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終章 ダブルフェイス

 警察手帳を初めて見た。

 家に警察が尋ねて来る時は、決してひとりでは来ないと聞いたことがあったけど、確かにふたりで来た。午前六時、朝の静寂の中にインターフォンが鳴った。眠れなかったので、ちょうどよかった。いや、よかった、ということはないか……。

 

 このひとについて伺いたいことが……と言われて差し出された写真には薫さんが映っていた。

「このひとの夫が、SNSに掲載していた写真です」

刑事さんがこう言った。 

 薫さんの夫がSNSに彼女の写真を載せていたことを知らなかった。写真の中の薫さんは、いつか見た、アフタヌーンティーを一緒に楽しんだときのストローハットを被って、目を伏せていた。このハットはこんなに彼女の顔を暗くしていたっけ……。

 窓の外は、色とりどりのイルミネーションが遥か眼下に煌めいている。都庁の展望台だろうか。上京したばかりの頃、友達と一緒に夜景を見下ろしたときは、その明かりの圧倒的な多さに興奮したけど、薫さんはちっとも楽しそうじゃないのが、悲しかった。


「薫さん……ですか、はい……わたし、モデルを頼んだことがあるので、そのときに少し仲良くさせてもらって……薫さんになにかあったんですか」

警察といえば、ダブルブレストのトレンチコートを着てるイメージがあったけど、二人ともチェスターコートを着ていた。

「現在調査中なので、詳しいことは言えないのですが……とはいえ、ニュースを見てすでにご存知かもしれませんが、彼女が自宅にまだ帰ってきていなくてですね、あー彼女が訪ねてきたりはしましたか」

 ため息混じりで、少しバツが悪そうに、刑事さんは言った。わたしに不安を抱かせないためかもしれない。


 さっき見たばかりのネットニュースを思い出す。にわかには信じられないことが書いてあった。

 「意識不明の重体」その文字列が頭にこびりついて、身震いがした。


「いいえ、あの……薫さんは無事なんですか」

自分の言葉で、こんがらがってくる。

 行方を探しているということは、刑事さんたちにも分からない、ということなのだろうけど、わたしの頭は混乱していた。

「私どもにも分かりかねるのです……三枝さん、彼女と最後にあったのはいつか覚えていますか?」

「最後に会ったのは……」

苦い記憶を思い出して、思わず俯きそうになる。

「……最後に会ったのは、えっとトワルチェックの時だからだから……十月、あ違うそれはプレゼンだ……。トワルチェックは十一月でした、すみません、ちょっと動揺して……あの、そのときに、その……喧嘩……してしまって、それっきり会っていません」

自分でも情けなくなるくらい、狼狽える。

「……心中お察しいたします。それでは、失礼ながら最近は連絡をお取りになってない、そういうことですか」

 刑事さんは、声のトーンを下げて、丁寧に続ける。

「……はい」

わたしは、ため息と一緒に吐き出す。改めてそう思うと、寂しさがありありと思い出された。

「三枝さん、もし捜査にご協力いただけるならば、お部屋に上がってもよろしいですか」

その言葉に、身体が跳ねる。

「もちろん、疑っているわけではありません、そして、これは任意です、断ることもできます。引き受けてもらえる場合でも、あくまで形式的なものと、ご理解いただければ……」

「……分かりました」

「ご協力に感謝いたします」

ふたりの刑事さんは、そう言うと目を見合わせた。

 正直に言うと、わたし自身も、薫さんがわたしの部屋のクローゼットやバスルームから出て来るならその方がよかった。

 動揺から、注意散漫になって事故に遭ったら危ないし、万が一……薫さんが、思い詰めているのなら、最悪の結果を招くかもしれない……。と、思うと気が気でなかった。

 刑事さんたちは、一礼をしながら丁寧に玄関を上がった。

 引き戸を全部開け、予想通り、クローゼットやバスルームの扉を開けた。黒縁眼鏡を掛けて、おそらく若い方の刑事さんが、第一案のドレスを着ているトルソーの前で立ち止まり、

「綺麗なドレスですね」

と言ってくれた。

「ありがとうございます、あの……今日は卒業制作ショーの日でして……」

しまった、遠回しに「早く帰ってほしい」と、言っているようなものだろうか。

「おっと、それはいけない、早めに切りあげないと、こんな時になんですが、成功を祈っていますよ、ははは、わたしが言えた義理じゃないか」

しかし、眼鏡の刑事さんは柔らかく微笑んで、こう言ってくれた。ただし、そう言いながらも目線は隅々まで部屋を鋭く確認していた。素早く眼球を動かし、ひとが一人隠れられそうな場所を探しているんだろう。

 初老くらいだろうか、もうひとりの刑事さんもバスルームから戻ってきた。同じように、その目は何の違和感も見逃すまいと、厳しく光っていた。

「三枝んは今日、卒業制作ショーの日だそうです」

眼鏡の刑事さんが、戻ってきたばかりの彼に報告する。

「そうかー……」

初老の刑事さんは顎を撫でながら、言いにくそうにこう言った。

「三枝さん、もし、卒業ショーに……彼女、薫さんが来ましたら、……可能なら、話を引き延ばして、警察に連絡を頂けますか。百十番で構いませんので」

その声が、落ち着いていて厳格だったので、ドクンと心臓が跳ねた。

「もちろん、無理のない範囲でお願いします」

眼鏡の刑事さんはそう言うと、頭を下げた。あたしは、コクコクと小刻みに、首を縦に振ることしかできなかった。

 薫さんが来たら、話を引き延ばし──……。それって、薫さんは逃げるかもしてないってこと?

 嫌だ、もう、わたしの前から逃げないで、薫さん。もっと、話をしようよ……。夕日を浴びてあたしに打ち明けてくれた「ランウェイを歩く」と言った決意、嬉しかった。あたしのこと、信用してくれたみたいで。そのあと、ミラノ風ドリアを食べながら、「看護師に復職したい」と言った彼女は、本当に穏やかに微笑んでいた。

 警察が来るまでの短い時間だとしても、それでもわたしはどうしても薫さんと話したかった。何があっても、薫さんはわたしの大切なひとだったから。



 刑事さんたちは「ご協力、ありがとうございました」と言って、帰っていった。まだ心臓がバクバク言っている。

 玄関のドアに寄りかかりながらしばらく動けなかった、呼吸が荒くなるので、ゆっくりと息を吐いた。

 すると、入れ替わりのようにインターフォンが鳴る。わたしはおそるおそる、スコープを覗く。その顔を見た時、わたしは、驚いて目を見開いた。ドア越しには理事長が立っていた。


 わたしは急いで、でも丁寧にドアを開ける。そこには見慣れた顔があった、安心して思わず泣いてしまいそうになる。

「いきなり、訪ねたりしてごめんなさい、三枝さん、わたくしの元にも、警察が訪ねて来ました」

わたしは一気に青ざめる。

「申し訳ありません、ご迷惑を……おかけして」

深々と頭を下げながら、あまりのことに身体が震えた。学院にまで迷惑をかけていたなんて……。

「頭を上げてください、あなたは何もしていないのだから、今回のことは……巡り合わせが悪かった、のね……全ての運が悪かった」

そう言うと、目を伏せて、理事長はふーっと大きく息を吐いた。髪を纏めもせず、シンプルなコートを羽織ったその姿から、急いで駆けつけてくれたのが分かって、やっぱり申し訳なくなる。それ以上になんと、ありがたいことか。

 家に上がるよう促すと「すぐ、お暇しますので」と、玄関の中で話すことになった。

「ただし、あなた、この状況で果たすべき責任は、きちんと果たしてください。言っている意味はわかりますね?このショーに関わっているのは、あなたひとりではないのですから。それを踏まえた上で、ショーを成功させることを第一に考えてください」

「はい」

わたしは力強く、頷いた。

「ひとつ、安心してくだい、捜査に全面的に協力する代わりに、ショーが終わるまで、会場で警察が捜査していることを、学生たちに悟られないように約束してくださいました」

それを聞いて、わたしは全身の力が抜けた。膝がかすかに震えるけど、それ以上に安堵が胸を広がった。みんなが警戒しながらショーを進める心配がなくなった。何も気にすることなく、ショーに集中してほしい、と思っていたから。

「三枝さん……」

そう言うと、理事長はわたしの目をまっすぐ見つめた。

「あなたはプロになるひと、どうか今回の対応を間違えないで……」

改めて、彼女はわたしに釘を刺した。でも、「プロになるひと」という言葉には、わたしに対する、わたしの将来に対する信頼があった。

「……はい、ありがとうございます、肝に銘じます」

わたしはその信頼に応えるように、深く頷いた。

 

 玄関の外には、理事長の秘書が車の外で待っていて心配そうにこちらを見ていた。

 わたしは、彼に対して深々と一礼すると、お辞儀を返してくれた。理事長の車を見送ると、わたしは急いで支度した。 

 あとで分かったことだったが、理事長はマスコミが学生や、学院、そしてこの文化ホールに近づかないように色々と手を尽くしてくださったのだ。

 本当にありがとうございました、その感謝をここに記します。



 文化ホームに急いで駆け込む。集合時間ギリギリだった。エントランスで綾乃とえっちゃんを見つける。

 三人で拳を突き上げてハイタッチするフリをした。バラバラの位置にいたからだ。その笑顔を見ると、改めて理事長に感謝した。

 わたしのBloomが置いてある控え室に入ると、室内が騒然としていて、鼓動が跳ねた。まさか……と思い、急いで部屋に入る。チームのみんなが、ロッカーを片っ端から開き、ハンガーにかかった衣装をスライドさせながら探すもので、シャッシャッという、摩擦音が響いていた。

 莉華のフィッターさんが、他の部屋に紛れてないか見てくる、と、わたしと入れ違いで飛び出していった。ヘアスタイリストさんも、メイクさんも、それに続いた。

「典子さん、大変です、Bloomが、トルソーに着せていた、Bloomがどこにもないんです!」

莉華が、わたしを見るなり、こう言った。

 事件のことが知られてしまった訳ではないと分かり、ほっとしつつも、わたしは、とある直感が、身体を撃ち抜いた。理屈じゃなく、そう思えた。

 どうしよう、莉華になんて言おうか……俯いて動けなくなってしまった。

 莉華は、そんなわたしの様子に気づいたのか、ゆっくりと近づいて来た。周りの喧騒に紛れるようなささやかな声で、わたしに訊ねる。

「……典子さん、ひょっとして、このドレスの行方に思い当たることがあるんですね」

わたしは、何も言えずに頷いた。莉華は斜め下を見て、瞳を潤ませる。すると、不意にこう言った。

「えーと……じゃあふたりで、手分けして?Bloomを探しに行くとか、どうですか」

周りに聞こえるような声。わたしが驚いて目を丸くしていると、莉華はふわりとわたしをハグした。一瞬、息が詰まるかと思った。あまりにも彼女の体温が温かかったから。

 そして、また、ささやかな声でこう言う。

「まだなんのことか、よく分かってないけどー、本音はめっちゃ悔しいけどー、でも……きっとドレスはあるべき場所に戻った、たったそれだけなんですよね、うん。それってごく自然なことですよ」

 その言葉に、あたしは思わず涙が流れ落ちた。莉華の悔しさも、わたしの申し訳なさも、全て受け入れて理解してくれている。そんなの、誰だってできることじゃない、感謝してもしきれなかった。

「ありがとう、ありがとう、莉華……」

「あとは、任せてください、Bloomのシーン、トラブルで見つからないって言って、プログラムの変更、交渉して来ます、わたし、将来のモデル長であり、コミュ力モンスターって言われてるんですからねー任せてください」

莉華の声も涙ぐんでいた。しかし、わたしをハグするその手は徐々に力を込めて、わたしを包み込んでくれた。揺るぎない決意を感じる。安心できる「甘い束縛」

 わたしは声が出ずに、コクコクとただ頷いていると、莉華は明るい声を、頑張って出しながらこう言ってくれた。

「わたし、来年は典子さんの、とびっきりのオートクチュールが着たいな、もちろんランウェイの上でね」

「……もちろん、絶対に約束するよ、莉華、ありがとう」

身体を離して、莉華を見ると、涙を流しながらも、鼻に皺を寄せ、笑っていた。

 もう一度、固くハグをしたら、ふたりは急ぎ足でそれぞれの場所へと向かった。だんだんと遠くなる莉華の足音が、これ以上ないほどに頼もしく、ありがたかった。





 薫さん……来てくれてたんですね。こんな監視カメラだらけの東京を縫うようにして……。

 何があったか、聞かせてほしい。いや、言いたくないなら言わなくていい、お願い……顔を見せてください。


 わたしは薫さんがいるところに、心当たりがあった。

それは──非常階段。彼女は、この文化ホールの非常階段で、たくさんの時間を過ごしてきた。きっと、ここにいるはずだ。彼女にとって非常階段は、文字通り避難場所なんだから。


 ホールに貼り出されている案内図をスマホでカメラに撮る。それから、その画像を頼りに、非常階段をしらみ潰しに探してゆくことにした。案内板や非常口プレートにも気を配る。

 廊下や、通路は人混みに紛れるので助かったけど、階段で人とすれ違うとヒヤリとする。ほとんどがショーの関係者だが、心臓が跳ね上がりそうになる。


 非常階段はのこり、ひとつ……。やっぱり薫さんはここにはいないのではないかと、不安になってくる。

 案内板に従って、歩いていくと、人気(ひとけ)がだんだん少なくなってくる。非常階段の緑のプレートを見つけた時には、すっかり誰もいなくなった。

 薫さんは、人のほとんど来ない非常階段を把握していたんだ。それは彼女の安全地帯であり、バリケードであり、そして、巣穴だったのだろう。その事実がわたしの胸を締め付けた。 

 薫さんは一体どれだけの時間を、この冷たい鉄の塊の中で過ごしたのだろう。


 思い非常扉を開ける。階段を登る。自分の靴音が不気味に響くようだ。それでも階段を登り続けると鼓動が高鳴る。ここにもいなかったら、と弱気になるけど、振り払うように、力強く階段を踏み締める。

 踊り場が見えてくると、見覚えのあるオーガンジーの生地が階段の手すりから、はみ出しているのが見えた。

 ホッとして急いで、でも音をたてないように階段を上がる。


 薫さんが階段の端っこでうずくまっていた。会場の喧騒が嘘のように静かだ。無機質で直線的な非常階段は、どこか薄暗かった。

 手にはドレスを抱きしめ。カットオフのTシャツとジーンズは薫さんの身に纏われていた。……良かった、着てくれてたんだ、薫さんのジーンズ。

 薫さんがゆっくりと顔を上げる、わたしの顔を見ると、はらはらと大粒の涙を落とした。

「ノッコちゃん……ごめん、ごめんね、勝手に着ちゃって……ドレスも、あたしなんかが、このドレスを汚してごめん……」

「いいんです、薫さんのために縫い上げたんですから」

わたしが跪いて、彼女に目線を合わせこう言うと、薫さんは顔をくしゃくしゃにしてしゃくり上げた。言葉にできないほどの苦しみを感じる。

 足元にはストッキングに、Bloomと合わせる予定だったスニーカーを履いていた。ストッキングは破れ、靴ズレが赤々と、彼女の足にまとわりついていた。スニーカーの横に、パンプスが脱ぎ捨てられていた。

 薫さんは、長い時間をかけて、この硬い靴で歩いていたんだ。

「あたし……あたしね……夫を……」

息を詰まらせながら薫さんが言った。

「言いたくないなら、言わなくていいんですよ」

わたしは、薫さんの肩に軽く手を置いて、さする。

「ううん、聞いて……あたし、夫を……突き飛ばして、怪我させちゃった、ひょっとして……死んでるかも、なのに、逃げてしまった……看護師なのに」

そう言うと、またわんわんと声を上げて彼女は泣いた。わたしは、ゆっくり、肩をさすり続ける。

 薫さんは、少し落ち着くと、何かを覚悟したような、あるいは、諦めたかのような表情を浮かべた。

「あたし、最後にBloomを着たいと思って……来ちゃった。みんなに……沢山のひとに迷惑かけるのにね、本当にバカだよ……、でもね、ジーンズ、勝手に履いちゃったけど、これだけで満足……、あたしこれから警察に行くね」

薫さんは笑うと、涙を必死に止めようとしていた。その顔は決意に満ちていた。夕陽に照らされていた、あの時のように。


 本当のことを言うと、このままカオルさんの手を引いて遠くまで逃げてしまいたかった。

 でも出来ない。クラスメイト達や学校のみんな……仲間たちが一年を通して準備してきたのをよく知っているから。

 この舞台を台無しにする訳にはいけない、わたしは大人の責任を果たさなければならない、それは理事長との約束でもあるし、薫さんを通して学んだことでもある。

 わたしは、中腰になり、ドレスごと抱きしめるような形で薫さんの背中をゆっくりさする。腕に力を少しだけ入れると、彼女はすんなりと立ち上がってくれた。

 わたしは、薫さんからドレスを受け取ると、彼女の顔をじっと見て頷いた。これからわたしがすることが正しいことなのかは分からない、でも、ごく自然なニュアンスでパニエにスカートを被せた。

 そうしていつものように輪を作る。カオルさんは目を丸くしてわたしを見たあと、俯いて肩を振るわせる。わたしが手を貸すと、彼女はゆらゆらとその輪をくぐる。

 国境線を跨ぐ、そんな言葉が頭をよぎった。いつものように薫さんにドレスを纏わせると、わたしは彼女の手を取った。わたしはこのひとの騎士でありたい、最後まで。

 ゆっくりと、手を取ったまま、重い扉を開く。このドアが閉まればもう昨日には戻れない。わたしは大きく息を吸い込んだ。ドシンと振動を背中に感じながらふたり、ゆっくり歩きだす。

 LEDライトがチカチカと光り、ピシッ……ピシッという不規則な音が耳に響く。

 

 わたしはこの手を離さないと誓いを立てた。


非常口に続くこの冷たい廊下が、私たちのランウェイだ。


〈了〉

最後までお読みいただき誠にありがとうございました。

是非とも、お気軽に感想をお寄せいただけると幸甚でございます。何よりの励みになりますので、どうぞよろしくお願いします。

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