようとするのか。

 不意に、夫のスマホが振動する。一瞥すると、何も言わずに彼はスマホを持ってリビングから出ていった。

 あたしは、全身の血の気が引いていくようだった。ノッコちゃんがこれまでコツコツと、でも確実に創り上げた、あの綺麗なドレスが、夫の無神経な言葉で汚されていく感覚を覚える。

 このひとの行動が予測できないのはいつものことだけど、こんなことを言いだすなんて……。事態を甘くみていた。どこかでまだ、夫のことを制御のきく相手だと、(たか)を括っていたのだろうか。

「ごめん、明日行けなくなったから、代わりに行っといてくれる?ちゃんと交代するって言ってね、それと、三枝さんにも、夫が会いたがってたって、きちんとアピールしといてよ」

それだけ言うと夫は、満足げに寝室へと向かった。

 何故、注目を集めようとするのか……答えは、あたしもどこかで分かっていた、夫はひとが築き上げたものを平気で横取りするからだ。卒業生が学校生活を懸けて作品を発表する場を、自分のステージにしようとする。

 あたしと、ノッコちゃんが少しずつ育んだ関係を、平気で乗っ取ろうとする。

 十二帖のリビングが、だだっ広い砂漠のように思えた。息を吸うたびに、熱くて乾いた空気が肺をカラカラにさせる。あたしは、皮のソファに、しばらく、張り付いたように動けなくなった。





 あたしはのろのろとワインセラーに潜り込む。

 朝起きたら、いつもはさっさと仕事に行く夫が、今日はダイニングに座ってコーヒーを飲んでいた。「じゃ、例の件よろしくね」にこにこしながら、それだけ言うとそそくさと家を出ていった。

 地下室の扉を開けるとひんやりとした空気が広がる。ずらりと並ぶワインから「結婚して十年後に開けよう」と寝かしていた一本を手に取る。まだ十年は経っていないけど構わない、前借りだ。

 寝室に戻り、ベッドの横にうずくまりながら、ちびちびとそれをラッパ飲みする。ノッコちゃんとの約束をすっぽかしていることになるけど、どうしてもトワルチェックに行く気にはなれなかった。カーテンすら開けていない閉め切った部屋が薄暗い。音もない部屋に、白いシーツに包まれた、クイーンのベッドがふたつ、重苦しく並んでいた。あたしを押し付ける大きな文鎮みたい。

 世間体を気にする夫は、カーテンを閉め切るなんて、酷く怒るだろうけど、ささやかな抵抗だった。意味のないバカバカしいことだけど。

 重いワインの瓶を傾けていると、味もしないのに酔いだけが回ってくる。こうしていたってノッコちゃんを裏切っているばかりなのに。なんで、連絡の一つもできないのか、それは退路を絶たれた吊り橋をひたすら渡っているからだった。夫が後ろから迫ってくるから、もう降りるしかない。あるいは落ちるかだ。


 もう、手放すしかない、ノッコちゃんとのこれまでのことごと。彼女との時間を過ごすために、夫に彼女の存在を明かすべきではなかった。

 彼女が向けてくれた、あたしへの優しさ全てを思い出す、数えきれない。腫れ物に触れるようなそぶりは一切なかった。楽しいと思ったことを素直にあたしに教えてくれた。あたしの名前を呼んでくれた。

 初めて見せてくれた、スケッチブックの中のドレスを思い出す。そのとき、確かにあたしの心はぱちんと弾けた。この才能は自由の中でこそ輝く。大人の駒になってはいけない、その想いは今でも変わらない。

 だからこそ、夫がノッコちゃんと関わる前に、あたしは吊り橋の縄を全部切り落とすしかない。このひとは全てを絡みとる毒蜘蛛の巣を張るから。木片が叩きつけられて粉々になる音と一緒に、甲高い悲鳴が耳の中に響く。それが実際にあたしの口から出たものか、はたまた妄想か、分からなくなる。

 気がついたら、部屋の外が一層暗い。早く、ノッコちゃんに言わないと。まだ、色々と修正がきく内に。終わらせるんだ、あたしとBloomの物語を。ノッコちゃんは悲しんでくれるだろうか。そんなことを期待するなんて、いよいよ、あたしはどうにかしている。

 タクシーを呼んで、あらかじめチップを弾んだ。ノッコちゃんの家の近くで待っていて欲しいから。お金で相手に融通をきかせてもらおうとするなんて、夫がする真似みたいで嫌だ。

 黒い街灯を飲み込みながら、車が走る。あたしは、それを見ながら心の中を全部吐き出してしまう気分だった。

 


 レトロな純喫茶を左手にして、ガーデンが素敵な家の向かい。忘れられない景色。温かい食卓を囲む前のささやかな高揚感が蘇る。千鳥足で歩く。もう訪れることはできないと思うと、なんであたしはお酒なんか飲んだんだと後悔する。全てを目に焼き付けたかった。

 ふと、ノッコちゃんが描いてくれた地図を思い出してヒヤリとする。捨てないと、夫に見つかったら大変だ。あのひとの執念を甘く見てはいけないことは、昨夜、思い知ったばかりだ。

 引き返して、コンビニに駆け込む。お手洗いを借りて、メモに水道水をかける。インクがじんわり溶けて流れていく。心が痛い。ノッコちゃんの優しさや、気遣い、温かさが詰まったこのメモ用紙に、文字通り冷や水を浴びせるなんて。

 念のため、細かく千切って、ゴミ箱に捨てさせてもらった。ごめんなさい……。

 改めて、ノッコちゃんの住む部屋番号の前に立つ。ちゃんと話をしないと、「ごめんなさい、一身上の都合でモデルを引き受けることができなくなった」と。始めからこうしていればよかったという声が、ガンガンと頭に響く。

 あたし、いつの間にインターフォンを押したんだろう、気づいたらノッコちゃんの腕に体重を預けていた。ノッコちゃんはあたしをダイニングチェアに座らせた。それまで、あたしはみっともなく何かを喋っていたような気がする。

「ごめん、ごめんねー今日行けなくて、怒ってる?」

チェアに座って、俯いたまま。大きな声で叫ぶように言う。これが自分の口から出た言葉だと信じたくなかった。

 違う、こんな風に話したかったんじゃない。涙が流れるままに、あたしはノッコちゃんを傷つけるようなことを言っている。彼女は目を見開いて、その瞳が揺れていた。みるみるとその眉間に皺が深く刻まれる。ベールがかかったように、その光景がぼうっと霞む。

 当たってるだけだ、あたしは、ノッコちゃんに会えなくなる悲しみを。そんなこと、どうしてあたしは、自分がされて嫌だったことを、ノッコちゃんにぶつけるの?

 情けなくなって、涙がさらに我慢できなくなる。小さいころ、こんな風にしゃくりあげて泣いていた。あたしは、子どものように駄々をこねてるだけだ、ねえ、落ち着いて、あたし、最後に言うんだよ「今まで、ありがとう、そして途中で降りてごめんなさい」って。

 でも実際に口を開くと「あたしはジリアンじゃない……」と、ポツリと吐き捨てていた。あたしはジリアンにはなれなかった。

 いいや、ノッコちゃんは、あたしにジリアンの何を見ていたか分かったよ。助けてくれようとしたんだね、あたしのこと。ジリアンのように束縛されるあたしを。

 ジリアンみたいに、自分で自分のことを救う強さがなくてごめん……。いよいよ涙がとめどなく溢れてくる。ノッコちゃんに言いたかったことが全然違う形で出てきて胸が苦しくなる。それどころか、決して言いたくなかったけど、心の奥底に渦巻いていた、一番醜い感情を吐き出した、最低だ。

 あたしは、それこそ、子どものようにわんわん泣きながら、ノッコちゃんの部屋をよたよたと後にした。これで最後なんだ、もうノッコちゃんと笑いあうことはできない。ドアが閉まる。その音は悲鳴だった。吊り橋が砕けた時に聞いた。バラバラに身を引き裂かれ、耳の奥で聞いたあの甲高い叫び。





 なんてことはない、ノッコちゃんを知る前に戻っただけ。それなのに全てを失ったような気になる。視界も頭の中にもサーッとノイズがかかったようだ、考えがまとまらず、どこかへ散り散りになってしまう。

 昨夜のことなのに、記憶がもう遠い昔のようにセピア色だ。

「あたし、ショーのモデル降りたから」

仕事を終え、リビングでくつろぐ夫に、あたしは告げた。たいしたことではないように淡々と。

 でも、それではこのひとは自分の都合のいいように解釈してしまう。

「当然あなたも、この話は無しだから」

念を押すように続けて言った。

「……ああ」

不機嫌そうに夫は返した。こちらに顔を向けもしないけど、それはいつものことだった。

 せっかく見つけた遊びを取り上げられたから、もっと騒ぎ立てて、あたしを責めるかと思ったのに。やけにあっさり引き下がるな、と微かな疑問はあったけど、その小さな違和感に向き合うほどの気力は、この時のあたしにはなかった。

 ただ毎日が通り過ぎていった。朝起きて夜が来たら寝て、また朝を迎えると、それをゆっくりと夜に渡す。たまに、庭に迷い込んでくる地域猫ちゃんを、道端に帰してあげるときだけが楽しかった。軽やかに走り去っていく、柔らかな身体を見えなくなるまで送った。

 空色のものを見ると、胸が苦しくなるので、この時ばかりはこのモノクロな家がありがたかった。





  今日はカレンダーも時計も、見ないようにして過ごす。日付を意識すると胸を刺されたように痛くなるから。せめて、成功を祈りたいのに、でもそんな資格もないと思う。

 リビングの窓から庭を見てみる、枯れた枝がかさかさと揺れているだけだった。今日は迷い猫ちゃんはいない、それは良いことだ。あたしは踵を返すと、リビングのソファに腰掛けた。

 テレビも点けたくない。ニュースは今日は何月何日か、嫌でも告げるし、ニュースが終わったら、一斉にゴールデン番組が始まるので、今は七時だと意識せざるを得ないから。日付が変わると、ノッコちゃんの学院の卒業制作ショーが始まる。そのことを忘れて、静かに明日を通り過ぎたかった。

 気がついたら明後日になっていればいい。そうしたらきっと、そのあとは何も感じることなく過ごしていけるから。

 家政婦さんがお昼ご飯にビーフシチューを作ってくれた。スプーンでひと掬い口に運ぶと、次にパンを千切って食べる。パン・ド・カンパーニュとロッゲンシュロートブロート。家政婦さんのお気に入りのパン屋さんから買って来てくれているらしい。パンの酸味がシチューによく合った。あたしは、家政婦さんに軽く一礼すると、ダイニングを後にした。

 あたしの部屋に入ると、棒編み棒と毛糸を取り出した。新婚の頃、夫に勧められた手習い。図案を本棚から取り出す。時間を忘れて黙々と没頭できるところが良かった。ここ最近は靴下を編んでいた。誰が着る当てもない。サイズは適当。時間を潰せられればなんでも良かった。

 きっと、この濃いグレーのループヤーンの毛玉を買った時は、誰かに編んであげようと思っていたけど思い出せない。四つの編み棒で輪を作り、編み終わりの二目ゴム網を編んでいたら、夫がノックもせずにドアをいきなり開けて、

「ねえ、リビングに来てくれる」

妙に明るい声で言った。あの時、見逃した違和感が牙を剥いたように大きくなってくるようで、冷や汗が出てきた。

 リビングには、家政婦さんが用意してくれた、白身魚のムニエル、付け合わせにブロッコリーと、キャロットグラッセ。ラムチョップ。マッシュポテト。ナスとパプリカのマリネが用意されていた。そして、お昼に食べた、ハードブレッドが並ぶ。

「いやぁ、今日はワインは控えめにしとこ、セラーから白ワイン……ラベルが青っぽいシャルドネ持ってきてくれる?」

ウキウキとした様子で、家政婦さんに指示を出す。あたしはいよいよ、嫌な予感がした。いつもは家で、夕食を一緒に摂るなんて滅多にないから。たいがい帰りが遅いし、二十時に帰らなかったら、先に食べろと強く言い含められていたから。今日は食事を楽しんでいるようで、はっきり言って……不気味だった。

 いつもは美味しい食事の味がよくわからない。勧められるままにワインを飲んでいた。食事が終わると、今度は、夫がこう言う。

「中村さん、今日は早めに帰っていいよ、片付けはボクがやっておくから」

あたしも、家政婦さんも(中村さんというのは家政婦さんの名前だ)ギョッとして思わず、目を見合わせてしまう。

 この生活で、中村さんと目が合うなんて、しかも共感で……こんなことは数えるほどしかなかったことを思い出して切なくなる。

 彼女は困惑を隠せないようだったが、「お疲れ様でした」と夫に挨拶をして、身支度もそこそこに家を出ていった。家政婦さんが玄関のドアを閉めたことを確認すると、夫はダイニングに座ったままこう切り出した。

「で、明日、ボクはどこに集合すればいいの?」

背筋が凍りつく。

「な……なんのことを言っているの?」

額に冷や汗が伝う。

「だから、明日でしょ、ファッションショー、ボクはどこで集合したらいいの?」

「あたし、モデルを……お、降りたって……言ったでしょ?」

口がうまく回らない、つっかえながらもなんとか最後まで言い切れた。

「だから、それはキミの話でしょ、ボクは違うよね?()()()どこに行けばいいのってば」

だんだんと夫の語気が強くなってくる。

 そうか、夫があたしの話を聞いていないなんていつものことなのに、なんでわからなかった?自分の間抜けさに、身体の力が一気に抜ける。

 そのくせ、自分の都合のいいところは誇大解釈する。大方こうだろう、彼の中では「あたしはモデルを降りた」と言った時に「自分と交代したからだろう」と勝手に結論づけた。だから、その次の言葉は耳を通り過ぎたんだ。

どうしてわからなかった?夫はいつも、こういうひとだったのに。自分の都合で、物事を捻じ曲げる。

「打ち合わせもしてないのに、いきなりランウェイに立てるわけないって」

あたしは、できるだけ落ち着いてこう言った。夫が椅子を激しく引いて、大きな音を立てながらこっちにやってくる。

 座ったままのあたしの横に立ち、上から睨みつけるように声を這わせる。

「だから、バカにするなって言ってるだろ」

あたしは、身を硬くして俯く。今にも掴みかかってくるような勢いだ。

 そう思うと同時に、夫は本当にあたしの二の腕を掴み、無理矢理立たせた。

「痛っ……」

思わず声に出すけど、夫の耳には届かない。

「モデルなんて、服を着て歩くだけだろ、ましてやボクは()()()()()()()()だぞ、寄付金もたんまり送った。多少自由にやった方が話題になるに決まってる、」

あたしは目を瞑って、震えることしかできない。

「ねえ、聞いてるの?何か言ってよ。ねえ、明日、ボクはショーに出られるんだよね」

あたしを掴む力が強くなってくる。

「だから……無理……なんだって、あなたの役割はないの……もうプログラムは決まってるんだから」

吐息混じりに、弱々しい声しか出ないのが情けなかった。

 不意に、夫が私の腕を解放した。ホッとしてあたしはよたよたと後ずさる。

「なんで……!」

夫が金切り声を上げた。

「なんで、ボクの言うことを聞いてくれないの?」

そう言うと、夫はまたあたしの腕を掴もうとした。

 あたしはその声が本当に癪に触って、思わず、夫の腕を強く振り払った。

 彼は、こうなることを全く予想していなかったのか、大きくバランスを崩した。咄嗟にテーブルクロスを掴む。

 椅子に激しく頭を打ちつけ、バウンドしながら、テーブルクロスを引っ張る。あたしは「テーブルクロス引き」みたいだとぼんやりと考えた。ただ違うのは、カトラリーや食器が容赦なく夫に降りかかる。

 フォークやナイフが鈍色の雨のように、叩きつけられる。ガラスや陶器が飴細工のようにいとも簡単に砕けた。あたしの足にも飛散したガラスの破片で、細かい傷ができた。金属が擦れたり叩きつけられる音、ガラスが割れる音がけたたましく、耳を突き刺す。

 すると、嘘みたいにダイニングが静まり返る。静寂が耳を切り付けるようだ。

 床に仰向けに倒れた夫は、目を見開いていた。頭からゆっくりと赤いものが広がった。どろりと、濃いめに溶いたカーマインの絵の具みたい。

あたしは、のろのろと夫にゆっくり近づいた。身体が鉛玉のように重い。

──嘘でしょう、もしかして死んだの、嘘、死んでないよね、脈……脈取らなきゃ……止血……

なんとか、膝をつき、夫に絡みついたテーブルクロスを剥がす。カトラリがカチャカチャと音を立てて、クロスから滑り落ちる。ぬるりと温かい血が手にべたりとついた。脈を取ろうとするけど、手が震えてうまく夫の腕を掴めない。もし、脈が止まっていたら、と思うと怖くて指先が冷たくなる。

──なんで、あたしを何年も苦しめてきたこのひとの命、こんなにあっさり終わるの……

 あたし、このまま捕まるのかな……その方がいいのかも。夫といるよりは自由を感じられるかもしれない。

 あたしは、ゆっくり瞼を落とす。救急車と……場合によっては警察を呼ばないと。何もかもを諦めたかのように、深く息を吐く。

 

 目を閉じると、春の風とクレマチスが薫った。


──ノッコちゃん助けて……

目を見開く、自分の言葉を疑った。そんなこと言える義理じゃないって、決まってる、のに。……あたし、やっぱりノッコちゃんにもう一度会いたい。



 あたしはノッコちゃんを見てすぐに分かった。彼女は消え入りそうに細くて、肌も透明感を通り越して、透明なんじゃないかと思う危なっかしさがある。(ろくに食べずに部屋に篭りがちなんだよ)

でも彼女は決して折れない燃え盛るような芯を持ってるって。それは、しなやかで、無理に折ろうとしたって、柳の木に雪折れはないんだ。

 彼女は間違いなく何かを創造するひとだ。何かを成し遂げる器だ。

 こんな子と友達になれたらって、夢みた一瞬のうちに。

 

 夫みたいな人たちはあたしをいつも不幸にさせた。あたしから目を離せないくせに、あたしを無視する、勝手に目の色を変えて、勝手に競い合い自滅する。

 アンタたちの自尊心を満たすための道具じゃない、バカみたいだと思う。

 だけど、ノッコちゃんは違った。あたしのことを心底心配してくれた。本当に気を置かずに接してくれたんだよ。なんのバイアスも持たずに。彼女が微笑むたびに、あたしも自然と笑顔になった。

 でも10歳も年下で、友達になっていいのかな、わからなかった。世間はいったいどんな友達づくりをしているの?

 なら、せめてモデルになることで、彼女のミューズでいることで、協力しようと思った。大人として若い才能を。応援したかった。力を貸したかった。

 なのに、今、ノッコちゃんに「助けて」ってばっかり思ってる!

助けて!助けて!助けて!────ノッコちゃん!!

 あたしはふらふらと立ち上がると、洗面所でゴシゴシ手を洗って夫の血を落とした。それから、クローゼットに入って、必要最小限のものを持って家を飛び出した。

 

 逃げ切れるわけはない、それは分かってる。

 でも、最後に一度着たい、ノッコちゃんがあたしのためだと言ってくれたあのドレスを。Bloomを着ることで、あたしはまた失ったものを取り戻せるかもしれない。……勝手だってことは、分かってる、でも、そうしないと、あたしは完全に壊れてしまう気がして。

 アタシは歩き続けた。どうしてアタシはスニーカーを持っていないんだろう。足が痛い

 保護責任者の義務を果たさなかったことは、あたしの看護師としての終わりも告げていて、目の前が暗くなった。

 また視界がモノクロになっていく。血の赤だけが鮮明に思い浮かぶ。目を閉じても消えなかった。

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