決まらない生産関係
【授命暦843年 7/5 昼前】
壺の脇から袋を持ち上げる。中で銀貨が鈍く擦れた。
十八枚。先月、セイから受け取ったままの形で、土間の壺の脇に置きっぱなしになっていた。袋の口を開けて、二枚だけを掌に出す。残りはそのまま壺の脇へ戻す。
「それ、使うことにしたんだ」
戸口で布籠を抱え直していたローザが、背中越しに言った。
「うん。樽のお金を払わないといけないからね」
「そう、ご飯とかじゃなくていいんだね」
もちろん、それも考えたが、今後のことを考えると投資しないとどうにもならない。
「そうだね。明日のために使った方がいいって思ったんだ」
僕は袋の口を結び直し、銀貨二枚を握りしめて土間を出た。ローザは何も言わずこっちを見ていた。
村の入口に荷馬車が止まっていた。御者台に痩せた男が一人。荷台の縁に手を置いて、こちらを待っている。桶屋の使いだとひと目で分かった。
「ヴィルヘルムさんから、樽を預かってます」
荷台の幌をめくると、薄い色の木で組まれた樽が一つ、藁に包まれて据えられていた。鉄の帯が二本、上下に巻いてある。
「代金は、銀貨二枚です」
「はい。ありがとうございます」
掌の二枚を、桶屋の使いの掌に落とす。男はそれをひと目だけ確かめると、銀貨を懐の袋に押し込んで、荷馬車へ戻る支度を始めた。
樽だけが、村の入口に下ろされて残った。
しばらくして、男衆が集まってきた。村人の男が一人、ハインリヒ、それからもう一人若い男。三人で樽の縁に手をかける。
「重いな、これ」
村人が低く言う。
「いやー、重いっす。これ、どこ持ったらいいんすか」
ハインリヒは樽の腹をぐるりと一周、手で撫でて、結局両手を縁にかけた。鉄の帯の下に親指を引っかけて、息を吐く。
「足に落としたら潰れてなくなるな」
「いや、潰したくないっす。ほんとに」
男衆三人は、樽を肩で支えながら、一歩一歩、酒造り用の小屋へ向かった。
小屋の戸口の手前で、足が止まった。
戸口の柱の幅と、樽の腹の幅が、明らかに合っていなかった。
……あ。
壺の口は測った。
樽の容量も考えた。
銀貨の残りも、運ぶ手間も考えた。
小屋の入口だけ、考えていなかった。
ハインリヒが樽を一旦降ろす。
「あんた、ここから入るかどうか、測ったのかい」
婆さんだった。小屋の中から、いつのまにか戸口に出てきていた。
返事ができない。
「あんた、壺の口だけ測って小屋の口、測ってないでしょ。そういうところは抜けてるね」
ローザが、樽の脇から覗き込んで言った。
「……大変申し訳ありません」
致命的なミスだった。
入口を通らないのは初歩的すぎる。
可能なら、この場で樽に詰められて蓋をされたい。
「仕方ないね。婆さん、どうしようか」
ローザが、当然のように婆さんを見た。婆さんは樽を一度叩いて、戸口の柱を見上げて、それから小屋の側面の窓へ視線を移した。
「ムーアにしかできないこともあるからしゃあないさ。でも、入口は無理だね」
婆さんはそう言って、小屋の脇へ回った。
「窓を外しな」
短い指示だった。
「窓っすか。いや、持つとこないっすよ、これ」
ハインリヒは樽の表面をもう一度撫でながら、視線だけ婆さんを追った。
「持ち上げろ」
村人がそう短く言って、ハインリヒの肩を軽く叩く。
寝かせれば通るかもしれない。
けれど、今度は持つ場所がない。
結局、三人で立てたまま窓の下まで運び、そこから持ち上げることになった。
小屋の中では、ローザと女衆が動いていた。
「布、ずらして。壺に当たる」
ローザの声は外まで届いた。
「壺、こっちに持ってきな」
婆さんは、空けた壁ぎわに壺を寄せる位置を一つ一つ指で示している。布が一斉に持ち上がり、壺が小さな擦れ音を引きずって動いた。
窓板が外され、外から男衆が押し、内から女衆が引く格好で、樽が窓の高さまで持ち上げられた。鉄の帯が窓枠の縁を一度こすった。漆喰の粉が落ちる。誰もそれを気にしている余裕がない。
「もう少し、こっち」
婆さんが小屋の隅を指した。
「そこ。落としな」
樽が、土間にどんと音を立てて据えられた。窓板を戻す手があり、布をかけ直す手があり、壺を並べ直す手があった。さっきまでの並びとは違う配置になっていた。
誰も「終わった」とは言わなかった。
ただ、樽はそこに据わっていた。
家に戻ったあと、土間で石版を膝の上に乗せた。
前に、壺の数と銀貨の枚数を一行ずつ書いた。隣に、畑の覚え書きが小さく入った。
その下に、樽代二枚、と書こうとして、手が止まった。
書ける場所が、思っていたより少ない。
石版の表は、もう半分以上埋まっていた。隅に「秋、畑を確認」と書いた跡が、消したのに薄く残っている。消し跡の上から書くと、字が滲む。書きにくい。
……まだ余白はある、けど。
記録できないものは、管理できないな。
【授命暦843年 7/12 昼】
土間から、また銀貨を取りに戻る。
今度は三枚だ。袋の口を開けて、三枚だけ掌に落とす。
僕は袋の口を結び直して家を出た。
村の入口に、別の荷馬車が来ていた。木工職人の使いだった。荷台に組まれた木枠と、長い軸が一本。受け金と帯金は、もう木枠に組み込まれた状態で届いていた。
「軸は、こっちが先です」
使いはそう言って、軸を先に下ろした。
「お代は、銀貨三枚です」
「ありがとうございます」
三枚を渡す。男はそれを懐の袋へ落とすと、御者台に戻った。荷馬車が遠ざかる。
木枠と軸だけが、村の入口に残った。
ハインリヒと、もう一人若い男が、軸を担いだ。木枠は二人で抱えた。今度は、小屋の入口で止まらなかった。
「これ、回りながら絞るのか」
村人が、木枠の中を覗き込みながら言った。木枠の中央に押し板があり、上から軸を回すと、押し板が下りる仕組みだった。
「俺、回してみていいっすか。こういうの、ちょっと触りたいんで」
ハインリヒが、軸の柄に手をかけた。
「やめた方がいいよ。力が強いから、指くらい簡単に持っていかれる」
僕がそう言うと、ハインリヒは手を離して、両手を体の脇で軽く振った。
「まだ、指とは仲良くしたいからやめときます」
木枠は、小屋の中央に据えられた。
小屋を出て、婆さんの家へ向かった。
婆さんと、ローザが先に着いていた。婆さんの家の土間奥には、藁を厚くかぶせた籠があった。藁を一枚ずつめくると、灰色がかった皮の梨が、行儀よく並んでいた。婆さんが家で使うために、最後まで残していた保存分だ。
「このままじゃ、足りないね。奥の梨も使っちまうか」
婆さんは、籠の縁を一度撫でて言った。
「奥の梨まで?」
ローザが、籠を覗き込んだ。
「やれるならやってしまった方が後が楽だね」
婆さんは、それだけ言うと、籠を持ち上げて土間の入口の方へ運び始めた。
奥の梨まで、ということは、たぶん、婆さんが自分の家で使うために残していた分だ。
その認識を、婆さんは口にしなかった。
ローザも口にしなかった。
僕も、口にしなかった。
籠は、酒造り用の小屋へ運ばれた。
小屋の中で、女衆が梨を割り始めた。
「丸のまま入れるんじゃないよ。割って、布に包みな」
婆さんが、押し板の前に立って指示した。
割られた梨が、目の粗い布に包まれて、木枠の中央へ置かれた。ハインリヒが軸を握る。
ぎゅう、と軸が回る。押し板が、布包みの上にゆっくり下りた。汁が、布の網目から滲み出して、下の桶へ落ちた。
「いやー、これ便利っすね。めちゃくちゃ速いから桶、すぐいっぱいになりそうっすよ」
ハインリヒが軸を回しながら言う。
「速ええ」
村人がもう一人、桶を覗き込んで唸った。
汁の落ちる速さが、手で搾っていた頃の比ではなかった。布の網目がすぐ目詰まりした。新しい布に替える間も、押し板の下では、次の布包みが汁を出した。受け桶の縁ぎりぎりまで、汁が一度せり上がった。
「布、足りねえ」
もう一人の村人が、布の山を漁りながら言った。
「桶、もう一つ要るな」
婆さんが短く言った。
「家に、まだ乾いた布が少しあるよ。持ってくるね」
戸口で、母の声がした。
母は、籠を片腕に提げて、家へ戻っていった。
家の中の布が、小屋へ運ばれていく。家の中の桶が、小屋へ運ばれていく。家の壺、家の布、家の桶。家からものが出ていって、小屋に集まる流れに、たぶん終わりがなかった。
【授命暦843年 7/13 昼】
翌日も、同じだった。
梨を割る女衆がいて、布を洗う母がいて、桶を替える村人が二人いた。それぞれの手が、それぞれの位置で動いている。
軸の前だけが、空いていた。
ハインリヒが、誰に頼まれたわけでもなく、軸の前に立った。柄を握って、回し始めた。
昨日と同じだった。
しばらくすると、ハインリヒが額の汗を手の甲で拭いた。柄から手が離れた瞬間、押し板が止まった。
布包みを抱えた女衆が、押し板の前で立ち止まった。桶を抱えた村人が、次にどうするか分からず、その場で待った。
梨を割る手も、布を替える手も、桶を運ぶ手も、軸が止まると一緒に止まった。
ハインリヒが汗を拭き終えて、また柄を握る。
押し板が下りた。
小屋全体の動きが、そこでようやく戻った。
「ハインリヒがちょっとでも休むと、全部が止まっちゃうね」
ローザが、布の山の脇から言った。
「一秒も休ませないようにする?」
「労働力の再生産に失敗するから、やめよう」
「分かる言葉で言って」
「ハインリヒが倒れる」
「それは困るね」
「昨日も、今日も、ハインリヒでいけるかな。休んだら私が後ろで殴る役をやろうか?」
「効率むしろ下がるでしょ。途中で動かなくなる」
「機械みたいにぱっと治らないかなハインリヒ」
「永遠に動かなくなって腐っちゃうね」
ローザは、布を一枚たたみながら、軸の前で汗を拭くハインリヒを見ていた。
昨日も、ハインリヒだった。今日も、ハインリヒだった。
軸を回す手がそこにあるのは、僕が「軸を回す係」を決めたからではなかった。誰かを頼んだからでもなかった。決めていない。決めていないのに、二日続けて、同じ手が同じ場所にあった。
ハインリヒが、また額を拭く。
「水、飲んできていいっすか。変わってくれる人いますか?」
ハインリヒが、軸の柄を握ったまま、周囲に向かって言った。
誰も返事をしなかった。
道具の使い方も覚えていないのに、すぐ代わって扱える人はいない。そもそも、みんなそれぞれの場所で働いている。
これは腕力の問題じゃない。
梨を割る手がある。
布を洗う手がある。
桶を替える手がある。
軸を回す手がある。
それぞれの手は、それぞれの位置で働いている。
分業は、もう生まれていた。
協業も始まっている。
けれど、誰がいつ代わるのかは決まっていない。
誰が何を覚えたのかも、どこにも残っていない。
管理労働だけが、空白になっている。
生産力だけが先に増えて、生産関係が追いついていない。
そこまで考えたところで、ハインリヒがまた額の汗を拭いた。
理論より先に、人間の腕が限界だった。
「ハインリヒ、水飲んできて。いったん止めよう」
ハインリヒが、少しだけほっとした顔で柄から手を離した。
「婆さん、次に回す人を一人、軸に触らせた方がいいと思う。水を飲む間だけでいいから」
婆さんは押し板と桶を見て、それから桶を抱えた村人の肘を軽く叩いた。
「水の間だけだよ。速くしなくていい」
村人は、桶を置いて、軸の前に立った。
僕はそれを見ながら、どこかに書きたくなった。
家に戻って、また石版を膝に乗せた。
樽代の二枚の下に、搾り器代、と書こうとした。三枚、と書く場所が、もう、残っていなかった。表の方は、前に書いた壺の数と銀貨の控え、畑の覚え書き、それから前回書いた樽代の二枚で、ほとんど埋まっていた。
布が足りない、と書きたかった。
桶が足りない、とも書きたかった。
軸の交代も、手順も、残しておきたかった。
書く場所が、足りない。
石版を裏返したら、書けるかもしれなかった。けれど、まだ裏返さなかった。
搾り器代、三枚、とだけ、表の隅に縦に書き足した。字が小さくなった。ローザが見ても、読みにくい字になった。
【授命暦843年 7/18 昼】
壺の脇の袋から、一枚だけ、銀貨を出した。今日は鉄輪代だけで足りた。
鍛冶屋の使いが、小屋まで壺を五つ届けてきた。どの口にも、鉄の輪が嵌まっていた。
銀貨一枚を渡すと、使いはそれを懐の袋に押し込んで、馬の手綱を引いて戻っていった。
鉄輪付きの壺五つは、小屋の隅に並べられた。婆さんは腰の紐に鍵を下げたまま、戸口で五つの数を目で追い、確かめてから鍵をかけた。
樽、搾り器、鉄輪付きの壺。
頼んでいたものが、揃った。
道具代として払った銀貨は、合わせて六枚だった。
残りは十二枚。土間の壺の脇に置かれたままの十二枚。
【授命暦843年 7/20 夕方】
土間で、石版を膝に乗せた。
石版の表は、もう全部、字で埋まっていた。樽代二枚と搾り器代三枚を書いた跡で、隅まで字が回っていた。
ローザが、土間の壁にもたれて、糸を撚っている。今日は布籠ではなく、糸だけだった。手の動きは止まらない。視線だけ、こちらの石版を覗いている。
鉄輪代、一枚。
残り、十二枚。
布。
桶。
濾し布。
軸の前に立つ手。
どれも書きたかった。
表の方には、もう、入らない。
石版を裏返した。裏には、前に書いた仕込み日の覚え書きと、納品の前後で書いた数字の控えと、消しきれていない墨の濃い跡が、表よりも雑に残っていた。
……うん、書けない。
裏も、書けなかった。
「もう、書く場所、ないね」
ローザが、糸を撚る手を止めずに言った。
「うん」
僕は短く返した。
返すほかに、答え方がなかった。
石版を、膝から下ろした。
立ち上がって、土間の壁に立てかけた。
石版が壁に寄りかかって止まった音が、土間に短く落ちた。
壺の脇には、銀貨の袋が置かれたままだった。残り十二枚。袋の口は結ばれたままだった。
小屋の鍵は、婆さんの腰の紐に下がったまま、家には戻っていない。
布が足りない。桶が足りない。濾し布が足りない。軸の前に立つ人は、決まっていない。
石版は、壁に立てかけてある。




