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虎と呪いと月の花  作者: riki
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春宵

 風に水のにおいが乗る。

 さざめいて夜を歌う森。おぼろな月でも人間よりはるかにすぐれた視力は目標を捉えていた。


 川の中に佇むサクラは、水をすくってパシャリと肩にかけた。濡れた黒髪が背にはりついている。出会った頃は肩の長さだったと、共に過ごした時間を愛しむと自然に口元も緩んだ。

 毛のない肌は丸く水を弾き、軌跡で起伏を描いた水滴は元通り川の水に混じった。


 ――《月神アキ・ルナエ》の水浴びを覗くと眼を潰されるというが……。

 女神の御姿を覗く不埒者が眼を潰されるとも、至上の美に世界が色褪せ自ら眼を潰すとも噂されている。

 なるほどあの日見た女神は神々しかったが、被毛をもたない者の美醜には疎い。

 なのに、サクラの姿はかの女神よりも美しいと思うのはなぜだろうか。自分の他に目にする者があれば、嫉妬に駆られて噂の前半部分を実行してしまいそうだ。

 想像に爪立てた幹がガリリと抗議する。

 ゆっくりとサクラが振り返った。

 嵩を減らし、小さな頭部をなお小さく見せる濡れた黒髪。瞬く睫からころりと雫が転がり落ち、頬をつたって顎先で透明に煌く。下ろされた手はどこを隠すでもなく、たおやかな肢体が月光に晒された。

 瞳が岸をさまよい、つ、と斬り上がった。


「――ヴァイ」


 葉影にまぎれた姿をサクラが見つけ出せたはずはない。それでも俺が見ていることに気づいているのだろう、確信をもって囁かれた名。サクラがつけた名。呼ばれると身が震える。

 グウッと喉が鳴った。

 涎が溢れる。喰らい付きたい衝動がカッと全身を灼いた。

 枝を蹴って飛び降りる。尾で体勢を整え、地面に足をつけたら小枝がパキリと折れた。

 一族にあるまじきだらしなさだ。狼狽に腕の毛がざわりと波打ったのを視界の端に、踵を返す。

 無意識に出た爪が何を引き裂こうとしていたのか考えまいと頭を振った。

 全てを暴く白々しい月か。

 目の前に広がり隔てる、緑の木々か。

 あたたかく柔らかな――あの肌か。


 下腹に猛る熱が疼いた。




 ++++++++++




「それ、もうボロボロよ。爪も充分とがったんじゃないかしら」


 膝に置いた木は茶色い樹皮を失い、白い木肌も盛大にささくれ立っていた。爪は十指とも申し分なく尖り、クッと出し入れすれば磨かれた艶を陽に弾かせている。


「爪とぎも心ここにあらずって感じだったわよ? 悩み事があるんならお姉さまに話してごらんなさい」


 立てた膝の上に顎を乗せ、「……やっぱり最近のノゾキと関係あるのかしらぁ?」と黒い瞳がじっと見つめてきた。

 水浴びを覗くのは昨夜が初めてではない。俺の方も姿を隠す日と隠さない日があるのだから、サクラが気づくのも当然だった。

 「おいで、おいで」と手招く腕に躊躇していると、伸びあがった細腕にがっしり首を抱えられ引き寄せられた。


「じれったいのよもう! …………ビクビクして、一体なにを怖がってるの?」


 怖がるならサクラの方なのに、《牙の民》に比べれば驚くほど脆弱な人間が、恐れ気もなく獣の顔を胸に抱き込んだ。宥める手つきで頭を撫でてくる。

 毛のない肌はサクラの甘いにおいがした。濡れた鼻を押しつけると、「冷たっ。くすぐったいから髭動かしちゃダメだってば」と小さな笑い声で身じろぐ身体。髭は勝手に動くのだから仕方がない。


「私はヴァイより弱い人間だけど、触っても骨が折れたりしないし、まあその爪でぷすっと刺されたら血が出るかもしれないけど、風船みたいに破裂したりしないわよ?」

「…………触れるのが、恐ろしい」

「怖がってるのは知ってたわ。だからってこうあからさまに避けられると傷つくのよ、強化ガラスな26のハートでもね」


 黒い瞳に悲しみがよぎった。

 サクラの手を拒んだことはない。

 むしろサクラから触れてくるなら安心だ。爪を立てても力をこめても俺の体に痕を残せない。

 俺からはどうだ?

 ……とても、できない。

 もし力加減を誤れば? もし爪を引っ込め損ねたら? 仮定ばかりが脳内で渦巻く。


「これまで普通に触ってたでしょう?」

「――壊しそうで、恐ろしい。傷つけそうで恐ろしい。サクラは俺とは違う。草で切れ、転んですりむくやわな肌だ。少しの力で痣がつく、骨が折れる! だがっ……」

「……だけど?」

「触れたいんだ! どうしてっ……! 視界に入れば目で追って、においを追って、背中を追って襲いたくなる! サクラの声を耳が拾う、息を拾う、触れてくる手に何も考えられなくなる!」


 ただただ欲しがる強烈な衝動は、自制を振りきってサクラを傷つけるだろう。


「こんなことは初めてで、どうしたらいいのかわからないんだっ!!」

「……はじめてなの?」

「ああ」


 しばらく黙って毛皮を撫でていた手が、つん、と髭を引いた。

 のろのろと見上げるとサクラは頬を赤くして、「……いやあね、キス止まりで次がノゾキだから特殊な趣味なのかアレなのか迷ってたけど、チェリーボーイはお姉さん照れるわぁ」とぼそぼそ呟き、俺の顔を両手で挟むとコホンと咳払いした。


「今が春なのをすっかり忘れていました、虎さん」


 黒い瞳に俺を映し、「あなた発情期なのよ」とサクラが言った。

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