第8話 追い詰められる者
【保有DP:30】
【配下モンスター】
・スイ(ポイズンスライム)×1
盾役が落とし穴へ落下してから、ダンジョン内の空気は完全に変わっていた。
侵入してきた時の冒険者たちは冷静だった。慎重ではあったが、自分たちが優位だと信じていたのだろう。新人向けと報告されていたダンジョンの調査依頼。多少の危険はあっても、自分たちなら対処できると思っていたはずだ。
だが今は違う。
四人いた仲間は二人になった。
魔術師はスイの毒によって倒れ、盾役は落とし穴で命を落とした。
残っているのは剣士と弓使いだけ。
しかも二人とも無傷ではない。精神的な動揺が動きを鈍らせている。
俺はそんな二人を観察しながら、自分自身の変化についても考えていた。
不思議なことに罪悪感はなかった。
人間が死んだ。
しかも俺が殺したようなものだ。
それなのに胸は痛まない。
悲しくもない。
むしろ冷静に戦況を分析している。
どうすれば次を殺せるか。
どうすれば逃がさずに済むか。
そんなことばかり考えていた。
人間だった頃の俺が今の俺を見たら、間違いなく化け物だと言うだろう。
だが否定する気にはなれなかった。
この世界で俺はダンジョンマスターなのだから。
「撤退する」
剣士が低く言った。
その声は冷静だったが、わずかに焦りが混じっている。
「でもあいつが……」
「もう助からない」
弓使いの言葉を遮るように剣士が答えた。
現実的な判断だ。
だからこそ厄介でもある。
感情より生存を優先できる人間は強い。
俺はミリアの記憶を思い出す。
熟練した冒険者ほど撤退判断が早い。
無理な戦いをしない。
死ねば終わりだからだ。
そして今、この二人は生き残るために逃げようとしている。
なら逃がさない。
ここで帰還されれば、このダンジョンの危険性が正式に報告される。
そうなれば次に来るのはもっと強い冒険者だ。
今の俺では勝てない。
だからここで始末する必要がある。
その時、スイが動いた。
魔術師の亡骸から離れ、静かに床を這う。
ぬるり、と湿った音を立てながら紫色の身体が石床を滑る。血と泥にまみれてなお、その体内では毒々しい魔力がゆっくりと脈打っていた。
むしろ頼もしく見える。
最初の配下。
唯一の生存者。
そして今や俺の切り札だ。
スイは出口へ向かう二人の前へ回り込むように移動していく。
その動きには迷いがなかった。
まるで俺の考えを理解しているようだった。
「チッ……あのスライムか」
剣士が舌打ちする。
先ほどまで雑魚として見ていた存在に仲間を二人も失ったのだ。
警戒するのも当然だった。
剣士はゆっくりと剣を構える。
鋼が擦れる微かな音が洞窟に響き、その切っ先が揺らぎなくスイを捉える。
俺はそこで気付く。
こいつは強い。
ゴブリンを一瞬で倒した技量もそうだが、恐怖に飲まれていない。
仲間を失っても冷静だ。
だからこそ生き残ってきたのだろう。
もしスイが正面から戦えば危険だ。
だがスイも馬鹿ではない。
正面からは行かない。
壁を伝い、天井へ移動し、隙を窺う。
粘液質の身体が岩肌を這うたび、ぺたり、ぺたりと湿った音が反響する。
剣士もそれを理解しているらしく、常に周囲へ注意を向けていた。
しばらく膠着状態が続く。
誰も呼吸を乱さない。
だが張り詰めた緊張は確かにそこにあった。
先に動いた方が不利になる。
そんな空気だった。
だが、その均衡を崩したのは弓使いだった。
「上だ!」
叫ぶと同時に矢が放たれる。
弦が激しく鳴り、放たれた矢が空気を裂いて一直線に駆け抜ける。鋭い風切り音が耳を打った次の瞬間――。
矢は天井を移動していたスイへ命中した。
鈍い衝突音。
スイの身体が大きく歪み、そのまま弾き飛ばされる。
紫色の液体が飛沫となって壁へ叩き付けられ、べしゃりと広がった。
俺の中で何かがざわついた。
怒りに似た感情だった。
ゴブリンが死んだ時とは違う。
スイが傷付いた。
それだけで嫌な気分になる。
理由は分からない。
だが確かな感情だった。
「スイ!」
もちろん声にはならない。
それでも意識は強く向いていた。
スイは壁へ激突し、岩肌を削りながらずり落ちる。
それでも消滅していない。
まだ生きている。
だが体内を巡る魔力の流れは明らかに乱れていた。
次の一撃を受ければ危険だろう。
「今だ!」
剣士が床を蹴った。
ドンッ、と石床が鳴る。
迷いのない踏み込み。
一瞬で距離を詰める鋭い加速。
勝負を決めるための一撃だった。
スイは体勢を立て直せていない。
弓使いも次の矢を番え、弦を引き絞る。
張り詰めた弦が軋み、殺気が空気を刺す。
逃げ場を塞ぐように狙いを定める。
完全な挟撃。
ここで終わる。
誰が見てもそう思う状況だった。
俺は焦る。
身体があれば飛び出していただろう。
だが俺はダンジョンコアだ。
何もできない。
見ていることしかできない。
その事実が初めて歯痒かった。
スイを失いたくない。
ただの配下だからではない。
使える駒だからでもない。
もっと別の理由だった。
だが俺自身、その正体はまだ分からない。
剣士の刃が振り上げられる。
鋼の刀身が松明の光を反射し、冷たい軌跡を描く。
あと一歩。
あと一瞬。
その距離が永遠のように長く感じられた。
そして――。
スイの身体が脈動した。
どくん、と。
心臓などないはずの身体から、確かな鼓動のような振動が伝わる。
傷だらけの紫色の身体から、淡い光が漏れ出す。
最初は小さな輝きだった。
だが次の瞬間、それは爆発するように膨れ上がった。
【名称個体『スイ』の進化条件を達成しました】
【戦闘中進化を開始します】
視界を焼くほどの紫光がダンジョンを満たす。
轟、と魔力の奔流が吹き荒れた。
空気そのものが震え、洞窟の壁に刻まれた亀裂から砂塵がぱらぱらと落ちる。
「なっ――!?」
剣士の顔が驚愕に染まった。
振り下ろされるはずだった剣が止まる。
だが止まったのは一瞬だけだ。
「進化だと!? ふざけるな!」
剣士は叫び、そのまま強引に剣を振り下ろそうとする。
今ここで仕留めなければ危険だと、本能で理解したのだろう。
だが光はさらに強くなる。
魔力が渦を巻き、唸り声のような低音を響かせながら周囲へ広がっていく。
剣先が届く寸前、紫色の奔流が爆ぜるように広がった。
ドォンッ――!
衝撃波が洞窟を揺らす。
剣士の身体が押し返され、髪や衣服が激しくはためいた。
弓使いも思わず後退した。
「なんなんだよ……!」
弓使いの声が震える。
無理もない。
仲間を二人失い、ようやく追い詰めたはずの魔物が、目の前で異常な変化を始めているのだから。
俺もまた目を見開いていた。
進化。
それも戦闘の真っ最中に。
しかも、あと一撃で殺されるという絶体絶命の瞬間に。
光は脈打つように明滅し、洞窟の壁を紫色に染め上げる。
空気が震える。
魔力が渦を巻く。
濃密な魔力の流れが俺の意識にまで伝わってくる。まるで激流だ。スイを中心に集まり、圧縮され、さらに巨大な何かへと変貌していく。
まるでダンジョンそのものが歓喜しているかのようだった。
剣士は歯を食いしばりながら光の中へ踏み込もうとする。
だが足元の砂塵が舞い上がり、吹き荒れる魔力の圧力がその動きを鈍らせる。
弓使いも矢を放つ。
弦音が響き、矢が紫光へ吸い込まれる。
しかし次の瞬間、金属が弾かれるような音だけを残して、その姿は完全に見えなくなった。
間に合うのか。
それとも間に合わないのか。
俺には分からない。
ただ一つだけ確信できることがあった。
この瞬間を境に、すべてが変わる。
冒険者たちの運命も。
スイの運命も。
そして俺たちのダンジョンの未来も。
紫色の光はなおも膨れ上がり――。




