第一章 第一話「救えなかった名」
「助けてくれればよかったのに」
その一行だけが、画面に残っていた。
既読。
返信は、できなかった。
トシノリはベランダに立っていた。
夜風がやけに冷たい。
「……違うんだよ」
誰に向けたのかも分からない言葉が漏れる。
助けたかった。
本当に、そう思っていた。
だが――動けなかった。
ほんの一歩。
その一歩が、踏み出せなかった。
その結果が、今だ。
胸の奥に、鈍い痛みが残る。
消えない。
消えるはずもない。
「後悔、ですね」
背後から静かな声。
振り返らずとも分かる。
「……ルル」
白い気配が、すぐ隣に立っていた。
年を取らぬ存在。
どこまでも穏やかな瞳。
それでも今日は、わずかに悲しげだった。
「救えたかもしれない命を、見過ごした」
トシノリは答えられない。
事実だったからだ。
「……もう、戻らないよ」
絞り出すような声。
「ええ。通常の世界では」
ルルは小さく微笑んだ。
その瞬間、ふわりと香りが漂う。
レモンのようで、どこか懐かしい香り。
足元に、小さな葉が揺れていた。
レモンバーベナ。
「ですが、別の“流れ”であれば――」
ルルは手を差し出す。
「もう一度、選ぶことができます」
トシノリは息を呑んだ。
そんなことがあるはずがない。
だが目の前の存在は、“それを可能にする側”だった。
「……代償は?」
自然と問いが漏れる。
ルルは少しだけ目を伏せた。
「ございます」
「救うほどに、あなたは“何か”を失います」
「何を……?」
その問いには答えない。
ただ静かに――
「それでも、参りますか?」
夜風が止まる。
世界がわずかに歪む。
トシノリは目を閉じた。
浮かぶのは、あのメッセージ。
――助けてくれればよかったのに
その重さだけが残っている。
「……行くよ」
答えは、もう決まっていた。
ルルは静かに微笑む。
「では――参りましょう」
手が触れた瞬間、世界がほどけた。
気がつけば、そこは別の世界だった。
血の匂いがする。
炎が空を赤く染めている。
遠くで叫び声。
剣戟の音。
鎧がぶつかる重い響き。
そして――
一人の男が、そこに立っていた。
静かに。
だが確かに追い詰められている。
その姿を見た瞬間、トシノリの心臓が跳ねた。
「……嘘だろ」
その名は、誰もが知っている。
だが、その“最期”を知る者は少ない。
男がゆっくりと顔を上げる。
諦めと、まだ消えていない光。
トシノリは理解してしまう。
――この人も、救われなかった人だ
その瞬間、ルルの声が響く。
「源義経」
時間が止まる。
風が消える。
「彼を――救えますか?」
それは過去ではない。
やり直しでもない。
これは――
選び直しの物語。




